忙しさおよびそれによる精神への負荷の度合いが高まるほど、お絵かきやら文筆やらに逃げたくなる…。何か書いて気を紛らわしたかったので、とりあえず以前からやろうやろうと思っていた篠原国幹人物伝まとめに手をつけてみました。
基本的なプロフィールはwikipediaなんかに詳しいので、今回はテーマを第三者の語る篠原国幹の印象に絞っています。篠原をくわしくはご存じない方でも、これでだいたいの人物像がつかめることになるのではと考える次第。
篠原冬一郎国幹 戊辰役前後
★『西南記伝』篠原国幹伝
まずは西南役の体系的史料として膨大な情報量を誇る『西南記伝』より、篠原の人となりについて簡潔ながらも非常によくまとまっている一節をば。
国幹、人と為り、顴骨高く秀で、眼光炯然、挙止粛毅、威望自ら露はれ、人をして自然に畏敬の念を起さしむ。而して事に処する、用意周匝、苟もせず、故を以て西郷隆盛、其人と為りを重んじ、其交殊に厚く、殆ど親戚同様なりしと云ふ。
(旧字改、必要に応じルビ・濁点・句読点等補。以下同)
実直な気質と威風に満ちた容貌により、つねに他人から一目置かれる存在であったようですね。その炯々たる眼光は、肖像写真などからもよく伝わってきます。
また『明治六年政変』(中公新書)などを著した歴史学者の毛利敏彦氏によれば、西郷隆盛が下野から西南役勃発に至るまでの3年間で書いた手紙のうち、最も多いのは篠原宛のものだったそうです。西郷から絶大な信頼を得ていたことの証左といえます。
★ 初対面の印象 by岡本柳之助
岡本柳之助という人物が、征韓について議論するため篠原に会ったときの話を『風雲回顧録』において語っています。明治5~6年ごろの逸話ですが、これがまた篠原の人となりを非常によく伝えています。
篠原は髯の無い肉付の豊かな巨男で、粗末な薩摩飛白の羽織に袴をつけて、座蒲団の上へむつくりと坐つて居た。至つて無口な人で、時折薩摩の蛮音で話を進める態度が、俺(わし)には酷く分別臭い爺さんに思はれた。(…)
俺が切(しき)りと征韓を主張すると、篠原は黙つて腕を組んで傾聴して居たが、俺の言葉の途切れるのを待つて、
『時に甚だ失礼だが貴公は幾歳になるか?』
と思ひも寄らぬ事を訊く。
『二十三』と答へると、
『宜(よ)くお調べになつた、感服ぢや』と総てが這麼(こんな)調子である。
目下の相手にもよく敬意を払う好人物だったことがわかります。しかし篠原ドン、容貌といい挙措といい、とにかく老けた印象を与えるヒトだったようですね(これについては次項でも触れます)。
なおこのあと岡本は篠原の征韓所見を聞き、「言辞整然、論旨明徹、流石は器量人と感服した」とも述べています。
陸軍少将篠原国幹 維新後
★ 初対面の印象 by佐々友房
西南役の一次史料として非常に価値の高い『戦袍日記』。著者である佐々友房(熊本隊)は、篠原と初めて対面したとき受けた印象を以下のように記します。
篠原氏は歯(齢)五十許(ばかり)、頭半は禿げ 顴骨高く秀で眼光射るが如く謹厳剛直の風あり、一見人をして畏敬の念を起さしむ。
あのー、篠原ドン当時まだ42歳なんですけど…。しかし肖像画をみるかぎり、ハゲぎみだったのはどうも事実のようです…。
★ 地味な男
篠原はとにかく実直で、飾り気など微塵もない人物だったようです。
篠原国幹は極めて老実な少しも派手な処の無い人なので、余り人の目に立つ様なことは無かつた。
これは『西南記伝』所収の高島鞆之助の談話。もはや、われなにをかいわんや、ですな。
西南戦役における戦死時の軍装再現イメージ
★ 陣頭の篠原
戊辰以来の歴戦の勇士であり、兵略にもよく通じていた篠原は、戦闘指揮においても独特のスタイルをもっていました。以下はそれを間近で目にした池辺吉十郎(熊本隊々長)が、部下の佐々友房にコーフンした様子で語ったもの(『戦袍日記』)。
僕、一昨夜川尻に赴き、篠原国幹等と攻城の方略を議定し、昨旦より篠原と共に段山口を攻撃せり。僕、篠原の為す所を見るに、常に兵士に卒(率)先し、身、自ら銃を執て射撃するのみ。曽(かつ)て一語の号令を発せず。而して兵士等の運動、意の如くならざるなし。其熟達精練なる、人をして後に瞠若たらしむ。
寡黙で知られた篠原は、陣頭でもまったく無言のままで部隊を指揮したそうです。なんともクールでカッコイイではありませんか!
