シャクヤクが咲いた。
昨日スーパーの一画で売られているのを見かけ、蕾が大きく膨らんだものをふたつ買った。団地の自室に帰り、夜のうちに活けてしまえばよかったのに、疲れていたので、「明日でいいか、休みだし」と、水を張ったボールに買って来たそのままを浸け、シンクに放置していた。
甘い匂いに目を覚ますと、夜になっていた。
疲れたと言いつつ、昨夜はなかなか眠る気分になれず、横になればすぐに深く落ちるだろうに、その眠気に逆らい、だらだらとテレビを見て結局明け方に力尽きて眠った。疲れているときほど、こういう矛盾したことをしてしまうことがある。
キッチンへ行くと昨日のシャクヤクが、立てかけたシンクの仕切りにもたれ、薄紅の花びらを大きく開かせていた。どうぞ、とやさしく手を差し出し全てのものを受け入れるように、大きく、淡く。
芍薬は夜ひらくんだよ。
ひらくとき、とても甘やかな匂いを放ちながら。
うん、そうだね。もう、知ってるよ。
私は花を持ち、二本とも茎の半分くらいのところに鋏を入れ、茎と葉だけになった二本も彩として花と一緒に瓶に差した。
なぜか今夜の団地界隈はいつもの夜より静まり返り、まだ九時だというのに、深夜のようにしんとしている。子どもの声もドタバタもない。日常を忘れた団地を包む夜の中で、私はとんがった葉の先端を一枚ずつ、少しだけ千切っていく。
昔、庭師だった祖父が引退してから、家で花をよく活けていた。この時期だったのだろう、庭に咲いたシャクヤクを摘み、葉先をつまんで千切っているのを、不思議に思って訊いたことがあった。
「どうしてそんなことするの? とんがったままの方がキュッと空に向かってカッコイイのに」
まだ小学校の低学年のころだったろうか。私にめっぽう甘かった祖父は、うんうん、と嬉しそうに頷きながら、説き伏せるみたいにやさしく言った。
「これはな、仏壇に供えるからこうしてるんだよ」
「ぶつだんに、そのままじゃいけないの?」
「とんがったままじゃあ、みんなが寄れないんだよ。トゲのあるものもな、仏壇には向かないんだ。丸くてやさしいものがいいんだよ」
もういないのに、とんがったものは駄目とか、変なの、そんなんで来れなくなっちゃうなら、バラが好きな人はどうなるの? なんかおかしいよ。
心の中でそう思いはしたけれど、祖父の優しく寄った皺を見ていると、幼心に言ってはいけない気がして、言葉にはしなかった。
黙っていたら、察したのか祖父が私に微笑んだ。
「芍薬はな、夜ひらくんだよ。ひらくとき、とても甘やかな匂いを放ちながら」
「アマヤカってなに? ハナチナガラ?」
「ちょっと甘いような、ふんわりした花のいい匂いがするんだよ」
「ふうん。でも夜はご飯のいい匂いでいっぱいだよ」
「ああ、そうか、そうだな」
そう言って祖父は声を立てて笑い、もうすこし大きくなったらな、と言ったが、その顔がどこか寂しそうに見え、けれど幼い私にその意味がわかるはずもなく、笑う祖父につられて一緒に笑った。
半年後、祖父は他界した。
私は処理をした花の瓶を持ってリビングへ行き、それを祖父の写真の前に置いた。
今日は祖父の月命日だった。
手を合わせ、写真に笑いかける。いつの間にか大人になって、何度か人の死を見送るうち、あのとき祖父が言っていたことが、少しは分かるような気がしていた。
「いい匂いだね、おじいちゃん。ちゃんと寄れてる?」
花がまた少し開き、仄かな香りが部屋中を渡る。写真の中の笑顔が、ふっと浮き出るような気配があった。
すこし、葉が揺れた、と思ったのは、気のせいだろうか。
シャクヤクが静かな夜の中に淡くひらくのを、ひとり、見ていた。