goo blog サービス終了のお知らせ 

新月のサソリ

空想・幻想・詩・たまにリアル。
孤独に沈みたい。光に癒やされたい。
ふと浮かぶ思い。そんな色々。
(主・ひつじ)

最後です。これまでありがとうございました。

2025-07-06 17:55:00 | weblog


去年の今日からここで記事を書き始めました。

放浪している間にうっかり貴重な日を逃すところでした。
まだはっきりと、ここ、と思える場所がないのだけれど、noteとはてな (しつこい) に籍は置いているので、そのまま続けるか、違うところへ移るか、ボチボチ考えながら記事もボチボチ書いていくと思います。

皆さまのあたたかい眼差しに見守られ、一年、たった一年、されど一年、ここで過ごすことが出来ました。この一年があってよかった。間に合って良かった。違う場所を覗いたからこそ、心からそう思えます。

声なき声で励まし続けてくださった方々、控えめながらも交流をしてくださった方々。本当にありがとうございました。
あとひとつくらい更新したかったけれど、時間切れとなりました。
本日をもって、この場所での公開やリンク貼りは終了といたします。

あ、記事のリンク確認や何かで、ブログ内をウロウロするかもしれませんが、どうかお気になさらず。


今後は、ネット環境のご都合やプラットフォームのお好みで、

note 羊の影
はてな 新月のサソリ

上記サイト、どちらにでもかまいませんので、また覗きに来ていただけると嬉しいです。
ここも、リダイレクトはいまのところ設定しませんので、このまま見れます。

ふらふらとご不便をおかけいたしますが、できれば今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

では、また。






グダグダと言い訳をする

2025-06-25 21:50:00 | weblog

記事の更新ができないでいる。

noteでの過去記事の公開が、殊の外進まない。ものすごく手がかかる。
もうここで書いたものとして、そのまま上げればいいのだけど、下書き状態のものを公開するには、必ず一度編集画面に切り替わる。下書きの一覧からダイレクトに公開することができない。そして切り替わった編集画面で、レイアウトや内容がそれでよければまた画面を進めて、検索タグをつける。ほかにも便利にカテゴライズして記事をまとめて、マガジンとしてフォルダを作ることもできるが、それどころではない。

編集画面の記事は時々、原文と多少ではあるが異なるので、一応はチェックしておこうと見ている。見ていると、読んでしまう。読んで、なにも引っかかりがなければそのまま公開に向かうのだけれど、殆ど「引っかかる」。
回数を重ねれば重ねるほどに、「てにをは」から始まって、ちょっとした言い回しや、文脈の流れや、リズムや足りない言葉、余計な言葉など、気づけば腕を組み画面を凝視している自分にハッとする。こんなことしてたらいつまでかかるかわからない。新しいの書けよ。

今そういう経緯で公開できた過去記事は40に満たない。あと70以上ある。noteでは出さない記事もあるので、まあ60くらいかな。
gooを始めてまだ一年でよかった。ガンバレ私、と心に拳を握る。

不思議なもので、gooで新しく記事を更新すると、その記事だけにアクセスが集中し、読まれるのはその記事のみ、という日が何日か続く。アピールに載らなければ一日で終わることもある。
ところが、こうやって更新できない日が続きアクセスもガクンと落ちしばらくすると、なぜか過去記事をぐるっと読み漁ってくださる方々が現れる。更新せずとも毎日編集画面と自分の記事一覧は見ているが、理由なくアクセスがあったりして、面白い。有難い。
新しい記事は生まれたてで可愛い。でも、過去記事も自分にとっては可愛い我が子だ。それをふらっと見つけてくれた人がわざわざ何個も読んでくれることが、不思議で嬉しい。やはり有難い。

始終更新を待ってくれている希少な方々がおられることも、非常に励みになっています。かなり有難い。
もう少し、gooでも記事をあげれるかな、三つ巴はさすがにしんどいな、でもgooが一番居心地がいい。やさしいし、うるさくない。

noteは書きやすい。広告や余計な装飾がないので軽くて、電波弱者の私でもサクサク開く。でも、うるさい。フォロワー数を増やすことを条件に特典を付けたり、読まれる記事の書き方、とか、運営側の方針というか、最近のネット社会での在り方、みたいなのが目に付くところにいちいち表示される。
ほぼnoteで行こうと決めかけていたけど、うーん、と考える。
コンテスト的なものが気にはなるが。
   ・
   ・
   ・
と、まだまだグダグダと書き連ねたが、この先は消した。
また別の機会があればそのときに。
新しい記事を書こう。あとのことはまたあとで、なるようになるところへ、流れて行こう。
何人かの人に、noteでいくだろうと言ってしまったけれど、迷走放浪中です。
それから、腕を組みnoteで修正した記事はnoteだけに公開しています。
悪しからず。眠い。





