「長州の奇兵隊は高杉晋作殿が浪人町人を組織し、訓練して戦えるようにした兵でした。ここ庄内でいえば、新徴組のような存在です。しかし、庄内は違う。このまま戦をしていれば、老人や女子供まですべてを敵にしたことでしょう。いや、それは酒井公ではない、そのようなことを自然にできる人の道、それがその庄内にはあるんですな。そのような藩を敵に回した薩摩は、完全に間違えておわした。薩摩の完敗でごわす。いあ、忠篤様と話をすることがで、庄内の強さの秘密が良くわかり申した。」
後日、黒田は、征北軍総督仁和寺宮(にんなじのみや)の御座所である新発田城に武器を持ってくるように言い置き、そのまま引き上げてしまった。
「吉之助どん、いや、酒井忠篤殿は、なかなかの人物じゃ。あの歳で庄内藩をすべて掌握し、そのうえ我々をだけでなく、日の本の国すべてに人の道を説いた」
「庄内藩の農兵は強かったであろう。数万の軍を敵に回すよりも恐ろしい」
西郷は新発田城の中で、ほかの人々がいる前でいった。
宇田川敬介著「庄内藩幕末秘話」P218
以前友人からこんな質問を受けた。
「戊辰戦争の時に、西郷隆盛が「庄内は戦禍に及ばず」と言ったことから、庄内は会津のように攻城戦や市街戦にはならなかった。そのため庄内の人たちは西郷に恩義を感じ、家々の仏間に先祖の遺影とともに西郷の肖像画を飾っているとテレビで言っていたが本当か?」
筆者は山形県庄内地方、酒田の出身であるが、酒田でそのような話は聞いたことがなく、「その話がもし本当であれば、酒田ではなくお城があった鶴岡ではないかな。」と答えた。ただ、肖像画はないが、西郷隆盛を祀る「南洲神社」は酒田にあり筆者も何度か参拝したことがある。
そんな庄内出身者ゆえ、今回の本はその背表紙のタイトルを見ただけですぐに読んでみたくなった次第。
戊辰戦争の詳しい経緯は省略するが、庄内へは薩摩軍を主力とした官軍が攻めてきた。それを迎え撃つ庄内軍は武士の他に農兵や町兵を組織して応戦、連戦連勝であったとのこと。その背景には酒田の豪商・本間家の財力によって最新鋭の武器をそろえていたということが大きいと思われるが、それ以上に藩主と領民の信頼関係や結びつきの強さが大きかった、そのことを著者はこの小説の中で黒田清隆に「そのようなことを自然にできる人の道、それがその庄内にはあるんですな。」という言葉で言わせている。
上記の場面に登場する人物の当時の年齢を確認すると、第11代庄内藩主酒井忠篤(さかいただずみ)が15歳、黒田清隆が28歳、そして西郷隆盛が40歳であったが、現代の我々と比べると、果たして我々の精神はかなり退化してしまってはいないかと恐ろしくもある。
庄内藩、(厳密には「藩」とはそれよりも後にできた言葉で当時は使われていなかったとのことだが、)における藩主と領民の関係については、鶴岡出身の作家、藤沢周平の天保義民事件を扱った「義民が駆ける」という小説にも詳しく描かれているが、江戸期を通じて領主と領民の関係が良好で経済的にも豊かな藩であったようだ。