昨日のことになりますが、次の二作品に感想をつけました。
『一人』 ki著
http://sakka.org/training/?mode=view&novno=1307&pageno=0
『あたまのネジがやばいんだ』 あしか著
http://sakka.org/training/?mode=view&novno=1281&pageno=1
コミュニケーションにおける「はがゆさ」、このモチーフは拙著「不思議の国の彼ら」においても現れますが、それに対する両者のアプローチは正反対だといえます。
あしかさんの作品においては、それそのものが鮮やかに描かれています。つまり、そういう意味であしかさんの作品は強烈にその「はがゆさ」の存在を肯定しているわけです。
私の場合は、「なぜ」ときて次に「ふざけんな」そして「ぶっこわしてやる」的なものをその部分に含んだ構想をもってあの作品を書き始めました。つまり、「はがゆさ」の存在の否定をその内に含んだものになっているわけです。「不思議の~」は必ずしも「はがゆさ」を主題とはしいませんが、描くこと、それが(賛否を度外視した)肯定の行為ならば、「はがゆさ」に関して言えば、あしかさんの作品は私の作品よりも遥かに小説しているのでしょう。(予弁法になっちゃってるので若干分かり難い文章ですね^^;;)
『一人』 ki著
http://sakka.org/training/?mode=view&novno=1307&pageno=0
『あたまのネジがやばいんだ』 あしか著
http://sakka.org/training/?mode=view&novno=1281&pageno=1
コミュニケーションにおける「はがゆさ」、このモチーフは拙著「不思議の国の彼ら」においても現れますが、それに対する両者のアプローチは正反対だといえます。
あしかさんの作品においては、それそのものが鮮やかに描かれています。つまり、そういう意味であしかさんの作品は強烈にその「はがゆさ」の存在を肯定しているわけです。
私の場合は、「なぜ」ときて次に「ふざけんな」そして「ぶっこわしてやる」的なものをその部分に含んだ構想をもってあの作品を書き始めました。つまり、「はがゆさ」の存在の否定をその内に含んだものになっているわけです。「不思議の~」は必ずしも「はがゆさ」を主題とはしいませんが、描くこと、それが(賛否を度外視した)肯定の行為ならば、「はがゆさ」に関して言えば、あしかさんの作品は私の作品よりも遥かに小説しているのでしょう。(予弁法になっちゃってるので若干分かり難い文章ですね^^;;)