ブログ移行の件 追記あり18:00

2025-06-12 14:30:00 | weblog

昨日アップした記事がなくなっていました。
眠かったので、チェックしているときに間違って下書きに戻していたようです。

さておき、とりあえずはてなでこれまでの記事を公開してみました。
gooが終わるまでは非公開でと思っていましたが、いろいろ作業が停滞してキリがないので、とりあえず。


はてな「新月のサソリ」
(リンク変更がまだ途中なので、記事によってはgooに来てしまいますが。)
 URL https://sheep07shadow.hatenablog.jp/


今後ともよろしくお願いいたします。


※ほかの方がしているみたいにはてな記事を埋め込みたかったけど、できんかった。はてなでは他サイトの埋め込みはすぐできたのに・・・。
まあいいや。



【追記】18:00
昨日だらだら書いたのをキュッとまとめると、

はてなの広告が煩わしい方は、
note「羊の影」 URL https://note.com/sheep07shadow
にお越しください。
過去記事が全部下書き保存なので少しずつ公開していて、今まだ去年の記事なのですが。(今月分からは新記事として投稿しています)

noteはアカウントなしでも「いいね」のかわりの「好き♡」がポチれることに驚きです。この場合「ゲストユーザー」とだけ表示されます。そのかわりリアクションボタンを非表示にはできない。
はてなは入力モードやホームデザインのカスタマイズが多様で、知識のある方には良いサイトのようです。フォローにあたる「読者になる」の支持数や「読者になる」ボタン自体も任意で非表示にでき、外からはフォロワー数がわからないのが気楽な感じです。

比較したところでどちらも一長一短なのですが、リアルアクセス状況などはgooがとても分かり易くて励みになりましたね。はてなはざっくり、noteは反映が遅すぎてアテにならない。ちょっとサミシイ。






05.25記事の訂正です

2025-06-02 07:30:00 | weblog

05.25に投稿した「ブログ引っ越し先の検討」を訂正します。


以下訂正前
noteでの問題は、 インポートした記事は全部下書きとして(過去投稿日時も)保存されるのですが、それをアップする際、アップした現在の日時になってしまい、有料版でないとその日時変更は不可だそうで。意味ないじゃん的な。」
     +
「05.31 追記・note公開日付→アップした日ではなく、インポートした日の日付になるようです。」


と書きましたが、その後よくよく調べてみると、

【新しく書く記事は(有料版でも)過去の日付には出来ないが、
インポートした記事はそのファイルの日付で公開される】

とのことで、恐る恐るいくつか公開してみたら、ちゃんと過去の日付になっていました。

大変失礼いたしました。

で、この「インポートした記事はそのファイルの日付」というのが、noteでの裏技的なことのようです。
新しく書く記事も過去の日付にしたければ、インポート用のファイルを作ればいいのです。エキスポートでダウンロードしたgooの解凍ファイルをひと記事分コピーして別ファイルを作り、日付と内容を書き換えてインポートすればいい、という感じですね。
私はgooブログの記事以外で過去の日付にしたいものはないので無用ですが、インポートしたままの日付になるとわかってひと安心。取り敢えずは無料版でゆっくり進められそうです。





はてな と note

2025-05-31 02:10:00 | weblog

こちらの過去記事を修正したので、はてなnoteにインポートした記事にも修正を施してみました。

gooで記事を書く時は、PCのメモ帳機能を使って書いたものを全コピして貼っていたのですが、はてなでは行間がおかしくなってしまいました。何をどうしても直らないので、HTMLの下書きに切り替え、別の記事と見比べながらコードを書き換え、やっとうまくいきました。
コピペの投稿で、毎回こんな修正をしなくてはいけないのなら、それはちょっと面倒だなあ。「メモ帳」がダメなのかしら。なんにしてもやり方を変えなくては。

noteでも若干おかしくなりましたが、改行をやり直したらうまく表示されました。が、noteの方はインポートした記事の画像がどこにあるのかわからない。リンクを確認すると、ちゃんとnoteに移行はできている。
設定の「画像」の項目ページを見ると「アップロードした画像」となっているので、公開すれば見れるのかな? でもすでにプロフィールなどの公開している画像も、ない。どこへ行った~

