森川博之 「私的な遊戯」

私的に色々綴って行きます。
曲↓http://www.myspace.com/morikawahiroyuki

初掲載

2009-07-30 10:38:13 | Weblog
どうも、夏に関する曲が一曲も無い事に最近気付いた男です。
今後も書ける気が全くありません。苦手です、夏。

さてさて、バンド→弾き語り→企画主催と、ここ数日多様な角度から
音楽に接して参りました。
遅まきながら、”暑い中”ライブに足を運んで下さった方々、本当に
有難う御座います!
収穫は久々に新曲をステージで唄ったのと、カバーはやはり難しい、
と再認識出来た事、この二点ですかね。
人様の歌詞は当然の如くアプローチに戸惑いますね。
後は、名曲唄うとへこみますね。どうやってこんなメロディ創るんだ、と。

そういった日々の中、並行して新しい音源のジャケット等、最終段階を
迎えました。
この音源に関わって下さった全ての皆様に、私的な場所を用い、再度
感謝を。

良いCDになりそうです。

ええと、かなり無難な近況報告日記になっとりますな。
最近は音楽に対して、発見よりも確認の方が多く、色々確かめながら
進んでおります。
その現状が良いのか悪いのか、さっぱり分かりません。
まあ、マクロからミクロへ、その逆も然り、思考や環境の変化を
柔軟に、拒まずに、過ごしていこうと思ってます。

うーん、支離滅裂。精神状態を如実に物語ってますな。

締まらないので、新曲の歌詞でも置いておきます。

では、皆様熱中症にはお気をつけて。


「日常」


私の血を食した後に 鈍く浮いた生命を奪いました
掌には 我が身のアカ それに溺れる シカバネかな

幾多の生奪い 己を確かめる それを罪と呼べぬ
私は悪でしょうか?

貴女の名を叫びながら 果てる前に 離れて 放った
白濁した 我が身のタネ 外気に触れ 滅びました

貴女と重なって 己を吐き出して それを罪と思わぬ
私は悪でしょうか?

ホフリナガラ 生きています 殺しながら 生きています
百八では足りぬ煩悩 尺八では満ちぬ欲だ

種を放ち 涙流し 血を流して 私は生きている
善と悪の線も引けず 何も決めず生きています

「それでいいのよ」と 貴女は言う
「それでいいのよ」と 裸で言う

一つの世界の終わり

2009-07-23 00:31:26 | Weblog
今年は、音楽業界にとって悪夢の様な年だ。

スーパースターと称される、または大多数の方々がそう
位置づけている、ビッグネームが次々亡くなられている。

海外であれば、言わずもがなマイケル・ジャクソンであり、
国内であれば、忌野清志郎さん。

前から書いている通り、私は音楽をやりつつ箱で働いている人間だ。
そして、今年に入ってから上のお二方以外でも、私が少なからず
箱で関わらせて頂いた偉大な音楽家の方が、次々御不幸にあわれている。

そして、今日は私にとってトドメの一日だった。
カラオケの安い時間帯を見計らい、いつもの様にギターを抱えて、
いつもと違う新曲への好感触を得て、上機嫌に帰路に着いた。
根本的に人間は自分本位で、瞬間の幸福は蓄積される不幸をかき消す。

ネットでカチカチと、鼻歌交じりに適当なニュースを探す。

アベフトシ、死去。

いや、嘘でしょ。と思わず口に出してしまった。

ミッシェルガンエレファント。
90年代、私が最もJーロックに影響された時期であり、
且つ最も音楽業界が「良いベクトル」へと向かっていた(私の中では)
時期。

ラルク・グレイ・イエモン・ジュディマリ・椎名林檎・果てはミスチルまで。
この上、所謂大御所と呼ばれるサザンなども元気だった最高の時代。
正に群雄割拠だった。
そんな中で、今でも良く表舞台に出てこれたな、と敢えて感じるバンド、
それがミッシェルだった。

奇跡のバランスを備えたバンド。当時からそう私は思っていた。
ここでのバランスとは、聴き手の需要と供給する奏者の音楽性。
そして、バンドの危ういバランス。

チバユウスケという絶対的なフロントマンが居ながら、ライブでは
時としてベースがボーカルを喰い、ドラムが同じく喰い、
そして、テレキャスターをありえない速度でカッティングする
アベフトシに、皆が魅了された。