(もっとも、必要に応じては大号令をかけることもあったようです。同『戦袍日記』中には、潰走する自軍を大喝して踏みとどまらせる場面があります。)
▼
とりあえず今回はこのへんで。
篠原国幹という人物のイメージ、おわかりいただけたでしょうか?…多分に自己満足のための記事というケがありますが、なにとぞご容赦を。
【web拍手レスポンス】
>イラストや考察とても勉強になります!頑張って下さい!
いやはや、なんとも身にあまるお言葉、お恥ずかしい限りです。同じご趣味をもっておられる方々にとってわずかでもお力になることができれば、これ以上の幸せはありません。不束者ですが、今後ともよろしくお願いいたしします(_ _)
励みになります!よろしければゼヒ!
基本的なプロフィールはwikipediaなんかに詳しいので、今回はテーマを第三者の語る篠原国幹の印象に絞っています。篠原をくわしくはご存じない方でも、これでだいたいの人物像がつかめることになるのではと考える次第。
篠原冬一郎国幹 戊辰役前後
★『西南記伝』篠原国幹伝
まずは西南役の体系的史料として膨大な情報量を誇る『西南記伝』より、篠原の人となりについて簡潔ながらも非常によくまとまっている一節をば。
国幹、人と為り、顴骨高く秀で、眼光炯然、挙止粛毅、威望自ら露はれ、人をして自然に畏敬の念を起さしむ。而して事に処する、用意周匝、苟もせず、故を以て西郷隆盛、其人と為りを重んじ、其交殊に厚く、殆ど親戚同様なりしと云ふ。
(旧字改、必要に応じルビ・濁点・句読点等補。以下同)
実直な気質と威風に満ちた容貌により、つねに他人から一目置かれる存在であったようですね。その炯々たる眼光は、肖像写真などからもよく伝わってきます。
また『明治六年政変』(中公新書)などを著した歴史学者の毛利敏彦氏によれば、西郷隆盛が下野から西南役勃発に至るまでの3年間で書いた手紙のうち、最も多いのは篠原宛のものだったそうです。西郷から絶大な信頼を得ていたことの証左といえます。
★ 初対面の印象 by岡本柳之助
岡本柳之助という人物が、征韓について議論するため篠原に会ったときの話を『風雲回顧録』において語っています。明治5~6年ごろの逸話ですが、これがまた篠原の人となりを非常によく伝えています。
篠原は髯の無い肉付の豊かな巨男で、粗末な薩摩飛白の羽織に袴をつけて、座蒲団の上へむつくりと坐つて居た。至つて無口な人で、時折薩摩の蛮音で話を進める態度が、俺(わし)には酷く分別臭い爺さんに思はれた。(…)
俺が切(しき)りと征韓を主張すると、篠原は黙つて腕を組んで傾聴して居たが、俺の言葉の途切れるのを待つて、
『時に甚だ失礼だが貴公は幾歳になるか?』
と思ひも寄らぬ事を訊く。
『二十三』と答へると、
『宜(よ)くお調べになつた、感服ぢや』と総てが這麼(こんな)調子である。
目下の相手にもよく敬意を払う好人物だったことがわかります。しかし篠原ドン、容貌といい挙措といい、とにかく老けた印象を与えるヒトだったようですね(これについては次項でも触れます)。
なおこのあと岡本は篠原の征韓所見を聞き、「言辞整然、論旨明徹、流石は器量人と感服した」とも述べています。
陸軍少将篠原国幹 維新後
★ 初対面の印象 by佐々友房
西南役の一次史料として非常に価値の高い『戦袍日記』。著者である佐々友房(熊本隊)は、篠原と初めて対面したとき受けた印象を以下のように記します。
篠原氏は歯(齢)五十許(ばかり)、頭半は禿げ 顴骨高く秀で眼光射るが如く謹厳剛直の風あり、一見人をして畏敬の念を起さしむ。
あのー、篠原ドン当時まだ42歳なんですけど…。しかし肖像画をみるかぎり、ハゲぎみだったのはどうも事実のようです…。
★ 地味な男
篠原はとにかく実直で、飾り気など微塵もない人物だったようです。
篠原国幹は極めて老実な少しも派手な処の無い人なので、余り人の目に立つ様なことは無かつた。
これは『西南記伝』所収の高島鞆之助の談話。もはや、われなにをかいわんや、ですな。
西南戦役における戦死時の軍装再現イメージ
★ 陣頭の篠原
戊辰以来の歴戦の勇士であり、兵略にもよく通じていた篠原は、戦闘指揮においても独特のスタイルをもっていました。以下はそれを間近で目にした池辺吉十郎(熊本隊々長)が、部下の佐々友房にコーフンした様子で語ったもの(『戦袍日記』)。
僕、一昨夜川尻に赴き、篠原国幹等と攻城の方略を議定し、昨旦より篠原と共に段山口を攻撃せり。僕、篠原の為す所を見るに、常に兵士に卒(率)先し、身、自ら銃を執て射撃するのみ。曽(かつ)て一語の号令を発せず。而して兵士等の運動、意の如くならざるなし。其熟達精練なる、人をして後に瞠若たらしむ。
寡黙で知られた篠原は、陣頭でもまったく無言のままで部隊を指揮したそうです。なんともクールでカッコイイではありませんか!
