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吉田東洋の墓の道案内

2011-04-17 00:01:26 | 龍馬なんでも情報

吉田東洋といえば、幕末に藩主山内容堂の参政(家老)として藩政を支えた人。

藩政改革を財政再建と人材登用で推進した。前者は外国貿易と富国強兵を、後者は甥の後藤象二郎を始め岩崎弥太郎、福岡孝弟、乾退助らを育成する。

武市半平太率いる土佐勤王党に暗殺された。

 

 「龍馬伝」では舞踏家、田中泯氏による強烈な個性の演技が印象深い。
 
 

 
 
 
 彼の墓は高知市筆山にある。車道を上がって最初の駐車場(トイレがある)の50m先のヘアーピンカーブから東に歩いて400m先にある。
 
 添付した案内図によって、興味のある人は訪れてみて欲しい。
 
 
 ① ヘアピンカーブにある「南嶺ハイキングコース案内板」の左の二つの花壇の間を入ると  左端に見える納骨堂の前を通る。
 
 
 ② 途中の緑色ドラム缶
 
 
 ③ 石地蔵
 
 
 
 
 ④ 地蔵の先の3本木と案内標識
 
 
 ⑤ 3本木から左折する道
 
 
 ⑥ 吉田東洋墓地
 
 
 ⑦ 吉田東洋夫婦の墓

 
HN:バンダナ
 

羽迫博己さんの、土佐人の銅像15・・・坂本龍馬先生之像

2011-02-10 18:19:55 | 龍馬なんでも情報

羽迫博己さんの、土佐人の銅像15・・・坂本龍馬先生之像

坂本龍馬先生之像

この像は石材である。
 高知県展立体部門無鑑査の作家狩野信児さんの作品。
 桂浜の坂本龍馬像をモデルに制作、寄贈した。
 
     備付: 平成13年4月27日
     素材: 本体~中国産黒御影石、台座~白御影石
     題字: 坂本龍馬先生之像
     規模: 本体~0.65 ㍍、台座~1.1 ㍍
          総高~1.75 ㍍

所在地:
   高知市浦戸城山龍馬記念館前

 

坂本龍馬銅像 設立趣意書

桂浜の巌頭にくだくる太平洋の荒波が不断のノミをふるって彫り
   あげたものに、長宗我部があり、維新の志士があり、
    岩崎があり、浜口がある。
 大政奉還を中心とする明治日本の創業史をひもとく時、吾人は今更
   ながら先輩のこう業のかくやくとして雄麗なるに心躍るを覚ゆる。
 なかんずく坂本龍馬が維新史における重要さを思うとき、うたた一剣
   風雲をよびこしょう天下に鳴りし彼が豪快を偲ばざるを得ない。
 おもうに彼が世にありし、雄略ならびなかりし三十ゆう三の生涯は、
   一意明治日本の創建にささげ尽くされたというべきである。
 恨むべし京洛秋風せきれきの夕べ凶刃このめいけいじを奪い、
   志業中道にして砕け、壮心ついに施すに由なからしめた。
 何等の凶刃ぞ何等の恨事ぞ。
 しかも彼が回天の壮図はなかば功を収め国本ようやく固く、皇運天譲
   と栄ゆるべき基は不抜に培われて、鴨川のほとり彼がそそぎし
   鮮血千歳にわたって紅を吐き、彼の栄誉永く日本の歴史と共に
   生くというべきである。
 同人等先生の高風を慕うこと、ここに年あり、此の度相図って広く資
   を募り先生の像を建てんことを発願した。
 おもうに先生の大業を誤り無く伝えるの道は別に史家にえんだいの
   筆これあるべし。
 吾人は別に一家の見を有する。
 即ちにっせき先生の英姿をせんぎょうすることによりて第二第三の
   坂本をこの土に生ぜしめんとするにある。
 すなわち吾人の期待はかかって次代にあり未来にある。
 爾来南海の地才俊多く、今郷党のために万丈のこうえんをあぐ。
 しかも同人の期待は更に百代の後嗣に之を継ぎ、千歳のこうこんに
   之を見んとするにある。
 頭をめぐらせば国事日に多端にして国歩日にけんかんを加う。
 時運非にして英雄を思うは古今同てつである。
 第二の坂本出でよ、第三の坂本出でよ。
 同人の期待は、意図はここにある。頑是無き少年といえども其の蕨の 

