我々(兄弟)のルーツ実母(84歳)が編んだハンドメイドかご

2011年03月30日 | 手芸ハンドメイド(かご)

このたびの地震により、被災されました皆様に対しまして心からお見舞いを申し上げますとともに、一日も早く復旧されることをお祈りいたします。

サマーバッグ七宝編みサマーバッグ。
麻紐で夏らしく編み上げました。
←我々兄弟の実母


母が編んだサマーバッグ↓

少し画像がピンボケです。こんな感じに仕上がりました↓

 



可愛いポシェット↑↓



母は(84歳)です。 父は大正12年生まれの88歳(生きていればのお話しですが・・・) 残念ながら3年前に85歳で他界。父は長崎県佐世保、大日本帝国海軍 兵長でした。 誠実な父親でしたので家は貧乏でしたが我々兄弟、姉3人を育ててくれて本当にありがとう、狭いながらの楽しい我が家でした。両親に感謝、感謝です。熊本県阿蘇郡南小国村で姉と兄は生まれ、当時の複雑な事情で私は母親の腹の中でしたが大分県の笹ケ平と言う所で生まれたと母は語ってくれました。私はこたつの中で出産、へその緒は産婆さんが間に合わなくて親父が切ったそうです。

その後は住まいを転々とし、福岡県の筑豊炭田(炭住)中炭、宮浦、一本松、浦松、上清社宅、一本松町営住宅18号と7回も引っ越し、それもほとんどがリヤカーでの引越しでした。
我々の両親は相当苦労はあったと思いますが、リヤカーでの引越しは疲れるなんてもんではありませんでした。なんせ盆地ですから坂道を登るのに家族全員で力を合わせヨイショ、ヨイショ、姉と兄弟3人にとっていやー実に楽しかった思い出ですね。

カンテラ下げてトロッコに乗り坑内に下がる“とうちゃん”の後ろ姿、豆炭鉱場、洗炭場、ブロック工場などで働く“かぁちゃん”。
かぁちゃんの働くとこを見た~♪
現在は炭住も取り壊されて殆ど残ってないようです。当時の思い出は我々姉、兄弟3人心の引き出しに仕舞っております。
土門拳の筑豊の子ども達に載っているのかもしれません。

私どもの父母は熊本県生まれの熊本育ちです。
(阿蘇郡大字南小国村字平 現在は町になっております。)
戦時中、母は高等女学校の生徒でしたが熊本県の軍需工場で勤労動員として武器生産など・・・
軍需工場はアメリカ空軍の標的になりグラマンでの機関砲の攻撃を防空壕の中で身をふるわせながら耐えていたそうです。
プシュン プシュンと防空壕に突き刺さる機関銃の弾の音が今も思い出されると私どもに話してくれます。それはそれはもう生きた心地はしなかったと子供のころから聞かされました。

戦時中は各家庭の金属類は強制 供出。
鍋、やかん、茶釜、包丁、かま、まさかり、鉄でできたものは何でも日本政府によって供出されたそうです。金属類を溶かして武器生産してたんですね。
当時はお金も紙幣が多かったのでしょうね。我々は戦後生まれですから当時のことは知る由もありません。

母は13年前にクモ膜下出血で倒れ、大手術の末一命をとりとめました。
それから3年後薬の副作用からかわかりませんが、
脳梗塞も患い右半身にマヒが残り、懸命にリハビリに取り組みながら手芸を始め、今では何でも編めるようになりました。

若いころは和裁、日本舞踊、活け花、等も得意でした。
今は民謡、和太鼓、カラオケなど社交の場も広げております。
激動の時代を生き抜いた母は老いてもますます元気!
もともと母は手先が器用でしたので兄も受け継いだのかも知れません。
普段のありのままの素顔をここに載せました。
今回の大地震で被災された皆様のお見舞いを申し上げますとともに、
一日も早い復旧、復興を心からお祈りいたします。

これから下は佐藤良一作品 “趣味の部屋”
シェルペンダントは夏のおしゃれアイテムに、
サザエとアワビ
貴方のセンスでお選びください。【作者:佐藤良一】















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