岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

4 北海道の雪

2019年08月01日 18時26分00秒 | 食を忘れた男/北海道の雪/隠愛 ~いんあい~

 

 

3 北海道の雪 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

2北海道の雪-岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)1北海道の雪-岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)北海道の雪「へい、らっしゃーい!」客のトラックが...

goo blog

 

 

 その日、『パピリオ』に一人の女が新しく入ってきた。
 女の名は明美。どこにでもいそうな源氏名である。奇麗な顔立ちに思わず見とれてしまう自分がいた。
 鈴木士長は、酔いながら『踊るポンポコリン』を熱唱している。この歌で普通に拳を握りながら唄う士長は妙におかしい。大いに笑いはしゃいだ。この人といると、本当に楽しい。
 夜の十一時半になると、帰隊時間なので鈴木士長は駐屯地へ戻るようだった。
 一度店から出て、タクシー乗り場まで送る。
「まだおまえ、こっちにいるんだろ?」
 ゆっくり駅前までの道を歩きながら、士長がボソッと言った。
「ええ、あと五日六日はいると思います」
「俺、出来る限り出てくるからまた飲もうでや」
「分かりました。『パピリオ』で夜はいつも飲んでますよ」
 まだ携帯電話もなかった時代である。もちろん同期の川園が借りるアパートには電話などない。連絡を取るのも容易じゃなかった。
 士長を送ったあと店へ戻ろうとすると、ムカつく上官の一人が飲み屋街をさまよってフラフラしているのを発見した。
「よし獲物を見つけた……」
 俺はそのまま飛び掛かり、散々殴ったあと『パピリオ』へ戻った。

「あれ、あんたその手どうしたのさ?」
 カウンター席に座った俺を見るなり、明美が話し掛けてくる。拳には上官の返り血がついていたのだ。よくもまあこんな細かいところまで見ているものである。
 吊りあがった切れ長の奇麗な目。背中まで伸びた奇麗な髪。少し大きめの魅力的な唇。垂れ目で常にポニーテールの瑞穂と、いつの間にか比較している自分がいた。
「何でもねえよ」
 ぶっきらぼうに答えると、俺は酒を再び飲みだした。他の客がいるのに明美は俺の前から離れず、一人で何かを話している。
「ねえねえ、あんたさ。自衛隊辞めてこれからどうする訳?」
 明美は俺に質問をしてきた。見た目はかなり自分のタイプだったので、ジッと見つめられると恥ずかしい。
「おまえ、少しうるせえぞ」
 酔いの回っていた俺は、明美に色々と悪態をついた。恥ずかしさを誤魔化す為だった。酔っ払っていたので、何でもありだと調子に乗っていたのである。
 とにかく酒を飲んだ。頭の中がよどみ、意識が薄れていく。
 おぼろげながら、「うるさいよ」と、明美が俺の左手に、タバコを押しつけられたのだけは覚えていた。

 どうやって川園のアパートへ帰ってきたのか分からないが、二日酔いのまま起き上がると、何故か明美の顔だけが脳裏に浮かんだ。
 左手の甲を見る。タバコの火傷跡だけがハッキリ残っている。昨日タバコを押しつけられたのは夢じゃなかったんだ……。
 何て酷い事をする女なのだろう。それでも明美の顔だけが浮かぶ。
 一体俺は、どうしてしまったのだろう。まだ頭がガンガンするので、そのままゆっくり寝る事にした。
 俺の復讐が始まって三日が経つ。外へ出ると藤沢にやられる。そんな噂があっという間に広まったようだ。そう川園がアパートへ来て教えてくれた。俺を大勢でいたぶった上官たちは隊舎に籠もり、町に出てこなくなったのである。
 地元へ帰るまであと四日……。
 まだ俺は全員に仕返しをしていない。このまま何もせず時間だけが過ぎていくのは非常に歯痒かった。
 川園と食事をして彼が自衛隊へ帰る時、頼み事をした。
「え、タクシーのトランクに隠れて自衛隊の中に入る?無理だよ~」
「おまえに迷惑は掛けない。引き籠った連中をぶっ飛ばしたら、すぐタクシーに乗って帰るから。頼むよ、な?」
「でも……」
「もうこれしか方法がないんだ。頼む!」
「わ、分かったよ。でも何かあっても俺は知らないからね」
 渋々了承する川園。彼の乗ったタクシーのトランクに隠れ、俺は自衛隊の中に潜入した。駐屯地内へ到着すると、俺はタクシーの運転手には一万円札を渡しながら、戻ってくるまで待っていてほしいとお願いした。
 思わぬ金をもらえたので、運転手は笑顔で「待ちますよ」と言ってくれる。
「さてと、この中であいつら震えてやがるんだな……」
 一気に隊舎の階段を駆け上がり、部屋でくつろいでいた上官たちを無差別にぶん殴る。これ以上の奇襲などないだろう。積年の恨みを晴らすかのように、とにかく殴り続けた。慌てた上官たちは何もできず、他の上官らが駆けつける頃には脱出していた。
 自衛隊もしょせん公務員だ。騒ぎはなるべく内輪で済ます習性がある。俺は溜まっていた鬱憤をすべて吐き出し、駐屯地をあとにした。
 タクシーのトランクに乗り込み、町へ帰った俺は、部屋に着くと一人大声を出して笑った。逃げまどう丸山のケツを蹴り上げた時は、これ以上ない快感だった。
 夜になると『パピリオ』へ向かう。浴びるほど酒を飲みたかったのだ。
 今日も明美は出勤している。人の手にタバコを押しつけながら、何事もなかったかのように済ましている明美。
 俺にそんな事をする女は、今までいなかった。
 何故かその度胸を俺は気に入っていた。気がつけば、明美の事ばかりが頭を支配している。あれだけ好きな瑞穂の事をまるで忘れている自分がいた。
 この日も店の終わりまで飲み、ママが食事へ一緒に連れて行ってくれた。俺の席の隣に明美が腰掛けてくる。俺は一人で瑞穂の事を考えていた。
 するといきなり明美が、口に食べ物を強引に入れてくる。
「何しやがるんだよ!」
「ボーっとしているからだよー」
 意地悪そうな表情で笑う明美。そんな顔も可愛らしく感じた。
 会って間もないのに俺は、この女の事を好きになりかけている。

