岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

2 隠愛 ~いんあい~

2019年07月15日 18時06分00秒 | 食を忘れた男/北海道の雪/隠愛 ~いんあい~

 

 

1 隠愛 ~いんあい~ - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

隠愛~いんあい~俺は父が大嫌いだ。まだ自分が五歳の頃、母を捨て、俺を捨て、新しい女と生きる道を選んだのが最大の理由だろう。しかも父は遠くに行ったのではなく、この...

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 ミサトはまだ二十歳。その年で社会に出て、一人暮らしをするなんてなかなか難しい。収入だって普通に働いていたら安いい厳しいだろう。だから一刻も早く稼ぐ為に、キャバクラで働き、家を飛び出したのだ。一度は『お父さん』と呼んだ人間に、犯されたのだから……。
 どれだけ深く傷ついた事だろうか。どんな思いでミサトはあそこで働いているのだろう。
 たまたま店でミサトと知り合い、こうして何度か食事をする仲になったが、俺は彼女に対し、絶対傷をつけるような真似をしてはいけないと思う。
 安易な気持ちで、競馬をやるから五万の洗濯機をでいいかと言った自分が恥ずかしい。
 ずっと一人で兄弟のいなかった俺は、妹という存在が欲しかった。出て行った父が子供を生んだという噂を聞いて、一度でいいから会ってみたかったのだ。名も顔も知らない妹に……。
 そんな時期にタイミングよく知り合ったミサト。俺は勝手にまだ見ぬ妹と重ね合わせてしまった。しかし、いつまでこの関係が続くのかは分からない。
 先の事など、誰にも分からないのだ。
 だったら今のこの時間を楽しめばいい。俺は兄としてミサトに接していけばいいのか?一人の男としてミサトを口説き、自分のものにしたいという思いだってある。しかし彼女がそれを望んでいないような気がした。
 考えてみれば、ミサトとの共通点は多い。一人っ子で、母子家庭。俺は男で三十だからいいが、ミサトはまだ二十歳なのだ。
 いつまでも今のキャバクラで働いている訳にもいかないだろう。家を飛び出したいが為に働いているだけなのだから。そう思うと、不憫に思った。何か俺にしてやれる事はないだろうか。
 恋人でも彼氏でも何でもない俺。勝手に妹として可愛がっているだけの関係。
 俺はミサトをどうしたいのだろう。いくら自問自答しても答えは出てこなかった。



 昔からの同級生で岡部和久という男がいた。彼とは気心の知れた仲で、月に一回ぐらいの割合で食事へ行く。お互いの近況などを話し、いい関係が続いていた。
 この日、珍しく荒れていた岡部。聞けば仕事で非常に理不尽な事があったようだ。
 ミサトの顔が見たいという俺の気持ちもあり、彼をキャバクラへ行こうと誘ってみた。
「どのキャバクラへ行くんだよ?」
「俺の行きつけの店」
「いいよ、女のいるところは…。今そんな気分じゃないし」
「いいじゃんか、たまには」
 乗り気じゃない岡部を俺は強引に誘う。渋々と彼は付き合ってくれた。
 ミサトの店へ行くと、ボーイが声を掛けてくる。
「いらっしゃいませ、ご指名はございますか?」
「俺はミサト。で、こっちはフリーだから出来る限り可愛い子つけてあげて」
「はい、かしこまりました」
 ボーイが去ると、岡部はブツブツ言ってきた。
「何だよ、おまえがこの店に来たかっただけなんじゃねえの?」
「アハハ、バレたか。でも、たまにはいいもんだぜ? おまえもたまにはこういう店で楽しめ。そうすりゃ仕事の嫌な事なんて、あっという間に吹っ飛ぶって」
「け、他人事だと思ってよ」
 岡部は不服そうに言った。
「いらっしゃ~い、マコちゃん」
「おう、ミサト。元気か?」
「うん、ブリブリ元気だよ」
「何だ、そのブリブリって?」
「ギャハハ、言ってみただけー」
 俺とミサトのテンションは、店だろうとプライベートだろうとまったく変わらない。ずっと昔から仲良しの兄弟のように……。
 反対につまらなそうな岡部。恨めしいのか終始こっちを見ていた。
 店を出ると、岡部が真剣な顔で質問をしてくる。
「なあ、飯野……」
「ん、何だい?」
「あのミサトちゃんって子だっけ? おまえが指名してた」
「ああ、ミサトがどうした?」
「あの子と付き合ってんのか?」
「何を言ってんだよ。あいつは俺が妹代わりに可愛がっているだけでさ……」
「じゃあさ俺、あの子を今度来た時指名していいか?」
「は?」
 俺はしらばく岡部の顔を見ていたが、彼が冗談を言っているようには見えなかった。
「一目惚れって言うのかな? あの場では黙っていたけどさ。俺、かなり気に入っちゃったんだ…。駄目かい、飯田?」
「岡部……」
 あくまでもミサトは俺が妹代わりに可愛がっているだけ。俺に岡部の気持ちを止める権利などどこにもなかった。
「こんな気持ちになるの、初めてなんだ」
「別に構わないだろ?付き合うかどうかはともかく、誰を気に入ったとかそういうのって自由じゃん」
「いいのか?」
「いいも何も俺とミサトは付き合っている訳じゃないんだしさ」
 ミサトも指名客が一人増えたって、喜ぶかもしれないな。俺は笑顔で岡部に微笑んだ。

