Set me free!!!

storytellerです。本当に短い物語を書いたり、思い出話や日常の諸々について綴ります。

海の日に、美しい海辺の風景を懐かしむ

2024-07-15 07:46:20 | 思い出

海の日の今日は、あいにくの雨模様。思い出すなあ、むかし海へ家族旅行をするたび、待ってました!とばかり雨に降られたこと!

子ども達が幼かった頃、毎年夏は家族でどこかの海へ出かけるのが恒例行事だった。共働き夫婦そろって休みのとれる日は限られているし、8月はくらげの出没や土用波が心配。だから、狙い目は7月下旬だった。

ところが、梅雨が明けたはずなのに、7月下旬は結構な確率で雨が降った。わくわくして出かけた南房総でも伊豆でも、雨や曇りなど冴えない天気の日が多かった。日が差さないと海の色が鉛色に見える。あれは本当にがっかりする!

テキサスに移住した時は、一番近い海でも車で片道6時間!と聞いて、海が大好きなわたしは絶望した。おまけに、そこの海はお世辞にも綺麗とは言えないし~。だから、美しい海を求め、車を延々12時間走らせて、フロリダ北西部のペンサコーラやデスティンまで出かけて行ったのだった!↓はデスティンのビーチと海(2007年5月)。

2010年8月には、家族でサンフランシスコ方面へ旅に出かけた。レンタカーでハイウェイ1沿いを走ったが、ビッグサーの景観がとりわけ素晴らしく、何度も車を止めては海の美しさに見入った。

名所のひとつであるビックスビークリーク橋。

ハイウェイ1沿いにあるジュリア・ファイファー・バーンズ州立公園。ビーチの景観を守るため下まで行けないようになっているので、上から眺めるだけ。それでも、入園料を払う価値がある。その理由は・・・

岩から砂浜へと流れ落ちる滝が見られるからだ!これは珍しい眺めだ!

わたし達が2011年6月~2015年5月まで暮らしたオレンジカウンティの家からは、車で20分も行けば海岸線に出る。↓の写真はクリスタル・コーブ州立公園 (2011年7月)。日本と違って梅雨が無く、4月下旬から10月末まではほとんど雨が降らない。カリフォルニアの青い空を眺めながらビーチでリラックスする。これほど贅沢な休日の過ごし方は無い。と思うが、カリフォルニアの海は寒流のため、真夏でも水は冷たく、泳げる水温ではない。

サンディエゴあたりまで南下すれば少しは水温が上がるのかな、と思いきや、緯度とは関係ないようだ。↓の写真はサンディエゴのラ・ホヤという人気のある海水浴場。2011年7月下旬に撮った写真だが、見てもわかるようにほとんどの人がビーチにいて、海で泳いでいる人はごくわずか。そのくらい水が冷たいのだ。

きれいな海なので泳いだら気持ちよさそうなのに、残念~。

2018年6月、息子の大学の卒業式に出席するため渡米した。時間があったので、カリフォルニアに住んでいたとき行きそびれたトレジャーアイランドパークへ行ってみる。曇りがちではあったが、海と植物の美しさに見とれた。

まさに、宝島!この海と砂浜と植物をそっくりそのまま日本に持ち帰りたかったんだな~。

さて、今年の夏はどこかで海水浴ができるかな!?


むかし佐渡島を一緒に旅した知人の幸せを願う

2024-07-12 12:59:00 | 思い出

今日は雨音を聞きながら、わたしが24歳だった年の夏の思い出に浸っている。

その頃わたしは実家で両親と暮らしていた。特に出かける予定のなかったある週末、近所の商店街をうろうろしていたら、小学校時代の同級生と偶然再会した。彼女とは小学校卒業以来だから10年以上も会っていなかった。

わたしは6年生の時その街に引っ越して、彼女と同じクラスになった。特に親しかったわけではなく、同級生の一人という間柄だった。それに、彼女は私立の中高一貫校に進学し、地元の中学に進学したわたしとは接点がなくなった。お互いの家まで歩いて10分ほどの距離だったが、あえて連絡を取ろうとも思わなかった。

ところが、その日彼女はわたしの顔を見るなり嬉しそうに近寄ってきて、とても親しげに話しかけてきたのだ。???となりながらも、わたしも笑顔で応じる。彼女は立ち話もなんだから近くの公園へ行こうと提案し、そこでわたしは彼女の身の上話を聞くことになる。

彼女は、職場の上司と道ならぬ恋をしていた。彼と一緒に撮った写真も見せてくれた。彼がどんなに魅力的な人か、わたしに話してくれるうちに、彼女は涙目になった。そして、こう言った。