如き拳を振って発奮を誓うべきを思えば、吾人の企てにかぎりなき
   命の躍動覚ゆるではないか。・・・・・・
        昭和二年五月  坂本龍馬先生銅像建設会同人
 

坂本龍馬の写真

慶応2年(1866)6月、長崎の上野彦馬
   (我が国の写真術の始祖)
   の写真館で撮影されたものとみられている。

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像14・・・坂本龍馬先生像

2011-02-10 18:18:31 | 龍馬なんでも情報

羽迫博己さんの、土佐人の銅像14・・・坂本龍馬先生像

 

坂本龍馬先生像

天保6年(1835)11月15日、高知城下で
   郷土坂本八平・幸の次男として生れた。
 14歳から日根野道場で剣術を学び、19歳から2度に
   渡って江戸に遊学、千葉道場で剣を磨く一方、
    米国軍艦の来航に伴う沿岸警備等を経験する。
 土佐に帰っては、知識人で画家の河田小龍に啓発され、
   海軍の強化、通商航海の必要性を強く認識した。
 文久元年秋、土佐勤皇党に加盟、武市半平太の命を
   受けて長州を訪問、藩の枠組みを超えた久坂玄瑞の
    思想に触れ、翌年春帰国後、3月24日脱藩。
 長州・九州を経て江戸に赴き、幕臣勝海舟に師事して
    海軍建設の計画を推進した。
 神戸海軍塾解散後は薩摩藩の保護を受けながら、
   同志を集めて長崎で「亀山社中」を設けて通商航海業
   を営み、中岡慎太郎らと連携して慶応2年(1866)1月
    の薩長同盟成立に大きな役割を果たした。
 翌3年1月、長崎で土佐藩参政 後藤象二郎と会見、
   相提携して国事に尽くすことになり、脱藩を放免され、
   「亀山社中」を解散して土佐藩の遊軍海援隊とし、
    その隊長となった。
 同年6月には、横井小楠の「国是七条」を下敷きに、
   大政奉還論とその後の国政のあり方を示す「船中八策」
   を作成して、後藤象二郎に示し、土佐藩からの
    大政奉還建白が実現した。
 10月14日、将軍慶喜が大政奉還を上奏、龍馬は新政府
   の構想に奔走したが、15日夜、京都近江屋で同志
   中岡慎太郎と会談中、幕府見廻り組の刺客に襲われ、
    闘死した。 33歳。
              墓は京都東山区の霊山墓地にある。
     徐 幕: 昭和3年5月27日
      題 字: 坂本龍馬先生像
      規 模: 本体~5,3 ㍍   台座~8,18 ㍍

      総高~13,48㍍ 事業費: 25,695円

所在地:
   高知市浦戸 桂浜公園龍頭岬

 

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南国市でシャモ鍋がはじまりました

2010-12-17 18:44:29 | 龍馬なんでも情報

111日から南国市内10か所の飲食店で

  

シャモ鍋をはじめ、シャモ肉を使った

  

多彩な料理の提供が始まりました。 

 

 

005_シャモ鍋_(シャモ鍋).jpg

※ごめんケンカシャモ鍋(一例です)

 

 

 シャモ鍋は龍馬が愛し、

  

暗殺当日も龍馬がシャモ鍋を食べようと

 

買い出しに行かせた合間に刺客に襲われ、

 

結局食べることができなかった

という逸話は有名で、 

大河ドラマ「龍馬伝」の最終回でもこの場面が取り上げられましたが、 

昨年6月に発足した「ごめんシャモ研究会」は、 

この「シャモ鍋」をご当地グルメにして、 

南国市の活性化を図ろうと活動しています。 

 

