吉田クリニック 院長のドタバタ日記

日頃の診療にまつわることや、お知らせ、そして世の中の出来事について思うところ書いています。診療日には毎日更新しています。

「徘徊」言い換え優しい街に 認知症JR事故あった大府 その3

2018年06月13日 05時36分13秒 | 日記
 「徘徊と表現することで「外出は危険という誤解や偏見につながる恐れがある」として、市は市民や関係団体にも理解を求める」と大府市ではいっているが、でも認知症患者さんの徘徊はやはり危険なのである。これは誤解ではない。この時のJR線路内に入り込んで列車にはねられ死亡した事故もどう見ても危険であろう。ご本人も危険であるし、この列車に乗っていた方も急ブレーキや脱線などでけがをされる場合もあるだろう。どう考えても危険なのである。それを危険ではない、徘徊と言う差別用語は使うべきではないと健常人の行動と同様化させてしまうことに違和感を覚える。
 このような痛ましい事故を未然に防ぐにはやはり言葉のみならず周囲の人がある程度気が付くような「区別」できるものを考慮する必要がある。知らない人がみて「あ あの人、少し変だ、このままだと線路内に入り込んで危なさそうだ。ちょっと声がけしよう」という行動につながるような目印や目安は必要だと考える。この用語を変えることが認知症患者の安全を確保することの本質的改善にはならない。
 区別はすることは必要であるが、この「区別」を「差別」というのでは、このような事故は今後も減らない。
 また列車事故でけがをされた傷病者には「しょうがないでしょう、相手は認知症の方なので何をされても責任はないの。あなた我慢しなさいね」などと理不尽な理由がつけられると、ある意味、別の意味での差別助長に繋がるかもしれないと危惧するのである。

「徘徊」言い換え優しい街に 認知症JR事故あった大府 その2

2018年06月12日 05時38分06秒 | 日記
 違和感がある。認知症の方の徘徊を「差別用語」とみたのである。
 認知症の方の徘徊は確かに「自分なりの理由」があるのである。しかし理由といっても通常の社会生活の中では破たんした理由であり、同じ環境内で共存するには周囲の人からは看過できない行動なのである。
 よって健常人の「外出中に道に迷う」こととは「区別」する必要があり、これは差別にはならない。
 近年ではどんな場合でも声高に人権、人権ということで全員を健常人と同じカテゴリーにしようと思っているのかもしれない。でも逆に認知症の方の人権を守るにはある意味周囲から分かるような「区分け」をして地域社会で声掛けなどのフォローができるようにした方がよい。

 昔は痴呆症という医学用語だったのだが、いつの間にかこの医学用語が差別用語ということにされてしまい、認知症という病名に言い換えられるようになった。
 でもこの認知症という言葉だって人間が差別する時に頻回に使うようになれば、数十年後は「認知症? 差別用語だ。呼称を変えるべき」という話になる。つまり、なんだか数十年おきに表面上の言葉だけがただ置き換えられているだけの話なんだと思う。

「徘徊」言い換え優しい街に 認知症JR事故あった大府 その1

2018年06月11日 05時40分15秒 | 日記
2018年05月24日 朝日新聞デジタル
 「徘徊(はいかい)」という言葉は使いません――。愛知県大府市は、行政文書や広報で、「徘徊」を「一人歩き」や「一人歩き中に道に迷う」など、状況に応じて言い換えることを決めた。
 ここ数年、認知症の当事者から「目的もなく歩き回るという意味の『徘徊』は実態にそぐわない」との声が上がっている。兵庫県や東京都国立市、福岡県大牟田市なども、「徘徊」の使用を取りやめた。
 大府市は昨年12月、「認知症に対する不安のないまちづくり推進条例」を全国で初めて制定し、今春施行した。関係者によると、大府市は、当事者の声や他自治体の動きを踏まえ、今後、「徘徊高齢者」を「外出中に道に迷った人」などと言い換える方針だ。
 認知症の人の外出は、目的や理由があることが多い。徘徊と表現することで「外出は危険という誤解や偏見につながる恐れがある」として、市は市民や関係団体にも理解を求める。

