リンムーの眼 rinmu's eye

リンムーの眼、私の視点。

画家たちの「戦争」

2010-10-31 | art

とんぼの本『画家たちの「戦争」』(新潮社)読む。
“戦争画”は、太平洋戦時中、戦意高揚のために描かれた作品のことだ。
終戦後アメリカに接収された後、返却ではなく“無期限貸与”として日本に移され、現在、国立近代美術館に保管されている。
この“戦争画”は、2、3点ずつ国立近代美術館の常設展で展示されている。
私は何度か常設展を見ているが、戦争画の一角に立つと、なんとも居心地の悪い気分になる。
この居心地の悪さは、歴史や美術、政治などが、消化できないまま渦を巻いている感じだ。
眼前あるものに政治性を帯びた時代の堆積を意識する。
きっと答えなど出ない性質の問いが、目の前にある。そのように思わされる、常設展を気軽に眺める者としては非常に厄介な絵画だ。

以前、藤田嗣治の戦争画をきっかけとして、戦争画について少し考えたことがある。

http://blog.goo.ne.jp/rinmu_2006/e/ddfcc15700c77722f4b5fc1bc2c5a890
http://blog.goo.ne.jp/rinmu_2006/e/8994d3352e5a90a50cf82919c8633971

『画家たちの「戦争」』とんぼの本(新潮社)をきっかけとして、あらためて戦争画について考えた。帯には次のように記されている。

《戦争画とは何か?
いまだタブー視されている戦争画の名作を
じっくり鑑賞し、様々な意見に触れ、
もう一度、考えてみよう!》

戦争画を受け止める姿勢のあり方を、この帯文はいくつか示していると思う。
戦争画を「タブー視」しないためは、向き合うしかない。そもそも戦争画の「名作」とはすぐれたプロパガンダということではないのか。
じっくり鑑賞する居心地の悪さを引き受けること。この本によって、近美の常設展に足を運べない人でも、戦争画の多数の図版と様々な意見に触れることができる。

戦争画のまとまった展覧会が開かれたことはないし、これからも開かれる予定はないという。
このような絵画を歴史に位置付け、受け止めることができる時代まで、「戦後」は終わらないのだな、と思う。

最後に、この本に納められている河田明久氏の論考を引く。戦争画の課題を明解に、端的に記した文章だ。

「そもそも戦争画を「理解」するとはどういうことだろう。それらはマッカーサーにも判断がつきかねたように、芸術作品でありながら、同時にまちがいなくプロパガンダの道具でもある。また死闘図を描いていたころの藤田が見切っていた通り、表現の少なくとも半分は表現者の意図ではなく、表現を受け止める側の解釈の仕方にかかっている。戦争画の「教え」というものがもしあるとすれば、それはこの割り切れなさを引き受けたうえで、あらためて表現とは何か、と問い直すことでしかないだろう。」

GUMBO

2010-10-31 | food&drink
ガンボ作った。

といってもミネストローネ(缶詰め)+オクラ+セロリ+ベーコンの「ガンボ風」ですが。
オクラでドロドロしてればガンボだろうと自己流に解釈しています。

ガンボは、ニューオーリンズの家庭料理、本場ではミシシッピ川で採れたナマズやザリガニを入れたりもするらしく、家庭ごとの「おふくろの味」があるみたい。

「GUMBO」といえばDr.Johnのアルバムタイトルにもなっており、ガンボを知ったのもここからだった気がします。

Dr. John playing \'IKO IKO\'


食べながら、独特なリズムのニューオーリンズサウンドが、脳内BGMで流れておりました。オクラのように粘っこいグルーヴ。

音楽や食文化を通して異文化に触れるというのは、クレオール(混交文化)化した価値観を形成する良いきっかけだと思いますね。

是非、あなた流のガンボを作ってみては?
ニューオーリンズにはない、家庭の味になるかもしれない。

小川未明のなつかしい童話

2010-10-11 | book
『小川未明童話集』(新潮文庫)は、童話集といえども、大人が読んでも楽しめる短篇集だ。
いつか見た夢のような、うつくしいものだけで組み立てられた幻想的なお話が、25編並んでいる。
「赤いろうそくと人魚」「月夜と眼鏡」「眠い街」、タイトルだけでも、ロマンチックな作風がうかがいしれるだろう。
だが、甘いだけではなく、メランコリックな空想の背後にある、現実の生活の苦さが、読後に残る。
民話や伝承のような、生活に根ざした物語は、手触りが確かに感じられ、味わい深い。
大人が読んでも楽しめるとオススメするゆえんだ。
特に、「牛女」という作品は、名品で、これだけでも是非読んでほしいと思うくらいだ。