(もっとも、必要に応じては大号令をかけることもあったようです。同『戦袍日記』中には、潰走する自軍を大喝して踏みとどまらせる場面があります。)
▼
とりあえず今回はこのへんで。
篠原国幹という人物のイメージ、おわかりいただけたでしょうか?…多分に自己満足のための記事というケがありますが、なにとぞご容赦を。
【web拍手レスポンス】
>イラストや考察とても勉強になります!頑張って下さい!
いやはや、なんとも身にあまるお言葉、お恥ずかしい限りです。同じご趣味をもっておられる方々にとってわずかでもお力になることができれば、これ以上の幸せはありません。不束者ですが、今後ともよろしくお願いいたしします(_ _)
励みになります!よろしければゼヒ!
面白いサイトですね。
薩南血涙史収録の肖像画は篠原ではなく、名前は失念しましたが皇族の方です。
それと明治6年陸軍武官服制の布告が5月とありますが、その出典は一次史料からなのでしょうか?
お察しするところ、西南役についてかなりお詳しい方でいらっしゃるようですね。ニワカ知識しかないワタクシとしては、若干の冷や汗を禁じえないところであります…(笑)
>薩南血涙史収録の肖像画
いわゆる“石黒コレクション”の中のブロマイドのひとつで、本人かどうか疑いがあるということは聞いていたのですが…やはりニセモノだったのですね。篠原の肖像では個人的にいちばん好きなモノだっただけに、ちょっと残念です。
>明治6年陸軍武官服制の布告
「5月布告」を裏付ける一次史料は、ワタクシ自身はお目にかかっておりません。
ブログ中の記述は、中西立太『日本の軍装 幕末から日露戦争』(大日本絵画社)の「明治6年5月制定の正衣袴で正衣のボタン9個正袴の側線は将官(細金線1本)。(…)ただし同年9月ボタン7個に改正。」という一節をそのまま引っ張ってきたかたちです。
ただ、同書は明らかに間違った記述が散見されるという点でやや問題のある資料であり、かつ他の軍装関係の資料でも5月制定の事実は見当たらないため、信憑性にはどうしても疑念が残ります。
考察では若干そのへんの詰めが甘かったようです。一次史料を第一に!とつねづね意識するようにはしているのですが、ネがいいかげんな人間なのでやっぱり都合のいい情報があると飛びついてしまうところがあるようです…。ほかにも疑問点等ありましたら、ドシドシご指摘いただければ幸いです。
過去の記事を読んでいて史料の引用、批判が上手に出来ているのに
軍装関係の資料を引用した結果、間違いが目立つので
勿体無いと思っていました。本当は実物を手にして
判断すると細部の違いがわかりやすいのですが、それは難しいですね。
参謀、伝令史の飾緒の位置はあの写真でOKです。
被服の肩側内部で留めるのは、飾緒の形状が改正されてからです。
官報を見ればわかると思います。
それでは失礼致します。
たしかに実物に接する機会というものはそうそうないんですよね…。いままでも、近場の博物館等をなるべくまわってはみたのですが、やはりどうも収穫はいまひとつで…。
こんど帰省した際は、地元の資料館等も徹底的にあたってみます。じつは南洲顕彰館なんかも、まだ行ったことがありませんし。ああ、早く帰る機会がほしいなァ…!
>飾緒
ご助言ありがとうございます。これでモヤモヤがまたひとつ解消できました!