 一週間が過ぎ、岡部から連絡があった。
「駄目だ、ありゃ」
「ん、何が?」
「ミサトちゃんだよ、ミサトちゃん」
「ん、ミサトがどうした?」
 そういえばこの間行ったキャバクラで、ミサトにこいつ熱を上げてたっけ……。
「いくら猛烈にアタックしても、全然反応なし……」
「そうなんだ。ご愁傷さま」
「ふざけんじゃねえって!」
 電話口で怒鳴りだす岡部。
「何をそんな怒ってんだよ?」
「あの子は多分だけど、おまえの事が好きだぞ?」
「馬鹿言うなよ。だいたい俺はミサトを……」
「それって勝手におまえがそう思っているだけだろ?」
 遮るように岡部が言った。
「……」
 そう俺が勝手に妹代わりに可愛がっているだけ……。
「あの子、俺が一週間で三回も行って指名してるのにさ。いつだって会話はおまえの事ばかり。こっちは金払ってんだぜ?」
「俺に文句言ってもしょうがないだろ?」
「まあ、そうなんだけどさ…。でも何かおまえにひと言文句言いたくなったんだよ」
 何て勝手な奴だ。まあ仕事もうまくいかず、ミサトにもふられているのだ。ここは大きな心で受け止めてやろう。
「分かった分かった。今度、うまい飯でもご馳走するからさ。勘弁してくれよ」
「け、おまえと話していると、何だかムカついてくるぜ」
「そっちから電話してきたじゃねえか」
「へん、今度分厚いステーキご馳走しろよな。じゃあな」
 言いたい事だけ言って、一方的に岡部は電話を切った。
 しばらく岡部の言った台詞を思い出しながら、ミサトの事を考えた。
 あいつが俺を好き?
 そりゃあこんだけ仲良くしているんだから、嫌いじゃないだろうけど……。
 あくまでもそれは面倒見のいい兄貴としてって感じだろ?
 岡部の奴、精神的に余裕ないからあんな事言っていたけど。
 ミサトが俺の女……。
 今の関係とは違う展開を想像してみる。いや、ありえないだろ……。
 あの日の公園での事を思い出す。ミサトは俺に過去の辛い事を泣きながら話した。流れでたまたま抱き寄せたけど、あれはそうしなきゃいけない状況だったのだ。
 そうしなきゃいけない状況?
 そんなのあるのか?
「……」
 いつの間にか俺は、ミサトを一人の女としても意識していた。

