周平の『コトノハノハコ』

作詞家・周平の作詞作品や歌詞提供作品の告知、オリジナル曲、小説、制作日誌などを公開しております☆

手記~3月7日のカルテット~

2020年03月07日 | 日誌
『右も左も分からない』

その言葉の意味を調べると、2つの答えが出てくる。
1つは「その土地の地理がまったくわからない。」、そしてもう1つは「その分野についてまったく知識がない。」

今からちょうど18年前の2002年3月7日【1つ目の3月7日】、肩掛けの黒いバッグにプレーステーション2本体(初期の分厚い方)を詰め込んで東京駅に降り立った18歳の男にはその両方の意味が当てはまっていたであろう。

前もって自分が住み込みで働く事になる新聞屋の寮や、その周辺の事は地図で調べてあったが、それでも『右も左も分からない』。
どっちへ行けばコンビニへ行けるのか、どっちへ行けば駅へ着けるのか、そんなレベルであった。
そしてその地図にも、どっちへ行けば自分の叶えたい夢へ辿り着けるのかは載っていなかった。

未来への不安やホームシックや過酷な仕事が重く圧し掛かる中で、どうして倒れなかったのかと言えば、それらとバランスが取れるくらいの重さの「希望」とかいう不確かで曖昧で無責任で幼稚でいい加減なものが、心の天秤のもう一方の皿に乗っていたからであろう。

この男は10年後の2012年3月7日に自分がどこで何をしていると思っていたのだろう?

この頃はまだバンドで食べていく事を目指していたから、実際の答えなんて想像もできなかったのは無理も無い。
この男が「作詞家」というものを目指し始めるのは約2年後の2004年の春ぐらいの事だった。

「なんとか自分の名前がクレジットされた曲がCDとなって世に出て欲しい。」
その思いだけでひたすら突っ走った。

何度のコンペに敗れただろう。何度期待しては裏切られたであろう。
その数は両手両足の指を使って数えても到底足りない。
普通なら挫折して夢を諦めるところだが、そんな神経がこの男はイカれていた事を哀れに思う一方で感謝もしている。

この男が上京してから5年が経った2007年、もうやっぱりこのまま夢は叶わない運命なのかと立ち止まりそうになった時がある。
しかし、その直後にこの男に転機が訪れる。

それは…

その後、結果的に長い付き合いになる人達との出会いだ。
その人達はこの男の夢をとことん応援してくれた。
それは時に「支え」でもあり、「プレッシャー」でもあった。

でも、そのどちらでも良かった。結果的には同じ、「夢を絶対に叶えなければならない理由」となり、その「原動力」となり、そしてあの日からちょうど10年後である2012年3月7日【2つ目の3月7日】に、確かにそこにいてくれたのだ。
この男の名前がクレジットされた曲が収録されたCDたちと共に。

もしこの日までに何も結果を出す事ができなければ夢は終わりと決めていたタイムリミットのその日に。

そんな奇跡的な通過点を越えて、「夢」はさらなる「欲望」へと変わっていく。
満足しなきゃいけないほどの幸せの中で、まだ満足しちゃいけない自分が生まれてくる。

その後もこの男はたくさんの応援や支えやプレッシャーや叱咤激励のおかげで、いくつかの奇跡を見る事が出来た。

でもまだ満足はしていない。

まだ満足してはいけない。

でもちょっとだけ戦う場所を変えたいらしい。

今よりちょっとだけ静かな場所で。

やる事はきっと変わらない。

でも未来の事は分からない。

これからこの男が誰と出会うのかも分からないのだから。

今日は2020年3月7日【3つ目の3月7日】

この男はまもなく東京を去る。

これから暮らす新しい場所はこの男が生まれ育った町。
だから「その土地の地理がまったくわからない。」という事はもうないだろう。

そしてこの18年間の東京での挑戦と経験と挫折と達成たちのおかげで「その分野についてまったく知識がない。」という事もないだろう。
いや、あってはならない。

だからもうこの男に『右も左も分からない』なんていう事は決してないはずだ。

これからも迷わず自分が信じた方向へ進めば良いのだ。

この男は50年後の2070年3月7日【4つ目の3月7日】、どこで何をしているのだろう?

もう86歳だ。

もう墓の中だろうか?
どこかの公園の隅っこのダンボール箱の中だろうか?
どこかの老人ホームの中だろうか? 
どこかの山奥で仙人でもやっているだろうか?

それともまだ奇跡的にどこかで音楽をやっているだろうか?

もちろん今は分かるはずもない。

ただ1つだけ確実に言える事は…




もうボケてしまって、

『右も左も分からない』

《完》

2020年3月7日 周平