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歴史と文化の路を訪ねて

季刊同人誌「まんじ」に投稿した歴史探訪紀行文を掲載しています。

私の伊達政宗像を訪ねて(その1)

2018-08-01 09:55:13 | 私の伊達政宗像を訪ねて


同人誌「まんじ149号」(平成30年8月発行)に、拙ブログ「老いてなお青春」https://blog.goo.ne.jp/curtaincall_2007 から、伊達政宗に関する記事について、抜粋加筆して投稿(5部構成を予定)しましたのでここに掲載します。

題 : 『私の伊達政宗像を訪ねて(その1)』

【伊達政宗生誕450年】

昨年の2017年は「伊達政宗生誕四五〇年」、郷里宮城の各地で記念イベントが盛大に開催された。
昭和48年に渡辺謙演じるNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」がお茶の間を席巻、その視聴率は今なお歴代最高だという。遅れてきた戦国武将といわれ、幼く失明して友に抉らせ、拉致された父を敵将ごと銃撃、政宗毒殺未遂に弟を刺殺、母を追放、刀鍔の眼帯を掛け弦月形前立の黒漆塗甲冑姿で馬に跨り、天下への野望に燃えた独眼竜政宗、というイメージが強いが、果たして実像はいかに、郷土の英雄だけにかねてより関心を抱いていた。
大河ドラマの原作山岡荘八の小説「伊達政宗」を読み返し、帰省の折に仙台市博物館で展示物や資料に触れ、原史料に当たってみようと国立国会図書館に通い「伊達治家記録」を閲覧、インターネットで「吾妻鏡」や「大日本古文書」等を調べてみるが、新たな疑問が生まれ迷走するばかり、ここはやはり自分の足と目で歴史の現場を見なければと、政宗の縁故地で開催されるマラソン大会に参加しながら、伊達氏に纏わる史跡を訪ねてきた。
もとより歴史家でも文筆家でもない一介のマラソン愛好者、歴史好きで好奇心だけは人一倍と自負しており、今回の同人誌への投稿を機に、これまでマラソンブログ「老いてなお青春」に綴ってきた伊達政宗の実像を訪ねる独断と偏見の旅日記を纏めてみようと思っている。

【『奥の細道』の甲冑堂 】

宮城県に帰省する車窓から、福島駅で東北本線に乗換えてまもなく、眼下に信達平野が広がってくる。春には山麓一面に桃の花が咲き誇り、かつて頼朝軍と平泉軍が戦った阿津賀志山合戦場跡である。やがて県境の山並みに入ると、山林の中に「甲冑堂」の看板が見えてくる。
マラソンを始めてまもない平成19年11月、帰省自主トレ30キロランに挑戦した折、晩秋の「奥の細道」を走りながら、山中の甲冑堂まで足を延ばしてみた。
落ち葉舞う田村神社の境内に小さなお堂が佇み、源義経に殉じた佐藤継信・忠信兄弟の妻が夫の甲冑を纏って母乙羽姫を慰めたという伝承による妻二人の甲冑姿木像が閉じられた扉の格子越しにぼんやり見えていた。
傍らの桃隣句碑に「戦めく二人の嫁や花あやめ」と刻まれ、奥の細道に「二人の嫁がしるし先哀成」、ここまでやって来た芭蕉たちの感慨は如何ばかりだったろう。この逸話は戦前の教科書に取り上げられ、文部省唱歌にもなったというが、嫁の母への孝心が忠君愛国に利用されたのだとしたら悲しい話である。
この甲冑堂に祀られた継信・忠信兄弟の父佐藤庄司基治を阿津賀志山合戦で討ち取った武将が伊達氏の始祖で、その17代政宗が江戸時代に仙台藩62万石を開いたと聞いてはいたが、いつか機会があれば、伊達氏の始祖朝宗と佐藤庄司基治を訪ねて、2人の対決した阿津賀志山に足を運び歴史の息吹を肌で感じてきたいと思っていた。