「あの人とお日様の下で手をつないで歩きたい。」

ああ、そうだったのか・・・。彼女の切なる願いに、わたしの心も大きく揺さぶられた。

不倫。日陰の恋。人の目を偲び、密会をするしかない関係って、辛いものなんだな。友達と言える間柄ではないわたしにこんな赤裸々な告白をするとは驚いたが、逆に普段接点のないわたしだからこそ、話せることだったのかもしれない。

そして、彼女に、「ねえ、一緒に旅行に行かない?彼のことを忘れて、思い切り夏を楽しみたいの」と誘われた。

その時、何故かわたしは彼女の誘いを断れなかった。旅をするなら一人で、という考え方のわたしだったのに、不思議だ。しかも、仲の良い友達でもない彼女と一緒に?今思い返しても、自分がどうして彼女と旅をすることにしたのか、よく分からない。

その日のうちに2人で旅の計画を立て、7月末にはフェリーに乗って佐渡島へと向かっていた。佐渡島へ行こうと提案したのは彼女。そこに何か深い理由があるのか、わたしはあえて聞かなかった。

海は穏やかでフェリーはほとんど揺れることなく、船酔い知らずの快適な旅だった。わたし達が甲板で海を眺めていると、数人の男性グループに声をかけられた。面白半分の若い男女たちのやり取りだったが、彼女は「新しい恋をしちゃおうかしら」といたずらっぽく笑った。

佐渡島に着いてわたしが一番驚いたのは、日本海の美しさだった。

それまでわたしが行ったことのある日本の海といえば太平洋ばかりで、日本海というとなんとなく暗くて冷たい、というイメージがあった。それが、まったくの思い違いだったことを知る。目の前には美しく透き通った青い海が広がっているのだ。もうそれだけで、わたしは佐渡島が大好きになった。

2泊3日の旅だったと思う。旅の間、一度も雨に降られず、2人で喧嘩をすることなく、気疲れすることもなく、いくつかの観光名所を周って有意義な時間を過ごせた。

旅先で友情が深まったかといえばそうでもなく、旅が終わって日常に戻った後、また彼女とわたしは音信不通になった。だから、その後、彼女の日陰の恋がどうなったか、知る由もなかった。

でも、佐渡島への旅が彼女の心に素敵な思い出を刻んだであろうと、信じたい。旅の間中、彼女は常に笑顔でいたから。心から楽しんでいる様に見えたから。新しい恋を見つけたのか、それとも上司と太陽の下を堂々と手をつないで歩ける関係になれたのか。どちらにしても彼女には好きな人と幸せになってほしいな、とわたしは思った。たぶんそれはその当時、わたし自身が幸せな恋愛をしていたからかもしれない。

彼女と2人で佐渡島を旅したことは、夢のような現実のような不思議な思い出として、心の引き出しの奥にしまってある。

 


40年前、一緒に中国へ行けなかった仲間たち

2024-07-01 06:10:40 | 思い出

1985年5月。ハワイ(オアフ島)の東西センターで1か月間のセミナーが開かれた。対象は大学教員や研究機関の研究員などであったが、研究所の事務職に就いていたわたしも特別枠で参加が許可された。それは、勤務先の研究所が東西センターと共同で定期的に国際セミナーや国際会議を開催しているため、運営面での知識や技術を習得するという名目であった。

参加者は主催国アメリカはもちろん、アジア・オセアニア地域の十数か国から来ていて、いろいろな文化的言語的背景の人達と知り合った。中には帰国後もしばらく文通を続けたり、再会したりするほど親しくなった人もいた。彼らはわたしにとって「仲間」であった。

参加者は4つのグループに分かれて研修を受けた。わたしは同じグループの中で、特にアメリカ人男性、台湾人女性、中国人男性、ニュージーランド人女性、インド人男性と親しくなった。インド人からは熱烈ラブコールを受けて、みんなに冷やかされたが、わたしが気になっていたのは、別のグループにいた韓国人男性であった。その人は物静かで穏やか、優しい表情が印象的であった。同じグループではないので言葉を交わす機会はあまりなかったが、たまに顔を合わせるたび、わたしは胸がときめいた。

ハワイでのセミナーが終了した後は、中国の西安で1週間の海外研修を受けることになっていた。わたしは、当然参加者全員が中国へ行くものと思っていた。ところが、とても親しくなった台湾人女性と台湾人男性、そしてわたしが秘かに憧れていた韓国人男性の3人は、中国への渡航が認められないので参加できないという。3人からそういった国の事情を知らされ、国際政治関係に疎かったわたしは無知な自分を恥じた。

