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ニッポンのゆる~い日常

(6)台湾で「父」になった八田與一

2013-05-13 09:32:14 | 歴史
【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】

(6)台湾で「父」になった八田與一


http://sankei.jp.msn.com/life/news/130512/art13051208250001-n1.htm



■命がけで荒れ地を沃野に


 2年前の東日本大震災の後、世界の国や地域が義援金を被災地に送ってくれた。その中でずば抜けて多かったのが、台湾からの200億円を超す援助だった。

 日清戦争直後から先の大戦の終わりまで約50年間、日本による植民地統治を受けた。しかも戦後、日中国交回復のさいには日本から一方的に断交された。それでも台湾の人々の日本に向ける温かい視線は変わっていない。


 台湾の「風土」のようなものもあるが、この間、多くの日本人が身を粉にしながら、台湾のため働いたという歴史によるところも大きい。その一人が台湾総督府の技師、八田與一(はった・よいち)である。

 明治19(1886)年生まれの八田は43年、東京帝国大学土木工業科を卒業後、日本統治下の台湾に渡り台湾総督府土木課に勤務した。ここで取り組んだのが、南部の嘉義県と台南県にまたがる嘉南平野の灌漑(かんがい)事業だった。

 平野は台湾の全耕地面積の約6分の1を占めていたが、夏場の雨期には集中豪雨による氾濫で耕地が流される。逆に乾期になると、水不足で農作物がほとんどとれなかった。

 八田は台南市の北を流れる官田渓(かんでんけい)という川の上流にあたる烏山頭(うざんとう)にダムを造り、そこから全体に平野に水を流すことを考え、「嘉南平野開発計画書」として総督府に提出した。


 計画は認められ、大正9(1920)年、ダム建設が始まった。八田は烏山頭の宿舎に家族とともに泊まり込み指揮をとった。


 しかし工事は難航する。名越二荒之助氏他編『台湾と日本・交流秘話』などによれば、工事現場で石油ガスが爆発、五十数人が亡くなる大事故が起きたこともあった。八田は工事をあきらめかけたが、一緒に働いていた台湾の人たちに励まされたのだという。そして昭和5(1930)年5月、完成にこぎつけた。

 「烏山頭水庫」と名付けられたダム湖は珊瑚潭(さんごたん)とも呼ばれているが、台湾第2のダムだ。この巨大な湖に蓄えられた水が全長1万6千キロに及ぶ用水路を通じ平野を潤している。ダムと用水路を合わせた「嘉南大●(たいしゅう)」が不毛地帯をみごとに沃野(よくや)に変えたのである。


 この八田の活躍は戦前までは日本人の間でもよく知られていた。しかし戦後、日本の植民地統治をすべて否定する歴史観がはびこるとともに忘れられていった。


 これに対し台湾では、戦後も中学校の教科書に載るなど「嘉南大●の父」として敬愛されてきた。最近ではダムと水路を世界遺産に登録しようという運動も起きているほどだ。

 2年前の平成23年5月8日には八田を記念する公園の完成式典も行われた。公園の発案者である台湾の馬英九総統のほか、日本からも八田と同じ石川県出身の森喜朗元首相ら何人かの国会議員が出席した。森氏はこう述べた。

 「石川県よりも台湾の人々の方が八田氏を高く評価していることを知った」

 八田より時代はさかのぼるが、明治34(1901)年には、農政学者の新渡戸稲造が殖産課長として台湾総督府に赴任した。


 新渡戸は札幌農学校を出た後、東大から米国に留学、農政学を学んだ。いったん日本に戻った後、病気療養のため再び渡米していたところ、第4代台湾総督の児玉源太郎や、民政長官の後藤新平の強い要請を受け、殖産振興のため台湾に渡った。

 花井等氏の『国際人新渡戸稲造』によれば、台湾は気候的、地形的にも製糖に適していたが、現実の生産は停滞していた。新渡戸はサトウキビの種類から栽培法、製造法すべてを改良する計画をたて実行に移した。

 この結果、台湾の砂糖生産量は数年の間に3倍に伸び、主力産業になっていったのである。

 新渡戸は後に国際連盟で働き、戦前の日米関係修復につとめたことが評価され、樋口一葉の前の五千円札の肖像ともなったが、台湾での活躍も忘れてはならない。





                          ◇




【用語解説】台湾協会

 日清戦争で割譲を受けたものの、当初スムーズに進まない台湾の統治を側面から支援するため明治31(1898)年、台湾協会が発足した。会頭に第2代台湾総督だった桂太郎、幹事長に前総督府民政局長の水野遵、会計監督に大倉財閥の大倉喜八郎が名を連ねた。

 桂は総督府への政治介入はせず、台湾での起業を後押しする方針をかかげ、台湾の産物の収集、陳列などに力を入れた。またそのための人材育成を目指し33年、台湾協会学校を設立、桂が初代校長となった。後の拓殖大学である。

 ●=土へんに川












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