ジェイミー・フォックスとジェラルド・バトラーが好演の本作。
英語題が"Law Abiding Citizen"
つまりは、法を遵守する市民。
しかしストーリーは、殺人者が司法取引で軽減された量刑によってわずか3年で出所するという、アメリカ・フィラデルフィアの司法制度の理不尽さへの問いかけが下敷きにある。
愛する妻子が強盗に殺害された。
証拠があるにもかかわらず「違法収集」として採用されない。
そのために、そのために犯人の量刑を厳密に問えない。
腕利き検察官は、裁判で負けると自身の有罪率が下がるからその有罪率を上げるために、司法取引をする。
見る側としては、妻子を殺された男の感情に十分に移入できているのだが、次第に、そこまでするか?というところにまで、男の報復はエスカレートしていくのだ。
自ら捕らえた殺人犯を、電動のこでばらばらに解体し殺害。
そして、家族殺しの司法取引裁判にかかわった者を次々と処刑していく。
ここまで来ると、その狂気に満ちた報復心は、正義とは大きく乖離してしまっているから、同情の余地はなくなってくる。
それにしても。
確かに矛盾に満ちた法制度ではある。
有罪率を上げようと躍起になっていた検察官の心理が描かれきっていない。
その彼だけが助かる。
そして、フィラデルフィアの市長が「どんな方法でもいいから、あの男を消せ」とヒステリックに叫ぶ様は、法を守る側であるはずなのだが、まったくの逆説なのである。
ある意味、一番の当事者であるはずなのに。
このあたりの照準の当て方が、監督の意図する「アイロニー」なのかもしれない。
つまりは、抜け穴だらけの法制度の下で、その法制度をなりわいにして生きている人間たちが実は一番、法を守っていないという皮肉なのだ。
体制に逆らわない範囲で、我々一般市民の自由ぶりはある意味で許されている。
しかし、その体制に逆らえば、たとえどんな同義的理由があろうとも、個人の自由や権利は、封じられてしまう。
その封じ方は、おそらくもっともな理由がつくはずだ。
しかも、現行の法律がきっちりと適用されて。
実際、何がどのように行われたとしても。
つまりは、法はあってないが如し、なのである。
そんな矛盾にみちみちた社会の理不尽さに翻弄される個人。
それが描かれた、というのであれば、この映画は、悲劇であり、喜劇ということになるのだろう。
英語題が"Law Abiding Citizen"
つまりは、法を遵守する市民。
しかしストーリーは、殺人者が司法取引で軽減された量刑によってわずか3年で出所するという、アメリカ・フィラデルフィアの司法制度の理不尽さへの問いかけが下敷きにある。
愛する妻子が強盗に殺害された。
証拠があるにもかかわらず「違法収集」として採用されない。
そのために、そのために犯人の量刑を厳密に問えない。
腕利き検察官は、裁判で負けると自身の有罪率が下がるからその有罪率を上げるために、司法取引をする。
見る側としては、妻子を殺された男の感情に十分に移入できているのだが、次第に、そこまでするか?というところにまで、男の報復はエスカレートしていくのだ。
自ら捕らえた殺人犯を、電動のこでばらばらに解体し殺害。
そして、家族殺しの司法取引裁判にかかわった者を次々と処刑していく。
ここまで来ると、その狂気に満ちた報復心は、正義とは大きく乖離してしまっているから、同情の余地はなくなってくる。
それにしても。
確かに矛盾に満ちた法制度ではある。
有罪率を上げようと躍起になっていた検察官の心理が描かれきっていない。
その彼だけが助かる。
そして、フィラデルフィアの市長が「どんな方法でもいいから、あの男を消せ」とヒステリックに叫ぶ様は、法を守る側であるはずなのだが、まったくの逆説なのである。
ある意味、一番の当事者であるはずなのに。
このあたりの照準の当て方が、監督の意図する「アイロニー」なのかもしれない。
つまりは、抜け穴だらけの法制度の下で、その法制度をなりわいにして生きている人間たちが実は一番、法を守っていないという皮肉なのだ。
体制に逆らわない範囲で、我々一般市民の自由ぶりはある意味で許されている。
しかし、その体制に逆らえば、たとえどんな同義的理由があろうとも、個人の自由や権利は、封じられてしまう。
その封じ方は、おそらくもっともな理由がつくはずだ。
しかも、現行の法律がきっちりと適用されて。
実際、何がどのように行われたとしても。
つまりは、法はあってないが如し、なのである。
そんな矛盾にみちみちた社会の理不尽さに翻弄される個人。
それが描かれた、というのであれば、この映画は、悲劇であり、喜劇ということになるのだろう。