リンムーの眼 rinmu's eye

リンムーの眼、私の視点。

トーキョー・カンコウ5

2007-07-30 | town
その5「ギンザ」
うだる暑さの週末、わたしはギンザの街を歩いていた。
ノープランでトーキョー散策を楽しめる東京メトロは最高だなと思いながら。


ブラブラ歩いて有楽町駅のガード下を通り過ぎる。
光と影、鉄橋のアーチが素敵だった。

東京国際フォーラムに寄ってみる。
船形のエントランスが格好良い。

鉄筋むきだしのいかにも現代建築なデザインだが。


敷地内のオブジェを占領する子供たち。
制作者も喜んでいることだろう。

歩行者天国をやってる通りを目指す。
ギンザをブラッとする楽しみの一つは、この歩行者天国の開放感だろう。


ステーショナリーの殿堂「伊東屋」に寄る。
目印の赤いクリップはいつ見てもチャーミング。

街はいつでも具体的で、通り過ぎる人達みなが具体的な生活を具体的に生きてる。
街はカタログじゃないんだ。
そんな当たり前のことを軽視してアイロニカルになっちまう日々の疲弊が、街で癒される。
だから週末はふらふらと街をほっつき歩きたくなるんだな。

ステレオ写真のすたるぢや

2007-07-29 | book
『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社)読む。
新潮社で出ていた、「フォト・ミュゼ」というソフト・カバーの写真選集シリーズの一冊。「フォト・ミュゼ」は、いつの間にか刊行がストップした。これは、初回配本の一冊だった。古本にて購入。

萩原朔太郎は、いわずと知れた詩人だ。「竹」とかよく教科書に載っている。
詩人が写真を撮っていても珍しいことじゃないが、ユニークなのはステレオ写真を主に撮っていたことである。

人間の眼は、左右別々にとらえた像を合わせて立体的に見ている。
だから、一つのものを片眼ずつ見ると、少しずれて見える。
ステレオ写真はその原理を利用して、少しずれた二枚の写真を、専用のヴューワーから覗いて、立体的な映像世界を得る、というものだ。

科学的な玩具みたいなもので、萩原朔太郎も当時後ろめたく感じつつもハマッていたらしい。
なんで萩原朔太郎はステレオ写真に惹かれたのか?
それは萩原朔太郎の詩的感受性とも関わりがある。

萩原朔太郎の詩のキーワードは「郷愁」だ。「僕の心の中には、昔から一種の郷愁が巣を食ってる」。それは「幼い日に聴いた母の子守唄」のようでもあるし、「無限へのロマンチックな思慕」でもあり、「心の哀切な歌」でもある。
そのような幻影の世界を創出するために、萩原朔太郎は詩を書き、ステレオ写真に夢中になった。
「僕の心のノスタルジアは、第三次元の空間からのみ構成される」のだ。

「猫街」という短編小説は、幻想世界がパタンと書割のように倒れて現実に引き戻される落差を、あざやかに描いている。
ステレオ写真もまた、小さい箱の中の二枚の写真が立体的に立ち上がり、眼を離すとまた平面の像に戻っているという落差が面白い。
このような落差に感じるめまいが、萩原朔太郎の詩的な資質にインスピレーションを与えていたのではないかと思う。

ステレオ写真は、「大人の科学」という付録つき雑誌で手に入るので、興味を持った方は、どうぞ。
あと、美術館のミュージアム・ショップで、同じ原理で名画が立体的に見えるっていうオペラグラスみたいなやつを売ってたりもする。僕はこちらを持っている。

こんなやつ。

カンボジアからの手紙

2007-07-28 | book
遠藤俊介著『カンボジアの子どもたち』(連合出版)読む。
タイトル通り、カンボジアで生活する子供たちのポートレイトを中心に編まれた写真集。
僕は、カンボジアのことをよく知らない。
どのような政治的・社会的変遷をたどり、現在どうあるのか、恥ずかしながら知識がない。
だから、写真から受ける印象だけを書くことにする。

子供たちのふるまいは明るく、純粋そのものだ。
カメラをのぞき込むピュアなまなざしは、現代日本の生活者の僕にとって、まぶしい。
まぶしすぎる。目を逸らしたくなってしまうほどに。
けれど、俊介はそのまなざしを受け止め、微笑みを返す。そんなやさしい空気が、写真に流れていると感じる。

