・ 【釜石市に入ってきました】
釜石市も津波被害が大きく報道されていました、震災当時は市街にがれきの山が至る所に
築かれていました、十字路はがれきに挟まれて異様な感じを受けたものです、ボランテイアの人達でしようか
励ます意味での合奏や独演会も行われていまして、ちょいと浮いたような気にもなりました
「釜石市では、本来は災害後の避難生活を主とした施設であった鵜住居地区防災センターで津波避難の
訓練も行われていたため(最大の可能性として)244人が避難して210人が亡くなるなど、約1,050人が犠牲となった。
世界最深の釜石港湾口防波堤が破壊された。鵜住居地区は、市内の犠牲者の半分以上を占める悲劇の一方で
釜石の奇跡と呼ばれる津波教育の成功例もあった。釜石東中では、地震発生直後に生徒達が自己判断で
避難先に各自走り出し、それを見た隣接の鵜住居小の児童も続いた。第一避難先の介護施設に到着して
整列点呼で全員の無事を確認したが、想定にとらわれないとの教育の元、中学生が小学生の手を引いて
さらに高台へ走り出し、それを見た地域住民も後に続いた。学校は10mを超える高さの津波に襲われ
第一避難先の介護施設も1階が水没したが、当日登校した生徒児童約600人全員が無事であった」
瓦礫処理は放射能汚染が危険といわれてました!
・ 【震災直後は市内は瓦礫の山でした】
放射能汚染と申しますが、本当に被害はあったのでしょうか?京都の大文字焼きで燃やすと言ったら
放射能汚染が問題になって、取りやめました、放射能汚染状況のベクレル発表も少なくなっています
(のど元過ぎれば暑さもわすれるのでしょうか?)
福島原発も沈静化?してますが、確かに沢山の人々が今でも暮らしています
(福島原発はもう一度大きなトラブルに見舞われるような気がしますね)
・ 【今は瓦礫置き場が整備されています】
早いとこ燃やしてしまえば跡形も影響も心配事も全て無くなってしまうとおもいます
(がれきの山を見ていますと早くなくなれと祈らざるを得ません!)
完全に処分するには後1年位掛かるとおもいます
・ 【瓦礫置き場はいたる所にあります】
がれき処理に携わっていた人々の雇用問題が浮上しています、雇用促進でしょうかがれき処理作業員が
少ない仕事の中でありがたい仕事だったのです、それがいずれ無くなるのはわかっていました、
世の中全てが丸く収まる事はありません
(ここは政治に決断して戴きましょう!)
コンクリートで固められている建物は残ります!
・ 【一見何事も無かった建物のようですが】
窓ガラスには板がはめられて被害があったのは一目瞭然です、上の階もブライインドが下ろされています
あの時、釜石湾には津波によって不気味な渦が取り巻いていましたね
・ 【あの時、頻繁に放映された現場です】
【津波と浸水被害】
「検潮記録によると、津波は地震直後に引き波から始まり15時21分に4.1mの高さとなって記録が
振り切れているが、釜石港及びその周辺では、大きな津波浸水災害が発生している。この津波によって最初
に大渡川が溢れ、浸水域は大渡川と港の周辺に広がり、大渡川に沿って釜石駅あたりまで延びており
明治三陸津波の推定浸水域をやや上回る広さとなっているようである。釜石港奥(須賀地区)の大渡川左岸にある
国土交通省の釜石港湾事務所では津波の痕跡高さ8.11m(浸水深3.5m)であり、1階が水没していた。
また、同地区の北側にある港湾合同庁舎(海上保安庁)でも1階が水没しており、津波の痕跡高さは
6.93m(浸水深5.72m)であった。ただし、同庁舎の外壁では9.04mの痕跡高さも認められている。
浸水地域では、港湾内を含めて甚大な被害が発生しており、多くの建物が破壊されている。
特に木造の建物は、流されて大きく破壊されているものが多い。鉄筋コンクリートの建物は、
浸水していても倒壊に至っているものはなく、港内の飼料や穀物の大型サイロも浸水しているが、
建物全体の被害には至っていない。多くの自動車が流され、壊れた建物の残骸とともに道路をふさいでいる
木造建物や崩壊建物は撤去されて更地になっています
・ 【市内には多くの更地がありました】
鉄道高架橋の柵も壊されていますからあれ以上の高さまで水が来たに違いありません
残っているのは木造以外の建物です
・ 【道路も整備されておりました】
こんな所にも駐車禁止の白線です
釜石から伸びる南リアス線の高架橋です
・ 【釜石市内を抜けようとします】