どちらも慣れるまで、というか、わかるまで、四苦八苦しそうです。
一応はてなの体裁は整いました。
はあ。


こーゆー日記を書く日が来るなんてねー。





ブログ引っ越し先の検討

2025-05-25 01:40:00 | weblog

gooブログ終了のお知らせからひと月以上経ちまして、皆さんどんどん移行を進める中、自分もそれなりに準備をしているのですが、移行先の候補として当初は情報提供くださる方々のブログを有り難く読みあさり、ほぼ、はてなブログにしようかなあ、と考えアカウントを作っていろいろ設定をするうち、下記の項目が引っかかりました。

【自分のブログを読んだ読者が記事の一部を選択したとき、引用しやすくなるようにする】
という旨のチェックボックスがあるのです。

引用ありきのサイトなのか・・・。ざわ・・。
もちろん間違った引用を防ぐための、先回りのツールなのだろうとは思う(使ってないのでどういう感じなのかわからない)。規約なども「飛べば」読めるようになっている。だけど、うーん。ざわざわ・・。
チェックボックスを外し、いや、外さない方がいいのか? と迷う。ざわざわざわ・・・。

gooブログを始めるにあたっては、初記事を載せる前に、しつこいほど「著作権」についての注意勧告が表示された。だから比較的安心して投稿だけに専念できたのですが。

gooブロク終了の通達の少し前から、もうひとつ別のサイトで、こことは違う形の投稿をしようかな、と考えていました。gooにも慣れてきたし7月で一年になるので、それを機にとのんびり構えていたのが、終了となると、新しい場所をふたつ作って同時進行するのはハードだなあ、どうしようかなあ、とグズグズ「note」にもアカウントを作ったりして。
noteは創作系の投稿を応援するというテーマが掲げられており、著作権云々は当たり前に守られるべく運営をされている。これは心強い。

一応、はてなnoteに、これまでのデータは移行したけれど、noteでの問題は、インポートした記事は全部下書きとして(過去投稿日時も)保存されるのですが、それをアップする際、アップした現在の日時になってしまい、有料版でないとその日時変更は不可だそうで。意味ないじゃん的な。
はてなに、これまでの記事を置いて、noteは新しく一から始めるか、有料お試しに入って期間中に全記事の日時を変更しながらアップして、note一本でやっていくか。
取り敢えずgooを閉じるまでは、はてなは自分だけ閲覧できる設定にして、温存しております。

引っ越しは現実でも仮想空間でも面倒な作業ですねえ。
またお知らせします。
長々と失礼いたしました。



05.31 追記・note公開日付→アップした日ではなく、インポートした日の日付になるようです。新しく書いたものは下書きの日付か公開の日付かまだよくわかってません。





夜に咲く

2025-04-10 17:50:00 | weblog



夜も花を閉じない桜


ライトアップされる姿はとてもきれいだけれど


咲いていたとて、桜の方は


静かな暗夜に休みたいんじゃないかしら




人の世に咲く桜の夜







気だるさの中に憂う春

2025-03-21 12:45:15 | weblog

=2013年03月10日=

季節の変わり目の「匂い」というものは、いつでもたやすく時間の垣根を超える。
過ぎてしまった、心に強くもしくは柔らかく漂う思い出の中へ瞬時に引き戻す。

気だるい春の兆しがするこの時期、春になろうかどうしようかと大気の粒子が迷いながら少しずつ諦めるように春になっていく。またすぐに気が変わって寒くなるのだろうが、大きな流れを止めることはできない。「気配」はもう消せないところまで近づいて来ている。この感じを「春の足音」なんていうのだろう。厳しい冬のあとに春を待つ人々の思いが、春の足音を心地良く感じさせる。

私はこの一瞬の祝福されたかのような穏やかな光の感じや、包み込むような大気の柔らかさが、愛おしくもあり不安でもある。それは「今だけ」だと強く思うからだ。

日本は4月が年度初めにあたるので、子供の頃からのその周期が体に染みついている。この気だるさを感じ始めたら、何かが変わるという前触れなのだと染みついた記憶が脳を刺激する。