 朝の八時だというのに、ミサトから画像つきのメールが届いた。二匹の子猫が丸まって寝ている画像だった。
『可愛いでしょう~。一人暮らしって寂しいから子猫を二匹飼いだしたのだ ミサト』
 メールにはこう書いてあった。犬より猫が好きな俺は、素直に可愛いと思った。しかし、普通はマンションってペット禁止じゃなかったっけ……。
『可愛いけど、マンション、ペットOKなの? 誠』
 ミサトへメールを返信すると、すぐに『いや、駄目なんだけど、バレないように気をつけるよ』と返ってきた。
 まあ、最近は一人暮らしの女性が寂しくてペットを飼うという傾向も多くなってきたし、犬みたいにでかい声で吼えたりする訳じゃないから問題ないだろう。
『実は俺も、猫は好きなんだ。今度、見に行くよ。見つからないように気をつけな 誠』
 うちも母が猫アレルギーじゃなかったら、飼いたいという思いはある。メールを送り返すと、十分ほど経ってミサトから電話が掛かってきた。
「おう、どうした?」
「そうそう。この間、マコちゃんさ。ビデオつきのテレビ、いらないって言ってたでしょ?」
「ああ、新しい大きめのテレビ買ったからね。ミサト、欲しいの?」
「うん!」
「いいよ。今、マンションかい。よかったらテレビ持っていってやろうか?」
「ほんと? マコちゃん、優しい~。大好き!」
「まだ九時にもなってないけど、大丈夫か?」
「うん! 私のマンションの場所分かるでしょ?」
「ああ、前に何度か入口まで送っていったろ。ちゃんと覚えているよ。じゃあ、今から向かうね」
「待ってるね」
 今まで何度も会ってはいるが、ミサトのマンションへ行くのは初めてだった。テレビを車に積み、ミサトのマンションへ向かう。
 うちから車で五分の距離なので、すぐに到着した。空いている駐車場に停めていると、ミサトがパジャマ姿のままマンションの入口から出てくるのが見える。
「おはよ~」
 大きな口を開けて欠伸をしながら、目をこすっているミサト。
「おまえな~、俺だって男なんだからさ、その格好は……」
 うん、やっぱりこいつとの関係は兄と妹だ。擬似ではあるけれど。
「まあまあ、さ、早く部屋に行こ」
 テレビを持ち、ミサトのあとをついていく。よほど嬉しかったのかミサトはスキップをしながら歩いていた。
「ピエール、ジャン。お客さんだよ~。おいで」
 部屋に着くなり、ミサトは二匹の猫を抱きながら連れてきた。
「うちの子、可愛いでしょう~。あ、テレビ重いよね。あそこに置いちゃって」
 一匹の猫が俺の足元に擦り寄ってきた。確かにミサトが猫可愛がりするのもよく分かる。子猫を見ているだけで癒されるようだ。
「コーヒーでいい? 今、淹れるから猫と遊んでて」
 初めて上がったミサトの部屋は、八畳一間の空間だった。白いベッドと大き目のテーブル。あと目につくものといったらほとんどぬいぐるみばかり。さすが女の子の部屋である。
 そしてミサトが、嫌な場所から逃れる為の自分の居場所でもあるのだ。
「ちょっとー、そんなジロジロ見ないでよ~」
 照れているミサトも可愛らしかった。

 いつも頻繁にメールや電話があるのに、ここ一週間ほどミサトから連絡がなかった。多少の寂しさを感じつつも、色々と忙しいのだろうと放っておいた。
 一週間が二週間になり、二週間が一ヶ月になり、それでもミサトから連絡がない。さすがに心配になった俺は電話を掛けてみた。
「はい、もしもし……」
 電話に出たミサトの声は暗かった。
「最近連絡ないからどうしたのかなと思ってさ」
「ごめん、ちょっと今、ノイローゼ気味なの……」
「何だよ。何かあったのか?」
「うん、ちょっと……」
 声を聞いているだけで相当まいっているのが分かる。
「話してみな」
「うちのピエールとジャンいるでしょ。たまたまベランダに出していたら、隣の住人に見つかって、不動産に連絡されたみたい」
 とうとう見つかってしまったのか……。
「そういえばペット禁止だったもんな。で?」
「不動産の人から毎日電話掛かってきて、早くここから出て行けって……」
 長くなりそうだし、電話じゃ何も動きようがない。俺はいてもたってもいられなくなった。
「今ミサト、時間あるか?」
「え、時間?」
「ああ、迎えに行くから会って話そう」
「でも、ここを出て行かなきゃいけないし……」
「だからそれを何とかする為に、話そうって言ってんだよ」
 妹代わりに可愛がっているミサトが窮地に立たされている。何とかしてやりたいという思いが強かった。
「でもね。私のお客さんで不動産の人いるんだけど、その人に相談しても全然駄目だったんだよ? 出て行くしかないって」
「馬鹿! そんなの気にしないでいいから。とりあえず今から迎えに行く。準備しとけ」
 俺は電話を切って、身支度を整えた。

