ブックオフ
森羅さんの古本などについての記事(大型新古書店について)がちょっとした波紋を投げてしまう結果になったようです。僕自身は、人の話を聞くことはあっても(例えば文藝春秋2001年6月号には東野圭吾氏が寄稿してます。もっともこれは「万引き」についてのものでしたが)、特に自分の意見はもっていませんでした。それに比べれば森羅さん(さらには意見を異にする吉良さん(テキーラさん)@4/23)の心意気は立派なものだなあと、見上げております。
ただ、古本で買われた分がそのまま作者(あるいは出版社)の損害になるわけではありません。古本がなければ買われないだけというパターンもあるわけです。
また、作者の被害に限定するならば、「よく知らない作者の作品は古本でなければ買わない」というような人まで考えると、いわゆる無名作家の受ける被害というのは売れっ子作家に比べ、その割合は(新刊書の売り上げにおける比率よりもさらに)小さくなると思われます。
それ以外にも、古本屋の棚に作者名を並べることが広告の役割を果たすことも考えられて、そうすると、特に無名作家にとって小説外での食い扶持を得るのにプラスに働く可能性があります(小説に限らず、いわゆる本業だけでは食っていけないプロにとっては、これは小さくないことです)。
より大きく見ると、読書する楽しみを啓発している可能性すらあります。
で、東野圭吾氏も触れられていますが、要するに新刊書と中古書に何らかの差をつけるというのが思い浮かぶわけです。例えば発売から一年間は中古本として売ってはいけないなど、です。ちなみに今挙げた例だといわゆる話題先行型の本に特に集中してその恩恵が授けられることになるので、これは出版社の利益に即したやり方になるでしょう……
あ、すみません。特にいい案を持っているわけではないんです。
書くこと1
潮さんはブログの記事(4/24「出でよ欲求!」)で
――俺が一番書きたいものってなんだろう??――
と書かれています。
書きたい(そして読んでもらいたい)こと/ものがあるから小説家になろうとする。これ自体は全く正当な考えだと思います。
しかし、小説家志望者が必ずしも「書きたいもの」を抱いている必要はないはずです。作品毎ということではなくて、志望動機たるほどまで、自身にとって一貫したものという意味でです。「書きたい」という感覚と「書きたいものがある」という感覚は必ずしも一致しません。元々「書きたい」がゆえに書く人はそのままで良いのではないでしょうか? 天分かもしれません。なのに、後付け的に、あるいは偽記憶の如きに、自身のうちに「書きたいもの」を生ぜしめようとするのは、かえって自分を見失う可能性すらあります。たくさんのものを書いていけばいいと僭越ながら思います。
ましてや、何らかの主義主張を訴えたいがために小説家になりたい(あるいはそうだと自分を規定する)というのは、時に目的(訴える)と手段(小説家)の錯誤に陥りさえします。すると作品は説教くさくなったりします。「(小説家が)書きたいこと(描きたいこと)」と「訴えたいこと」は似て非なるものです。
勿論「書きたいもの」が確固としている人は、それだけで求心力を持っているわけですから、(それが書き尽くせぬものであればあるほど)強いとは思いますが。
書くこと2
最後はjunguさんのブログからです。junguさんは
純文派は何を目指すかというと、純文は、新しい価値を模索しなければならないことを使命とするのだと思う。つまり作品内世界ではなく、作品の外にある世界を創造するのが、純文学の役目ではないか。純文学はどっちかというと前衛的でパフォーマティブな運動です。最初から読者や同業者に理解されない宿命みたいなものを常に背負っているような気がする。
と書かれていて、これは少なくとも一面においては真実だと思います。
そして、これを踏まえると大変分かりやすいのですが、僕においては「書くこと」は、「読者を作っていくこと」という一面をもちます。
エンタメが既にある、いわば待ち構える読者層(市場)に対して、受け入れられるように書かれるのとはちょこっと違います。また、難解な文学がときに読者を取捨選定してしまうのともちょこっと違います。
読んでもらううちに、その人を僕の作品の読者にするにたる文章を目指しているわけです。理解しようとしなければ出来ないのではなく、感化される仕組みが内在しているような……。これは、ある人に僕の文章のことを「初め吐き気がしたが、なぜか癖になってきた」と言われたことを直接のきっかけとして思いついたことです。あんまり、大きなこと言うのもアレなので、これ以上は語りませんが。
森羅さんの古本などについての記事(大型新古書店について)がちょっとした波紋を投げてしまう結果になったようです。僕自身は、人の話を聞くことはあっても(例えば文藝春秋2001年6月号には東野圭吾氏が寄稿してます。もっともこれは「万引き」についてのものでしたが)、特に自分の意見はもっていませんでした。それに比べれば森羅さん(さらには意見を異にする吉良さん(テキーラさん)@4/23)の心意気は立派なものだなあと、見上げております。
ただ、古本で買われた分がそのまま作者(あるいは出版社)の損害になるわけではありません。古本がなければ買われないだけというパターンもあるわけです。
また、作者の被害に限定するならば、「よく知らない作者の作品は古本でなければ買わない」というような人まで考えると、いわゆる無名作家の受ける被害というのは売れっ子作家に比べ、その割合は(新刊書の売り上げにおける比率よりもさらに)小さくなると思われます。
