気まぐれ人間の気まま情報新聞

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心の病の初期症状について

2010-02-14 07:36:55 | Weblog
僕には心の病気は人間の心の可能性の幅の奥にあるもので、決して特別の人がなるものでなく、他人事のように決して語ってはいけないと思っています。ある意味でとても悲しくやりきれない事柄の気がします。法に触れるようなことをすれば処罰されますが、それで問題は片付けられません。文学や科学はその枠を取っ払って探求すべきものだと思っています。

たとえば「今日は寒いねー」って同僚から言われたら、寒ければ普通そのままとりますよね。ところが統合失調症の初期症状の人はそうとらないときがある。いまの言い方でいえば「あなたがいたらちょっとさぶいのよね」といわれたととってしまう。

このようにとれば本人は気持ちは動揺しますよね。自分が好かれていないのではと。これを延長していくと、「きっとわたしがここいいるのが不愉快で、ここにいてほしくないということ」ととれる。さらに延長すれば「いつもかげでわたしの悪口言ってるに違いない」と進んでいきます。これがさらに進むと同僚たちがなにか話をしているのを見ると「きっとわたしの悪口言ってるに違いない」と勝手に見えてしまう。もうここまできたら病の領域ですよね。よく言う被害妄想の段階です。

本当はこの段階で「あなたが思うほど他人はあなたのこといつも考えてるわけじゃありませんよ、みんなそれぞれ忙しいんだから」としっかり眼を開かせるのが一番いい薬だと思います。「そうかそんなに思うほどみんな自分のこと気にしてるわけないな」と思えたらいい兆候です。皆さんの周りにそのような友達がいたらそういってあげてください。

秋葉原事件の犯人が犯行に及ぶ前に新しい派遣の職場に行ったとき、自分の服がたまたま用意が遅れたのを誰かがわざと隠して仕事をさせないようとしているととったのはいい例です。ネットの書き込みで反論されるといきり立ってたのもそこからきます。彼の場合、あの犯罪は被害を与える者に対する総反撃の意味があります。本人は自分への自信を失わないために必死だったでしょうが、被害者はいい迷惑です。ぼくの予想ですがおそらく彼は犯罪のあと一時的には正常になっていると思います。夏目漱石がすこしこの傾向があったことは知られています。

ところでこの思考パターンがさらに進行すると「だれかがわたしを監視している」あるいは「早く職場をやめろと言っている」となります。ここまでくるとすべてのそうとれる可能性があることになります。誰かが彼を監視し、職場をやめろ、お前は不要だ、早く死ねと語りかけてきます。この段階が迫害、脅迫妄想の段階です。世界の被害妄想化状態です。この状態では被害妄想の段階より心の状態は恐慌を来たしてきます。おびえがはいる状態になります。「受身」で自信は持ちたいのですが自信喪失状態です。自分で心の制御がきかなくなります。

最後の段階では先のことばどもがどこからか聞こえてくる幻聴状態になり、ぶつぶつ独り言のようになり、他者から見ると理解不能状態になり、内語状態になります。この前でなんとか抑えないと治癒不可能になる可能性があります。

ぼくは医者のように薬を使ったりする治療を考えていませんから、このようになぜ受け取ってしまうかを考えてみたいと思います。

こんな時期が皆さんありませんでしたか。自分について冗談言われるとなんか馬鹿にされて、からかわれているような気がしてしまうのですね。ぼくにはありました。ぼくも真っ直ぐだったわけでもないのですが、他人が「冗談を言うスタンスがわからない」時期だったわけです。誰かの言っている「意味」がわかるためにはその人との関係、場所、時などそれぞれに応じて納得しているのが前提だと思います。それを自然にしているわけです。ところが病状が出てくる人はこの「意味」の発生する状況の理解に齟齬があります。

そしてこの齟齬の出てくる根源を探っていくと乳児の時期に根源があることがわかります。
この「意味」を自然に了解していく場所は実は母親的存在とのあわわ言葉の段階にさかのぼります。赤ちゃんは「意味」もわからないうちからその接触のなかで喜び、怒りなどもう表現できているわけです。母親的存在が真剣に付き合い笑顔を見せたり、怒ったりすればその仕草、接触も含め全身で向かっていき、それを理解できているのですね。まだことばがないのにです。内コミュニケーションでですね。その付き合いが真剣であれば赤ちゃんは言葉を獲得した後でもその感情的合意を基盤にして「意味」を理解していくわけです。以心伝心というのは実はこの基盤が最初にあるからわかるわけですね。症状が出る人は人の表情も誤解することがたびたびと思います。

彼らはこの関係性に齟齬あり、自分に対する肯定感と自信がありません。そのために「意味」を正常に場合に応じて対応できない場合が出てきます。人との会話などでは「意味」は逆にとろうと思えばそう取れるケースもよくあるわけです。さっきの冗談もユーモアにとれもするし、いやみにもとれるわけです。相手との関係性が十分理解できていればそれは誤解されないのですが、彼らは自分の思考パターンに「引き寄せ」て被害的に受け取ります。それは行為もそうです。たとえばタクシーの運転手が電話していれば、なにか話す振りをしてどこかへ通報しているというように深読み、誤読します。でも悲しい、苦しい考えだと思います。

夏目漱石も太宰治も被害妄想の部分あると思います。この基盤のところで齟齬があったと思います。でも彼らは自らの病のなかで弱さを考え抜き、人間について深く長く考えていった気がします。
心の病は人間の深遠さと不可解さを見せる意味で文学とも深くかかわると思います。