ごめんシャモ研究会のブログはこちら http://ameblo.jp/gomensyamo/

 

 

今年1月、

埼玉県で開催された鍋料理の全国コンテストで優勝し、  

確かな手ごたえを感じた研究会では、 

まず第1ステップとして、 

南国市に来て・シャモ鍋を食べてもらうことで 

活性化を図る『地産「来」消』の取り組みを進めてきました。

飲食店には 

南国市内の農家で飼育されたシャモ(ごめんケンカシャモ)を使うこと」※研究会が農家に飼育委託しています

 

 

「鍋の具材には南国市産の野菜を1品以上使用し、これを毎日、店頭で表示または展示すること」

 

 

「他地域との差別化やまちおこしのため、メニュー表記を「ごめんケンカシャモ鍋」に統一すること」

 

 

鍋以外にもシャモを使ったメニュー創作をすること」

等、8項目の約束事があります。 

 この約束事は「南国市の活性化につなげたい」 

という研究会の思いを表したものであり、 

これに賛同した飲食店は研究会と同じ志を持つ、

いわば「同志」です。 

そこで、「同志」「仲間」と言う意味がある「社中」を使い、 

研究会と飲食店で「ごめんシャモ鍋社中」を結成し、 

この8項目の約束事「社中八策」に結束の証として連判しています。

005_ごめんシャモ鍋_社中八策(連判状).jpg

                                       ※この社中八策(連判状)は"社中"全店でご覧いただくことができます。

 また、広くPRするために 

「ごめんシャモ鍋マップ」を15,000部作成し、 

南国市内はもちろん、高知駅前の「とさてらす」や 

「高知県立坂本龍馬記念館」等でも配布しています。

「ごめんシャモ鍋マップ」はこちら(PDFファイル)

南国市商工会HPにリンクしています。

http://www.kochi-shokokai.jp/nankoku/syamomap.pdf

     この「ごめんケンカシャモ鍋」ですが、 

味付けは自由となっていて、 

しょうゆベース、エスニック風、すき焼き風など 

各店自慢の様々な鍋を食べることができます。 

また、併せて創作されている一品メニューも絶品のものばかりです。 

これからのシーズン。忘年会・新年会・歓送迎会と

「鍋」にふさわしい季節となります。

皆さんも、ご家族で、職場の同僚や気のおけない友人と、 

是非一度「ごめんケンカシャモ鍋」をご賞味ください。 

シャモ独特の歯ごたえとダシがたっぷり効いたスープに 

病みつきになるかもしれませんよ。 

005_シャモ鍋_提灯のぼり.jpg
※提灯と幟旗が"社中"の目印です。(一部画像を処理しています) 

【お問合せ】

 ごめんシャモ研究会 

  南国市大甲1623-5 南国市商工会内

  TEL088-864-3073 

 ご予約は、ごめんシャモ鍋社中各店舗まで

(リンク先のマップの中に電話番号があります)

 

HN高知県地域づくり支援課

 

HN:地域づくり支援課 さんの記事

 

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はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その8  ⑤岡本寧浦塾跡

2010-11-15 08:36:50 | 龍馬なんでも情報

さる10月23日、北街コミュニティ計画推進市民会議が主催する、「はりまや橋界隈史跡めぐり」が企画されていたので、参加しました。

9時30分、30人を超える参加者が、新堀小学校内の新堀コミュニティホール前に集合しました。

史跡めぐりは10時にスタートして、 ①魚の棚 ②はりまや橋 ③河田小龍生誕地 ④武市半平太道場跡 ⑤岡本寧浦塾跡 ⑥中江兆民誕生地 をゆっくりと巡って、12時少し前に出発地点に帰ってきました。

