気まぐれ人間の気まま情報新聞

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横尾忠則さんの「故郷」という印象に寄せて

2009-02-22 09:59:07 | Weblog
横尾忠則さんは有名な画家ですが、猛烈な読書家で、最近小説で泉鏡花賞も受賞しました。「ぶるうらんど」という本をたまたま読んで感動しました。ブログも書いてて、いつからかよく読むようになりました。自分の絵画についてもことばで書いてくれたりして、絵についても理解の参考になります。

絵も文章も関心ある画家は少ない気がします。たいしたもんだとわたしは思っています。ファンに対して「理解する、理解される」ことの怖さとやさしさについて深い考えをきっと持っているのだと思います。素人の絵の理解が難しいのをわかっていてくれて、やさしく、照れくさそうにサービスしてくれているのだという気がします。

最近故郷の西脇市に久しぶりに帰った印象を読み、自分の印象とだぶって考えるところがありました。
印象に残った三日間の文章引用させてもらいます。


「2月17日
久し振りの帰郷。こちらも昨日までは春の陽気だったそうだが、山間部とあって空気が冷たい。夕方には雪がちらつく。初雪だそうだ。同級生の商工会議所の会頭や、一級下の美術館館長らと夕食を取りながらいつもの事ながら、学校時代の想い出に話がはずむ、至福の時間である。

2月18日
小学五年生の時、隣町で殺人事件が起こった。その加害者はわが家から見える所に住んでいた人で四軒先の家だった。今日はその被害者が殺害された場所に行った。当時の事件を目撃した人達三人に当時の生々しい話を聞いた。共通した部分、食い違った部分のヅレを埋める作業(想像力)が結構面白かった。この事件をぼくは絵にしている。タイトルは加害者の言った「今夜の酒には骨がある」というものである。絵は被害者の家の庭で解剖が行われたのを見た時の記憶を描いた。
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郷里というのは実に残酷なものだ。現実は無惨に思い出と記憶をむさぼり食う。皿に残された食べかすみたいだ。郷里は遠くにあって、近くにあるという記憶の中にのみ存在するものらしい。
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最近西脇市岡之山美術館にアメリカ産の猫が捨てられた。えらい人懐っこいのはいいが、写真を撮られるのがイヤでどうしても真正面の顔を撮らしてくれない。名前は「ネコ」らしいが、もう少し気の利いた名前にしたいものだ。明日考えよう。
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朝6時前に消防署のサイレンで起こされる。町の全貌が見えるホテルの部屋からは2ヶ所で煙が上がっている。やがて消防車2台が出動していった。右手に見える煙の方に行ったが、間もなくガッカリしたように消防車が帰ってきた。消火されたあとに行って用がなく帰ってきたらしい。以前泊まった時も朝早くサイレンで起こされた。この時は洪水だった。川が氾濫しそうになっていた現場に飛んでいった。川はうなり声を立てて流れていたが、堤防の決壊はまぬがれた。市長もいたので、「堤防の決壊する所を見たかったなぁ」と言ったら、「えらいこと言わんといて下さいな、夜も落ち落ち眠れへんかったというのに」と怒られてしまった。郷里に帰ると子供時代に戻ってしまって災害があると子供みたいに興奮してしまうのである。

2月19日
郷里にいる時間は死の時間のように感じる。無目的な時間の流れの中にいるからだろうか。子供時代の回想の痕跡を求めて彷徨するそんな時間は肉体から遊離した、現実から分離した「もうひとつの現実」だからだろうか。
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夜になって西脇の街のY字路を撮りに出る。車が時々走る程度で人の姿はほとんどない。昼間は記憶の中の町ではないが、夜になるとやっと記憶の町に近づいてきた。これはぼくにとっては大発見だ。昼が現在の町だとすれば夜は過去の街である。
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子供の頃母に連れられて行った本黒田へ行く。公衆便所かと思うほど小さい駅にびっくりする。子供の頃はこれでも一人前の駅だったんだ。親戚の家には声を掛けなかったけれど、この家の周辺で遊んだ時間を何とか取り戻そうと記憶の断片を写真に納めた。全く変わってしまったものと当時のままのものが共存している風景はちょうど自分の絵画作品を見ているようだった。 」

(わたしの感想)
故郷はもう現実の生きている場所ではなく、出離してしまった過去の場所としてある。そこにいっときかえってきた。現実の生きている心の現在としては存在せず、「かつてそこに存在していた」記憶として引き寄せられるものとしてある。
故郷に立つわたしは亡者のような眼差しで「生きいきしていた過去の幼児」を他者のように回想している。

しかし、そのようにある故郷は{現実から分離した「もうひとつの現実 」}として今の心とは遠いようにみえながら、実は深くやはり心の奥に不思議な過去として他人のような自分のことのような経験として深く今に関わりを持っている。

現在は幼児の時と訣別している。しかし、この訣別そのものが幼児のときの自分と深く関わりがある。それはまちがいなくわかる。

それはどのようにつながっているのか。それが故郷を見る眼差しになる。あの故郷の「全世界」だった時間は今どのように自分のなかに生き延びているのか。
それを感じることが故郷に帰ることだと横尾さんは言っているように思えました。

それは失われたものとして残酷であり、その距離のなかでこれからも生きていかざるを得ないという決意のようにも思えました。






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