 ペット禁止のマンションでペットを内緒で飼い、それが見つかったぐらいで出て行く?いくら何でもそれはありえない。不動産の横暴だ。
 いつも明るく笑顔のミサトがあれほど暗い声を出すなんて、相当精神的に追い込まれている。電話を切ってから十分ほどで、マンションに到着した。
 支度にまだ時間が掛かるだろうと思い、車の中で待機していると、すぐミサトは外に出てきた。俺の車に気付くと向かってきたが、表情はかなりやつれているのが分かる。
「大丈夫か、ミサト?」
 こいつをこんなに追い詰めやがって…。まだ見ぬ不動産の連中に俺は怒りを覚えた。
「あまり大丈夫じゃない……」
「ちゃんと寝てないだろ。目の下にこんなクマまで作っちゃってよ。まあいい、乗りな」
 ミサトを乗せて、俺は行きつけのレストラン向かう。
 適当に料理を注文してから、現在に至るまでの状況を聞く事にした。
「で、どう言われているんだ?」
「不動産の女の人から毎日のように電話があって、これは立派な契約違反だから一刻も早く部屋を出て行くようにって。それで新しい引越し先が決まったら、不動産にちゃんと連絡をしろって。だから同業の不動産のお客さんに相談したら、こんなメールが来て……」
 ミサトはそう言いながら携帯を開き、メールを見せてきた。
『う~ん、結論から言うと、それは無謀無理無茶というものですね。早めに新しい引越し先を探す事をお勧めします。何なら私が住むところを探しましょうか? 予算を言ってくれれば何とかしますよ 阿部』
 何だ、この大馬鹿野郎は…。何の解決にもなっていないじゃないか。
「ミサト、こんな馬鹿に相談したおまえが悪い」
 逆にいえば、こんな奴にしか相談できないぐらいミサトは混乱していたのだ。誰もミサトを助けようって奴が回りにいなかったのか。そう思うと哀れに感じた。
「だって、不動産をしている人だから、そっちの方面で詳しいかなって」
 話している間に料理が次々と運ばれてきた。
「ほら、冷めない内に早く食べな」
「ごめん、あまり食欲ないんだ」
 いつもなら食欲旺盛なミサト。心なしか頬までこけているのが分かる。俺は不動産に対する怒りを表情に出さないように努めた。
「食べないと参っちゃうぞ」
「でも、また電話が掛かってくるし、新しいところも探さなきゃいけないし……」
「大家は何て言ってんだ?」
「それが大家さんはとても忙しい方だから、こちらに一任されているって。で、すごい怒っているから早めに出て行って、誠意を見せないとまずいって」
「誠意? 何だそりゃ? ちょっとおかしくないか。たかが内緒でペットを飼っただけで、そこまで一ヶ月間、毎日のように言われ続けてきたのか?」
「うん……。猫は友達に預かってもらいますって言ったけど、契約違反をした事は事実だから、今さらそんな事を言われても駄目だって……」
「とりあえず一日時間をくれ。明日、また会って対策を練ろう。俺は帰って、色々調べてみる。今日はゆっくり休みなよ、な?」
「最近眠れないんだ。また朝になったら、不動産の女の人からキツい口調で同じ事を繰り返し言われるし……」
 相当なノイローゼになっているな……。
「明日は電話に出なくていい」
 俺は強い口調で言った。
「でも、そんな事したら……」
「俺が何とかしてやる。だから今日は猫を抱きながらゆっくり休め」
 これ以上、ミサトが悲しむのを見ていられなかった。