【『吾妻鏡』の阿津賀志山合戦と念西 】

伊達氏が歴史に初めて登場したのは、鎌倉時代に編纂された「吾妻鏡」の建久2年(1191年)に、源頼朝の若公を産んだ大進局の父として伊達常陸入道念西の名で出てくる。この念西が、文治5年(1189年)の頼朝の奥州合戦に従軍、阿津賀志山合戦で平泉方武将佐藤庄司を討ち取る戦功を挙げ、恩賞に伊達郡を賜わり移住して伊達朝宗を名乗り、伊達氏初代とされている。
「吾妻鏡」は、治承4年(1180年)の頼朝の旗揚げから86年間の幕府の事蹟を鎌倉時代末期(1300年頃)に編纂した鎌倉幕府の正史である。
伊達氏のルーツを訪ねるに当たり、どうしても吾妻鏡の原文で確認したいことがあった。阿津賀志山合戦に参陣したのは子息たち四人で、父念西は参加していなかったという解釈があるらしい。伊達氏のルーツを訪ねる旅は、そんな拘りの究明から始まった。
「吾妻鏡」の文治5年8月8日に、3日間に亘る阿津賀志山合戦の初日の戦闘模様が詳述されている。



上の古文書は、天正18年の小田原攻めの時、和議成立の謝礼として北条氏から黒田孝高(官兵衛)に贈られ、後に徳川秀忠に献上された「北条本」と呼ばれる吾妻鏡の古写本で、左はその読み下し文である。
『八日乙未。金剛別當、數千騎を率い、阿津賀志山の前于陣す。夘剋、二品先ず試みに 畠山次郎重忠、小山七郎朝光、加藤次景廉、工藤小次郎行光、同三郎祐光等を遣はし、箭合せを始める。(中略)泰衡が郎從の信夫佐藤庄司、叔父河邊太郎高經、伊賀良目七郎高重等を相具し、石那坂之上于陣す。湟を堀り逢隈河の水於其の中へ懸け入れ、柵を引き石弓を張り討手を相待つ。爰に常陸入道念西子息常陸冠者為宗同次郎為重同三郎資綱同四郎為家等、潜に甲冑於秣之中に相具して、伊逹郡澤原邊于進み出で先登に矢石を發つ。佐藤庄司等死を爭ひて挑み戰う。為重、資綱、為家等疵被る。然而、為宗は殊に命を忘れ攻め戰う之間、庄司已下の宗たる者十八人之首、 為宗兄弟之を獲て、阿津賀志山上の經ケ岡于梟す也』
上の写本左頁1行目に、阿津賀志山合戦に参陣した念西一族を『常陸入道念西子息常陸冠者為宗云々』とあり、句読点がなく「念西と子息為宗」なのか「念西の子息為宗」なのか、andとofのどちらにも読めてくる。
子息云々の記述を外に探してみると、合戦前日の七日に『金剛別當秀綱其子下須房太郎已下二万騎』とあり、其子と書いて「秀綱とその子下須房太郎が」と読むのは明らか、更に翌々日の記述に『金剛別當子息下須房太郎秀方〔年十三〕殘留防戰』とあり、ここでは前後の文脈から「別当の子息が」と読むのは明らかである。
吾妻鏡の編者は、「其子」と「子息」を使い分けて、andとofを区別していた。とすれば「念西子息為宗」は「念西の子息為宗」と読むべきで、念西は参陣していなかったことになる。
前頁の写本左頁3行目からの佐藤庄司等との戦闘記述には、為重ら弟3人が傷を負い、長兄為宗が死を恐れず戦い、為宗兄弟は庄司以下18人の首を獲ったとあるが、父念西はその戦闘に登場してこない。
吾妻鏡の7月19日に、頼朝が鎌倉を出陣する御共の輩一四四人の名前が列記されているが、その中に為重と資綱の名はあるが、念西の名はなかった。
念西は、入道を名乗り常陸に隠居して従軍せず、代わりに子息達が参陣して、佐藤庄司を討ち取る戦功を挙げ恩賞に伊達郡を受領、長男為宗は郷里の常陸国伊佐に留まり、次男為重が伊達郡に下着したというから、為重こそ伊達氏初代とされるべきではないだろうか。
初めから霧に包まれた歴史を迷走する旅となったが、本稿では論旨が混乱するため通説をベースに進めていく。