春の気配にのまれつつある時期に感じる「今だけ」は、実はいつの季節も関係なく一分一秒が今だけなのだけれど、それを、はっとする様な感覚で受け止めているかというとそんなことは一切ない。頭では理屈として事実として理解はしているが、その価値に突き動かされているかと自問するまでもなく、ただ日常の「繰り返し」として処理しているにすぎない。

日常の所作の繰り返しの中で、この瞬間は今だけなのだと本当に意識出来れば、良いことは今だけだからときっともっと大切にできる。嫌なことは今だけだからと気にせずに進んで行ける。そうなればとても生きやすくなるのだろう。

ところで冬の方はどんな心持ちかと思いやってみれば、まだ少しここに留まりたいという名残の中で、それでも否応なく押し寄せる春の暖かさに負けじと吹きかける息吹が、「寒の戻り」と言われジタバタとしてみる。
春の雨は、人々に惜しまれることもない侘しさに名残りを馳せ流す冬の涙なのではないか。まだここにいるよと泣いているのだ。

そうしてすっかり冬の息吹から抜け出す頃には、もう夏の気配がすぐそこまで来ているだろう。
愛してやまない日本の春の短さに憂い、気だるい春の兆しに抱かれる日曜日の午後。
香ばしいコーヒーの香りとともに「今だけ」を味わう。

(過去別サイトにて投稿分を修正)



=2025年03月21日=

最近の春は「暖かい」と感じるのは本当に一瞬で、初夏のような日差し。
また寒くなるのは定番だけど、やっと「春」を感じる間もなくすぐに暑くなる。憂う期間がどんどん短くなっているようです。
この憂う時間が日本人的な情緒を育ててくれるような気がしている私なのですが、「三寒四温」なんていう言葉もいつか忘れ去られる日が来てしまうのでしょうか。





渡り鳥

2025-01-07 15:15:00 | weblog


=2013年03月22日=

凍る風が吹く頃、その川に彼らがいたのはほんの数日のことだった。
渡り鳥。
寒さに耐えうる気温に違いはあれど、みな暖かさを求めて海を渡り山を越える。
その川にいたのは鴨だった。彼らはずっと北の方からやってきて、日本の冬で寒さを凌ぎ、そして春にまた北へと帰っていく。春が北上するのに合わせ、一足先に彼らは北を目指すのだろう。

鳥になりたいか?
手が使えないのは嫌だ。でも彼らが一生をかけて渡る距離を、風を、体感してみたいとは思う。きっと世界は今よりぐっと近くなり、生きているという実感も、きっと内側と一体となるのだろう。そんな気がする。

どうしてだか、いつの頃からか、その場所に居続けるという意識が希薄な子どもだった。何処にいても自分はいつかそこからいなくなるのだと、いつも思って生きていた。転校すると聞かされたとき、表面上の態度とは裏腹に、内心では知っていたことのように受け入れていた。ほら、やっぱりそうなんでしょ、と。違う場所に移り住むことが、自分にとってはごく自然で、当たり前のことなのだと。

悲しきジプシー。モンゴル移動民族。流浪の民。
砂埃の風の匂いや新しい夜明け、最後の夜。そういう少し乾いたセンチメンタルが心の片隅にいつもあった。
でももうそろそろ、ずっとその場所にいようと思えるところへ辿り着きたいと思い始めている。
ずっとその場所で、羽を休め、同じ朝を迎える日々を。

何年か前に、友人が『今年はここに根をおろそうと思います』と年賀状に書いてよこした。何年もそこに住んでいた彼女がわざわざそれを言うのは、もしかすると彼女もずっと、何か私と似た感覚を持ち合わせていたのかもしれない。
そしてそれが緊張を孕んだ覚悟なのか、安らぎを見出した決意なのか、とにかく彼女は背負っていた荷物を下ろし、「う――ん」と大きく伸びをして、まっすぐな眼差しでその荷を解いたのだろう。たぶん、少し微笑みながら。

季節が巡り、また吹く風が凍りその川が彼らを迎える頃、私はその場所を見つけただろうか。

(過去別サイトにて投稿分を修正)



=2025年01月07日=

12年の月日を経て、今もなお問い続けていることに少々戸惑う。
問い続けることが、飛び続けることが、実のところ自分の本来の安らぎなのだろうか。
年明け早々、腕を組む。