 家に帰ると、俺はインターネットで調べてみた。法的にある程度は知っておかないと、対抗できないだろう。
 まずこちらの主張として、居住権というものがある。ペット禁止問題というのは、そもそも大家と借主の間で取り決めた問題であって、居住権に比べたら大した問題ではない。
 居住権というのは恐ろしいもので、相手を出て行かせるという行為は、余程の事でもない限り難しい。例えば家賃を三ヶ月滞納した住民がいて、そこで初めて出て行ってほしいと言える権利が発生するといった記事も目にした。
 調べれば調べるほど、不動産の横暴さが分かってくる。相手は世間を知らない二十歳の小娘だと思って、高をくくっているのだろう。明らかに向こうの不動産は、ミサトに対しやり過ぎなのだ。
 時計を見ると、夜中の一時を過ぎていた。まだあいつは起きているかな。俺は電話を掛けてみた。
「はい……」
 ミサトはすぐに電話に出る。案の定眠れなかったのだろう。
「やっぱり寝ていなかったのか。いいか。明日の朝から俺がおまえの不動産に電話を掛ける。それで今のところから出て行かないで済むように話をつけるから安心しろ」
「でも無理だよ……」
「じゃあ他にいい方法でもあるのか? どっちにしろこのままじゃ、おまえが駄目になる」
「でも他のお店から、うちは寮もあるからって誘いもあるんだ」
「馬鹿! 自分をもっと大事にしろよ。何でそんなになるまで俺に言わなかった?」
「言おうと思ったけど……」
 今にもミサトは泣き出しそうだった。
「まあ今日はもう寝ろ。俺は法的な問題とか色々調べているから。安心しろ。何とかなりそうだから」
 これ以上こいつを責めてもしょうがない。
「でも、電話したあと、マコちゃんが『まったく話が通じねえ相手だよな』って言うの、目に見えて分かるよ」
「おまえな…、俺を軽く見んじゃねえ! 少なくてもおまえより十年は先に生きているんだ。それなりに方法はある。第一出て行きたくないのはミサトだろ? 物事を悲観的にとり過ぎるなよ。今、この現状を何とかしないと一番困るのはおまえだろ」
 ミサトが俺を軽く見ていたのが面白くなかった。つい俺は、怒鳴り口調になっている。
「うん……。ごめんね……」
 馬鹿、抑えろ。ミサトの弱りきった声を聞き、俺は冷静さを取り戻した。今優しく接しないで、いつすると言うんだ。
「悪いと思ったら早く休め。明日、俺と会う時、目の下にクマができていないようにな」
 出来る限りゆっくり、そして優しく言った。
「分かった。じゃあ、寝れるよう努力してみる」
「ああ、おやすみ。ゆっくり休みな。明日、九時頃ミサトのマンションまで迎えに行くから。ちゃんと寝るんだぞ。俺が絶対に何とかしてやる」
 電話を切ると、乱暴に携帯を放り投げた。完全な八つ当たりだった。俺までイライラしてどうする? ミサトが俺を軽く見ていたという事がイライラの原因だった。そんなに俺って頼りないか? ふざけんな。絶対に何とかしてやる……。

 八時半の目覚ましが鳴る。俺は目を開き、目覚ましを止めた。
 さてこれから不動産と対決か……。
 熱いシャワーを浴び、気だるさを吹き飛ばした。ミサトに電話をすると、少しは寝られたようだ。今から向かうとだけ伝え、俺は車に乗り込む。
 ペットを飼い続けるのは無理だろうが、それはミサトも承知している。あれだけ可愛がっていた猫と別れるのは辛いだろうが、そこだけはしょうがない。どこかへ預かってもらうしかないのだ。ミサトのマンションへ着くと、部屋まで向かう。
「おはよう、昨日はごめんね」
 ミサトの顔色はまだ優れないようだ。
「気にするな。それより少しは眠れたか?」
「うん、物音がすると電話かなって飛び起きちゃうけど……」
「今日、不動産から電話は?」
「まだ…。いつも十時過ぎぐらいにあるんだ」
「最初に言っておくけど、この猫たちと別れるのは承知しているんだな?」
 俺はピエールの頭を撫でながら聞いた。
「うん……。友達のところで飼ってくれるって言うから」
 ジャンはミサトの膝の上で呑気に欠伸をしている。こんな可愛がっている猫を手放すのは、とても辛いだろう。しかし今はミサト自身のほうが大事だ。
「分かった。今から不動産に電話をするから番号を教えてくれ」
「これなんだけど……」
「さくら産業って名前の不動産なんだ」
「うん」
「ミサトに文句を言ってくるのは事務の女だけ?」
「あとは吉田って男の人も」
「分かった。一つ言っておくけど、あくまでも俺はミサトから委任されたって形で話をするから、最悪の場合は話を合わせてくれよ」
「最悪の場合って?」
「向こうが委任されたって証拠を見せてくれって追求してきた場合だ。その時は俺に委任状を書いてもらう」
「うん、分かった」
「じゃあ電話を掛けるから。横で聞いてな」
 俺は自分の携帯から、さくら産業に電話を掛けた。

