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新月のサソリ

空想・幻想・詩・たまにリアル。
孤独に沈みたい。光に癒やされたい。
ふと浮かぶ思い。そんな色々。
(主・ひつじ)

気だるさの中に憂う春

2025-03-21 12:45:15 | weblog

=2013年03月10日=

季節の変わり目の「匂い」というものは、いつでもたやすく時間の垣根を超える。
過ぎてしまった、心に強くもしくは柔らかく漂う思い出の中へ瞬時に引き戻す。

気だるい春の兆しがするこの時期、春になろうかどうしようかと大気の粒子が迷いながら少しずつ諦めるように春になっていく。またすぐに気が変わって寒くなるのだろうが、大きな流れを止めることはできない。「気配」はもう消せないところまで近づいて来ている。この感じを「春の足音」なんていうのだろう。厳しい冬のあとに春を待つ人々の思いが、春の足音を心地良く感じさせる。

私はこの一瞬の祝福されたかのような穏やかな光の感じや、包み込むような大気の柔らかさが、愛おしくもあり不安でもある。それは「今だけ」だと強く思うからだ。

日本は4月が年度初めにあたるので、子供の頃からのその周期が体に染みついている。この気だるさを感じ始めたら、何かが変わるという前触れなのだと染みついた記憶が脳を刺激する。

春の気配にのまれつつある時期に感じる「今だけ」は、実はいつの季節も関係なく一分一秒が今だけなのだけれど、それを、はっとする様な感覚で受け止めているかというとそんなことは一切ない。頭では理屈として事実として理解はしているが、その価値に突き動かされているかと自問するまでもなく、ただ日常の「繰り返し」として処理しているにすぎない。

日常の所作の繰り返しの中で、この瞬間は今だけなのだと本当に意識出来れば、良いことは今だけだからときっともっと大切にできる。嫌なことは今だけだからと気にせずに進んで行ける。そうなればとても生きやすくなるのだろう。

ところで冬の方はどんな心持ちかと思いやってみれば、まだ少しここに留まりたいという名残の中で、それでも否応なく押し寄せる春の暖かさに負けじと吹きかける息吹が、「寒の戻り」と言われジタバタとしてみる。
春の雨は、人々に惜しまれることもない侘しさに名残りを馳せ流す冬の涙なのではないか。まだここにいるよと泣いているのだ。

そうしてすっかり冬の息吹から抜け出す頃には、もう夏の気配がすぐそこまで来ているだろう。
愛してやまない日本の春の短さに憂い、気だるい春の兆しに抱かれる日曜日の午後。
香ばしいコーヒーの香りとともに「今だけ」を味わう。

(過去別サイトにて投稿分を修正)



=2025年03月21日=

最近の春は「暖かい」と感じるのは本当に一瞬で、初夏のような日差し。
また寒くなるのは定番だけど、やっと「春」を感じる間もなくすぐに暑くなる。憂う期間がどんどん短くなっているようです。
この憂う時間が日本人的な情緒を育ててくれるような気がしている私なのですが、「三寒四温」なんていう言葉もいつか忘れ去られる日が来てしまうのでしょうか。





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