川を逆上って津波は高架橋の上まで襲っています
ここには建物郡があった筈です
・ 【広大な埋立地のようですが・・・・】
一から出直しです
・ 【平田地区の仮設住宅のようです】
家の失った多くの人々が生活しています(多分皇太子様ご夫妻が訪れた平田住宅だと思います)
さらに高台まで仮設住宅は建設されていました
・ 【かなり山の上まで仮設住宅が広がっていました】
【皇太子ご夫妻、釜石の仮設住宅訪問 被災者を激励】
「皇太子ご夫妻は2日、東日本大震災時に津波などで千人以上の死者・行方不明者が出た
岩手県釜石市を訪れ、仮設住宅などを視察した。雅子さまが国内で宿泊を伴う公務を行ったのは3年9カ月ぶり。
ご夫妻は1日夜に盛岡市に到着。2日、県内で3番目に多い457人が暮らす
「平田第6仮設団地」を訪問した。高齢者の孤立を防ぐため玄関を向かい合わせに建てた区域や、
デイサービスが受けられる交流施設が設けられており、ご夫妻は見学しながら住民約50人に声をかけた。
この団地で最高齢の岩間ナツさん(91)は、雅子さまに「生活は慣れましたか。お体は」と尋ねられ
「皆さんに守られて頑張っています」と答えた。「泣きっぱなしでいました」と訴えた
菊池フミさん(71)には、ご夫妻が代わる代わる手を握って慰めていた」
南リアス線は平成25年4月4日から営業運転となります。
大船渡~釜石間で岩手県交通バスが運行されています。
バス時刻表については、こちらをご覧ください。
(吉浜~釜石間で三陸鉄道の定期乗車券による振替乗車を実施しています。)
・ 【鉄路の復旧は急ピッチです】
南リアス線の復旧には時間も掛かるでしょう、歩みは遅いですが間違いなく復旧しております
2年前にあった災害です。これを見ますと圧倒的威力と思わざるを得ません
・ 【津波の被害は信じられない威力です】
津波の威力はすさまじい、鉄の柵がねじ伏せられております
人のいないところは無事なのです
・ 【やっと平和な海に戻って来ました】
自然の恵みを謳歌する事もあれば自然から手厳しい目にもあいます
釜石市も津波被害が大きく報道されていました、震災当時は市街にがれきの山が至る所に
築かれていました、十字路はがれきに挟まれて異様な感じを受けたものです、ボランテイアの人達でしようか
励ます意味での合奏や独演会も行われていまして、ちょいと浮いたような気にもなりました
「釜石市では、本来は災害後の避難生活を主とした施設であった鵜住居地区防災センターで津波避難の
訓練も行われていたため(最大の可能性として)244人が避難して210人が亡くなるなど、約1,050人が犠牲となった。
世界最深の釜石港湾口防波堤が破壊された。鵜住居地区は、市内の犠牲者の半分以上を占める悲劇の一方で
釜石の奇跡と呼ばれる津波教育の成功例もあった。釜石東中では、地震発生直後に生徒達が自己判断で
避難先に各自走り出し、それを見た隣接の鵜住居小の児童も続いた。第一避難先の介護施設に到着して
整列点呼で全員の無事を確認したが、想定にとらわれないとの教育の元、中学生が小学生の手を引いて
さらに高台へ走り出し、それを見た地域住民も後に続いた。学校は10mを超える高さの津波に襲われ
第一避難先の介護施設も1階が水没したが、当日登校した生徒児童約600人全員が無事であった」
瓦礫処理は放射能汚染が危険といわれてました!
・ 【震災直後は市内は瓦礫の山でした】
放射能汚染と申しますが、本当に被害はあったのでしょうか?京都の大文字焼きで燃やすと言ったら
放射能汚染が問題になって、取りやめました、放射能汚染状況のベクレル発表も少なくなっています
(のど元過ぎれば暑さもわすれるのでしょうか?)
福島原発も沈静化?してますが、確かに沢山の人々が今でも暮らしています
(福島原発はもう一度大きなトラブルに見舞われるような気がしますね)
・ 【今は瓦礫置き場が整備されています】
早いとこ燃やしてしまえば跡形も影響も心配事も全て無くなってしまうとおもいます
(がれきの山を見ていますと早くなくなれと祈らざるを得ません!)
完全に処分するには後1年位掛かるとおもいます
・ 【瓦礫置き場はいたる所にあります】
がれき処理に携わっていた人々の雇用問題が浮上しています、雇用促進でしょうかがれき処理作業員が
少ない仕事の中でありがたい仕事だったのです、それがいずれ無くなるのはわかっていました、
世の中全てが丸く収まる事はありません
(ここは政治に決断して戴きましょう!)