 朝、起きて考える。とうとう夢の中まで明美が出てくるようになっていた。
 地元へ帰るまであと三日。できればずっとこの町にいたいと思う時分がいる。その原因は明美だった。
 出会ってまだ三日しか経っていない。実際に会ったのは店で三回だけ。それなのに俺はどうかしている。瑞穂との件はどうするんだ?いくら自分に言い聞かせても、明美を好きだという気持ちにブレーキは掛からない。このままこちらで仕事を探すか……。
 いやそれはできない。人の命が懸かっているのだ。俺はその約束をした。スタンドのお客さんである飯野公男さんのお袋さんの手術があるから、あと三日の内に帰らないといけない。
 胸の奥がとても苦しかった。様々な葛藤が押し寄せる。
 このモヤモヤした心の中をどうにかしたかったが、告白したところでどうにもならないのは自分でもよく分かっていた。
 仲のいい連中に色々と相談してみた。最初は鈴木士長。
「おまえが明美をか~。俺的には口説いてもらい、このままこっちへいてほしいけどな」
「それって彼女に自分の気持ちを言えって事ですか?」
「そりゃそうだよ。だって明美の事を好きになったって、自分で気付いたんだでや?」
「まあ……」
 瑞穂という存在がいるのに俺はどうかしている。しかもあと三日で地元へ帰るのに、明美へ気持ちを言ったところでどうなる?
「後悔する生き方はするなよ」
 鈴木士長はそれ以上何も言わなかった。
 同期の川園も同じ事を言った。
「好きなら言わなきゃ駄目。あとで後悔するよ?」
「こちらでまだ自衛隊を続けているなら、いくらだって言うさ」
「そんな状況なんて言い訳だよ」
 確かに言い訳だった。因果なものである。何故俺が辞めてから、明美とこうして知り合ってしまったのだろう。
 考えれば考えるほど苦しい。
 俺は『パピリオ』のママにまで相談に乗ってもらった。
「好きなんだから、ちゃんと言いなさい」
 ママにまでそう言われる始末である。みんなが俺の背中を押した。
 迷いながら一日が経つ。残り二日目の夜、俺はスナックへ行ったが、酒を飲むというより明美の顔を見に行ったのだ。
 一日置いて彼女に会う事で、俺はどれだけ明美に惚れているのかを思い知らされた。
 悩み、迷い、葛藤、せつなさ……。
 さまざまな感情が俺を渦巻く。
「どうしちゃったの?ここ最近元気がないね~」
 明美は心配そうに俺の顔を覗き込み、話し掛けてくる。おまえのせいだと素直に言いたかった。
「ほっといてくれ」
 心にもない事を言うのが、精一杯な俺。明美は店内をキョロキョロと見渡したかと思うと、サッと俺の唇に自分の唇を重ねてきた。
 一瞬の出来事でしばらく把握するのに時間が掛かる。
 今、俺はこいつにキスをされたのか?
「本当はね…。私、香織っていうんだ、へへ…。あなたより六つも年上だけどね」
 照れながら恥ずかしそうに喋る明美。いや、香織……。
 店の中じゃなければ、その場で抱き締めたかった。
 わざわざ俺に本名を教え、キスまでしてくるなんてどういうつもりなんだ?少なくても俺は嫌われていない。いやむしろ気があると見ていいのだろうか?
 せつなさで頭がどうにかなりそうだったので、外に空気を吸いに出た。
 香織を自分の女にしたい。ハッキリと自分の気持ちが理解できた。しかし、今の俺は職もなければ、明後日には帰らねばならない。飯野さんのお袋さんの手術。人の命が懸かっているのだ。
 何とも言えないやるせなさが充満し、俺はコンクリートのザラザラした外壁に、右の拳を叩きつけた。鋭い痛みが走り、拳から血が垂れだす。凍った白い地面の上に、俺の真っ赤な血が垂れ、真紅に染めていた。
 誰もいなければ、大声を出したかった。町並みを見渡してみる。建物以外、辺り一面銀世界の町。綺麗なはずなのに、それを見ても俺の心は癒せなかった。
 またスナックの中に戻り、静かに酒を飲み始める。俺の姿を見た香織が近づいてきた。
「ちょっとー、あんた。何よ、これ~…。バッカじゃないの、まったく……」
 香織は、俺の右の拳を暖かいおしぼりで優しく包み込み、拭ってくれた。