180を優に超えるすらっとした出で立ちで、背筋をピンと伸ばし、
サングラスをかけ、タイトなスーツ姿で淡々と弾く。

その姿は、ただ単純に、本当に純粋に「格好良い」と思えた。

ミッシェルは今はもう活動していない。
各々が各々のステージで、どこかで音を奏でている。

それでも良かった。どこかで、私が最も影響を受けた時代の
ミュージシャンがステージに立っていてくれれば、勝手に私は
やる気になり、どこかホッとした。

死は全てを無にする。

何だか、負の脱力感が凄まじい。

兎に角、今日は私の青春に大部分関わって頂いた、偉大なバンドの
偉大なギタリストの御冥福を、ただただお祈り致します。












生への渇望、死への恐怖

2009-07-12 23:50:30 | Weblog
この文章を書き終える頃には、既に日付は変わっているのだろうが、
今日は私のとても大切な人の命日だ。

お線香代わりにお香を焚いて、先ほど
遠くからではあるが、手を合わせました。

最近、私の周りでは命に関する現実的な問題が多々起こっている。

幸運な事に(この表現も近頃は少し違和感を感じてしまうが)、
私にとっての近しく大切な存在は、その殆どが健在だ。

色々な環境で、様々な境遇がヒトには待ち受けていて、
早くから両親を亡くされた方も居れば、私の様に物心が
とっくの昔について居る様な歳になっても、血縁者が殆ど健在
という現状の方も、また居るだろう。

私のそういった境遇を、何とはなしに信頼の置ける人間にポロッと
話すと、それは幸せな事だよと、言ってくれる。

しかし、こういう感情を欲深いと表現するのは躊躇われるが、
それなりに社会や生命の何たるかを分かったつもりで居る、
そんな年齢で、大切な人が私の生きる世界から去ってしまう、
そう考えると、それはそれで違った感傷が襲ってくる。

自然の摂理。
生を受けし者は、いずれ必ず死を迎える。
死ぬ事に恐怖を感じた事は、無い。
それを感じるには、私は未だ若いし、イメージしようにも現実感が希薄だ。
死を覚悟した窮地はあった。しかし、その時は恐ろしく冷静で、
走馬灯を味わいながら、ただ、その時を待った。

そういった経験や、歳を重ねる毎に、五体満足の有り難味を痛感するし、
そんな体に産んでくれた両親には、勿論感謝している。

ただ、最近の私の周りの不条理な出来事から自らを省みると、
生への渇望も、死への恐怖も抱いていない事に気付かされる。

まあ、そういう感覚を常に背負って生きるのは、余りに早足だし、
かなりくたびれるだろう。

生への実感は、リスクが伴う程に得られる度合いが大きい。
死への恐怖は、具体的に己の肉体が滅びてしまう事を提示されなければ
何時までたっても希薄なままだろう。

私の周りで、生と死を考えさせられる残酷な現実が立て続けに起こっている。
そんな現状だから、私は私が如何に温く、なあなあと生きているかを
突きつけられ、浮き彫りにされていく。

命に失礼だな、と思う。

大切な人の命日に、こういう延々と答えの出ない自慰的議論に
一旦区切りを付けて、生きる、それ以外の報いを、私の為に、
そして無条件で愛してくれる人々の為に、探して踏み出そう。

そう、思う。


ブッフォンとイギータ

2009-07-04 07:06:41 | Weblog
フラッと入った本屋さんで、ブラブラ文庫本を探して、
収穫無しとうな垂れ店を出ようとしたら、珍しい雑誌を発見。

写真の品、GKのみの特集本(DVD付き)。

雑誌はカサバルので、もう何年も購入していなかったのだが、
これは買ってしまう。
表紙に書いてある通り、「世界でただ一冊」、まあこれは大げさかも
知れないが、それでもかなり珍しい一冊ではある。需要無いしね。

私のプレイヤーとしてのポジションは言うまでも無くキーパーで、
もうかれこれ守護神歴20年位か。
まあ、もう最近はかなり御無沙汰で、観戦ばかりになってはいるが、
兎に角キーパーが大好きなのです。

さて、突然ですが、キーパーに最も必要な資質は何でしょうか?
『集中力』
『瞬発力』
『判断力』
『声を良く出す』

恐らく一般的な意見はここら辺りでしょう。
しかし、98年フランスW杯優勝時のキーパー、バルデズという選手は
この質問を投げかけられた時、自信満々でこう答えていました。

「どれ位、マゾかだ」

真理です。私もそう思います。
攻められる事に感じてはいけない悦びを感じ、浴びせられる
シュートを体で止める。
サドな御仁なら「やってらんねえ」と開始5分で自主退場は必至です。

常に受身で、攻める事をせず(プレイスタイルによりますが)、
ひたすら守る。

あとはユニフォームからも分かる様に、個人主義な方も
向いているかもしれません。

ああ、本当にどうでも良い話題だ。

因みに私が現時点で世界一だと思うキーパーは、イタリア代表の
ジャンルイージ・ブッフォンです。
万が一、この駄文を読んで少しでもキーパーに興味をもたれた方が
いらっしゃったなら、入り口としてyoutubeで、

”イギータ スコーピオン”

と入力、検索してみて下さい。

そこに技術とエンターテインメント、その融合の極みが待ってます!
以上、マゾからの戯言と推奨でした。

さて、歌詞を仕上げるか・・