地元の参加者が、自分が住んでいるところに、こんな史跡があることを知りませんでした・・・と話していました。

また、家族連れで参加された方も多く、中でも新堀小学校の4年生の二人は、歴史に関心が深く、説明をメモを取りながら熱心に聞いていました。

その子達は、すでに相当な知識を持っているのです。"歴女"ならぬ、歴史好きのこども"歴チル"とでも言うような感じで、大変嬉しく思いました。

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その1 新堀コミュニティホール前に集合 

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その2 ①魚の棚

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その3 ②はりまや橋1

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その4  ②はりまや橋2 地下広場ギャラリー

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その5  ②はりまや橋3 からくり時計

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その6  ③河田小龍生誕地

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その7  ④武市半平太道場跡

 

⑤岡本寧浦塾跡

  

IMG_8976.jpg

横堀公園から北へ、高知市桜井町1丁目で、意外と目に付きにくいところにありました。しっかり場所を覚えていないと、次回に一人で来るには・・・と言う感じです。

 

出典・・・土佐の人物伝: 岡本寧浦(おかもと ねいほ)

寛政6年(1794年) - 嘉永6年(1853年)

藩末にその名を博した儒学者。その門下には、岩崎弥太郎や中江兆民、清岡道之助、河田小龍など幕末から明治にかけて活躍した人物もおり、その総数は千人を超えています。
寧浦は吉田東洋や武市瑞山といった要人との交流がありました。また、岩崎弥太郎は寧浦の甥にあたります。

寧浦は、寛政6年(1794年)に、安田浦の裏宗西本願寺派乗光寺に生まれました。
幼い頃から勉学に励んでおり、安芸国(広島)や大阪で、詩文、儒学、仏教などを学びました。その後、仏教から儒学に転向しました。
そのうち寧浦の評判は高くなり、土佐藩主に招かれ藩の教授方となりました。そして、その才を大いに振るった寧浦は、大学者へと成っていったのです。

寧浦の門下には、岩崎弥太郎や中江兆民、清岡道之助、河田小龍など幕末から明治にかけて活躍した人物など多くの人材を輩出しました。門下の総数は千人を超えています。
寧浦は土佐にとっての吉田松陰のような存在でした。武市瑞山、吉田東洋、岩崎弥太郎、河田小龍といった人物にも影響を与えたと言われています。

嘉永6年(1853年)、60歳で没しました。

 

IMG_8977.jpg

 http://video.moglik.com/t/%E5%AF%A7%E6%B5%A6.htm

 ★2010 10 03 高知の街めぐりウォーキング&動画サービス#1 №2  寧浦

 

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出典・・・南国土佐へ来てみいや:岡本寧浦塾舎跡

NHK大河「龍馬伝」1回目に出て来た、岡本寧浦生の塾・紅友舎跡の碑ながです。

劇中、岡本寧浦に関しては唯の塾の先生程度の表現しかしちゃーせんき、土佐人としてこりゃー遺憾と思うて書いちょります。

岡本寧浦ちゅう人は、幕末の土佐藩屈指の儒学者で、長州の吉田松陰よりもすごい人物じゃと言うたら長州人が怒るかも知れんけんど、げにまっこと吉田松陰に劣らぬ重要人物じゃたがです。

また、岩崎弥太郎との関係もあやふややったけんど、弥太郎の母の姉の夫が岡本寧浦じゃき、弥太郎は「甥」になるがよ。

せめてこれくらいの説明は、ナレーションででも入れて欲しかったぜよ。

門人は1000人以上で、「岩崎弥太郎」は勿論のこと、東洋のルソーと呼ばれる「中江兆民」、龍馬に西洋事情を解いた「河田小龍」、坂本龍馬や武市瑞山に次いで幕末の土佐を代表する人物の一人「清岡道之助」など、幕末期に活躍した逸材を多く輩出しちゅうし、土佐藩の参政「吉田東洋」や土佐勤皇党首領「武市瑞山」とも交流があったがです。

兎に角、多くの志士達を倒幕に駆り立てた根本的な思想は、此処から始まっちゅうかも知れん。


IMG_8983.jpgHN:史跡探訪者

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はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その7  ④武市半平太道場跡

