咳が止まらなくなった。
はじめは風邪でもひいたのかと放置していたが、治まらないので市販の風邪薬を使った。それでも咳は一向にやまず、逆にひどくなっていくようだ。二週間、市販の薬で粘って、それからやっと病院に行った。
総合病院というのは、数をこなして自分の評価を上げる仕組みになっているのかと思うほどの、浅い問診と浅い診察だった。
何種類かの飲み薬と張り薬を処方され、薬局で待っていると、薬剤師らしき女性があたしの名を呼び、言った。
「この薬、すごく、なんて言うか、きついというか、あまり同時に処方通り飲むのはちょっと」
薬局には、ほかに薬を待つ患者はなかった。
「先生はどう言ってました? どんな検査をしました?」
明らかにその言葉と態度には、出された処方が『行き過ぎている』という表れがあった。
でもあたしはその言葉にどう反応すればいいのか、わからなくなっていた。
やまぬ咳によって食も細く眠りも浅くなり、体力が奪われ、疲れ切っていて、だからその場を一刻も早く立ち去りたいと願った。薬の専門家が一石を投じていることに、気づいてはいたが、それに対応する力がもうなかった。
「レントゲン撮って、肺に異常もなくて、熱もそんなにないから、咳を止める処方と言ってました。咳がずっと止まらなくて、寝れなくて、だから、」
早く家に帰して、と頭の中で訴えた。
「熱が、そんなにない? 少しあったんですか?」
よほど気になるのか、彼女はあたしのひと言にピコンと反応した。
「あ、あの、急いで行ったので、体温が上がってたんだと思います。とにかく、問題ないと思います。咳が、咳だけが、苦しいんです」
ここから逃げたい。
どうしてだろう。この人は流れ作業のように診察したあの医者よりも、ずっとあたしのことを心配してくれている。なのにどうしてこの人の話を聞けないのだろう。
だって、もう、限界なの。もう、全部、限界なの。だから、早く。
薬剤師の女性は一瞬、黙ってあたしの様子を見、やがて、「そうですか、わかりました。でも念のために」と言って、どれとどれが組み合わさると『行き過ぎた』ことになるのかを教えてくれた。
「もし、服用しておかしいと感じたら、減らしてください。もし、早くに治まったら、続けて飲まなくて大丈夫ですよ」
念を押すようにそう言うと、彼女は素早く薬を白いそれぞれの紙袋に入れて会計をしてくれた。
薬局を出ると辺りはもうすっかり暗くなっていた。初秋の静かな冷気が薬局の壁面ガラスから漏れる明るい光を呑み込む冷たさだった。舗装を重ねてデコボコになった道を、自転車でガクンガクンと落ちて上がってを繰り返し行く道は、果てしなく暗かった。
二週間後、咳は酷くなっていた。
一度咳が出始めると、いつまでも咳込み、呼吸が出来なかった。苦しくて苦しくて、咳の合間に少しでも息を吸い込む。窒息してしまいそうで、怖かった。
ある時、キッチンで洗い物をしていたらまた、喉が閉まるような感覚がきて、来る、と思った次の瞬間には激しく咳込んだ。
あたしは立っていられなくて、体を丸め、その場にゆっくりと跪き、床に手をついた。喉がひゅうひゅう鳴いた。息ができない、苦しい。辛い。怖い。
するとその時、体の奥から搾り出て来たように、涙が、ひとすじ流れた。
泣きたかった。
思いのままに吐き出してしまいたかった。でも、咳が出てちゃんと泣けない。涙で鼻が詰まる。苦しい。苦しい。
ああ、だけど、と瞬間思った。
思い切り泣いて息が出来なくなって苦しんで、結果どうなっても、もう、『ここ』に居たくない。もういい。もうなんにもどうでもいい。
そう思った時、なにかが「コトン」と音を立て、あたしの中の『底』に当たった。
頭にも胸にも、ちゃんと「コトン」という響きの厚みがあった。
コトン。
今まで生きてきた人生の中で、あたしは一番深く、『底』に行き当たった。
ねえ、あたしは一度もあんたのこと「母さん」なんて呼んだりしなかった。だってあたしたち、とても親子とは思えない有様だったじゃない。だからあたしは家を出たんだ。一緒にはいられない。
それなのに、あんたがこの世からいなくなって、あたしは初めてあんたを「母さん」って呼んでる。
だって、知らなかったんだ。あんたを憎んでると思っていたから。
あたし、知らなかったんだ。
こんなにもあなたを愛していただなんて、全然、知らなかった。
ちゃんと話したかった。それだけだったんだ。
ねえ、母さん。