それ以外にも、古本屋の棚に作者名を並べることが広告の役割を果たすことも考えられて、そうすると、特に無名作家にとって小説外での食い扶持を得るのにプラスに働く可能性があります(小説に限らず、いわゆる本業だけでは食っていけないプロにとっては、これは小さくないことです)。
より大きく見ると、読書する楽しみを啓発している可能性すらあります。
で、東野圭吾氏も触れられていますが、要するに新刊書と中古書に何らかの差をつけるというのが思い浮かぶわけです。例えば発売から一年間は中古本として売ってはいけないなど、です。ちなみに今挙げた例だといわゆる話題先行型の本に特に集中してその恩恵が授けられることになるので、これは出版社の利益に即したやり方になるでしょう……
あ、すみません。特にいい案を持っているわけではないんです。
書くこと1
潮さんはブログの記事(4/24「出でよ欲求!」)で
――俺が一番書きたいものってなんだろう??――
と書かれています。
書きたい(そして読んでもらいたい)こと/ものがあるから小説家になろうとする。これ自体は全く正当な考えだと思います。
しかし、小説家志望者が必ずしも「書きたいもの」を抱いている必要はないはずです。作品毎ということではなくて、志望動機たるほどまで、自身にとって一貫したものという意味でです。「書きたい」という感覚と「書きたいものがある」という感覚は必ずしも一致しません。元々「書きたい」がゆえに書く人はそのままで良いのではないでしょうか? 天分かもしれません。なのに、後付け的に、あるいは偽記憶の如きに、自身のうちに「書きたいもの」を生ぜしめようとするのは、かえって自分を見失う可能性すらあります。たくさんのものを書いていけばいいと僭越ながら思います。
ましてや、何らかの主義主張を訴えたいがために小説家になりたい(あるいはそうだと自分を規定する)というのは、時に目的(訴える)と手段(小説家)の錯誤に陥りさえします。すると作品は説教くさくなったりします。「(小説家が)書きたいこと(描きたいこと)」と「訴えたいこと」は似て非なるものです。
勿論「書きたいもの」が確固としている人は、それだけで求心力を持っているわけですから、(それが書き尽くせぬものであればあるほど)強いとは思いますが。
書くこと2
最後はjunguさんのブログからです。junguさんは
純文派は何を目指すかというと、純文は、新しい価値を模索しなければならないことを使命とするのだと思う。つまり作品内世界ではなく、作品の外にある世界を創造するのが、純文学の役目ではないか。純文学はどっちかというと前衛的でパフォーマティブな運動です。最初から読者や同業者に理解されない宿命みたいなものを常に背負っているような気がする。
と書かれていて、これは少なくとも一面においては真実だと思います。
そして、これを踏まえると大変分かりやすいのですが、僕においては「書くこと」は、「読者を作っていくこと」という一面をもちます。
エンタメが既にある、いわば待ち構える読者層(市場)に対して、受け入れられるように書かれるのとはちょこっと違います。また、難解な文学がときに読者を取捨選定してしまうのともちょこっと違います。
読んでもらううちに、その人を僕の作品の読者にするにたる文章を目指しているわけです。理解しようとしなければ出来ないのではなく、感化される仕組みが内在しているような……。これは、ある人に僕の文章のことを「初め吐き気がしたが、なぜか癖になってきた」と言われたことを直接のきっかけとして思いついたことです。あんまり、大きなこと言うのもアレなので、これ以上は語りませんが。
まあ、どうしてもチラチラと主義みたいなものは見えてしまうかもしれませんが、面白そうだと思って書いているだけです。
たしかにおっしゃるとおりですね。いろいろ書くしかないんでしょうね。
僕は比較的「書きたいこと」がはっきりしているタイプですが、極端な話「書くのが好きでたまらない」って人は、もうほっといても上手くなってく一種の天才だみたいなことが、どっかのサイトに書いてありました(笑)
しかしながら、固体が組織として動く場合は? 考えてみて下さい。
誰かさんは『仲間』などと謳っておりました。尊慮に値します。
が、私に言わせれば絵空事です。
さっくんさんには是非に深慮して頂きたい。
自分が得る代価をどうやって返すかをです。一座は組織です。
書きたいもの、書かなければならないもの。
この差は無限にあります。
今は書きたいものを。いずれ書かなければならない本当の苦しみを味わう時も来るでしょう。
純文とは自己に存在する内宇宙の表現方法の一つにすぎません。
表現方法や手法が違うだけで、またその方法も幾通りとあるでしょう。
端的に言えば、純文とはその内宇宙を……
続きはいずれ何処かで^^
それと、もう少し文章短くなりませんか^^
では。
>自分が得る代価をどうやって返すか
確かにそうでした。僕が今まで怠っていたこと、そして、僕がこれから出来ることを探していきたいと思います。
>書きたいもの、書かなければならないもの
書かなければならないもの、これに気づかなかった僕は、なにやら間違った道を進みかけていたのだと思います。
はッっとしました。
>続きはいずれ何処かで
聴かせるに足る人間になるよう精進いたします。
>もう少し文章短くなりませんか
見た目がこっちの方がいいかなと思って^^;
改善しますー
ありがとうございまいした!