 大府市では2007年に、認知症の男性(当時91)が列車にはねられて亡くなった。この事故をめぐり、遺族がJR東海から損害賠償を求められたが、最高裁で賠償責任はないと結論づけられた。長男の高井隆一さん(67)は、大府市の対応について、「率直にうれしい」と歓迎する。高井さんは、父の死が「徘徊」と報道されるたびに、認知症の人が危険な存在という誤ったイメージが広がっているように感じたという。「ほかの自治体や報道機関にも、この流れが広がって欲しい」と話す。
 朝日新聞は今年3月から、認知症の人の行動を表す際に「徘徊」の言葉を原則として使わず、「外出中に道に迷う」などと表現しています。今後も認知症の人の思いや人権について、様々な側面から読者のみなさんと考えていきます。(斉藤佑介)
(以上ネットより)

日大アメフト部傷害事件 その7

2018年06月09日 05時52分53秒 | 日記
 5月29日のニュース。被害者学生の父からの発信であるが、加害者学生の減刑を求める嘆願書が出された。これには数万人の賛同が得られていると。このニュースを聞いてゾッとした。もちろん20歳の加害者学生が本名と顔をさらして記者会見に臨んだのであるから、その勇気と覚悟には脱帽する。すごいことである。
 しかしである。それと彼のなした傷害の罪とは別問題である。日本は法治国家であるので法律に基づいて粛々と判断されるべきである。
 嘆願書であるが、これは被害学生や被害を被ったその関連する組織など特定コミュニティ内での嘆願書であれば話は分かる。しかし不特定多数の無関係な市民の心情に訴えてこの嘆願書に賛同させるのは、これもまた思想誘導にもとれるのである。
 なんだかこのまま多くの無関係な市民の心情が動かされて国民感情にまで膨れ上がるとしたら、それは怖いことで、それがもし減刑の一助になったとしたら法治国家としての面目はない。
 もしかしたら「あいつを赦せ、(あるいはその逆の)処罰しろ」との民衆感情が生殺与奪の権限をもつ人民裁判のようになったら怖い。最近のSNS社会は拡散速度が速く、流行的に一つの流れができてしまうと、その流れと逆の意見は叩かれる(炎上する)。ある意味、怖い世の中である。
 もちろん加害学生の潔さには敬意を表するし同情もする。でもそれとこれとでは話が少し違う気がするのだ。

日大アメフト部傷害事件 その6

2018年06月08日 06時26分22秒 | 日記
 その5月23日の内田監督、井上コーチの記者会見であるが、記者の物言いには呆れた。どうも彼らは社会悪をあばく正義の味方とでも思っているようだ。いや実際はそうなのだろうがやり方が下世話で拙劣な事も多い。
 司会者が「同じ質問ばかりなので、会見を打ち切りたいと思います」と言うと、ある女性記者がヒステリックに「よくわからない(回答)だから同じ質問になるんじゃないですか。はっきり答えてください」と叫んだ。
 この女性記者は学生時代も授業中に「授業がよくわからない」からといって講義を中断させて同じ質問を何回も他の学生の前で平気でしたのであろうか? 分からないのは自分だけではなく他の人も全員分からず、皆自分の質問に同調してくれていると思っているのだろうか? 
 また、一応日大監督らは質疑に応答しているのだが、それでも納得しないのであれば、どう答えれば彼女は納得するのか? 「私が全部やりました。私が全部悪うございました」とまで言わせないと気が済まないのか?何だかこの女性記者も随分独りよがりな印象を受けた。
 別に日大監督やコーチに味方するわけではないし数ある状況証拠からすると限りなく大学側が怪しいとも思う。でも確定的な証拠がない所では、これら記者を含むマスメディアが思想誘導し社会全体に人民裁判を扇動しているような印象もうける。