【伊達氏のルーツ① 伊達氏の古系図】
 
伊達氏の始祖とされる吾妻鏡の常陸念西は、その名から常陸国に住した豪族だったのではないだろうか。
常陸国は、上総国、上野国と共に、国守に親王が補任される親王任国だが、実際に親王が任地に赴くことはなく、国司の実質的長官は、常陸介だったという。
室町時代に編纂された「尊卑分脈」の藤原北家魚名流山蔭の六代目実宗が、天永2年(1111年)にその常陸介に任ぜられて、常陸国伊佐郡中村に住しており、念西一族は、常陸介実宗の子孫だったかもしれない。
では伊達氏にどんな系譜が伝わっていたのだろうか。

十六世紀の伊達氏に伝わる古系図に、山蔭中納言政朝の子孫の中村常陸守入道宗村法名念西が伊達郡に下着したとする『天文系図』(初代宗村念西・二代義広・三代政依)と、山蔭中納言政朝の子の朝宗が伊達郡に下着して次代が宗村念西とする『天正系図』(初代朝宗・二代宗村念西・三代義広・四代政依)の二つがある。
両系図で祖とされる山陰中納言政朝は、歴史上実在しないが、今昔物語の「亀の恩返し」や御伽草子の「鉢かつぎ」の説話で亀や姫を助けた山陰中納言とされ、藤原北家の山蔭に比定されている。政宗の祖父晴宗の法語に「藤原末裔、風流太守、山蔭中将開闢洪基」とあり、親子相克の内乱を制した晴宗が、乱れた家中再建のために、親子愛の山陰中納言を祖とする天文系図を策定したのではないだろうか。そして古く伊達氏初代とされてきた「宗村」を吾妻鏡の「念西」にリンク付けて「宗村念西」の名で、天文系図の初代に位置付けたにちがいない。
40年後の天正系図では、自身を片目の万海上人の生れ変りと称し、伊達氏の元祖を清水観音の申し子「山蔭中納言卿」と認識していた政宗が、初代に山蔭中納言政朝の子朝宗を据え、天文系図で初代だった宗村念西を次代に下げている。なぜ政宗は古くから伊達氏初代とされてきた宗村念西の前に、朝宗を割り込ませたのだろうか。政宗は朝宗をどこから持ってきたのだろうか。
推測だが、伊達氏が始祖とした山陰中納言が比定される藤原山蔭の系図が、常陸介実宗の五代朝宗で途切れていることから、吾妻鏡の念西と年代的に符合する朝宗を伊達氏初代に据え、山蔭中納言の直系氏族とした伊達氏系図を策定し覇権に活かそうとしたのではないだろうか。

その後、江戸幕府の寛政諸家系図伝の編纂に当たり、仙台藩は「伊達正統世次考」を編纂して、初代朝宗を吾妻鏡の常陸念西に比定、初代念西朝宗・二代宗村・三代義広・四代政依とする伊達系図を策定した。
「伊達正統世次考」はいかなる根拠で、藤原北家魚名流の朝宗を吾妻鏡の念西に比定したのだろうか。
「吾妻鏡」の建久2年(1191年)に「女房大進局は伊達常陸入道念西息女」とあり、室町時代に成立した「尊卑分脈」の清和源氏系図に「頼朝の子貞暁の母大進局を伊達蔵人藤原頼宗女」とある。大進局とは、頼朝の側室で、産んだ若公とは、頼朝の正室政子の嫉妬を恐れて仁和寺に預けられた、後の貞暁である。
清和源氏系図にある藤原頼宗が「尊卑分脈」の藤原魚名流系図にある常陸介実宗の五代朝宗の朝を頼に誤記だとして、大進局を共通項に「吾妻鏡」の念西と「尊卑分脈」の朝宗を同一人物に判定したのであろう。
では吾妻鏡を知るはずの尊卑分脈の編者は、なぜ大進局を常陸念西息女でなく藤原頼宗女と書いたのだろうか。
推測だが、尊卑分脈の編纂時期は、伊達氏中興の祖といわれた九代政宗の時代である。正室が後円融天皇の生母と足利義満の生母の妹輪王寺殿で、足利将軍家と親交を図る九代政宗は、伊達氏の出自を名門藤原山蔭に求めるべく、尊卑分脈の編者に、伊達氏始祖の常陸念西と同時期に常陸に居たと思われる藤原山蔭流の常陸介藤原朝宗を比定させたのではないだろうか。政治力と財力を駆使して。頼の誤字は、編者の良心だったかもしれない。
本稿は「仙台市史通史編(古代中世)」を参考にしたが、系譜に隠された秘密に妄想は広がるばかりである。