 北海道最後の夜。
 今日もしんしんと雪が降っている。
 明日になれば、俺は飛行機で地元へ帰らなければならない。もう時間がない。目を閉じてこれまでの北海道生活を振り返った。
 スナック『パピリオ』での香織との出会い。彼女のどこに俺は惹かれたのだろう。性格?外見?いや違う。あいつの存在すべてだ。
 ちゃんと言おう。この気持ちを今日の夜に……。
 自分でもそうしたほうがいいのは分かっていたのだ。
 しかしその前にしなくてはならない事がある。
 
 俺は高校時代からの同級生である永田瑞穂へ電話を掛けた。
「もしもし、瑞穂か……」
「あ、藤沢。元気だった?」
 明るい声の瑞穂。これから俺の言う台詞にどんな反応をするのだ。想像すると、怖くなった。
「ごめん……」
「ん、どうしたの?」
 しばらく無言になってしまう。こんなんじゃ駄目だ。俺は香織を好きになってしまっている。ちゃんと言え。じゃないと瑞穂に対し、失礼だ。
「俺、好きな人ができた……」
「……」
 瑞穂は黙っていた。謝るしか言葉が出ない。
「本当にごめん……」
 電話口で大きく頭を下げながら言った。
「まったく藤沢らしいな~……」
「ごめん…。本当に……」
「しょうがないでしょ。そんな事、気にしないの。頑張って。じゃあね……」
 気まずい雰囲気の中、永田瑞穂はすぐ電話を切った。ちゃんと口に出して付き合った訳じゃない。正式な彼氏彼女の仲でもなかった。それでも非常に心苦しい。
 今、瑞穂は何を思っているのだろう。もう俺には知る権利など何もないのだ。
 自分で本当に馬鹿な奴だと思う。
 まだ、香織には気持ちすら伝えていない。しかも伝えたところで、明日には地元に帰らなければならないのだ。それで香織がどうかなど分からない。愚の骨頂とはこの事を指すのだろう。
 自分のけじめをつけたい為だけに、わがままを通した。
 俺はその場に崩れるようにしゃがみ込み、泣いた。
 どうしょうもないぐらい香織が好きになっていたのだ。
 空から真っ白な大粒の雪が静かに降っていた。

