第1回 序:西郷関与をめぐる諸言説
西南の役の起こった時、あれは十年の二月の幾日頃であったか、朝起きるとすぐ内務省へ出てくれとの使いがあったので急いで行くと、大久保(利通)さんはなんだかフサいだ貌つきをして出て来られた。眉宇の間に重い黒い影が漂っておる、私の顔を見るとすぐ、「いよいよ西郷(隆盛)が出た、昨夕電報が来たが、案外早かったので驚いた」と言われた。
平生沈毅な寡黙な喜怒の少しも色に出ぬ人であったので、「どうも顔色がお悪い、眉宇の間が黒う見えます」と言ったら、「そうだろう、昨夕は一睡もしなかった」と言って、すぐ太政官へ行かれた。
太政官から帰られた時にはすでに眉宇の間の黒い影も晴れて「話をしたら気分もハッキリした、何しろ今から京都の御上の御側へ上がらねばならぬから、後をよろしく頼む」と言って倉皇京都へ行かれた。聖上はその頃京都に行幸中であった。
(前島密の述懐)(明治43年10月1日付『報知新聞』)
私学校党が騒動を起こした時は、大久保公はまだ東京におられたが、いよいよ西郷も混じっているという確報が来たので、その頃京都行幸中であった陛下の行在所へ行かれた。
私は東海道を巡回している最中であったが、鹿児島が反したと聞いて、種々相談もあり、大久保公にお目にかかる必要があって西京へ行った。公は木屋町の宿におられた。朝早く訪ねて行ったら、大久保公一人で傍には誰もおらずシミジミと話をした。だから、誰も知らぬ話である。
すぐ鹿児島の話が出たが、公は困ったものだと言われ、いよいよ西郷と別れねばならぬとと言って嘆息された。私はこの時に非常に感じた。英雄の心は普通の人には分からないと思って非常に感じた。
公は涙は流されなかった。実に感に堪えぬ面持ちで「実に遺憾なことだ。しかし、こんなことのありようわけがない。私が今こうして瞑目して西郷のことを考えてみるに、どうしてもこんなことの起こりようがない」と言って目を冥って仰向いておられた。(中略)
その時は西郷のことはあまり話されなかったが、今でも逢えばすぐ分かるのだ、逢えばなんでもないのだが、逢えぬので困ると言われたが、この時私は全く大久保さんの方が上だと思った。
(松平正直の述懐)(明治43年12月5日付『報知新聞』)
西郷隆盛は、果たして暴挙に関与しているのか否か?
……西南戦争(西南戦役)の勃発に際し、この問題は政府(内閣)の面々を大いに悩ませました。冒頭紹介したとおり、関係者の貴重な証言も数多く残っており、当時の情報錯綜と悲喜交々の様子をたいへんドラマチックに伝えています。
しかし、実のところこれらの証言の大半は西南戦役からだいぶ年月をへたのちの回顧であり、戦役当時の同時代史料の内容とは明らかに食い違っている箇所が少なくありません。人間の記憶とは多分に主観的かつ曖昧模糊としたものですし、西南戦役の勃発をめぐっては諸般の状況(情報)が短時間のうちに刻々更新されていたため、たとえ当事者であっても事実関係の混同や認識違いを排除できないのでしょう。
西南戦役の初動対応に当たった内閣の面々は、西郷の去就に関してどのような情報に触れ、どのように考えて決断したのか。それをできるかぎり正確に知るためには、後づけの情報や思い込みによって当事者の記憶が修正・改竄される以前の、ナマの情報を洗ってみる必要があります。そこで本特集では、主として当時の人々がリアルタイムな意思疎通に用いた書簡・電報や、日記等の内容を整理して読みとくことで、西郷去就認定問題の実相に切り込んでみたいと思います。
本特集は、ミニコラムにしては分量がやや膨れあがってしまったことから、全3回に分けてお送りすることといたします。
また、執筆に当たってはなるべく分かりやすい解説を心がけたつもりではありますが、西南戦役の勃発経過はやや複雑であり、最低限の事前知識が必要かもしれません。そこで次のとおり、簡単な時系列表を作成しましたので、適宜こちらに目を通しながらお読みいただければ幸いです。
なお、詳細な経過についてはこちらの過去記事で詳しくまとめております。やや専門的な内容であり、分量も多いですが、あわせてお読みいただきますと本特集をより理解しやすくなるかと思います。
※ 本特集では多くの史料を引用していきますが、そのうち文語や旧字等で読むのが大変なものについては、原文の文意を極力損なわないよう配意したうえで、平易に現代訳しています。
※ 参考文献一覧は、本特集の最終回(第3回)末尾に一括記載します。
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