『勤務地シンガポール』

残りの人生どう生きるか迷い続けてこのまま終わってしまいそうです

『スリ・ランカ』

2012年01月10日 | スリランカのこと

 「スリランカ」について書くのは久しぶりですが、昨年「シンガポール日本商工会議所」さんのメールマガジンに掲載させて頂いたエッセーを、下記に添付させて頂きます。

 ご興味ありましたらご覧になって下さい。

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 『スリ・ランカ』

 一般的には「スリランカ」として表記されるインド洋に浮かぶこの島国の、「スリ」と「ランカ」の間に点「・」を打ってみた。

 「スリ・ランカ」、現地のシンハラ語で表記される音を正しく拾うと「シュリー・ランカー」となる。サンスクリットから派生したこの言葉は、「シュリー=光が輝く」、「ランカー=島」の意味になる。20代の前半をこの国で過ごし、そしてこの国の人々と係わり合いを持った筆者にとって、まさに「スリ・ランカ」は「光り輝く島」であった。

 以後多くの人たちに、「なぜスリ・ランカに行ったのか?」と尋ねられることになるのだが、きっかけは単純で、それは「カレーライス」だった。当時銀座の博品館劇場の7階だったかに「アラリヤ」という名前のバーがあったのだが、昼はそこで「カレー」を出していた。

 はじめは上司に連れられて行ったお店だったのだが、そこで働いているスリ・ランカ人と「話をしてみたい」と思い立ち、それからほぼ毎日その店に通い、同じ場所に座り、そして「チキン・カレー」を注文し続けた。

 次第に仲良くなり、いろいろと話をするようになってから気づいたことは、彼らは日本語を勉強しに来ていたり、コンピューター(“IT”なる言葉は当時は無かった)を勉強しに来ていたり、そして何よりも日本のことを良く知っていた(ように当時感じた)。

 一方こちらはというと、スリ・ランカのことなど全く知らなかった。若く純粋だった当時の筆者はそのことを酷く恥じ、「今後この人たちと付き合って行く上で、自分がかの国のことを全く知らないというのはフェアじゃない。もっとスリ・ランカのことを勉強しなければなならない。」(今思えばとんでもなくナイーブ過ぎるが)と、考えたものだ。

 若さとは行動だ。筆者はスリ・ランカに行くことに決めた。当時はまだ「地球の歩き方」のスリ・ランカ版は発行されてもなく、当然インターネットなどなく、情報は本屋で購入した3冊の時代遅れ丸出しのガイドブック、そして「アラリヤ」で働いているスリ・ランカ人からの情報のみだった。

 1989年7月、成田発のエアランカ(現在のスリランカ航空)で9時間かけて到着した筆者を出迎えてくれたのは、なんと軍隊だった。タラップを降りる際、目に飛び込んできたのは銃を持った兵士たちだった。当時政府軍は、北にLTTE(タミールイーラム解放の虎)そして南に同じシンハラ人内の武装共産主義者の二つの敵に対峙して、空港は政府軍によって制圧、いや守られていた。

 「もしかしたら俺、トンでもない所に来てしまったのでは?」という思いは、その後すぐに現実となり、空港から市内へ入る道々で何度か軍の検問を受け、その都度降ろされチェックを受けた。無知とは恐ろしい。なんと筆者は人生初の海外旅行先に、「内戦中の国」を選んでしまったのだった。あのオレンジ色の街頭に照らし出されたバリケードや装甲車、そして武装した若い兵士の緊張した顔は今でも鮮明に覚えている。

 到着した夜は、「アラリヤ」で知り合ってスリ・ランカに帰国していた当時の友人が、空港に出迎えに来てくれていて、彼の親戚の家に泊めて頂いたのだが、(今思えば中流の下といった感じのお宅だったのだが、)エアコンは無いので蒸し暑く、おまけに蚊も多い。裸電球に照らし出された壁は剥がれ落ち、シャワーを浴びようとして入った部屋の足元はぬるぬるしていて滑って頭を打ちそうなった。暖かいお湯を期待してひねったシャワーから出てきたのは水で、思わず心臓が止まりそうになった。おまけにトイレに行けば紙がないといった具合で散々だった。一昨日前までの暮らしとの、あまりの落差に不覚にも涙が出そうになり、わずか数時間でホームシックになってしまった。持っていたチケットはオープンだったので、「明日飛行機を予約して帰ろう」と思ったのだが、なんとその翌日から全土に「外出禁止令」が布告されてしまい、家から出られない状態となってしまった。