 宛てもなく小さな倶知安の町中を彷徨い歩き続けた。
 自然と方向は行きつけのスナック『パピリオ』へ向かう。香織の顔を見たさにだった。
 もう思い残す事はないか?
 これでいいのか?
 自問自答を繰り返す。
 香織の事で頭がいっぱいだった俺は、スナックがオープンする時間よりも二時間早く来ていた。どうかしている……。
 そのまま、入り口の横でボーっと突っ立っていた。
 香織は飲み屋の女……。
 酒が入った台詞では心は動かない。あと二時間もすれば、あいつはここに来る。
 この気持ち、最後だけど伝えておこう……。
 自然とそんな気持ちになっていた。覚悟が決まったのだ。
 しんしんと雪が、降り注いでいる。
 俺はコートのポケットに両手を突っ込み、寒さを凌いだ。
 ただ、待つという行為。香織は俺がこんな事をしているのを知らない。
 自分の信念で、俺はこの場にいる。
 こんな時、時の刻みは冷酷だ。
 何度も時計を繰り返し見る。
 時間が経つのを遅く感じた。
 やっと一時間経つ。
 たまたま知り合いが通り掛かる。よく『パピリオ』に来る常連客の一人だった。店内では顔を見合わせると会釈をする。その程度の仲だった。俺を見て、不思議そうに近づいてくる。
「あーあー、こんなに頭に雪を積もらせちゃって……」
 そう言って、俺の頭の上に積もった雪をその人は手で優しく掻き分けてくれた。
「どうしちゃったの?」
「人を待っています……」
 それだけ言うと、その人は「そっか、頑張れよ」と笑顔で肩を叩き去って行った。
 十分もすれば、また頭の上に雪は降り積もる。まつ毛まで凍りそうな寒さであった。地面の凍ったアイスバーが、足から真に体を凍えさせる。この近辺に住む人たちが、常に車の中へスコップを積んでいるのが、本当の意味で分かったような気がした。
 関東育ちの俺は雪が珍しい。実際にここに住むとなると、大変なものである。よく百聞は一見にしかずというが、正にその通りだ。いやこの場合、百見は一実にしかずか……。
 もともと人通りのない道で一人佇む俺。たまに通り過ぎる通行人は、珍しいものでも見るかのように、ちらりと横目で見ていく。
 スナック『パピリオ』の目の前にあるジャズ喫茶が視界に絶えず映る。中の暖かそうな空気。
 あの中へ入って待とうかな。そんな衝動に駆られる。
 カウンターに腰掛け、おいしそうにコーヒーを飲むマスター。一口でいいから、暖かいコーヒーが飲みたい……。
 寒さで心が折れそうだった。
 馬鹿、ここで動いたらどうなるんだ?
 瑞穂は今頃悲しんでいるのだろうか。もしそうだとすれば、それは俺のせいである。色々な人間を俺一人の感情で巻き込み迷惑を掛けている。
 告白するんだろ、香織に……。
 このまま、来るまで待とう。どんなに辛くたって……。
 待ってから一時間半が経っていた。あと三十分。
 店のママがやってきた。スナックのオープン準備で早めに来たのだろう。
「ちょっと藤沢君。あなた、何をこんなところでしているのよ?ほら、お店すぐに開けるから入りなさい」
「いえ、すみません…。お気持ちだけいただきます」
「何、馬鹿な事を言ってるの」
「ママ、俺…。これから、香織に…。いや、明美に、これから気持ちを伝えます……」
「そう……」
 優しく微笑んだママは、俺の肩を軽く叩く。
「頑張りなさい」
 そう言うとママは階段を上がり、二階の店の中へ消えていった。
 店のオープン前に、他の働く女たちが次々と出勤してくる。
 みんな、俺を見て不思議そうな顔をしていた。ただ微笑み返すだけで精一杯だった。
 時計を見る。もうスナックはオープンしたというのに、香織はまだ来なかった。
 一体、何をしているんだ、あいつは……。
 勝手に自分で待っているだけなのに、妙にイライラする。
 雪は容赦なく降り続けていた。

 もう二時間以上、雪の中でこうして立っている。心の中まで凍りつきそうだった。タバコに火をつける際、かじかんだ両手でライターを囲み温める。普通なら火傷しそうなものの、温かいとしか感じない。中隊の野営訓練を思い出した。
 口から吐き出す煙は、ゆっくりと北海道の夕焼けの空に溶け込んでいく。
 階段を降りる足音が聞こえてくる。足音の主はママだった。心配そうに俺を覗き込み、声を掛けてくる。
「藤沢君。いい加減、中に入りなさい」
「いえ……」
「明美から今電話あって、お腹の調子が悪いから遅れるって。まだ一時間ぐらい出勤するまで時間掛かるみたいだから。今日のお通し、温かい肉じゃがだよ。ほら、早く一緒に店に入ろう、ね?」
 暖かい肉じゃが……。
 そういえば亡くなったおばあちゃんが、よく作ってくれたっけな……。
 言われた通り素直に店の中に入って、すっかり冷え切った体を温めたかった。
 でもここで行ったら、今までの行為は何になるのだ?
 まるで意味がなくなってしまう。ずっとちゃらんぽらんでいい加減に生きてきた俺。今だけは自分の意思で真剣にこうしている。
「ありがとうございます。あと少し…。少しだけここにいさせて下さい…。酒、飲んだら何の意味もなくなってしまうんです」
 呆れたようにママは笑うと、ゆっくり階段を上っていった。
 どれくらい待っただろう。すっかり手足の感覚がなくなっていた。体中が凍り、唯一、心臓だけが頑張って全身に血液を送り込んでいる。
 足元には、十五本以上のタバコの吸殻があった。これを香織に見られたら、少しは俺の待った時間が分かってくれるだろうか?
 いや、そんな事で同情でさせてどうする。そんな自分が情けない。足元のタバコを雪で急いで隠そうとした。ドラマみたいな真似をして何になる……。
「何してんの、あんた」
 吸殻を雪で隠そうとしていると、背後から声を掛けられた。
 聞き覚えのある声……。
 ずっと雪の中で三時間も待ったというのに、何とも格好悪いところを見られたものである。俺はゆっくりと顔を上げた。
「香織……」
「早く店に入ればいいじゃない。どうしたの?」
「ずっとおまえを待っていたんだ……」
 香織の目を見ながら、俺はゆっくりと言った。
「まったくこんな雪の中で…。馬鹿ね、あなたは……」
 心なしか香織の目元が潤んで見えた。
「少し時間、あるか?ちょっとでいい。香織と話がしたかった」
「これだけお店、遅刻したんだもん。少しぐらいなら遅れたって構わないよ」
 凍っていた全身に、血液が一気に流し込まれたような感覚がした。
 これだけで俺は報われた気がする。
 これまでの自分の意地というか小さなプライドが、ようやく今、報われたのだ。
 俺と香織は、スナックの対面にあるジャズ喫茶へ入っていった。

