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われらのヒーロー、坂本龍馬が2010年大河ドラマに!広げよう龍馬の志!

高知市さえんばの横堀公園で、「半平太まつり」がありました①

2010-10-02 21:39:11 | 龍馬なんでも情報
9月26日の日曜日、 高知市さえんばの横堀公園で、第2回「武市半平太まつり」 があり、行って来ました。

余り長くは居れなかったのですが、雰囲気だけでも感じたいと訪問しました。















おすすめブログ記事: 「半平太の邸宅・道場跡を初めて知る」 

おんちゃんは武市半平太邸・剣道道場跡を最近の新聞報道などで初めて知った

 その場所は高知市菜園場町にある横堀公園だ。

 今、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」でほんのこの前、大森南朋の扮する武市半平太が切腹し悲しい最期を遂げたことで、記憶に新しいところ。

 そして、半平太の道場で剣道の稽古をしているシーンも何度も見たが、一体その道場がどこになるのか気にも留めず、ましてや菜園場とはまったく知らなかった。

 おんちゃんが病院勤務していたときにしょっちゅうその公園の前を通っていたり、またそこのトイレを使用したことは数多いが、恥ずかしいことながら、半平太の碑のことにはまったく気付かなかった。

 その横堀公園へ行ってみたら、確かにあるある、その碑が






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武市半平太の旧宅と墓、瑞山神社 を訪問しました・・・その3 瑞山神社・瑞山の墓など

2010-09-14 08:36:22 | 龍馬なんでも情報
観光ボランティアガイドを熱心に取り組んでいる、歴史家の根木さんに、武市半平太の旧宅と墓、瑞山神社 を案内していただきました。

武市半平太の旧宅と墓、瑞山神社 を訪問しました・・・その1 旧宅


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瑞山資料館の扉を開くと、瑞山神社につながっていました。







瑞山資料館の横の階段を登ると、瑞山の墓などがありました。きれいに手入れされており、若いカップルが静かに手を合わせていました。





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武市半平太ー武市家の歴史









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武市半平太の旧宅と墓、瑞山神社 を訪問しました・・・その2 瑞山記念館

2010-09-12 10:18:27 | 龍馬なんでも情報
観光ボランティアガイドを熱心に取り組んでいる、歴史家の根木さんに、武市半平太の旧宅と墓、瑞山神社 を案内していただきました。

武市半平太の旧宅と墓、瑞山神社 を訪問しました・・・その1 旧宅


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武市半平太の旧宅から右手に伸びている道路を歩くと石段があり、その先には瑞山神社や瑞山資料館、瑞山の墓などがある。








武市半平太の旧宅と墓、瑞山神社 を訪問しました・・・その2 瑞山記念館




瑞山記念館には、武市半平太の歴史を示すパネルなどが展示されており、訪れた方たちが熱心に読んでいる姿が印象的でした。



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武市半平太の旧宅と墓、瑞山神社 を訪問しました・・・その1 旧宅

2010-09-11 12:45:47 | 龍馬なんでも情報
観光ボランティアガイドを熱心に取り組んでいる、歴史家の根木さんに、武市半平太の旧宅と墓、瑞山神社 を案内していただきました。

地図はこちらです。

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道路脇に駐車場がありました。









武市半平太の旧宅が民家として残っており、ちょうど民家の方が居られたので、ご挨拶をして見せていただきました。

家の周りには梨園があり、ちょうど出荷時期でお忙しそうでした。







手入れが行き届いておりました。「龍馬伝」ブームもあって、訪れる方は毎日相当おられるようです。



高知市:武市半平太旧宅及び墓
土佐勤王党の盟主、武市半平太旧宅と墓は、昭和11年(1936)9月に国の史跡に指定された。旧宅は、半平太が城下に出たとき以来、武市家の所有を離れているが、母屋・土蔵などは郷士屋敷の面影を残している。