「はい、さくら産業です」
 受話器越しに男の声が聞こえる。
「すみません、こちら飯田と申しますが、吉田さんはいらっしゃいますでしょうか?」
 馬鹿丁寧な敬語を使い、幾分声のトーンも上げて声を出す。
「あ、はい、吉田は私ですが……」
「あ、あなたが吉田さんですか。実はですね、そちらで管理されているマンションの件での話なんですが……」
「ええ、どうされましたか?」
「萩原望って子が入居したマンションありますよね。そちらからペットの件で毎日のように連絡をしている子なんですが」
 ミサトはあくまでもキャバクラで働く時の源氏名である。本名を聞いていたが、出会ったのが店だったので、俺はプライベートでも、『ミサト』と呼んでいた。
「はいはい、萩原望さんね。ああ、彼女には本当参りましてね」
 途端にずさんな対応になる吉田。なるほど、この会社の性格が少し見えた気がした。
「ええ、私、彼女からこの件に関し委任されましてね。それでとても反省しているので、私が間に入りましょうという事になりまして」
「では、責任持って早めに引越しをさせて下さい」
 他人事だと思って簡単に抜かしやがって……。
「いえ、私がこうして委任を受け電話をしたので、まあ今回は水に流してもらえないかなと思いましてね。猫も知り合いに引き取ってもらいますし」
 深呼吸して落ち着き、静かに話す俺。
「あんた、何を言ってんの?」
 吉田の口調が急に変わった。
「ですから言葉通り、私がこうして出張ったので、今回彼女も反省しているし、今まで通りという事で、水に流してもらえないかなとお願いしているんですよ」
「ふざけないでよ。こっちはあの子に早く出て行ってもらわないと困るんだ」
「言い分は分かりますよ。ペット禁止のマンションでペットを飼ってしまった。それはこちらが悪いですからね。ただ、それを反省し、ちゃんと対処して謝っているんですよ。引っ越すにも資金は掛かる。まだ彼女は二十歳なんですよ。だから今回は大目に見てあげてもいいんじゃないかなと思いましてね」
「そんなのはそっちの勝手な都合でしょうが! 私は契約違反をしたんだから、それに沿って言っているだけでね。彼女には……」
 完全に吉田は怒鳴り声でエキサイトしていた。
「居住権ってありますよね? 法的に争ったとして、そちらに勝ち目あると思っているんですか? もちろん専門家として聞いてますけど」
 俺はあえて挑発的に言ってみる。
「あんた、今頃何を言ってんだ? だいたい……」
 そろそろいい頃合いだ。今まで我慢してた分を一気にお返しするか。
「吉田さん……。今、あなた、自分でどういう対応をしているか自覚していますか?こちらは何も素性を明かしていないんですよ。私からは吉田さんの情報は分かる。しかもこちらが金を払う客の立場。そちらはもらう立場。それを何故こちらが冷静に丁寧な言葉で話をしているのに、あなたはそう言った口を利けるんですか」
 極めて静かに話した。
「は、はい。す、すみませんでした……」
 俺の言葉は充分吉田へ効果的だったようだ。急におとなしくなる。この程度で態度を変えるなら、はなっからちゃんと対応していればいいものを。
「まあ吉田さんと話をしていても水掛け論になりそうなので、大家さんの連絡先を教えてもらえますか?」
「いや、大家さんは大変忙しい方でして……」
「そんなのそちらの都合でしょ。こっちには関係ないですよ。私は番号を教えてくれと言っただけなので」
「関係ない人間に、大家さんの番号を教える事はできません」
 序盤はこれで俺が完全にリードだな。とどめを刺しておくか……。
「委任されているのに関係ないんですか? 分かりました。じゃあ結構ですよ。賃貸契約書を見れば、大家の連絡先なんてすぐに分かりますからね。その時、不動産の吉田さんに聞いても何故か教えてくれなかったと、ひと言つけ加えて話をしますけど……」
「ちょ、ちょっと待って下さい。今、調べてきますから」
 吉田の慌てようは、聞いていてリアルに想像できた。俺は耳から受話器を離し、ミサトを見てニヤリと笑った。

 

 

3 隠愛 ~いんあい~ - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

大家へ電話する前に、ミサトと少し話をする。「何とかしてやるから、安心しろ。あんなくだらねえ不動産の若僧なんかにビビるな。この俺が後ろについているんだ」「ごめんね...

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