2010-11-12 18:39:07 | 龍馬なんでも情報

さる10月23日、北街コミュニティ計画推進市民会議が主催する、「はりまや橋界隈史跡めぐり」が企画されていたので、参加しました。

9時30分、30人を超える参加者が、新堀小学校内の新堀コミュニティホール前に集合しました。

史跡めぐりは10時にスタートして、 ①魚の棚 ②はりまや橋 ③河田小龍生誕地 ④武市半平太道場跡 ⑤岡本寧浦塾跡 ⑥中江兆民誕生地 をゆっくりと巡って、12時少し前に出発地点に帰ってきました。

地元の参加者が、自分が住んでいるところに、こんな史跡があることを知りませんでした・・・と話していました。

また、家族連れで参加された方も多く、中でも新堀小学校の4年生の二人は、歴史に関心が深く、説明をメモを取りながら熱心に聞いていました。

その子達は、すでに相当な知識を持っているのです。"歴女"ならぬ、歴史好きのこども"歴チル"とでも言うような感じで、大変嬉しく思いました。

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その1 新堀コミュニティホール前に集合 

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その2 ①魚の棚

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その3 ②はりまや橋1

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その4  ②はりまや橋2 地下広場ギャラリー

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その5  ②はりまや橋3 からくり時計

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その6  ③河田小龍生誕地

 

④武市半平太道場跡

 

IMG_8968.jpg

横堀公園内の北側にある、武市半平太の道場跡の碑もきれいに手入れされ、また"めおと石"が新しく設置されていました。

P1170594.jpg

   IMG_8966.jpg

高知市さえんばの横堀公園で、「半平太まつり」がありました①

IMG_8971.jpg  

高知市さえんばの横堀公園 ②武市半平太の道場跡の碑・めおと石

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横堀公園で休憩です。お茶の用意がされていて、皆さんおいしくいただいていました。

IMG_8962.jpgHN:史跡探訪者

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維新の門・坂本龍馬

2010-11-11 12:20:17 | 龍馬なんでも情報

「土佐の銅像」第7回めは、維新の門・群像①です。

  

*坂本龍馬(18351863 

*銅像所在地:高知県高岡郡梼原町 川西路 和田城跡 

*銅像製作:濱田浩造 平成71111日建立

  

維新の門01.JPG 

 

 

 

 

「維新の門の坂本龍馬」を初めて見たのは、写真だったので、

「映画製作中???そっくりな俳優さんが現れたものだ」と勘違いしました。

生きている人間にしか、見えません...でした。

 

維新の門06.JPG 

どの角度もサマになります!!!

  

  

 

 

維新の門02.JPG

梼原の静かな景色を見つめているかのようです。

 

 

 

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はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その6  ③河田小龍生誕地

2010-11-11 12:18:02 | 龍馬なんでも情報

さる10月23日、北街コミュニティ計画推進市民会議が主催する、「はりまや橋界隈史跡めぐり」が企画されていたので、参加しました。

9時30分、30人を超える参加者が、新堀小学校内の新堀コミュニティホール前に集合しました。

史跡めぐりは10時にスタートして、 ①魚の棚 ②はりまや橋 ③河田小龍生誕地 ④武市半平太道場跡 ⑤岡本寧浦塾跡 ⑥中江兆民誕生地 をゆっくりと巡って、12時少し前に出発地点に帰ってきました。

地元の参加者が、自分が住んでいるところに、こんな史跡があることを知りませんでした・・・と話していました。

また、家族連れで参加された方も多く、中でも新堀小学校の4年生の二人は、歴史に関心が深く、説明をメモを取りながら熱心に聞いていました。

その子達は、すでに相当な知識を持っているのです。"歴女"ならぬ、歴史好きのこども"歴チル"とでも言うような感じで、大変嬉しく思いました。

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その1 新堀コミュニティホール前に集合 

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その2 ①魚の棚

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その3 ②はりまや橋1

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その4  ②はりまや橋2 地下広場ギャラリー

はりまや橋界隈史跡めぐり・・・その5  ②はりまや橋3 からくり時計

 

③河田小龍生誕地

  

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はりまや橋交差点を南に渡って、東へ・・・すぐ近くに老舗料亭「得月楼」があります。

