『みんなのお寺』 ブッダによる幸せの種がまかれた園

宗派を超え、国境を超え、時を超えて、仏教・ブッダの教えの真理に触れる事の出来る幸せの精舎を目指す『お寺』です

質問 1

2007年10月01日 | 悩み事・質問
Q

自分が日頃から考えていることですが
人は一体、何のために生きているのでしょうか?
人はどこから来て
何のために生きて
どこへ向かっているのでしょうか。



みんなのお寺への初めての質問、ありがとうございます

仏教では真理以外を、こうである!と断定することはしません

人は何のために生きているのか?答は一つではないと思います

人が生きている理由は一人一人その理由が違っているでしょう

お金のため、家族のため、恋人のため、自分のため、食べるため、仕事のため等など

一つ確かに言えることは、「生きるために生きている」ということでしょう

生きるための行為、呼吸をすること、飲むこと、食べること、眠ること、環境に合わせて服を着ること、住居を得ること

ほとんどの人は、このような必要最低限の行為を保っていかないと、生きていけないでしょう

あったりまえなことを言うなぁ、と思われるかもしれません

しかしこの当り前な事を一つでも我慢してみてください

当たり前であった事が、実は当り前ではなかった、実にありがたい、奇跡的な事であると気付かされるのではないでしょうか

自分が「生きている」のではなく目に見えない多くの力によって「生かされている」と心から気付いた衝撃的な瞬間が、仏教が言う所の、死を筆頭としたこの世の苦しみからの脱却の第一歩なのだと思います

そして仏教の真理を体得すると、苦しみなき幸福な世界の中で生きてゆける

そこを目指して生きている、これが仏教的な生きる意味だと思います


また仏教では『縁起』を説きます

『全ては繋がっている』といった所でしょうか

人は自らの行いに基づいた所から来て、自らの行いの報いを受けて未来に進んで行くのではと考えています

ブッダは、人はどこから来て、どこへ向かっているか、なんて事の答えはいくら考えても答えが出ない事だからあんまり考えるな、と説かれています

そんな事を考える前に、心をきれいにする為の修行をしなさい、というお言葉が聞こえてきそうです

基本は子どもが知っている

2007年10月01日 | 仏教的 『子育て』
子どもは知識が少なくて、一人では何も出来ないではないか。

それなのになんで「基本は子どもが知っている」なんですか?と疑問に思う人も多いかもしれません。

その通りです。子どもは大人に比べ極端に知識が少なく、一人では何も出来ませんよね。

ではなぜ、「基本は子どもが知っている」なのでしょう。それは次のような事を知っているからです。

子どもは「これ何?」「なんで○○なの?」「どうして○○なの?」などと分からない事をしつこいくらいに聞いてくる時ありませんか?

それは、自分が知らない事を知っているからなのです。

子どもは喜怒哀楽が激しいなあと思った事ありませんか。

嬉しい事があると笑顔で喜び、嫌な事があるとすぐ怒ったり、哀しい事があると大きな声で泣いたり、楽しい事があると大声で笑ったりと。

それは、自分の感情を知っているからです。

子どもは優しい人が好きで、意地悪な人が嫌いです。

それは、優しいのが気持ちよくて、意地悪なのが気持ち悪い事を知っているからです。

子どもは過去を後悔したり、未来を憂いたりしません。

それは、今に集中して、今を楽しむ事を知っているからです。

以上に挙げたような事、子どもは人間の原点の基本を色々知っているのです。