日大アメフト部傷害事件 その5

2018年06月07日 06時42分11秒 | 日記
 5月23日、日大 内田監督、井上コーチが記者会見をひらいた。
 例によって報道記者のステレオタイプな「私は正義の味方です」的な質問には違和感を覚えた。司会者が質問を打ち切ろうとすると、言うに事欠いてある記者が「あなたのその発言が日大のブランドを下げますよ」って・・・。余計なお世話である。
 もともとに日大はマンモス大学で、各学部が一つの大学くらい大きい。つまり学部ごとに特徴が異なるため、日大と言う統一的なイメージはない。昔は「たこ足大学」ともよばれた。別に悪い意味ではなく、学部ごとの独自性を表現したものだ。
 記者の言う「日大のブランド」って何? よくわからん。記者自身も良く分かっていないような言葉を投げかけて相手の機先を制しようとする試みか? 極めて違和感あり。
 今回はなかったが、マスメディアの常套句で「国民は見てますよ」とか「国民になんて説明するんですか?」などと記者個人のうしろにはさも国民全員がついているとでも言っているような不遜な物言いには「あなた、一体何様ですか?」と感じてしまう。
 残念だが、あなたは別に国民総意の代弁者でもなく正義の味方でもないのだ。

日大アメフト部傷害事件 その4

2018年06月06日 06時04分55秒 | 日記
 アメフトはコンタクトスポーツであり格闘技に近いかもしれない。でも武道ではない。もちろん武道でも「反則すれすれ」の技や攻撃をしかける選手もいるだろう。あるいは武道では所謂「裏技」というものを審判に隠れて用いる場合もあろう。
 ただアメフトと違うところは武道は精神性を重んじるものである。格闘競技の目的は「相手を潰す」ことであるので、尚更相手に対してのリスペクトや敗者への思いやりが必要とされている。
 アメフトは相手を潰すことではなく点を取るのが目的である。だから武道と異なり、もともと道(自己修練、他者への配慮)としての精神性はない。アメフトはコンタクトスポーツなので相手にケガをさせることもあるが、今回最初からけがを負わせることを自ら是としてしまったのは、武道と異なり精神性による抑制がないからなのであろう。

 まあ今回は映像にはっきりと証拠が残る位のあからさまの反則タックルである。これはもう言い訳はできない。「やらざるを得ない状況だった」「コーチからの示唆があった」「追いつめられていた」とかの言い訳は通用しない。どうみても試合の流れの中で不可抗力とか、偶発的にとかではなく、意図的で「堂々とした」反則行為なのである。
 二十歳の青年には酷かもしれないが、やはり彼は実行犯なのである。事件の決着がすべて着いたら、その後は辛いだろうが「深い深い海の底で貝に」なってほしいのだ。

日大アメフト部傷害事件 その3

2018年06月05日 05時41分33秒 | 日記
 今回のアメフト事件であるが、この「私は貝になりたい」という話に似ていなくもない。監督には絶対服従である。理不尽と思っても相手にケガをさせることで自分がこのクラブ内で生き残れるのである(もし監督がケガさせろと命令を出したのが事実であれば)。
 ネットによる世の中の判断もこの選手に対して同情的であるし好意的であるし、しかも芸人カンニング竹山は「この選手を守ってあげなければならない」とまで言い切っている。確かに同情的にもなるし情状酌量の余地はある。

 でも守ってあげなければならないというのは行き過ぎである。というのは状況や動機はさておき、やはり彼は実行犯なのである。戦争犯罪の場合は戦時下という特殊状況である。もちろん比較の対象にはならないが、今回の場合は戦時下ではない現代社会での話である。試合から干される、あるいは今後の就職活動に影響を及ぼされるという報復を課せられても「相手にケガを負わせるということをすすんですることはお断りします」と言えたはずである。今の時代、憲兵隊にしょっ引かれることもないし軍法会議にかけられ非国民として監獄に入れられることもない。
 世の中の同情が行き過ぎて実際手を下した者を免罪してしまうことは行き過ぎと考えるのだが。

日大アメフト部傷害事件 その2

2018年06月04日 05時00分41秒 | 日記
 今回の事件も、コーチ、監督と選手との間に判断の乖離があったと言っている。これはそうなのかもしれないし、あるいはそうでないかもしれない。すでに連盟からこの2人は相手にケガをさせるよう指示したと認定されて除名になっている。
 しかしこの2人はあくまでも自分たちが命令したことを否定している。状況証拠的には監督指示はかなり濃厚であるが確定的な証拠はない。ところがメディアはすべて監督命令を確定させて話をすすめている。そして監督を完全に悪代官に決めつけているのである。まあたぶん真実はそうなのかもしれないと思う。でも監督も「そんな指示は出していない」と言っている以上、真実はいまだ闇である。