 ノンヴォーカルなジャズの流れるシックな店内。カウンターの奥の棚にはたくさんのボトルが並べられている。冷え切った体が、店内の暖かい空気に触れ喜んでいた。
 店のマスターは、堅物そうな感じでムスッと立っていた。俺たち以外、誰も客はいなかった。
 感じの悪い店だな。「いらっしゃい」のひと言も言えないなんて……。
 だからこの店は暇なのか。俺と香織は黙って空いている席へ座る。マスターが近づいてきた。
「ご注文は?」
 ぶっきらぼうな言い方だな。
「コーヒー二つお願いします」
 酒を飲みたかったが、あえてコーヒーにしておく。酒が入った状態では説得性に欠ける。
「ねえ、何であんな馬鹿な事をしてたのよ?」
 マスターが去ると、いきなり香織は問いただしてきた。
「……」
「男でしょ?モジモジしてないで、さっさと答えなさいよ」
「……。待ってたんだよ……」
「え?」
「おまえに言いたい事があったから、ずっと勝手に待ってたんだよ……」
「店の中にいれば良かったのに……」
「だって酒が入っていたら、何の説得力もないだろ?」
 そう言いながら俺は、香織の顔をまじまじと見つめた。
 切れ筋の綺麗な目。背中まで伸びている奇麗な髪の毛。大きな唇。いつもの香織と少し違うところは、頬が赤く染まっている点だった。
「会った時から好きだった。日に日におまえの事だけを考えるようになった。前に話したと思うけど、俺は明日、地元へ帰らないといけない。本当に迷った。好きだって言うかどうか…。多分、三時間あそこで香織を待っていたからこそ、今こうして自然とおまえに言えている。おまえが好きなんだ……」
 俺は今まで葛藤し、ずっと我慢した想いを一気にぶちまけた。香織は黙ったまま、静かに相打ちを打っている。
 雪の中で待っている時はあれだけ時間を遅く感じたのに、こういう時はあっという間に過ぎていく。時計を見ると、三十分経っていた。
 できればこのままずっと一緒にいたい。しかし、店のママに迷惑は掛けたくなかった。今日、香織はこれから出勤するようなのだ。
「そろそろ、店に行きなよ…。あまり遅刻しても、具合悪いだろ」
「何で私なんかを……」
「分からねえ…。何故、惚れたのかは…。初対面は、タバコを手に押しつけられたりと、散々だったのにな。ほんと、自分でも不思議だよ。でも気がつけば、香織の存在すべてが気になり、好きなんだって気付いていたんだ……」
「……」
「早く先に店、行きな。一緒に店に行っても、他の客の手前もあるしまずいだろ?」
「う、うん……」
 俺の精一杯の強がりだった。本当は一緒にいたかった。店に行くとしても、一緒に堂々と行きたかった。でも、明日で俺は地元へ帰るようなのだ。
 チェックを済ませようと、マスターを呼ぶ。
「すみません、おいくらになりますか?」
「そうだねえ…。口止め料込みで、千円ぐらいもらっておこうか」
 そう言うと、堅物そうなマスターは一瞬だけニヤリと笑った。釣られて俺も笑顔になる。口止め料込みで、コーヒーが一杯五百円か……。
 マスターの憎い心遣いが嬉しかった。