旧宅から右手に伸びている道路を歩くと石段があり、その先には瑞山神社や瑞山資料館、瑞山の墓などがある。

※武市半平太旧宅は現在個人宅につき、立ち入りできません。


高知市:文化財情報 史跡 武市半平太旧宅及び墓
解説

下田川にかかる瑞山[ずいざん]橋をわたって南にのびた道を進むと昔のたたずまいを残した家並みと田園が開けてくる。途中の小道を東に進むと武市半平太の旧宅につきあたる。もとは、藁葺で間数6室、客室は8畳で柱に半平太が字を刻んだ痕がある。東南の客室の前面に池や庭をつくってあり、土蔵(現存しない)、物置もあって、典型的な郷士屋敷である。半平太は1829(文政12)年9月27日生まれた。家は郷士で約52石を領したが祖父・父は白札格となり上士待遇であった。1849(嘉永2)年家督を相続。高知城下新町田渕の郷士島村源次郎の娘、富と結婚し、妻の叔父島村寿之助とともに田渕に剣術・槍術の道場を開いた。1861(文久元)年江戸に赴き、長州の久坂玄瑞・桂小五郎、薩摩の樺山三円らと交わり薩長土の提携に尽力した。同年8月大石圓[まどか]らとはかって土佐勤王党の盟約書をつくり、党主となった。土佐藩の一藩勤王を説いたが、吉田東洋に書生論として退けられ、1862(文久2)年4月8日東洋を暗殺して土佐藩を勤王化することに成功した。同年10月半平太は柳川左門と称し、副勅使姉小路公知の雑掌として護衛にあたり東下の大任を果たした。1863(文久3)年3月には京都留守居加役となったが、4月には帰国し、その後山内容堂に藩政改革をせまったが、容堂の公武合体論をかえることはできなかった。同年8月18日の公武合体派による政変の結果、土佐勤王党も弾圧をうけ、9月21日半平太は投獄された。1865(慶応元)年閏5月11日切腹を命ぜられ37歳の命を絶つ。「花は清香に依って愛せられ、人は仁義を以て栄ゆ。幽囚何ぞ恥づべき、只赤心の明かなるあり」は半平太の獄中の作である。
 半平太の墓は旧宅の前の小道を南に進むと、瑞山神社があるが、その上の丘陵にある。

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龍馬の生まれた町にて

2010-09-09 06:19:01 | 龍馬なんでも情報



昨日、根木さんが観光ボランティアのYさんを紹介してくださいました。

銅像製作者の濱田浩造氏の同級生でもあるYさん。その行動力に感嘆しました。



待ち合わせは、夕暮れの「龍馬の生まれた町記念館」でした。



土佐の銅像 写真集と 津江美和さんの写真に関するページ

高知市立龍馬の生まれたまち記念館

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根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑩ いのち・・・龍馬の手紙から 

2010-08-16 09:23:30 | 龍馬なんでも情報
龍馬十景 ⑩ いのち・・・龍馬の手紙から        

                                   根木 勢介
         
                            

 いつも死と隣り合わせの世界に生きた龍馬。 「いのち」に関する彼の言葉は、やはり多い。 彼の残された手紙を見ると、再度脱藩した文久三年(1863年)に多い。 その中の一つを紹介。

 [文久3年3月20日 坂本乙女あての手紙より]

 「・・・・・。 運の悪い者は、風呂より出ようとしてキンタマを割って死ぬ者もある。 そのような人と比べると私(龍馬)は運が強く、死ぬような危ない目にあっても死なず、自分で死のうと思っても、生きなければならないことになる・・・・・。」

 自分のいのちは「天」が決めると頓悟している。 龍馬が寺田屋で伏見奉行所捕吏に襲われた事件でも「切り死に」より「生きて逃げる」ことを選んだ龍馬である。 

自分のいのちについては覚悟があるので、自然と他の人のいのちのことに関心が向いたのでは。 蝦夷地開拓を考えた龍馬の動機のひとつは、攘夷派の浪士たちのいのちを救おうと考えたことだった。