出発当日、中国での海外研修に参加する人達はバスでホノルル空港へと向かったが、バスの前でわたし達はとても悲しい別れを経験した。ハワイでの1か月間で心を通わせ合った中国人女性と台湾人女性は、抱き合って泣きながら別れを惜しんでいた。会えるのはこれが最後かもしれない、と互いに悲痛な思いを抱えて。その姿を見て、わたしももらい泣きをしてしまった。

わたしは、前日に韓国人男性とお別れを済ませていた。夕方2人で散歩をしたとき、いろいろなことを話した。わたしは、「いつかどこかでまた会えることを願っています」と彼に伝えた。彼は優しい笑顔で頷いてくれた。そして、「中国での研修が実りあるものになるように」と、わたしにエールを送ってくれた。

約40年前の出来事。今は、台湾の人も韓国の人も、中国へ渡航することができるようだ。いつ渡航禁止が解けたのだろうか。相変わらず国際政治事情には詳しくないわたしだが、東アジアの国々の関係は、40年前より良くなったとは言えないのではないか、むしろ悪化しているような気がしてしまう。ニュースで中国や台湾の話を聞くたび、ハワイでのセミナーで出会った仲間たちの顔が頭に浮かぶ。

写真は4枚とも、1985年の西安の風景。


リクガメとウミガメ

2024-06-18 06:50:17 | 思い出

2005年5月から2011年6月まで、テキサスの我が家にはロシアリクガメが同居していた。名前はダ・ヴィンチ。命名した息子(当時小学5年生)に理由を聞くと、レオナルド・ダ・ヴィンチのように賢い亀になってほしいからだそうだ 笑。

彼の大好物はタンポポのお花。むしゃむしゃ実にたくさん食べる。ダ・ヴィンチに喜んでもらうため、家族総出で近くの公園へ行き、タンポポの花を摘む。見て、この幸せそうな顔!

時々水浴びをする必要もあるというので、こんなふうに小さなプールを用意する。でも、あんまり楽しそうじゃない。いつも早く出してくれアピールをする。

こんなふうに立ち上がるときは、外に出たがっている時。時々部屋の中や裏庭を散歩させる。

でも、外を散歩させるときに気をつけなくちゃいけないのは、野ウサギの糞!裏庭には時々遊びに来る野ウサギのお土産があちこちに転がっているが、これには悪いものも混じっているので、カメの身体には良くないらしい。獣医さんに、「くれぐれも野ウサギの糞を口に入れないように見ていてあげてね」と言われた。

元旦は、わたしの折った鶴をダ・ヴィンチの背中に載せて、「鶴は千年、亀は万年」とお祝いした。

大好きだったダ・ヴィンチと別れの時が来た。

2011年6月、カリフォルニアへ引っ越すことになり、最初はダ・ヴィンチも一緒に連れていくつもりだったが、獣医さんに「そんな長旅には耐えられません。ロシアリクガメはとてもデリケートなので下手をすると死んでしまいますよ」と言われ、泣く泣く手放した。

幸いわたしの友人の知り合いに動物好きの家族がいて、そのお家がダ・ヴィンチを引き取ってくれた。愛するダ・ヴィンチ、今まで幸せな時間をありがとう。忘れないよ、きみのこと。

ダ・ヴィンチのおかげですっかり亀好きになったわたしは、今度はウミガメに愛情を注ぐことにする。こちらは2015年7月に、オアフ島ノースショアのワイメアベイで遭遇したウミガメ。水深3~4メートルあたりのところをスノーケリングしながら撮影したので、不鮮明画像で失礼。

下の4枚は、すべて東海岸のカイオナビーチで出会ったウミガメ。2015年8~10月に撮影した。カイオナビーチは遠浅の海で、熱帯魚はもちろん、ウミガメもたくさん泳いでいる。こんなに接写できたのも、水深1メートルちょっとの浅い海のおかげ。

こちらは、生まれて初めてウミガメに遭遇した時撮影した水中ビデオ。スノーケリングしながらの素人撮影なのでとても見づらいとは思うけど、みなさんに見ていただきたくて!

忘れもしない2014年6月21日(10年前だ!!)、オアフ島のワイメアベイにて。ウミガメの愛らしさ(岩の藻をつついて食べているところなど)が少しでも伝われば嬉しい!


ハプニングのおかげで絶景に出会えた!!