 外に出た俺は、香織に店へ行くよう促した。
 何度も振り返りながら、香織は階段を一歩一歩上っていく。後ろから抱き締めたい。そんな衝動に駆られた。ここで自分の意のままに動いてはいけない。必死に自制した。
 香織の姿が見えなくなると、俺はもう一度さっきのジャズ喫茶へ入る。
 一対一で、あのマスターとゆっくり話してみたかったのだ。
 相変わらず誰もいない店内。奥でマスターは何か作業をしているようだった。
「すみませ~ん……」
 声を掛けると、マスターは振り返る。俺の顔を見ると笑顔になった。
「おう、いらっしゃい。こっちに座りな。一人だろ?」
「はい、すみません」
 マスターに言われ、カウンターに腰掛けた。香織に言いたかった事が言えて、すっきりしている。さて、酒でも飲むか……。
 マスターは棚からウイスキーのボトルを手に持ち、カウンターの上に置いた。酒の種類に詳しくない俺は、何の酒だか分からない。しかしボトルには三十年と表記されていた。
 今、思い出してみれば、あれはスコッチウイスキーのバランタイン三十年だった。
 小さなショットグラスに、無言で酒を注ぐマスター。それを俺の前に静かに置く。
「俺は滅多に人に酒は奢らねえ。でも、おまえは別だ。この酒を飲め。奢ってやる」
「……」
「見てたぞ。この店の中からな。おまえは男だ。よく三時間以上も待っていたな」
 このジャズ喫茶は、スナックの目の前にあるので、マスターに一部始終を見られていたらしい……。
 ずっと突っ張ってはいたが、誰かに認めてもらいたかったという思いが、心のどこかにあったのかもしれない。俺は自然と涙を流していた。
「俺、明日、地元に帰るようなんです」
「もっといればいいじゃねえか」
「もちろん、もっといたいですよ…。でも知り合いが手術で、帰らない訳にはいかないんです。俺の血液で良ければ、いくらでも使って下さい。それで助かるのなら、気にしないで言って下さいと、先方には伝えてあります。今でもそれはそう思っているんです。でもそれでもここにずっといたいっすよ」
「そうか…。じゃあ、十年掛かっても、二十年掛かってもいい…。また、この町に一度でいいから顔を出しに来い」
「はい……」
「おまえの名前は?聞いておきたい」
「藤沢誠です」
「そうか、いい名だな。しっかりと暗記しておくぞ。十年でも二十年でも」
「いつになるか分からないけど、俺、またこの倶知安の町に戻ってきます」
 大事な男と男の約束をした。
 人間の縁とは不思議なものである。

 北海道最後の夜。俺はスナック『パピリオ』へ向かう。
 香織は入り口に現れた俺にいち早く気づくと、すぐに視線を反らした。ここでは香織ではなく、明美なのだ。他の客の相手もしなければならない。
 ママが近づいてくる。目元が心なしか潤んでいるように見えた。
「私ね…。久しぶりに感動しちゃったよ…。ほら、あっけのところの前の席、空けておいたから座りな。ほら……」
 ママは香織、いや明美の事をあっけと呼んでいた。心憎い気遣い。とても嬉しかった。
 すべての気持ちを告白した俺は、妙にスッキリしていた。心の中につっかえていた棒が無くなったような気がする。
 香織は、どう俺に店の中で接したらいいのか戸惑っていた。そんな姿も可愛く見える。
 他の客とはいつもの明美で接しているが、俺の前で酒を作る時だけは、素の香織になっていた。
 隣に座っていた三十半ばの客が、話し掛けてくる。
「明日で帰ってしまうんですって?」
 何度か店で見かけた事がある程度の仲の客だった。
「ええ、残念ですが…。正直な気持ちをいえば、本当はもっといたいです……」
「ママ、彼に大ジョッキ一杯」
「はいはい」
 その客は、俺に大ジョッキのビールをご馳走してくれた。俺はジョッキを片手に立ち上がり、大声で話した。
「ありがとうございます。俺、本当に北海道大好きです。この町が大好きです。このいただいたビール…。気持ちに応えて一気飲みさせていただきます!」
 店内中の人が、一斉に拍手をしてくれた。できれば泣きたかった。でも、香織の前では涙を見せる事はできない。大ジョッキを一気で飲み干すと、さらに大きな拍手が起きた。
 北海道倶知安町…。なんて暖かい人が多いのだろう。今なら誰にでも優しくできるような気がした。
 香織が俺の顔を真剣な表情で見つめていた。
「スッキリしたぜ」
「馬鹿……」
 恥ずかしそうに香織は笑った。
 カラオケを唄う事にした。唄う歌は選曲しなくても、すでに決まっていた。『心の旅』とはなっから決まっていたのだ。
 今の俺に、これだけマッチした曲があるのだろうか。感情をいっぱい込めて唄った。
「あ~、だから今夜だけは~。君を抱いていたい~。あ~、明日の今頃は~、僕は汽車の中~。旅立つ僕の心を~。知っていたのか~。遠く離れてしまえば~。愛は終わると言った~。もしも許されるなら~、眠りについた君を~。ポケットに詰め込んで~。そのまま、走り去りたい~……」
 俺が唄っている最中、香織は下をうつむきながら店を出ていった。歌が終わっても、しばらく帰ってこなかった。
 さり気なく外のトイレに向かう俺。案の定、トイレには誰かが入っていた。
「香織…、いい加減出てこいよ」
「馬鹿……」
 トイレから赤い目をした香織が出てくる。そしてそのまま、俺に抱きついてきた。
「おい、誰かトイレに来たらどうするんだよ?」
「いい、構わない……」
「俺は良くても、おまえが良くないだろ?」
 本当はずっとこうしていたかった。でも、あえて気持ちを抑えた。そうでないと、明日、とてもじゃないが、地元へ帰れそうにない。