俊介は僕の友人だ。
カンボジアからポストカードや年賀状を何度かもらったことがある。
僕はそれを、「今はこんな感じ」という近況報告として受け止めていた。
だから、この写真集も、その延長上で、彼の活動を見せてもらった感じだ。

以前見せてもらったことのあるモノクロ写真は収められていなかった。
作家性の高いモノクロよりも、親しみやすいカラーを、初の写真集に選んだところがあいつらしい。そう思いたい。
できればモノクロ写真の第二弾写真集や写真展など、次の便りを期待して待ちたい。


肖像写真を読む

2007-07-28 | book
多木浩二著『肖像写真』(岩波新書)読む。
十九世紀のナダール、二十世紀前半のザンダー、二十世紀後半のアヴェドン、それぞれ時代を代表する肖像写真を撮った写真家に焦点を絞って、考察した一冊。

ナダールは、写真が特別だった時代に特別な人々(ブルジョワジー層)を撮った。
交流の会った作家・芸術家の肖像は、“歴史上の人物“のアウラを漂わせている。
そのなかでも、ボードレールの肖像は、格別の輝きを放っている。
陰影の深い、重厚な雰囲気の肖像が多いなかで、ボードレールの肖像は、フラッシュを浴びたように白く浮かび上がっている。そして、流し目でこちらをうかがっている。

どこか中世的でナルシズムを感じさせるたたずまいは、後の“詩人”像の原型といってもいいだろう。ボードレールの『悪の華』がけして古びないように、その存在感はつねにアクチュアルだと、彼みずからが宣言しているかのような肖像写真である。

ザンダーは、ドイツの一地方の名もなき人々を撮った。
写真には、「」「」など、そっけない題名が付されるだけだ。
ザンダーの肖像写真で、最も魅力的な一枚は「舞踏会へ向う3人の農夫」だろう。
3人の若者が、正装をして田舎道を歩いている。特に似ているわけではないのだが、まるで三つ子のように同じポーズでカメラを見つめている。

名前を持たない通りがかりの3人の若者の視線は、写真を通して現在の私たちを見つめる。
過去の視線が現在を貫くアクチュアリティが写真の魅力なのだと気付かされる肖像写真である。

アヴェドンは、現代の写真家だから、肖像写真だけを撮っていたわけではない。
ナダールやザンダーの時代よりも、写真の表現の幅は広がり、肖像が担う意味は薄れた時代だ。
「ウィリアム・キャスビー」の肖像が、奴隷として生まれた人間の最後の一人を撮ったものだと知った時、私たちは一気に歴史に立ち会わされる。
アメリカの奴隷制度がかつて存在した、人類はそのような歴史を持った。そのことを、当事者の強いまなざしが、現代の私たちに伝える。
このまなざしは、けして歴史の象徴ではなく、具体的な現在性で私たちを見つめる。

肖像写真の被写体は、時代を超えたまなざしを私たちに投げかける。
見つめ返す私たちは、一枚の写真の前で、歴史と向き合っているのである。

封印歌謡を聴く

2007-07-23 | music
TBSラジオ特別番組「TABOO SONGS〜封印歌謡大全」を聴く。
いわゆる“放送禁止歌”と言われている楽曲を検証し、放送するという番組。
『封印歌謡大全』(三才ブックス)という本を元に製作されたそうで、著者の石橋春海がていねいに解説していた。

僕は“放送禁止歌”に以前から興味がある。それは、森達也の『放送禁止歌』(知恵の森文庫)を読んだからだ。
この本は、“放送禁止歌”など存在せず、製作者の自主規制とリスナーの思い込みで“放送禁止歌”が作られ、楽曲が無きものとされていく・・・という、きわめて日本的な体質を指摘していた。この本にはかなりの感銘を受けた。
だからこそ、本で歌詞を読むだけじゃなく、楽曲自体を聴きたいと思っていたが、なかなか叶わなかった。(「竹田の子守唄」や「イムジン河」は聴けたけど)