 亀山社中時代、近藤長次郎が英国密航を企てて盟約違反により仲間から切腹を迫られて死んだが、龍馬が側にいれば近藤も死なずに済んだのではといわれる。 

龍馬の死生観から言えば、十分あり得る。身辺でもたくさんの「死」を見てきた龍馬だから、なおさら、いのちについての思いが強かったのだろう。


 特に、晩年は自分のいのちの危険もわかっていた。 自分のいのちは、「天」が決めるとの覚悟があるので不用心になったのだと思う。


 「龍馬十景」読んでいただきありがとうございました。 私にとっては、龍馬の魅力を見直すきっかけとなりました。

龍馬研究会発行 「龍馬研究」No.165 より転載


根木勢介さんの「龍馬十景」 シリーズ

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根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑨ 長崎・・・頭の中の地図と樟脳

2010-08-08 09:54:28 | 龍馬なんでも情報
龍馬十景 ⑨ 長崎・・・頭の中の地図と樟脳        

                                   根木 勢介




 三菱創始者岩崎弥太郎の家の庭には、今も石組みの日本地図がある。 伝承では、幼少の頃弥太郎が作ったとされる。

日本で初めて総合商社の原型を作った龍馬と、それを発展させた弥太郎、彼らの頭の中には、どんな地図があったのだろうか。

海援隊約規では、「海外に志あるもの」が入隊できることになっており、海外雄飛しようとした龍馬の頭の中には、世界地図があったのだろう。



 鎖国下の日本の、世界への唯一の門は長崎である。 江戸時代の三大輸出品目は、金・銀・樟脳。 輸出品は長崎の出島よりオランダ帰国船で輸出された。 

江戸時代ほぼ樟脳生産を独占してきた薩摩藩では、樟脳で大きな利益をあげた。 利益率が低下してきた安政五年(1859年・日米修好通商条約調印の年)でも、樟脳だけで年間二千両の利益をあげたといわれる。


 薩摩が幕末まで独占してきた樟脳市場に、新規参入したのが土佐藩。 土佐式樟脳生産方式を開発し、土佐藩の外貨獲得の重要な商品となった。 

慶応三年(1867年)長崎から出航した土佐藩の藩船夕顔丸で、龍馬は船中八策をまとめたが、その夕顔丸も樟脳で購入したといわれる。


 樟脳貿易で龍馬たち維新の志士を支えた「土佐商会」の弥太郎。 時代が下がるが、岩崎の三菱を売上げで一時抜いた神戸の総合商社鈴木商店も台湾での樟脳生産が土台となったとされる。 

その鈴木商店を陣頭指揮したのが、土佐出身の番頭金子直吉。 商社経営史に残る、龍馬・弥太郎・直吉と土佐人三人がいずれも樟脳と関わっているのは興味深い。

龍馬研究会発行 「龍馬研究」No.164 より転載


根木勢介さんの「龍馬十景」 シリーズ

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坂本龍馬の銅像

2010-08-05 11:04:59 | 龍馬なんでも情報
はじめまして。

自費出版した小さな写真集「土佐の銅像」を通して、高知ファンクラブと出会いました。

本に載せた写真、載せていない写真、満年齢での人物伝、個人的思い、

...など、綴っていけたらと思っています。

本の宣伝を兼ねたブログで恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。



第1回は、坂本龍馬の銅像です。本に載せたのが、すぐ下の1枚です。

平成17年秋、「龍馬に大接近」にて撮影しました。



*銅像所在地:高知市浦戸 桂浜公園

*銅像製作:本山白雲 昭和3年5月27日建立



*坂本龍馬(1835~1867)

12歳:日根野道場で剣術を学ぶ。

17歳:江戸に出て千葉道場でさらに剣術修業を重ねる。

26歳:春、土佐藩を脱藩。幕臣である勝海舟と出会う。

31歳:「海援隊」隊長となる。「船中八策」の作成。

享年32歳。




光り輝く桂浜です。



龍馬の石碑もあります。

大きな画像で見る坂本龍馬の銅像


司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読んだのは、22歳の頃でした。

32歳になったら何をしているんだろうと考えたりしたものです。

大したこともせぬまま32歳を過ぎ、あっという間に45歳となりました...。



土佐の銅像 写真集と 津江美和さんの写真に関するページ

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根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑧ 京都・・・龍馬の五つの顔

