プラネタリウムのパイオニア★東日天文館

東日本初のプラネタリウムが設置された有楽町の東日天文館(毎日天文館)、閉館60年にS13年から6年半の活動を追う

東日版 ZEISSⅡと鈴木敬信

2005年04月23日 | Weblog
■画像左、1938年11月2日一般への開館の前日、内覧会(開館式)で
プラネタリウム解説を行う鈴木敬信、33歳。
(東京日日新聞<1938.11.03>より)

*画像の載る新聞には苗字の記載しかありませんでした。
 画像より小林悦子先生に御指摘頂きました。ありがとうございました。

鈴木敬信は当時、東京科学博物館理学部主任、翌1939年海軍水路部技師
(戦後は海上保安庁水路部編暦課)に就任する。
天文館研究室は東日新聞社員でなく、外部職員で構成したのだろうか。
開館式当日は40分かけて東京から南極の空を演出。
横山大観、市川房枝、文部大臣、陸海空軍各大将ほか1600名が参加し,
3回にわけ上映。

■画像右は東日版 ZEISSⅡ(星と宇宙-S17版より)
星の投影数8900、重さ2500㎏。
東日天象儀室のドーム直径20m、高さ18m、座席数は600席弱
理化学研究所の田口リュウ三郎の音響設計が施されている(天文読本)。
前年の電気科学館の場合、価格46万8000円、輸送費や技師派遣費が
3万円、合計約50万円。

延面積1万㎡の東日会館全体が、203万円なので四分の一ほどになる。
(価格は東日70年史より、延面積5800㎡の電気科学館が建物のみの
工費113万円なので 203万円は建物費で天象儀は含まないと判断)
一企業が負担するには莫大な金額なので、それほど必要だったかと
不思議に感じるが採択した理由はいくつかあると思う。
一部書いておく。
価格面を単純に見れば、100万人×大人入場料50銭でみあう。
電気科学館の場合、S12年開館から終戦までの入場者数
大人小人あわせ約200万人、売上は約63万円になっている。
電気科学館は購入当初の7年分割返済の計画を繰上げ、
3年ほどで完済する。(電気科学館二十年史より)
東日の入場者数は初年度60万人(他の年は資料なし)なので
6年半である程度みあったろう。

東日天文館設立経緯について、この機会にふれておく。
昭和11年早春、時事新報主催の工業博覧会が上野公園で行われ、
好評を博す。
永続的に利用出来る施設が求められ,天文館建設会・後援会が
設けられる。中途、その時事新報を11年末、東日が買収。
事業を引継いだ東日が、新設会館に天文館を設置することになる。
(以上、天文館建設会長 鈴木孝雄陸軍大将の開館の式辞より要約)

その東日も明治44年、度々の業績不振により、名こそ残れど大毎に
企業買収されていた。東日の会長は大毎の会長が兼務している。
実質的なスポンサー大毎新聞は、東日の知名度・社会貢献度の認識を
高めるべく天文館を設置継承を判断したと推測する。
東日(毎日)はその後も<ニッポン号>での飛行機世界一周、
戦後はプロ野球参画など様々な企画を演出、現在に至る。
ついでのついでに書くが、毎日オリオンズの後身、大毎オリオンズの
大毎はここに出た大阪毎日でなく、毎日+大映をさす。

*電気科学館のツァイス価格・入場者数につきましては
 大阪市立科学館の方々のご教示、並びに市立科学館のサイト内
 「なにわの科学史」と「50年のあゆみ(1987)」を参考にさせて頂きました
 東日会館の入場者数を類推すべく同時期に設立された博物館等も
 資料探しましたが特に戦前・戦中において、電気科学館ほど
 アンソロジーをまとめられているのは少なく稀少に思いました。
 ありがとうございました

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