森川博之 「私的な遊戯」

私的に色々綴って行きます。
曲↓http://www.myspace.com/morikawahiroyuki

生への渇望、死への恐怖

2009-07-12 23:50:30 | Weblog
この文章を書き終える頃には、既に日付は変わっているのだろうが、
今日は私のとても大切な人の命日だ。

お線香代わりにお香を焚いて、先ほど
遠くからではあるが、手を合わせました。

最近、私の周りでは命に関する現実的な問題が多々起こっている。

幸運な事に(この表現も近頃は少し違和感を感じてしまうが)、
私にとっての近しく大切な存在は、その殆どが健在だ。

色々な環境で、様々な境遇がヒトには待ち受けていて、
早くから両親を亡くされた方も居れば、私の様に物心が
とっくの昔について居る様な歳になっても、血縁者が殆ど健在
という現状の方も、また居るだろう。

私のそういった境遇を、何とはなしに信頼の置ける人間にポロッと
話すと、それは幸せな事だよと、言ってくれる。

しかし、こういう感情を欲深いと表現するのは躊躇われるが、
それなりに社会や生命の何たるかを分かったつもりで居る、
そんな年齢で、大切な人が私の生きる世界から去ってしまう、
そう考えると、それはそれで違った感傷が襲ってくる。

自然の摂理。
生を受けし者は、いずれ必ず死を迎える。
死ぬ事に恐怖を感じた事は、無い。
それを感じるには、私は未だ若いし、イメージしようにも現実感が希薄だ。
死を覚悟した窮地はあった。しかし、その時は恐ろしく冷静で、
走馬灯を味わいながら、ただ、その時を待った。

そういった経験や、歳を重ねる毎に、五体満足の有り難味を痛感するし、
そんな体に産んでくれた両親には、勿論感謝している。

ただ、最近の私の周りの不条理な出来事から自らを省みると、
生への渇望も、死への恐怖も抱いていない事に気付かされる。

まあ、そういう感覚を常に背負って生きるのは、余りに早足だし、
かなりくたびれるだろう。

生への実感は、リスクが伴う程に得られる度合いが大きい。
死への恐怖は、具体的に己の肉体が滅びてしまう事を提示されなければ
何時までたっても希薄なままだろう。

私の周りで、生と死を考えさせられる残酷な現実が立て続けに起こっている。
そんな現状だから、私は私が如何に温く、なあなあと生きているかを
突きつけられ、浮き彫りにされていく。

命に失礼だな、と思う。

大切な人の命日に、こういう延々と答えの出ない自慰的議論に
一旦区切りを付けて、生きる、それ以外の報いを、私の為に、
そして無条件で愛してくれる人々の為に、探して踏み出そう。

そう、思う。