18歳の時からもう何回帰省した事だろう。
最初は、初めての夏休みの時だった。
3ヶ月ぶりなのにこんなに懐かしいものなのか、
離れてみて良さがわかるって本当なんだ。
「ただいまー」
久しぶりに家族の顔を見るという、
ただそれだけでなんだか嬉しくて胸が高鳴った。
その年から、夏は私にとって「故郷に帰る季節」となった。
結婚してからも、子供が生まれてからも、
夏の私の居場所は変わらなかった。
青々とした空に風を呼ぶ山、冷たい水をたたえて流れる川、
こう書くと、山奥?というイメージをもたれそうだが、
市街地もそう遠くはない。
蚊取り線香のにおい、蝉の声、花火、バーベキュー、
すべての夏の音、夏の香りはその場所と共にある。
私の子供が小学校に入ってからは、
ちょうど甲子園の開幕の頃に帰省して、終わる頃に帰るような日程になった。
甲子園好きの一家なので、その時期はテレビはつけっぱなしである。
そして決勝戦が近づくと必ず父がいう決まり文句があった。
「甲子園が終わると夏も終わりだなぁ・・・」
実際、その頃には風に秋をふと感じるから不思議である。
私にとっての夏の風物詩は、帰省して観る甲子園。
現在、子供もそれぞれ予定がある大人になったので夏の帰省もなくなった。
思えば、皆が帰った後の秋風は寂しいものだっただろう。
これからはまた私1人の帰省を復活させなくちゃ。
(トラックバック練習板・テーマ:あなたの夏の風物詩を教えて下さい)
TPOに応じてのスムーズな会話というのは難しい。
会話自体があまり必要ない場合もある。
家族や親しい友人などは、ひたすら食べててたまに「おいしいね~」とか
「微妙だね~」とか言ってるだけでも時間を共にできるし、
言いたい事が言え、沈黙も気にならない気軽な間柄と言う事だろう。
会話自体が楽しい場合もある。
共通の趣味や目的がある場合はお互いに
会いたいと思う気持ちが一致してるし気楽だし話題にも困らない。
情報交換というメリットもあるから話は尽きない。
私がコミュニケーション能力のなさを感じるのは一応お声がかかり
顔だけは出しておかないとまずいかなという集まりや
ある空間や状況で一定時間を共にすることになった場合である。
10人前後が一番微妙・・・結局何をしに行ったのか
何を食べたのかも思い出せず疲れただけになる。
無難な話題を探すのも一苦労でほとんどの話題はあたりさわりがあるので、
結局、空模様の話と目の前の料理の話しかない場合もある。
自分を意識しないでひたすら「無」になり、
川の流れに沿って泳ぐ「小魚」のような気持ちで居ると苦にならないが、
せっかく聞き役に徹してても聞いているお話が途中から
他の大きい声の人に持っていかれ、
最後まで聞きたかったのに・・・と欲求不満になったりして空しい。
(朝まで○テレビ状態←御覧になられた事がない方にはごめんなさい)
美容師さんやタクシーの運転手さんは、
話し好きでひたすら話したいお客さんや寡黙なお客さんに
臨機応変に接しなくてはならないからその空気を読むのが大変だと思う。
私は気を使って頂くのが悪いから「気を使わないでお仕事に集中して下さい」
というオーラを出して雑誌読みに集中してるが…。
うちには犬と猫と小鳥がいる。
それぞれが生まれた時から人間との接触が一番多いし長い、
でも不思議なことに、小鳥は外から聴こえる野鳥の声に何よりも敏感に反応し応えるし、
猫も庭で他の猫の声がしたら窓辺に飛んで来てすごい反応である。
犬もテレビで犬の声が聴こえると飛んで来る。
やはり同じ種類の声色に惹かれあうのか神秘的である、
と言う事は人間も人間の声に惹かれるのかも知れない。
実は、日頃私が一番優しく語りかけてるのはこの三匹だった事に気が付いた、
コミュニケーション能力以前の問題でした。
暦の上では立秋ですが、暑さがますます身にこたえる今日この頃です。
今年は残暑が厳しくて、10月位まで続く予想だそうですが
「冗談ではない!残り少ないから残暑でしょ?そんなに長いのは残酷暑でしょ」
と思うのは、私だけでしょうか?