 夜中の三時になり、スナック終了の時間がきた。
 みんなにお別れを済ませ、凍りついた地面の外に出る。
 すっかりと見慣れた銀世界。まだ雪が降っている。でも、もうこの景色ともおさらばだ。
 しばらく立ったまま、夜空の星空を見上げていた。
 七月から一月までの七ヶ月間、俺は北海道で暮らした。
 明日からちょうど二月になる。
 かなり昔からここにいたような気がしたが、あっという間の七ヶ月間だった。様々な出来事を経験でき、随分と成長させてもらった町でもある。
 店のママが、最後にみんなで食事へ行こうと誘ってくれたが、断った。しばらくこの綺麗な星空を見ていたからだった。
「藤沢、またこっちに遊びに来いよ」
 鈴木士長は泣きながら笑顔で抱きついてくる。
「短い間でしたが、本当にありがとうございました。鈴木士長…いや、兄さん……」
「何だよ、その呼び方は?」
「ずっとこんな人が俺の兄貴だったらいいなあって」
「馬鹿野郎。絶対にまた来いよな」
 みんな快くお別れをしてくれた。たった一人きりで空を見上げる。一つ一つの雪を静かに眺めていた。
 最後ぐらい、そうやって格好つけていたかったのかもしれない。
「いつまでそうしている気?」
 背後から声を掛けられた。香織の声だった。
 俺は上を向いたまま、振り向かなかった。すると、後ろから優しく香織は抱きついてきた。全身に電撃が走ったような気がする。
「何故、俺に構う?俺は明日、帰るんだぞ?」
 質問には答えず、香織は俺の背中で静かに泣いていた。
 俺は振り向いて、香織と向かい合う。優しく頬を撫でてやった。正面から抱きついてくる香織。俺は両手をコートのポケットに突っ込んだままだった。
「両腕が空いているよ……」
 ボソッと呟く香織。俺はポケットから手を抜いて、力強く抱き締めた。
 辺りには俺と香織以外、誰もいなかった。おそらくママが気を利かせてくれたのだろう。本当に頭が上がらない思いでいっぱいだった。
「こんなに手が冷たくなるまで…。ほんとあんたって馬鹿ね……」
 俺の手を握り締める香織。
「ん、ああ…、関東人の手って、冷たくできているんだ……」
 十九歳の冬、雪の降る寒い中、俺は初めて主人公になれた。
 そのまま自然と香織の住むアパートへ向かい、初めて俺は、女というものを抱いた。飽きる事なく、朝までずっとお互いを愛し合った。
 北海道の最後の夜はこうして終わった。
 この事は一生深く、俺の心に刻まれるであろう。