この番組で、岡林信康の「手紙」から梅宮辰夫の「シンボル・ロック」まで、政治的・社会的なテーマのものからお下劣なもの(このジャンルも昔からサザンが好きなので嫌いじゃない)まで、硬軟おりまぜて聴くことができた。

願わくば、これらの楽曲が特別番組じゃなくても聴けるようになってほしい。
オンエアされないだけじゃなく、CD化されていない楽曲もたくさんある。
そのためには、音楽の背景に対する理解、社会的な認識がより深まらなくてはならないだろう。

音楽の表現の奥深さに感じ入る二時間だった。

歩調

2007-07-22 | Weblog


歩くスピードを調えて歩きたい。
自分のリズムで足音を刻みたい。
となりの芝生は青いけど。
歩いてるのは大通りじゃなく、
人気の少ない路地かもしれないけど。
自分の道を、自分の足で歩きたい。

「ケモノは自分で作ろうと思ってケモノ道は作らない。ただ毎日そこを歩くだけだ。」(大竹伸朗)

「我が道を行く」のは孤高の感じだが、
横を見れば併走する盟友が見える。
それぞれ交わらない平行線を歩いているわけじゃなく、
どっかのわき道でつながり、道すじの片隅でいつでも逢える。
そう信じてる。
だから歩く。
自分の歩調を確かめながら。

球宴の週末

2007-07-22 | sports
7月20日金曜日、東京ドームにプロ野球オールスター戦を観に行く。

オールスターという、スペシャルな試合を、会社帰りにフラッと観に行けるしあわせ。駅から球場までの道を、ソワソワと早歩きしてしまう。
内野指定席に着くと、セ・リーグ先発上原は交代していた・・・。
オールスターだってのに、知らない選手も何人かいた。
それは僕がそれほど公式戦をチェックしてないってのもあるんだけど、昔に較べて選手が小粒になった感はある。
いつものようにビールを飲みながら観戦する。
試合はかなり淡々と進んだ。
特にサプライズな局面もなく、ラミネスと前田の連続ホームランで試合は決まった。
試合後は、水道橋に流れて焼肉屋でホルモンを中心に食する。
試合後に終電を気にせず飲み食いできる東京暮らしのしあわせ。
店を出ると小雨が降っていた。
夏スーツを脱いで小脇にかかえ、帰路に着いた。

雨降りの連休

2007-07-17 | Weblog
連休中、ずーと雨が降っていた。
雨に降られていた。降り込められていた。
ずぶ濡れの靴みたいに、ぐじゅぐじゅした違和感がいつまでも続いている。
雨はまだ降ってる。
はやく晴れればいいと思う。
足元を気にせず、前を向いて歩きたい。

ジュビリーな週末

2007-07-09 | Weblog


友人の結婚式に出席した。
おめでとう、それだけ。その一言に尽きる。

あとは、3、4年ぶりに会う大学の友人とのノンシャランな駄トーク。
僕以外のほとんどが学生寮の住人で(僕はそこによく遊びに行っていた。麻雀なんかしたりして)、久しぶりの気がしない、グダグダした空気感が、相変わらずで良かった。
ノリはあの頃と変わらないけど、みんな仕事に追われ妻子を抱える身になってんだよな…。
とにかく、ジュビリーな祝いのムードだった。

上の画像は会場となった日枝神社。
きれいな神社だったな。縁結びの神に二拝一礼。


下の画像は、帰りにもらった生花。
華のないヒトリモンだからね・・・。
花瓶はジャムの空き瓶で代用しましたよ。


アイス・コーヒー・ブレイク

2007-07-07 | coffee
アイスコーヒー始めました。
今までは、夏になるとパックやペットボトルですませて、自分で淹れてなかったんですが、今年はやってみようかなと思いました。
とりあえず深煎りの豆を買ってみました。まだホットでも飲みたくなるんで兼用しようと思いまして。

豆を通常より一杯強多めに入れて、抽出量を逆に3/2に抑える。で、かち割り氷(水道水から作るよりうまい気がする)を投入して一気に冷やす。
そして、よく冷えたグラスに注いで、飲みます。

うまいですね。市販よりかなり薄めだけど。淹れたてのぶん香りが楽しめます。
今の豆がなくなったら、アイスコーヒー用ブレンドを買ってきて、この夏はガンガン淹れていこうと思います。