【伊達氏のルーツ② 『伊達正統世次考』の背景】

江戸初期に伊達氏のルーツを求めて編纂された「伊達正統世次考」は、伊達氏に伝わる古系図の扱いに苦慮していた。伊達大祖が朝宗なのか宗村なのか、巻の冒頭から自問自答を繰り返し、最終的に宗村大祖説を妄説と否定、朝宗を伊達大祖と結論付け、朝宗を吾妻鏡の念西に比定して、念西を否定された宗村は、念西の長男為宗が常陸伊佐に留まり次男為重が伊達郡に下ったことから、為重に比定させ、幕府の寛政譜に引き継がれてゆく。
「伊達世次考」の編纂を命じた仙台藩四代藩主綱村は、元和2年の知行行状に「伊達氏正統第十九世」の朱印を使用していたが、編纂後の元禄16年に「伊達氏第二十世綱村」の朱印を使っている。朝宗を初代に据えて宗村を二代目に下げたことで、伊達氏系図が一代増え、綱村は伊達氏十九世から二十世に歴史認識を変えたのである。
それではなぜ綱村は宗村大祖から朝宗大祖に変説したのだろうか。背景に綱村の生い立ちが見えてくる。
綱村は伊達騒動と呼ばれた寛文事件の亀千代である。父綱宗が遊興放蕩を理由に強制隠居させられ、二才の亀千代が家督を相続したが、一門に毒殺を謀られ幕府による仙台藩分割の危機を体験した綱村は、伊達一門と旧臣の呪縛から逃れ、父綱宗が後西天皇と従兄弟同士という朝廷に近い家柄の復権を図り、伊達氏直系の正統性を誇示するには、吾妻鏡に名前が登場せず出自も明らかでない宗村が、伊達大祖では不具合だったのだろう。
綱村は、頼朝の従弟で従五位下の官位を持ち高松院非蔵人と院判官代を歴任した朝宗を、奥州合戦で活躍した念西に比定して初代当主に据え、仙台藩祖政宗が意図した伊達氏創世史を完成させたかったのではないだろうか。

【伊達氏のルーツ③ 藤原朝宗の出自】

伊達氏始祖とされた朝宗は、藤原北家魚名流である。藤原北家とは、乙巳の変で蘇我入鹿を倒した藤原鎌足の子不比等の次男房前を祖とする家系で藤原四家の一つ、邸宅が兄武智麻呂の北にあり、北家と呼ばれたという。
房前の五男魚名が天皇専制を志向する桓武天皇と対立、天武系皇族の叛乱に関わった疑いもあり左大臣を罷免左遷され、その子息達も左遷させられ地方の武家氏族となり、その子孫に奥州藤原氏、信夫佐藤氏、伊達氏がある。
伊達朝宗の出自について、東北大名誉教授の平重道氏が、昭和46年に宝文堂から発刊した「伊達治家記録」全24巻の「解説」の中で、次のように書いている。
『伊達氏は本姓藤原で大職冠鎌足より出ている。鎌足の曾孫に河辺左大臣魚名があり、魚名の玄孫従三位中納言山蔭が伊達の流祖である。山蔭の子孫に従五位下待賢明院非蔵人光隆と云う者があり、この光隆の第二子朝宗が実に伊達氏の第一世であった。』 
『朝宗は鎌足十七世の子孫に当り、母は源為義の女、初め時長と称し、東宮帯刀、高松院非蔵人、院判官代、従五位下遠江守、常陸介に歴任し、常陸国真壁郡伊佐荘中村に住したので伊佐或は中村を姓とした。文治五年、源頼朝の奥州征伐に諸子(為宗以下四人)を率いて従軍し、戦功があり、伊達郡を賜わった。因って伊達に姓を改め、同郡高子岡に城を営んで移住した。朝宗の戦功とは石那坂の戦いで先登し、信夫の佐藤荘司以下十八人を斬り阿津賀志山上に梟したものであった。』

