お久しぶりです。服部@名古屋です。
遠い昔の学生時代、神戸外大ロシア学科で教えておられた小松勝助先生を覚えていますか?
この3月ひょんなことから小松先生のことを調べることになりました。
数ヶ月前に若いウクライナ人イホール君と知り合いになりました。ウクライナのキエフの言語大学で
言語学を専攻したイホールはその後留学したウィーンで日本人女性と恋に落ち、結婚して日本に来てしまいました。
最近珍しいくらいまじめでピュアな感じのする青年です。彼はウクライナ語とロシア語のバイリンガルで、しかも
おばあさんがポーランド人だそうで ポーランド語も堪能、さらに英語とドイツ語も不自由しないそうです。
現在は日本語の猛勉強中で、言葉のセンスがある人なのでどんどん上手になってきています。
最初は日本語があまりできなかったので ロシア語を話す人に会ったのがうれしかったらしく、ロシア語の
生徒さんたちのたどたどしいロシア語にも めんどうがらずに親切につきあってくれ、ロシア語で話す
集まりにもよく来てくれます。そんな彼に「ロシア語はどこで習ったか?」と聞かれて「神戸の外語大学で、、」
と言ったことがありました。
ある日彼からメールが届いて
「和さんは神戸でロシア語を勉強したと言ってましたね。ひょっとしてショースケ・コマツという人をご存知ないでしょうか?
タラス・シェフチェンコの作品を日本語に訳した人で 神戸の外国語大学の教授だったようですが、、」と言うのです!
何十年ぶりかで小松先生の名前を若いウクライナ人から聞く不思議!
ウクライナで発行されるэнциклопедия(百科事典)に コマツ・ショースケが掲載されるのだそうで、それについては
出生地・死亡地などの情報と写真を探してほしいと編集部から日本にいるイホールに依頼があったそうなのです。
私は小松先生にロシア語を習った記憶がありません。あんまりおもしろくないロシア文学史の講義を聞いたような
ぼんやりとした記憶はあるのですが、、私たちの在学中に先生は交換教授でモスクワに行かれたこともあって
私たちの学年は接触が少なかったかもしれません。
それで私には全然情報がないので まずインターネットで検索してみました。ところがシェフチェンコの
「タラス・ブーリバ」の訳者ということ以外ろくな情報がないのですね。そのわずかな情報の中に出てきたのは
神戸外大の同窓会誌でした。小松先生が亡くなった時に同窓会誌に追悼文が掲載されていたのです。残念ながら
その同窓会誌は私の手元になかったのですが、追悼文を書いている人の中に神戸外大教授の岡本崇男先生の名前が
ありました。私たちの一年後輩の岡本君です。
そこで彼にメールで調査をお願いしたところ「調べ物をするのが仕事のようなものですから」と快く引き受けて
いただけました。岡本先生は大学時代と大学院時代を通じて4年間小松先生の教えを受けられたそうです。
岡本先生の最初のメールでは
「先ず,先生は東京生まれの筈です。ご先祖は秋田藩士で、廃藩置県後に藩主とともに東京に出てきたのだそうです。
「新宿育ち」で、府立三中(現在の新宿高校)、陸軍幼年学校で教育を受けられたと伺っています。それから、
お亡くなりになったのは、2000年4月21 日のことです。
大阪の病院に入院されていたと聞いています。」とのことでしたが その後「大正五年秋田県で出生」ということが
わかりました。大学の事務室に先生が叙勲されたときの申請資料が保管されていたのだそうで岡本先生が確認して
くださったのでした。
小松先生です。この写真も岡本先生がさがしてくださいました。
というわけで イホールに頼まれた情報をそろえることができ、彼も大喜びです。
「日本にウクライナ文化を愛し、ウクライナ語を学んだ人たちがいること、ウクライナ文学を
日本語に訳した人がいることをウクライナ人は知るべきだし、覚えているべきだ」と彼は
言ってくれました。私も、日本ではほとんど忘れられてしまっている小松先生についての記事が
ウクライナの百科事典に掲載されてウクライナの人たちがそれを読む、、と思うとうれしく、
心がほのぼのとしてきました。
今回、思いがけず岡本先生との間で楽しいメールのやり取りができたのもうれしいことでした。
岡本先生は村井隆之先生(覚えていますか?)とウクライナ語の勉強会をしておられたことも
あったとのことです。ウクライナ語はロシア語に近い言葉ではありますが 文学作品を読む
レベルに達するのはなかなか大変なはずです。小松先生はどこでウクライナ語を習われたのだろうか、
実際にどの程度お話になれたのか?モスクワに交換教授に行っておられらた時にウクライナへも
行かれたことがあったのだろうか、学者としてどこがすぐれておられたのだろうか、、ということも
私たちの話題になりました。
岡本先生の世代ぐらいまでは、ロシア語以外のスラヴ語を専門あるいは「裏芸」としている人は、
独学で初歩を学ぶのが当たり前だったそうですが、今では直接現地の大学や語学学校に行くのが
常識になっているのだとのこと。外国語の学び方においても時代は大きく変わりました。
小松先生もおそらく独学でウクライナ語を学ばれたのでしょう。ウクライナ語でのおしゃべりも
お得意であったとは思えません。でもシェフチェンコを訳すことができたのですから その功績は
大きいですね。
こんな機会を与えてくれたイホール君と快く協力してくださった岡本先生に深く感謝しています。