 帰り支度を済ませ、香織の部屋を出る。まだ香織は眠っていた。起こすと絶対に見送りに来るだろう。そんな事されたら、俺は地元に帰れなくなってしまう。
 寝ている香織にそっと優しくキスをした。
 あと一時間で汽車に乗らないと、飛行機の搭乗時間に遅れてしまう。
 駅に向かう最後に、世話になったスナックの前を通る。ママや他の女の子の顔を思い出しながら、しばらくシャッターが閉まっている状態の店を眺めた。
「あれ、そろそろ行っちゃうの?」
 誰かが声を掛けてきた。
「あ……」
 昨日、俺に大ジョッキを奢ってくれた人が、スナックの横にあるラーメン屋の前で立っている。なんという偶然だろうか。俺は嬉しくなって満面の笑みを浮かべた。
「どうしたんです、こんな時間に?」
「あれ、言ってなかったっけ?俺、ここの店で働いているんだよ。まあ、実家でもあるんだけどね。これから店を開けるところなんだ」
「俺、寄っていってもいいですか?」
「汽車の時間、間に合うの?」
「ええ、まだ一時間ぐらいあります」
「そっか。じゃあ寄ってきな」
「あ、あのお名前をできれば教えてもらってもいいでしょうか?」
「俺?タケって言うんだよ。まあ入りな」
 まだオープン前だというのに、その人は快く俺をラーメン屋に入れてくれた。看板を入る前に見る。『喜龍』と言う名前だった。
 俺はカレーライスを注文する。北海道最後に食べるものがカレーライスというのもいいものだ。
 タケさんは、すぐにカレーを持ってきてくれた。
「へい、お待ち」
 テーブルの上に置かれたカレーを見てビックリした。もの凄い量のカレーだったのだ。
 直径三十センチぐらいの皿に、ラーメンに使う丼一杯分ぐらい、ご飯が盛ってあり、その上に皿から零れんばかりのカレーのルーがたっぷりと掛けてあった。いくら食欲あるほうだといっても、これだけの量を食えるかどうか……。
「あれ、少なかった?」
 そう言いながら、親切な人は笑って奥に消えていく。またこの店にも来てみたい。素直にそう思う。本当に北海道は暖かい人ばかりである。
 汽車に乗り、景色を眺めながらこの七ヶ月間を思い出した。
 砲手検定でパートナーを勤めた同期。
 重迫撃砲の実弾射撃演習。
 浜松町の駅で財布をすられた川園。
 理不尽な中隊生活。
 鈴木士長との出会い。
 スナック『パピリオ』のママ。
 そして香織……。
 最後にタケさんか。
 住めば都って最後の最後で気付くなんて、俺は本当に馬鹿だな……。
 千歳空港に着き、飛行機に乗り込む。色々な人たちの優しく暖かい思い出をたくさんもらい、俺は北海道をあとにした。
 窓から北海道を眺める。香織、今頃どうしているかな……。
 俺は泣きそうになるのを必死で抑え、空に浮かぶ雲を眺めていた。


エピローグ

 地元の行きつけのジャズバーで酒を飲みながら、俺は十九歳の頃を思い出していた。今三十六歳だから、あれからもう十七年も過ぎたのか……。
 あ、そうだ。
「マスター、バランタインの三十年をストレートで」
 俺は思い出したかのように酒を頼む。
「おや、何かいい事でもあったんですか?」
「ノーコメントです」
 ゆっくり三十年を口の中へ入れる。十九歳の頃は、この酒のうまみなんて、何も分からなかったなあ。
 まるでドラマのような町だった。
 十九歳でこちらに帰ってきて、二年後、香織は別の自衛官と結婚したらしい。『パピリオ』の女の子がわざわざ電話をして、俺に教えてくれた。当時は怒り狂ったが、今じゃすっかりいい思い出としか映らない。
 年をとるってこういう事なのかもな……。
 鈴木士長は、今頃どうしているだろう。
 また『喜龍』のカレーライスが食べたいな。
『パピリオ』でまた酒が飲みたい。
 あのマスターまだ元気かな?確か十年でも二十年でもいいって言ってたよな。
 あと三年で二十年になる。
 しばらく雪も見ていない。
 そろそろあの倶知安の町へ行ってみようかな……。

―了―

タイトル『北海道の雪』 作者 岩上智一郎
執筆期間 2008年6月13日~2008年6月18日 六日間 原稿用紙175枚

 

 

1 北海道の雪 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

北海道の雪「へい、らっしゃーい!」客のトラックが入ってくる。俺は元気良く大声をあげ、椅子から立ち上がった。「おう、いつも元気がいいね、君は」常連客である飯野公男...

goo blog

 
 

1 食を忘れた男 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

食を忘れた男私の名前は、工藤明。これは、私がある知り合いの事務所で働いていた頃の話。オーナーと二人きりの小さな事務所。オーナーの人柄か、いつも事務所には仕事とは...

goo blog

 
 

1 隠愛 ~いんあい~ - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

隠愛~いんあい~俺は父が大嫌いだ。まだ自分が五歳の頃、母を捨て、俺を捨て、新しい女と生きる道を選んだのが最大の理由だろう。しかも父は遠くに行ったのではなく、この...

goo blog

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
« 3 北海道の雪 | トップ | 1 鬼畜道~天使の羽を持つ子... »

コメントを投稿

食を忘れた男/北海道の雪/隠愛 ~いんあい~」カテゴリの最新記事