冷蔵庫から出したゼりーもしばらくすると溶けてる。
私の頭の中もイメージ的には同じような状態かも…。
「思考回路の接続がうまくいかないから夕飯のメニューも思いつきません」
とかわけのわからない言い訳で手抜きを出し、
「じゃあ、何が食べたいか、リクエスト!」といっても皆、特に食べたい物もなし。
きっと思いがけずに目の前に食べたい料理が出され
「これ!これが今ちょうど食べたかったんだ!」というのが理想の食卓、主婦の極みなんでしょう。
昔、少しの間、入院生活を経験した事があったが、院長先生が個性的過ぎるというか、
患者さん達の間で何かと話題になるようなちょっと恐めの、とっつきにくい人だったが、
朝、昼、夕、の三度の食事がとても工夫されてて美味しくて、温かいまま、冷たいままで出され、
こんな食事を出してくれる院長先生(経営者)だから患者さんの事を
考えてくれてるんだな(とっつきにくいけど)と思えた。
その時、食事って心にも響く大事なものなんだなと思った記憶がある。
心のこもった三度三度のご飯を食べて育った子供は途中いろいろあったとしても、
根本的に人間として大丈夫というか安定してるらしい。
手抜きといえども、「ご飯の心配をしたんだョ」というその気持ちを十分に込めようっと。
追伸
今日は甲子園をゆっくり観れた
頑張ってる子供達のお母様方、常日頃毎日の食事の支度お疲れ様です。
いつ頃からだろう?お昼過ぎても寝てることがなくなったのは。
次の日がお休みだからと夜遅く寝て、
意地でもゆっくり寝ていようと思っても9時頃までが限界である。
こんな事を書いたら規則正しい生活をしてる方からは笑われてしまうが、
若い時はお休みの日はブランチだったのに、今は嫌でも朝ごはんが必要になった。
よく、年を取ったら睡眠時間が短くて済むとは聞いていたが、
その能力を受験勉強の頃に回せてたら、今の私はもっとましだったかも知れない。
その頃はとにかく眠たくて、机の灯りだけが起きていて、
煌々と一夜漬けのためのりっぱな計画表を、朝まで空しく照らしてた。
その時はその時で、「テレビさえ無ければ、もっと集中できるのに」
とも言ってた気がするので説得力なさ過ぎだが。
親戚の子に赤ちゃんが産まれて、ミルクを飲む時以外は良く寝てるらしい。
脳が若い、つまり出来立てのほやほやは睡眠を必要とするようだ。
ネコ科の動物は一日4時間程起きてる以外は寝てるらしい。
起きてる時にものすごい緊張と集中力を使うから、
それくらい寝ないとパワーを維持出来ないらしい。
そこから推察すると、現在の私は、脳が若くなくて緊張感と集中力が薄れてるという事になるの?
ともあれ起きてる時間が多い方が、やれる事も増えて限られた人生なら有利だと思える。
そう言えばボケないで長生きしてる人は、毎日お昼寝をしてる人が多いという統計もあるらしい、
ただし30分以内、これがけっこう難しい…つい長くなる。
会社でお昼休みに食後ちょっと寝るのが理想的かも知れないが、
一人で寝てて誰からも起こしてもらえない危険もあるからご用心。
いろんなところで「エコ」という言葉が使われ、
個人でも、企業でも、自治体でも関心が高まってる。
一言で言えば地球環境の保護という事なのだろう。
ちょっと前まではたしか「地球に優しい○○」のような言い方をしてたが、
それを短くして「エコ」という、なにかちょっとした環境のための心使いを
端的に表す言葉として便利で、人に「環境に悪いでしょ」と言うより、
「エコでしょ」と言えば、押し付けがましさがちょっと和らぐ効果もあり、
たしかTVのCMでネコが「エコでしょ」と言ってたイメージと重なり、
可愛くて愛される言葉として定着していきそうな感じである。
企業や自治体はいかに関心を持ち取り組んでるかの姿勢を表せば、
ヘタなコマーシャルより人々に与える信頼度は高まるので、
それは即、好感度としてイメージアップにもつながる。
個人でも、一人一人の工夫でアイデアを出せば
「私はこれをやってる」とけっこう話のタネにもなり盛り上がる。
私はとりあえず、ゴミを増やさないという事を心がけてるが
それはよけいな物を買わないという事になる。
そういう人が増えると、個人消費が活発ではなくなるから、景気も悪くなる?