宮尾登美子作「陽暉楼」でも有名です。

この前を取って東へ50メートルくらいに、河田小龍生誕地の記念碑がありました。

はりまや橋観光バスターミナルの手前です。

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出典: 土佐藩絵師・河田小龍生誕地

河田小龍1824-1898は土佐藩の絵師で、高知城下・浦戸片町に生まれると南宋画の画家である島本蘭渓に入門する。 また、土佐藩の儒学者・岡本寧浦に入門し吉田東洋のすすめで23歳の時に京都・大阪に遊学し長崎で蘭学なども学んだ。 1852年、吉田東洋の命によりジョン万次郎の取調べを行ったことから英語や西洋事情などの知識も得た。 この西洋事情や思想などは小龍を通して坂本龍馬や多くの志士に多大な影響を与えたと言われている。 ジョン万次郎は14才の時に遭難し、アメリカの捕鯨船に助けられ、約十年間の留学の後日本へ帰国する。 そのときの取調官・吉田文次はさじを投げて吉田東洋に報告する。 東洋は直ぐに河田小龍を呼びよせ、長崎で学んだ蘭学により話が通じるだろうと考えた。 彼らは十二年の間に日本語を忘れていたという。 小龍は万次郎を自宅に連れ帰り生活の中から言葉を思い出させることで小龍も英語を学び、二人の間に信頼と友情が生まれた。  一方、坂本龍馬が剣術修行に出た江戸で黒船騒動にであって異国の進んだ文明を目のあたりして悶々としていた時に小龍に出会う。 小龍は海洋に乗り出し航海術をまなび、外国との貿易によって利益をあげ国を富まし、異国に追いつく事が日本のとるべき道だと説く。

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河田小龍生誕地

カワダショウリュウセイタンチ

地図:高知県高知市南はりまや町2-1-34 JR高知駅下車・電車桟橋行・はりやま橋下車、徒歩3分 

IMG_8936.jpgHN:史跡探訪者

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高知市さえんばの横堀公園 ②武市半平太の道場跡の碑・めおと石

2010-10-02 21:42:59 | 龍馬なんでも情報
9月26日の日曜日、 高知市さえんばの横堀公園で、第2回「武市半平太まつり」 があり、行って来ました。

余り長くは居れなかったのですが、雰囲気だけでも感じたいと訪問しました。

横堀公園内の北側にある、武市半平太の道場跡の碑もきれいに手入れされ、また"めおと石"が新しく設置されていました。







武市半平太の道場跡の碑



高知市HP:武市瑞山道場跡

武市瑞山は安政2年(1855)に道場を新築し、妻の叔父である島村寿之助と共同経営で道場を開いた。午前は寿之助が槍術、午後は瑞山が剣術を教え、門人も120人を数えるに至ったという。若き日の中岡慎太郎や"人斬り以蔵"と恐れられた岡田以蔵なども武市道場の門人である。

その後、人柄と実力を買われた瑞山は、安政2年(1855)の秋以降、藩命を受けて安芸郡奉行所(現田野町)、香美郡奉行所(現香南市赤岡町)に出張し、剣術の指導にあたっている。

この碑は、当初現在地より約30mほど東北の駐車場に建てられていたが、近年に横堀公園内に移された。





"めおと石"が新しく設置されていました。



みやちゃんブログ:武市半平太「めおと石」

今日の高知新聞の朝刊に高知市桜井町にある横堀公園に武市半平太道場跡

「めおと石」などの清掃を町内の世話役の方々が・・

という記事が掲載されていたので、早速出向き撮影してきました。

この26日の日曜日には、半平太祭りを賑やかにするそうですので、楽しみです。



武市半平太夫婦 めおと石もできたぜよ: 新堀川知行合一塾

武市半平太夫婦 めおと石もできたぜよ. 半平太は愛称は「あぎ」、あごのことである。 向かった右側の石はあごの出た顔に見えんかよ. 2010.09.16 in 元気が出るまちづくり |



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