元日の午後

2025-01-03 20:00:00 | weblog

冬ざれの遊歩道を行く。
晴れて川音が心地良く、水面の青がきれい。
   

一糸まとわぬ冬の桜並木。
近づけばもう固く小さな塊にとじこめた春がある。
     

脱ぎ捨てた寂しさよりも、潔く伸びゆく細枝の先は未来を向いて脹らみ、自分もまたそんな風に季節を亘ってゆけたならどんなにいいだろう。
じきにまた咲き誇るであろう木々に新春の歓びを授かる元日の午後。


本年もどうぞよろしくお願いいたします。




『川瀬巴水・特別展』へ行く

2024-11-27 07:00:00 | weblog

先週末、大阪歴史博物館にて開催されている、木版画家・川瀬巴水の特別展へ行った。
知らなかったが2021年から全国巡回をしていたらしく、この2024.大阪での開催が一連の最終地となる。

  

約150点もの大展覧会。大阪での大規模な巴水の展覧会は10年ぶりとのこと。どれもこれも足を止めたくなる作品がずらり。途中、化粧室への導線の空間で制作工程の動画上映があり、座ってひとやすみできる。

カテゴリーにもよるが、好きなものはひとつかふたつあればいい主義の私。そんな、あまり多くのものを取り込めない自分だが、川瀬巴水は群を抜いて間違いなく別格だ。私の中の特別室に彼はいる。
以下、褒めまくる。

丸眼鏡の巴水先生。何がいいって、線がいい。青がいい。朱がいい。雪がいい。そしてささやかな営みの温かさ。

変な言い方かもしれないが、巴水先生の描く線は「かわいい」。なんだろう、とよくよく作品を観ていくと、エッジがないのだ。柱や屋根など真っ直ぐに描かれている線と線が交わる角が、その線がずっと先まで伸びてゆく交わりの一点ではなく、習字でいうところの「とめ」がある。伸び行く枝先は、空に向かっているにも関わらず、そこに〈今〉を留めている。
本当に版画なのか? 漫画やアニメのような、筆やペンで描いたように緻密で、それでいてふんわりと全部をまるく愛おしく慈しむような目線で描かれた線に惹きつけられる。川瀬巴水のフィルターを通して描かれる世界はとてもやさしくて細やか。そしておおらかに伸びてゆく。伸びてゆく〈今〉だ。移ろいゆく〈今〉を残そうと、その眼は見つめている。
この線を見事に現す彫師の匠。あっぱれ。

そして摺師の妙ここに。
まずは青。青。青。夜の墨垂れ、藍から青へ、水色へ。
川面が、空が、家々が、木々が、全ての青が優美でその青は温かい。青だけで描かれた町の一角。その中心で小さな小窓から漏れる灯。垣間見える川面に映る光。一見、画面全体は寂し気なのに、その一点の光が人の気配を宿し、途端、人々の暮らしの中に溶け込むような錯覚に陥る。しみじみとした静かな暗夜の中の救い。まるで自灯明のように訴えかける小さな灯。光を包むのは、青。

朱。薄明り、光の予感。朝焼けの雲。淡い夕暮れ。と思いきや寺や塔の、目の醒めるような鮮やかな朱。時を忘れていつまでも見入る。言葉にするには美しすぎる。

積もる雪。青の上に、朱の上に、こんもりとまるく白く。岩に、枝葉に、連なる屋根に、今にも崩れ落ちそうな白は、やはりそこに留まっている。静けさに耳が凍る。自分の吐く息が白く映るのではないか。
吹雪く町。厳しい寒さに急ぎ行く親子、艶やかな女の傘が風を受け耐え歩く。風の音が聞こえる。
しんしんと降り積もる静けさに川のせせらぎ。石段を上り雪を踏みしめる微かなる音。

ほかにもいろいろ言いたいがキリがない。雨もいい。橋もいい。舟もいい。
巴水先生の作品の物語には市井の人々への愛がある。ただの風景かと思えば手前に人影、奥に動物、とそこに万物の営みがある。
雨が降る。しとしとと土に沁み込む。駆ける足が跳ねる飛沫。屋根や葉を打つ。音が聞こえる。手を伸ばせば一粒の雫を掴むことができる。知らぬ間に彼の世界に自分が立っている。芒が揺れる。風に触れる。それは命の星での物語。
圧巻の川瀬巴水、ここに在り。

     