 昔、「私は貝になりたい」という映画があった。フランキー堺が主演であった。後年、中居正広も演じたかもしれない。内容は戦時中、上官の命令で捕虜に暴行を加えたり、銃剣で突き刺して処刑したりする話である。戦後になってその二等兵はMPに連行されて戦争裁判を受けるのである。
 当時の日本では上官の命令には絶対であり天皇陛下の命令と同じであると言われた。それなので嫌だとかいったら自分が非国民となり処罰をうけることになる。
 そこで理不尽であってもやむなく処刑に手を下したのであった。米軍側では上官に絶対服従という当時の日本の軍隊の規律やニュアンスがわからない。
 結局、やはり手を下したこの二等兵は死刑宣告を受けることになったという話である。

日大アメフト部傷害事件 その1

2018年06月02日 05時38分45秒 | 日記
 アメフトの試合で関西学院大の選手に違法なタックルしてケガを負わせた事件であるが、5月22日、この加害者である日大の選手が実名、顔出しで記者会見に臨んだ。若干20歳である。自分が二十歳の時なら世間に顔を曝した記者会見で自分が喋るなんぞということはできなかったろう。
 ネットでは「潔い」「勇気がある」「好感が持てる」「可哀想」などとこの男性にシンパシーが集まっている。大抵このような事件や問題がおこると、マスメディアの常套手段であるが、まず悪者を決める。それはおおむね「権力者(と思われる人物や組織)」がターゲットにされる。
 例えば、行政であったり政治家であったり医者とか大病院とかであり、この場合は所謂弱者と呼ばれる人は絶対ターゲットにはしないのである。(最近、理不尽な医療訴訟の結果を見るにつけ医者は絶対弱者だと思っている。医者が権力者側にされるのは昔からの「慣習」なのでしょうがない)
 また水戸黄門で言えば、代官や名主、また「越後屋、お前も悪よのぉ~」「いえいえ、お代官様ほどではござりませなんだ」「(二人一緒に)フォッフォッ・・・(笑い声)」という場面に代表される、越後屋主人であったりするのだ。

住所誤入力、救急車遅れる…死亡男性の遺族提訴 その6

2018年06月01日 05時47分54秒 | 日記
 いろいろな医療関係の裁判の判決をみていると妥当なものもあれば、むちゃくちゃな理由を医学的裏付けとして提出し、そして医療側に厳しい判決がくだった例も見受けられる。この医療裁判の難しさは医学的理由が立証しにくいことである。それを弁護士は「医学の部分」ではないところの駆け引きで自分の主張を通そうというわけである。今回の裁判もどちらに転ぶか見守りたい。
 それにしても過去、いつも消防側は弱腰なのが歯痒い。絶対医学的根拠などの証明は困難であるところであり、やるなら徹底的に最高裁までやってほしい。
 大抵はいつも「市民の皆さんゴメンナサイ」ではなかろうが、地裁レベルで白旗をあげてしまう。もし消防側が敗訴して諦めてしまうと、この判例は未来永劫残るのであるということを理解してほしい。
 過去にも早々の白旗で「死亡判断の9項目」という負の遺産を残した。

 今回のこの事例は3次救急事例なので地域メディカルコントロール協議会で十分事後検証をして、この10分以内なら助かったのか、ダメだったのかをきっちり事後検証する必要がある。
 消防、医療機関の検証医、病院における担当医を含め、医学的、かつ救急医療システム的に検討を加えるべきである。そうしないとど素人の弁護士が勝手に検証し勝手に結論でもだされたりして遺恨を残す。
 自分は過去東京消防庁の第5消防方面の救急事案の事後検証医を数年以上やってきた。ようやくメディカルコントロール制度が定着しつつあるところ、ど素人の弁護士なんぞにひっかき回されたくない。