小川未明の童話は、なつかしい。
このなつかしさはどこから来るのか。かつて童話を読んでいた記憶を呼び覚ますからか、ノスタルジックな「過去」を舞台としているからか。
作中に、「なつかしい」という比喩が頻出するのは、小川未明自身が、「なつかしさ」という、どこから来るのかわからない物語ることの原点を探っていたからだという気がする。

「空の色は、本当に、青い、なつかしい色をしていました。いろいろの花が咲くには、まだ早かったけれど、梅の花は、もう香っていました。」(飴チョコの天使)

「美代子さんは、そのこい売りのおじいさんにも、また自分のような年ごろの孫があるのだと知りました。そして、その子は、どんな顔つきであろう? なんとなくあってみたいような、またお友だちになりたいような、なんとなくなつかしい気持ちがしたのであります」(千代紙の春)

「おじいさんの着物には、北の国の生活が、しみこんでいるように感じられました。それは畑の枯れ草をぬくもらし、また町へつづく、さびしい道を照らした、太陽のにおいであると思うと、かぎりなくなつかしかったのです。」(かたい大きな手)

「なつかしさ」というキーワードから、坂口安吾のエッセー「文学のふるさと」を思い出す。
このエッセイで、坂口安吾は、童話「赤頭巾」のような例を挙げ、結末のない空白に読者を置き去りにするプリミティブな物語に「モラルのないことのモラル」を見出し、それは文学の「ふるさと」からやって来ると述べている。

坂口安吾の言う「ふるさと」と、小川未明の「なつかしさ」は、同質のものだと思う。
物語ることの源流は、精神の奥底にあり、そこに触れる「なつかしさ」が文学に魅力であり、私たちが求める物語の「ふるさと」なんだろう。

武満徹バースデー・コンサート

2010-10-11 | music
10月8日、東京オペラシティにて「武満徹80歳バースデー・コンサート」を聴いた。
10月8日は、武満の誕生日で、今年が生誕80年の年にあたる。
96年に65歳で亡くなっており、生前は存在をまったく知らなかった。
聴くようになったのは、ほんの4~5年前からだ。武満については以前にも書いたことがある。

オリヴァー・ナッセン指揮、ピーター・ゼルキン*ピアノ、武満との深い交流があったという指揮者演奏者が参加する演奏会ということもあり、生で武満の音楽世界に触れる格好の機会となった。
演奏された曲目は、

ウェーベルン:管弦楽のための6つの小品 op.6(1928年版)
ナッセン:ヤンダー城への道 op.21a~ファンタジーオペラ『ヒグレッティ・ピグレッティ・ポップ!』によるオーケストラのためのポプリ
武満 徹:リヴァラン *
武満 徹:アステリズム *
ドビュッシー:聖セバスティアンの殉教 ─ 交響的断章



オーケストラを生で聴くというのも、ほとんど初めてに近いことだったが、音が立体的に立ち上がってくる迫力がある。
特に武満の楽曲「アステリズム」には、すべての楽器を大音量で共鳴させるパートがあり、これは生ではないと味わえないと思った、この演奏会のハイライトだった。
音の響きも非常によい、ホールなんじゃないか。シロウトのにわかな感想だが。二階席の一番後ろの席だったが、遠さを感じなかった。
このコンサートホールは、タケミツ メモリアルと名づけられているのだった。

これから繰り返し武満が残した楽曲を聞き返すことだろう。
「ノーベンバー・ステップス」「ア・ストリング・アラウンド・オータム」など、秋に関する曲名が多いし、何度聴いてもよくわからないという思いが残るからだ。

10月8日は、自分の誕生日でもあったのだった。
武満のような巨星には遠く及ばないが、自分のなんとか精進していきたい。

消化試合はまるでビアガーデンのように

2010-10-11 | sports
大江戸線国立競技場駅から続く長い道をだらだら上ると、幻か神宮球場の明かりが見えてくる。
10月6日、ヤクルトスワローズ対広島カープの試合を観に行った。
8月ごろからの懸案だったが、なんだかんだで10月までずれ込んだ。社会人の約束なんてそんなものだ。
神宮球場の外野席、背もたれのないフラットタイプのイスがなんとも物見遊山なピクニック気分を誘う。
こういうところが、神宮球場の魅力だ。少し肌寒かったがビールがうまい。
みな同じ目的なのだろうか、消化試合はまるでビアガーデンのように、にぎわっていたのだった。
ヤクルトが完封で勝利したが、青木が守備だけしか出てこなかったのは残念だった。ヤクルトも広島も知ってる選手はほとんどいなかったし…。
たぶん今シーズン最後の野球観戦、来年も多く球場に足を運びたい。