「エコ」って景気が悪くなる?
でも買い物バッグをはじめ、エコ製品が売れてるようだ。
電化製品も、最新のに変えるだけで、かなり「エコ」らしい
だから「新しいものに変えた」っていうだけで「エコ」にかなり貢献した事になり、
こればっかりは古い物を大事に使ってるのはいい事ではないようだ。
これは景気回復にも役立つし一石二鳥かも知れない。
(トラックバック練習板・テーマ:あなたの周りの「エコ」を教えて下さい)
いつもと映画館の様子が違ってた。
チケット買うにもすごい行列!子供が多い!夏休みだから当たり前、
うちも子供が小さい頃はドラえもんとか観に来てたなぁ。
『レミーのおいしいレストラン』も面白そうだが子供連れじゃないと、ちよっと入りづらいかも。
『ハリー・ポッター』は遠慮して、夏休み明けに行こうっと(やってるかしら?)
とか言って最初から、『魔笛』を観る事に決めてたけど。
入ってビックリ!ほとんど空席なし、外と一変して大人ばかり
正確には熟年が多い、意外と多いのが初老のご夫婦、
ご主人達は夏休みなのだろうか?それとも定年後なのか?…まぁそんな感じである。
聞くともなしに聞こえて来る会話は日頃からオペラやクラシックが趣味っぽい。
私は音楽会は好きなので、機会があれば喜んで出掛けるが、
オペラは積極的に行こうと思わないほうである。
そんな人でも十分楽しめる。
できればあらすじを知った上で観る方が、より楽しめるかも知れない。
約2時間50分間、ず~っとモーツァルトの音楽に包まれて、
聴き応え、観応えがあり、迫力十分だった。
最近うなぎを食べても元気が出なかったが、少しだけ?パワー回復した。
モーツァルトを聴くといつも思う。
250年?程もなぜ新鮮であり続けられるのだろう?
どんなにりっぱで便利な大発明品でも、いつかは廃棄物になるが、
音楽は変な言い方だけど腐敗しないし、ゴミにもならない。
モーツァルトの「レクイエム」が暗い感じだが好きでたまに聞きたくなる。
そして重い感じの曲が多いヴェートーヴェンの中では、なぜか珍しく
明るい「第九」が大好きでこっちもたまに聴きたくなる。
意外性のあるものに魅力を感じてしまうのかも知れない。
ただ歯科医院で常に流れてるのが、モーツァルトの曲なので、
モーツァルトを聴くと、歯医者さんを連想するようになったのは否めないというか残念だ。
子供の頃はどうして花火があんなに楽しかったのだろう。
「花火いつやるの?」とよく母に催促してた気がする
スイカやアイスを食べながら、皆でワイワイする
非日常の雰囲気にワクワクしてたのかも知れない。
稲妻みたいにチカチカする線香花火が落ちないように
祈ってた気持ちは今も心のどこかに潜んでる。
大人になっても子供と同じ気持ちで楽しめる人が、
子供にとって理想的な存在なようだ。
子供と一緒に心から楽しんでる人の傍には、
子供が自然と集まってる(犬好きな人に犬が寄ってくるように、
本能的にわかるらしい)理想はそういう親でありたいが、
大人になると蚊に刺されたり、後始末などで嫌なのが先に立ってしまう。
でもよくしたもので、親のどちらかが童心に返るタイプのようだ。
思えばうちは自転車の補助輪外す時も、プールでの浮き輪代わりも
おとうさん担当であった。
私は母がそのタイプだったが遺伝してないようだ。
花火大会は遠くから観る方が良い。
何処かの帰りに思いがけず遭遇しドライブがてら観るのも楽しい。
蚊にも刺されないし涼しくて良いだろうと、
ビルの中から観た時は音が全く聞こえなかった。
音のない花火は、香りのない花のように味気なかった。