夕風桜香楼

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西南戦争勃発時の政府機構

2019年04月15日 20時52分00秒 | 征西戦記考
 今回も西南戦争解説記事。
 先日の記事がやや不親切なつくりでしたので、その理解のあらかじめの助けとなるよう、用意した次第です。



 帝国憲法公布(明治22 年)・帝国議会開設(同23年)ともまだまだ先のことであった西南戦争勃発時、日本の統治機構は文字どおり発展途上にあった。
 本稿では、政府の各種初動措置を整理するに当たっての事前知識として、西南戦争勃発直前の明治10年1月頃における「政府」の機構・人事を概観する。

【中央行政】
 今日のような司法・立法・行政の三権の分離が確立されていなかった当時、日本の「政府」すなわち統治機構においては、行政権の比重が著しく大きかった。
 天皇の輔弼機関として「政府」の中枢にあり、高度な政治決定を行っていたのが内閣(太政官内閣)である。当時の内閣は、首班たる太政大臣(1人)、その下の左右大臣(各1人)、さらにその下の参議(複数人)で構成される合議体であった。西南戦争勃発時点における内閣の顔ぶれは表1のとおりで、太政大臣の三条実美(公家)、右大臣の岩倉具視(公家)というツートップのもと、7人の参議が配されていたが、なかでも大久保利通(鹿児島)の存在感は突出しており、同人が事実上の筆頭参議として行政一般に辣腕を振るっていた。また、大久保と並ぶ維新の巨魁・木戸孝允(山口)はこのとき参議を退いていたが、内閣顧問としてなお一定の影響力を有していた。


【表1】明治10年1月の内閣人事


【表2】明治10年1月の各省人事

 行政各部門の具体的な実務については、分野ごとに置かれた各省(表2参照)の官僚が担っていたが、制度上、内閣と各省の上意下達構造は必ずしも明確でなかったため、参議がいずれかの省卿(現在の各省国務大臣)を兼務する制度(いわゆる参議省卿兼任制)を通じ、各省の行政実務に対する内閣のコントロールが担保されていた。内閣の首班たる総理大臣が官僚機構を統括する各省大臣を選任し、行政機構を一元的にコントロールするという現在の内閣制度は、これをよりシンプルに洗練させたものといえるであろう(表3参照)。


【表3】明治初年の内閣制(左)と現在の内閣制(右)の比較イメージ

【地方行政】
 地方には府県が置かれ、府県庁が地方行政を執行していた。府県の首長たる府県令(欠員の場合は権令)は、基本的に中央から派遣された内務官僚であった。
 府県内部の行政区については、現在のような市町村制の代わりに大区小区制が採用されており、府県の下の行政区画は「第○大区第△小区」と数字で区分された。大区・小区の長としてはそれぞれ官選の区長・戸長が置かれ、各種の地方行政実務に当たっていた。

【立法・司法】
 公選の議会がいまだ開設されていなかった当時、立法に係る諮問機関として設置されていたのが元老院である。同院はのちの貴族院の前身ともいうべき組織で、当時は有栖川宮熾仁親王を議長に戴き、官選の議官(定制32人)で構成されていた。
 また、内閣から独立した司法機関として、後年の最高裁判所に相当する大審院が置かれていた。しかし、西南戦争における国事犯に対する司法手続は現地軍の指揮事項に属することとされ、征討総督本営に付置された九州臨時裁判所が一括してこれを処理した。

【陸海軍】
 当時、陸軍参謀本部・海軍軍令部といった独立の軍令機関は存在せず、陸海の軍政・軍令は陸軍省と海軍省によってそれぞれ一元的に運営されていた。
 西南戦争勃発時点での陸軍中央の人事は、陸軍大臣に相当する陸軍卿山県有朋中将(山口)が配され、次官たる陸軍大輔は空席、次官補たる陸軍少輔大山巌少将(鹿児島)、軍令関係を司る参謀局長鳥尾小弥太中将(山口)という顔ぶれ。このほかに、山県や鳥尾と並ぶ高官として西郷従道中将(鹿児島)、黒田清隆中将(鹿児島)の2人があったが、前者は洋行から帰朝したばかりで非役、また後者は開拓長官として北海道開拓関係の政務に事実上専従しており、いずれもこの時期の陸軍行政の中枢から一定の距離を置いていた。
 一方、海軍大臣に相当する海軍卿は欠員で、次官たる海軍大輔川村純義中将(鹿児島)が事実上の総責任者として海軍の軍政・軍令を統括していた。また、連合艦隊といった運用形態も当然ながらまだ存在していなかったため、海軍は保有する艦艇を必要に応じて個別に運用した。

【警察】
 当時の警察制度は、国家警察:内務省警視局地方警察:府県警察の二元構造が採用されていた。
 内務省警視局は全国の治安情勢に対応するための国家警察兼首都警察で、西南戦争直前の明治10年1月、東京警視庁の改組によって発足した。長たる川路利良大警視(鹿児島)直率のもとで1コ鎮台に相当する規模の人員・装備を有しており、単に首都の治安警察業務に従事するのみならず、必要に応じて全国に派遣される「治安の尖兵」というべき存在であった。
 これに対し、府県警察は、東京以外の各府県に設置された地方警察である。行政組織上は府県庁の一機関という位置づけであり、各府県庁の第四課長が現在の警察本部長に相当した。府県警察の実動員(巡査)は各府県採用の地方公務員であったが、幹部(警部)の多くは中央から派遣される内務官僚(国家公務員)であった。
 内務省警視局と府県警察とでは職制が異なり、階級等も同一ではなかった。なお、当時は、火災等の消防活動も警察が所掌していた。


【本稿における主な参考文献】
『征西戦記稿』陸軍参謀本部
『明治史要』太政官修史館
『職員録・明治十年二月~九月・職員録(太政官)改』国立公文書館蔵
『西南戦争 戦争の大義と動員される民衆』猪飼隆明
『三条実美 維新政権の「有徳の為政者」』内藤一成
『西南戦争警視隊戦記』後藤正義




 絵も解説記事も、ほそぼそと続けていきたいと思います。



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