日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」

2024-11-13 09:39:09 | weblog

前回の「景色の中で」は、日曜劇場『海に眠るダイヤモンド』第三話を見ながら、浮かぶに任せて書き留めたもの。ショートに仕立てる前のただの素材メモなのだけれど、たまにはいいか、と書き留めたそのままを載せてみた。

『海に眠るダイヤモンド』は、出演陣に好きな顔ぶれが多かったので見始めた。
見てみると一話一話の物語としての影と光の対比やグラデーションが心地よく濃密で、まだ三話目だとは思えない。
映像にも叙情的な美しさと閑散と裏びれたものが同居していて云々カンヌンと書きかけて、コレってもう使い古された評だよね、と手が止まる。でも見終わると不思議な感覚が芽生えているのは本当。何かが心に触れる。昭和あるあるかもしれない。醸し出されるものがただ懐かしいだけなのかな。
面白いか、と訊かれれば答えに瀕するが、観たくなる。

物語を乗せた大きな揺りかごの底にある暗いものが、明るい場面や騒々しい賑わいの隙間をスルスルと流れていて、抜け出したい場所、逃げ込みたい場所、諦めた場所、当たり前の場所、離れられない場所、と各々の思いが交錯する様が妙という印象。ドラマというより関連づいたオムニバスの短編映画を観ているよう、とは言い過ぎだろうか。
閉ざされた炭鉱の島での、在りし日の暮らしに思いを馳せつつ、世間的には成功した今の自分の在りようにジレンマを抱える老いゆく女の思惑。女の過去を呼び起こす若い男。
過去と現在を呼応させながら、少しずつ開いていく物語。
第三話の一番最後の過去シーン、神木くんと杉咲花ちゃんが可愛くてほっこり。
今のところ過去の物語に主軸がありいい感じだけれど、現在の展開の如何次第ですべてが決まるんだろうな。期待していいのかどうか迷うところ。

気に入ったドラマや映画は、何度も何度も観返してしまうが、このドラマはそういうのとも少し違う。今のところ。
二度目を見るまでに、少し時間が欲しいと思ってしまう。時間をかけないと、自分の中に芽生えたものが育たない。そんな気がする。
「そんな気がする」ままの展開で物語が進めばいいのにな、と思う。




セピアの中にあるもの

2024-10-13 02:06:20 | weblog

2014年08月10日

晴れた日にはいつかの晴れた日のことを、雨の日にはどこかで降っていた雨のことを思い出す。台風の日には遠き日の荒れた大気を記憶の底から呼び起こす。

ところが今日の台風は、なぜだか若き日の冬のある場面が脳裏に浮かんだ。
まだ二十代の終わり頃、都会で働いていた当時の職場の上司にあたる女性と、後輩になる男の子と三人で、乾いた風を受けて横断歩道を渡る場面。

それは特にどうということもなく、何があったというものでもなく、ただ淡々と過ぎた時間のひとコマに過ぎない。今までその場面を思い出したことが果たしてあったのだろうか、というくらい、自分の人生においては流れゆく背景でしかない場面。

けれどその何もない背景のひとコマを脳裏に見た時、何故だかとても大切なものがそこにはあったのではないだろうかという気がした。
それが何なのかは分からない。
その場面そのものなのか、その時期なのか、それともその人たちとの関係なのか。

過ぎてしまった遠い過去の、とりとめのないそういう場面は、確かにその時そこに存在したにも関わらず、まるで雪がとけるように儚く、ただ己の中だけでの想像に近い産物と化する。

だとすれば、今この瞬間とて未来の私にとっては、もはや現実なのか夢なのかの区別も危うくなるほどの、はかない時間を紡いでいるだけなのでは?
そして、いつか年老いた私はまた思うのだろうか。
あの時あの瞬間、確かに大切な何かがあった気がするのだと。

色褪せる前に、そういうものたちを取り出しそっとリボンをかけて、大切にしまっておけたらいいのにな。

(別サイト投稿分)


2024年10月13日

10年前にわからなかった「何か」とは、「若さ」なのではないかしら、と10年後の私は思っている。
分からなかったのは、まだあなたが若さの中に居たから。

10年前のあなたは、その日のことを風の匂いまで思い出し、それでも過ぎて行ってしまう日々をはかなく、無意味なのではと思ったけれど、未来の私は、この記事を書き置いてくれたあなたの行為が、その思いが、とても嬉しい。

ちゃんとリボンをかけて大切にしまっていたじゃないの。