ポイケントPoykentは、アムダリヤ河支流ザラフシャン河下流域のカラクム砂漠にかつて栄えた古代オアシス都市で、現在のウズベキスタン・ブハラの南西55kmに位置しています。パイカンドPaykand、パイケントPaykent、パイケンドPaykendとも発音、記載されたりもします。昭武九姓には数えられていませんが、ソグド人の植民都市として諸外国から認識されており、中国名は畢国(ひこく、発音は「ビ」)です。
考古学的研究によるとこの街は、紀元前4世紀に小さな村落として誕生し、後に北のウラル山脈・北コーカサス・ヴォルガ流域やホラズム地方と、南のバクトリア・インド・ペルシャとを結ぶ交易の中心地となり城壁が形成されました。大シルクロード時代になると、貿易センターとしてのみならず、ソグディアナ西部国境の重要な軍事拠点にもなりました。シルクロードの発展とともに要塞化されたこの街は、隣接する2つの集落を併合し「古代都市ポイケント」が造られました。その結果、中国の絹と地元の特産品を取り扱っていたソグド商人全盛の時代に『パンジケント[ペンジケント]・サマルカンド・ポイケント回廊』と呼ばれるシルクロードの主力ルートの一翼を担うようになります。当時のポイケント商人の足跡は、日本・ベトナム・セイロン(スリランカ)にまで及びました。また、ポイケントのバザールには、唐・ペルシャ・インド・アラブの商人のみならず、ヨーロッパからも商人が集まってきました。当時のポイケントの高名は、バグダッドのバザールでブハラから来たキャラバンたちも、自らをポイケントの隊商隊と名乗るほどでした。隊商の都市であるために、男性は留守になりがち。そのため、街の防衛には弓や乗馬を習得した女性たちがあたりました。ポイケントの女性の力は強く、夫が隊商で長期にわたって不在なこともあり、都市誕生の初期には一妻多夫制がとられていました。
隋唐時代の史書によると、ポイケントは安国(ブハラ)の支配下にあった畢国の中心地とされていますが、それ以前、6〜7世紀のこの町は、知事も存在せず、隊商たちの議会によって統治されており、自治という面からみて言葉の完全な意味での共和制都市国家でした。
ソグド人の目の部分が描かれたフレスコ(ポイケント博物館)
1981年からのロシア国立エルミタージュ美術館とウズベキスタンの考古学者たちの20年以上にわたる発掘と研究の結果、要塞内からはゾロアスター教寺院群、宮殿、9世紀のモスク、同じく9世紀の中央アジア最大のミナレットの土台(直径9m)などが、街の内側では、城壁、城門、道路、居住地区、中央アジア最古の薬局跡[西暦に直すと790年にあたる年号が記載されたガラスの薬品鉢が発見されています]などが、街の外部では陶器製作の窯、キャラバンサライ[隊商宿]が発見されています。また、6世紀の仏像頭部なども見つかっています。現存する中央アジア最大のミナレット[塔]は、ブハラのカラーン・ミナレット(11世紀)ですが、ポイケントのミナレットはそれを上回る大きさでした。しかし、日干しレンガで造られていたため、残念ながら風化により崩壊してしまい、その歴史を参考にしたカラーン・ミナレットの建築家は焼きレンガを用いています。ポイケントの繁栄は、8世紀のアラブの侵入の際に、アラブ軍の指揮官が街にあったたくさんの黄金仏を溶かし、金の延べ棒にして部下に配ったという逸話からも伺い知れます。
近年の調査よると、ザラフシャン河の水位の低下により、9世紀中頃に街は消滅したと考えられています。そしてこの歴史的都市は、今から800年前に流砂の下に埋もれてしまいました。現在、隣接する博物館で出土品の見学ができます。 [ユネスコ世界遺産情報照会暫定リスト] (横倉小百合)
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