2010-08-01 16:18:34 | 龍馬なんでも情報
龍馬十景 ⑧ 京都・・・龍馬の五つの顔        

                                   根木 勢介



 「海援隊の性格は多角的で、倒幕結社、私設海軍、航海学校、海運業務、内外貿易という五つの顔があり、

その五つの顔を、竜馬が一つにまとめて統率、竜馬にもこの五つの顔があった、・・・・・・・竜馬にとっては、ときに革命は片手間の仕事であった。」


 司馬遼太郎さんは、「竜馬がゆく」でこのように書いている。

 さて、龍馬は、この五つの顔により、反幕側だけでなく幕府側にも情報源をもち、幕末当時最大の情報収集家になった。 


龍馬が、その情報収集力により時代の先を読めたのも、日本の政体構想を持ち得たのも、ある意味当然のことかも知れない。


 高知県では、今土佐二十四万石博が開催されているが、高知城の天守閣から四方を眺めていると、奇妙なことに気がつく。 

幕末に活躍する志士やその後の自由民権運動の中心活動家が、西側に当たる龍馬生誕地周辺に誕生し、密集していることがわかる。 


また、龍馬につながる家系にもだが、お城の西側に、キリスト教信者になった人が多い。 龍馬が、キリスト教をどのように考えていたかについては、佐々木三四郎日記にあるようだが、興味深い。


 「アメリカでは大統領が下女の給料の心配をするという。 三百年、徳川将軍はそういうことをしたか。 この一事だけでも幕府は倒さねばならない。」と龍馬は考えており、その発言が土佐に伝わり、土佐の青年が奮起したといわれる。


 土佐にあだたぬ男(武市半平太の言)龍馬が、本当にやりたかったことは、世界の海援隊だったのか、考えてみたい。
                     龍馬研究会発行 「龍馬研究」No.163 より転載





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根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑦ 江戸・・・選択?洗濯の龍馬

2010-07-26 09:11:27 | 龍馬なんでも情報
龍馬十景 ⑦ 江戸・・・選択?洗濯の龍馬        

                                   根木 勢介






 現在、新幹線の駅になり、にぎわいを見せている「品川」。 幕末の品川も色々な人々が往来した町。

 品川駅から東京湾に向かって歩いてみた。 途中に「東京海洋大学」があり、何かしら龍馬と関係があるようでうれしくなる。 

 今の大学生と同じ頃江戸に出て来た龍馬。 24歳頃、江戸で剣術修行中に植物の「菖蒲」を土佐に送り、あり付いた(根付いた)か、と手紙を書く一面も持っているのは、興味深い。


 維新前、これからの日本をどうするかについての選択肢は色々あった。 例えば、当時幕臣だった福沢諭吉は、「長州征伐に関する建白書」(1866年・薩長連合の年)を提出。


 これまでの洋行の体験と知識を駆使して、長州再征によって幕府を「中興できる」論を展開、幕府再生の方策を提示した。


 一方、同じく洋行経験者でかつ幕臣でもある勝海舟は、同じ1866年に内乱・日本の植民地化を危惧し、「幕府の長州再征反対」の意見書を京都の徳川慶喜に送っている。


 勝は早い段階で、封建制度の幕府は崩壊すると予見。 歴史は皮肉なもので、その長州再征が幕府の意外なもろさを露呈することとなり、崩壊を早めてしまう。


 龍馬のその後を考える意味でも、「日本第一の人物」の勝海舟に弟子入りした意味は大きい。


 再開発ラッシュの品川の湾岸沿いを歩きながら、龍馬のことを考えてみた。


                     龍馬研究会発行 「龍馬研究」No.162 より転載





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