 このまま書き続けると話が恐ろしく長くなりそうなので、この続きはもしリクエストがあれば書かせて頂くということにして、15年住んでいるシンガポールと比べて、3、4年しか住んでいない、それももう20年以上も前のことになるスリ・ランカでの出来事を今でも鮮明に思い出せるのは、自分にとって人生で最初の外国だったからか、またはそこでの経験が余りも色濃いものだったからだと思う。

 スリ・ランカの国土はちょうど北海道の5分の4ほどで、その形はちょうど右の手の甲を真上から見たときの形に似ている。親指の付け根のところが政治と商業の中心地である「コロンボ」にあたる。そこから右方へ移動し、手の甲のちょうど真ん中くらいは古都の「キャンディ」、イギリスの東インド会社に組み込まれるまではここキャンディーに王国があった。

 スリ・ランカはポルトガル、オランダ、イギリスといった順番に植民地支配を受けるのだが、興味深いのは、その子孫たちで、ポルトガル人は現地の人たちと結婚した故にその子孫たちは見た目や肌の色はシンハラ人、タミール人と似ていて、目の色の違いで若干見分けがつくかどうかといったところだが、オランダ人たちは現地と交わらなかったようで、その子孫たちは見た目は白人だ。よく欧米系のホテルのフロントで見かける。もちろん彼らはスリ・ランカ人であるわけだからシンハラ語は流暢なのだが、初めてシンハラ語で会話したときには驚いたものだ。イギリス人の子孫というのも居るのだろうが、筆者は出会ったことはない。それよりもむしろイギリスは、鉄道などのインフラと「英語」を残した。また。宗教も多彩で、7割を占めるシンハラ人は仏教だが、キリスト教、イスラム教、そしてヒンドゥー教と四大宗教が出揃っている。

 スリ・ランカというと暑いイメージがあるのだが、それはコロンボやゴールなど西側と南側の低地のことで、キャンディなど中高地は意外と涼しい。そして紅茶の産地として名高い「ヌワラエリヤ」などは日中と夜の気温の差が大きく、時期によっては暖房が必要なくらい寒い。最もその寒暖の差が、生産量の少ない高地産の紅茶になんとも言えない芳香を付け加えるようだ。ちなみに世界三大紅茶のひとつ「ウバ」はこのヌワラエリヤの東側に位置する。高地産の紅茶は水色は薄めで香りが高く渋みがありストレートで頂くのに向いていて、主に日本等に輸出されていると聞く。一方低地産の紅茶は色も濃く出てボディーもしっかりしているため、ミルクや砂糖をたっぷり入れて頂くのに向いていて、主にそうした嗜好の中東等に出て行っているようだ。

 最後に、スリ・ランカにおいて、筆者は人に騙されてお金を取られたり、誘拐されそうになったり、高熱でうなされたりと、ネガティブなことも数多く体験したが、一方で、またそれよりも増して沢山の人たちから沢山の親切を受け、そして大切にして頂いた。その一つ一つの体験は紙面の制約上ここでは書き切れないが、それら甘いも辛いも全ての体験が自分にとって今は「光輝く島」となっている。

 北海道ほどの大きさの中に上述の紅茶畑や有名な宝石の産地、仏陀が時空を越えてやって来たと言う伝説の残る聖地、水田やココナツ林の緑の中に点在している「アヌラーダプラ」や「ポロンナルワ」、「シギリヤ」と言った世界遺産に登録されている遺跡群、そしてそこで暮らす人々がいる。そんな宝石箱のような島をまたいつか訪れてみたいと願っている。


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