2024-05-27 18:09:26 | 思い出

gooブロガーの今日のひとこと。テーマは「一週間お休みがあったら何をする?」

わたしは「一人旅に出る」とつぶやいたが、そういえばはるかむかし、一週間の旅(二人旅だったが)で今でも忘れられない経験をしたなあ、と思い出し、この記事を書いている。

大学時代パッケージツアーに参加して、つくづく自分は団体旅行に向いていないと悟って以来(よく言えば一人で何でも決めてどんどん行動できる、悪く言えば身勝手で協調性に欠ける)、基本的には国内外どこへでも一人で出かけるようになった。

それが何を血迷ったのか、20代前半の一時期に付き合っていた人と四国・九州の旅に出かけたことがあった。

彼は留学生で、彼が在籍している某大学院は履修科目の講義が英語で行われているという。だから、彼の日本語はいつまでたっても上達せず、わたしが通訳の役割を果たすことが多かった。

当然、旅の具体的な計画も手配も、日本語の分からない彼には無理。彼は、母国で購入した英語のガイドブックをもとに、四国のここと九州のここを訪れたい、とリクエストするだけ。後は全てわたしが準備をするはめになった。

彼の大学院の夏休みに合わせてわたしも有給休暇を取った。飛行機は使わず、ひたすら電車とフェリーで移動した。

さて、とんだハプニングが起きたのは旅の3日目。

初日は新幹線とフェリーで四国へ渡り1泊し、2日目は岡山をさらっと観光して博多泊。3日目は博多市内および近郊を観光した後、その日のうちに長崎まで行ってそこで2泊する予定になっていた(40年近く前のことなので詳細は思い出せない)。ホテルはすでに予約済み、ただ九州内の列車は予約はせず、乗れるものに乗って行こう、ということにしていた。

彼はもちろん、わたしにとっても初めての九州。それでも、バックパッカーとして自分で全て手配する一人旅を何度も経験して、知らない土地への旅にもまったく不安はなかったし、ましてここは日本。言葉が通じるではないか!

博多から長崎への直通電車は無いので、乗り換える必要があった。そのこともちゃんと事前に調べ、駅構内の放送も聞いて、乗るべき電車に乗ったつもりだったのだが。

四国と博多での彼の言動から、いかに自己中で要求の多い面倒な奴ということが分かり、観光ガイド兼通訳を務めたわたしはくたくたになっていた。この旅が終わったら別れてやる!いや、なんなら博多で置き去りにしてやろうか!とさえ思ったほど、わたしはうんざりしていた。そして、電車に乗ったとたん、溜まった疲れがどっと出て目を開けていられなくなった。

彼に「終点みたいだよ」とそっと体を揺すられ、慌てて目を開けたら、そこは長崎ではない!!ではないか!!えええええ!?いったい、何が起きちゃったの!?!?

駅員さんに尋ねたところ、乗り換える電車を間違えてしまったと分かり、彼もわたしもおおいに不機嫌になる。が、お互い疲れすぎて相手を罵るエネルギーすら残っていない。

そこで、まずその日泊まる予約をしている長崎のホテルに電話をして事情を説明し、翌日朝にチェックインするので予約を取り消さないでほしい、と頼み込んだ。そして、次に駅の近くで泊まれるところがあるか探して、なんとか民宿のようなところに無理を言って泊めてもらったのを覚えている。駅名は忘れたが、大分県のどこかの小さい町だった。

翌朝、始発の電車で長崎に向かう。今度こそ、間違っていない。この電車で大丈夫、と指先確認をして乗り込む。

そして、このハプニングが、実はわたしにとって九州旅のクライマックスになったのだった!!!ドジを踏まずに真っすぐ長崎に向かっていたら、決して目にすることのなかった絶景に、出会えたのだから!!!

電車(九大本線)に揺られてまもなく、車窓の風景がわたしの目をくぎ付けにした。

雲の隙間から薄日が差して山並みをやさしく包み、陰影を浮き彫りにしている。それはとても幻想的で美しい水彩画のような、現実とは信じがたいほど神々しい風景だった。

言葉もなく、ただずっとその風景を眺めていた。夢の中を漂っているような不思議な気分だった。車窓から写真を撮るのを忘れたことに気づき、後悔したけれど。

これこそが旅の醍醐味なのだ。強がりでも開き直りでもなく、乗り換える電車を間違えて本当に良かった、と思った。

九州は博多と長崎を旅したが、わたしにとって一番印象に残っているのは、一度も下車しなかった九大本線の車窓の風景である。