コンクリートで固められている建物は残ります!
・ 【一見何事も無かった建物のようですが】
窓ガラスには板がはめられて被害があったのは一目瞭然です、上の階もブライインドが下ろされています
あの時、釜石湾には津波によって不気味な渦が取り巻いていましたね
・ 【あの時、頻繁に放映された現場です】
【津波と浸水被害】
「検潮記録によると、津波は地震直後に引き波から始まり15時21分に4.1mの高さとなって記録が
振り切れているが、釜石港及びその周辺では、大きな津波浸水災害が発生している。この津波によって最初
に大渡川が溢れ、浸水域は大渡川と港の周辺に広がり、大渡川に沿って釜石駅あたりまで延びており
明治三陸津波の推定浸水域をやや上回る広さとなっているようである。釜石港奥(須賀地区)の大渡川左岸にある
国土交通省の釜石港湾事務所では津波の痕跡高さ8.11m(浸水深3.5m)であり、1階が水没していた。
また、同地区の北側にある港湾合同庁舎(海上保安庁)でも1階が水没しており、津波の痕跡高さは
6.93m(浸水深5.72m)であった。ただし、同庁舎の外壁では9.04mの痕跡高さも認められている。
浸水地域では、港湾内を含めて甚大な被害が発生しており、多くの建物が破壊されている。
特に木造の建物は、流されて大きく破壊されているものが多い。鉄筋コンクリートの建物は、
浸水していても倒壊に至っているものはなく、港内の飼料や穀物の大型サイロも浸水しているが、
建物全体の被害には至っていない。多くの自動車が流され、壊れた建物の残骸とともに道路をふさいでいる
木造建物や崩壊建物は撤去されて更地になっています
・ 【市内には多くの更地がありました】
PENTAX デジタルカメラ PENTAX MX-1 クラシックブラック 1/1.7インチ大型CMOSセンサー F1.8大口径レンズ PENTAX MX-1 BK | |
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鉄道高架橋の柵も壊されていますからあれ以上の高さまで水が来たに違いありません
残っているのは木造以外の建物です
・ 【道路も整備されておりました】
こんな所にも駐車禁止の白線です
釜石から伸びる南リアス線の高架橋です
・ 【釜石市内を抜けようとします】
川を逆上って津波は高架橋の上まで襲っています
ここには建物郡があった筈です
・ 【広大な埋立地のようですが・・・・】
一から出直しです
・ 【平田地区の仮設住宅のようです】
家の失った多くの人々が生活しています(多分皇太子様ご夫妻が訪れた平田住宅だと思います)
さらに高台まで仮設住宅は建設されていました
・ 【かなり山の上まで仮設住宅が広がっていました】
【皇太子ご夫妻、釜石の仮設住宅訪問 被災者を激励】
「皇太子ご夫妻は2日、東日本大震災時に津波などで千人以上の死者・行方不明者が出た
岩手県釜石市を訪れ、仮設住宅などを視察した。雅子さまが国内で宿泊を伴う公務を行ったのは3年9カ月ぶり。
ご夫妻は1日夜に盛岡市に到着。2日、県内で3番目に多い457人が暮らす
「平田第6仮設団地」を訪問した。高齢者の孤立を防ぐため玄関を向かい合わせに建てた区域や、
デイサービスが受けられる交流施設が設けられており、ご夫妻は見学しながら住民約50人に声をかけた。
この団地で最高齢の岩間ナツさん(91)は、雅子さまに「生活は慣れましたか。お体は」と尋ねられ
「皆さんに守られて頑張っています」と答えた。「泣きっぱなしでいました」と訴えた
菊池フミさん(71)には、ご夫妻が代わる代わる手を握って慰めていた」
南リアス線は平成25年4月4日から営業運転となります。
大船渡~釜石間で岩手県交通バスが運行されています。
バス時刻表については、こちらをご覧ください。
(吉浜~釜石間で三陸鉄道の定期乗車券による振替乗車を実施しています。)
・ 【鉄路の復旧は急ピッチです】
南リアス線の復旧には時間も掛かるでしょう、歩みは遅いですが間違いなく復旧しております
2年前にあった災害です。これを見ますと圧倒的威力と思わざるを得ません
・ 【津波の被害は信じられない威力です】
津波の威力はすさまじい、鉄の柵がねじ伏せられております
人のいないところは無事なのです
・ 【やっと平和な海に戻って来ました】
自然の恵みを謳歌する事もあれば自然から手厳しい目にもあいます
これが本当の「冷えとり」の手引書 | |
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