23285 どうも?

2023-11-06 13:53:06 | 23280

 

三連休も終わり、いつもの日常生活、昼食後のひと時。

日頃で「ん?」と思うことを独断と偏見で表現します。

 

何の矛盾も考えずに「客観的」というのに違和感が有ります。

これは多数決?或いは、肯定者が多い数であるから使うのか?

 

何でも多数で、それが正しいと言うのは「客観」なのか?

意地悪ジイさんは、常に疑っています。それって本当?

 

時々に散見するのは、○○の専門書、そこでの筆者の発言?

この人の意見を基本にしてこれが正論という人がいます。

全く論外だと勝手に思う訳です。

 

理由は、貴方はその人とどれほどの面識がありどんな所に

傾いたか?なんてことを質問すると馬鹿にされそうです。

しかし、僕にとってはそんなことはどうでも良い。

 

例えば、読書家の方は自分の好みに合うものを選択し、

それらの多くを好む。全く反対の物を読もうとはしない。

 

何故なら読む前から前の著書の影響で刷り込まれた内容を

既に肯定している場合が多い。なので、読んだとしても

考え方が変わる可能性が少ない?読書家ほど洗脳され易い?

 

そこで、この客観性とは何かですが自分の作品を出版会社に

持ち込むと、意味合いが少しずつ変わる場合が多い?

何故なら商売ですから売れそうにもないネタは引き受けない?

 

要は、ウケを狙う様な何らかの魅力を味付けするんだから

多少なりとも焦点がズレる?それに一喜一憂するのが読者です。

従って、こんなものを土台として議論するのは相当に酷い。

 

そこで、ジイさんは、「あなたはどう思っているのか?」

と聞き返すことがあります。「自分の意見はないの?」

 

この辺りになると、時々、興奮して論点からズレて論戦が

始ることがあります。これには閉口でこの相手を避けたい。

 

要は、お互いの論点がズレにズレまくり収拾がつかない。

客観的という証拠と根拠に妥当性がないにも拘らず正当を

主張している点で疑問が多い。

 

一方で、自分の考えや意見をまとめたり話したりする際に

「客観的」と表現すること自体に無理があります。

 

この世に存在する人間に客観的というのは存在せず全ては

主観的に捉えたものを表現している。それを数が多いから

と言って「客観」というのは単なる詭弁だと感じる。

 

なので、他人と接する場合に、自分の意見を述べて、相手が

どう反応するかを確認しながら議論を進めるのが妥当か?

 

問題は、誰もが相手の意見に同調できるものではありません。

なので、ある一定の区切りの中で議論を停止する必要があります。

 

人間の感情はそんなに単純なものではない。そもそもですが、

学校で教えて頂いている様な正しい教科書通りに行く筈がない。

 

生き難い世の中で「失敗したくない」「断られたくない」と

いうことが往々にしてあります。お互いのコミュニケーションを

とれる様な努力?これって必要なのか?考え込む時もあります。

 

自己反省を込めてですが、人間関係というのは実に難しい。

あまりにも気にして、深く考えすぎると何も喋れなくなる?

こんなことはないでしょうか?実にややこしい?

 

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