【伊達氏のルーツ④ 光隆と朝宗の時代背景】

朝宗と父光隆の時代を俯瞰すると、朝宗の父光隆が仕えた待賢門院は、鳥羽天皇の中宮藤原璋子で、崇徳天皇と後白河天皇の母であり、朝宗が仕えた高松院は、鳥羽天皇が寵愛した美福門院藤原得子との娘妹子内親王で、後に後白河法皇の子二条天皇の中宮となる。
待賢門院は淫奔な中宮といわれ、鳥羽天皇の祖父白河法皇の寵愛を受けており、崇徳天皇は鳥羽天皇との子ではなく白河法皇の胤と言われ、保元の乱の遠因となる。
1086年に子の堀河天皇に譲位した白河天皇が上皇となり院政を敷き、堀河天皇が29才で崩御すると、孫の鳥羽天皇を5才で即位させる。1123年に白河法皇は21才の鳥羽天皇を譲位させ、待賢門院との子と噂される5才の崇徳天皇を即位させる。白河法皇の崩御で白河院政が終焉すると、鳥羽上皇が院政を敷き、1142年に鳥羽上皇は、我が子でないと疑う崇徳天皇を譲位させ、寵妃美福門院との子近衛天皇を3才で即位させる。
1155年に近衛天皇が17才で急逝すると鳥羽法皇は、実子の後白河天皇を即位させ、息子の重仁親王を擁して院政を敷こうとする崇徳上皇と対立、翌年に鳥羽法皇が崩御すると、後白河天皇と崇徳上皇の対立はついに朝廷を二分して武士を巻き込んだ保元の乱となる。

「真岡市史」に、朝宗が1156年に下野国中村荘に住し中村太郎と称したとあるが、この年は保元の乱の年である。「伊達正統世次考」に『光隆公保元元年に白川で戦死』とあり、白川が保元の乱で崇徳上皇方の武将が集結して後白河天皇方に焼き討ちされた白河殿だとすると、崇徳の母待賢門院の非蔵人だった光隆は、息子朝宗と共に義父の源為義に従って崇徳上皇方として戦い敗れ、父光隆を喪った朝宗は郷里下野に戻ったのであろうか。
下野に帰国していた朝宗はその後再び上番、父光隆が非蔵人をしていた待賢門院の子後白河天皇の皇子守仁親王(東宮)の帯刀となる。後白河天皇が守仁親王に譲位して二条天皇に即位させるが、二条天皇は天皇親政を目指して後白河上皇の院政に対立して摂関家に接近、藤原育子を入内させると、后位を追われた中宮の妹人内親王は高松院を号して朝宗はその非蔵人となり、その後、後白河上皇の院判官代になったのかもしれない。
真岡市教育委員会「真岡の歴史」に、朝宗が1171年に職を辞し下野中村に戻り荘厳寺を再興したとある。



この年は平治の乱で源義朝を破った平清盛が軍事警察権を掌握して院政を開き、後白河法皇と対立した年である。後白河法皇の権勢衰退に、朝宗は再び下野国中村に戻り剃髪して常陸入道念西を名乗り隠棲したのであろうか。
常陸念西の名が歴史に登場するのは、吾妻鏡の文治2年に大進局の父として、それまでの空白の15年間、御家人として頼朝の平家追討に従軍しなかったのだろうか。もしかしたら常陸源氏の志田義広の頼朝討伐(野木宮合戦)に関与して吾妻鏡から抹殺されていたのだろうか。

【伊達氏のルーツ⑤ 朝宗の母源為義女】

「伊達正統世次考」に朝宗の母が源為義の女とあり、光隆と為義の接点はどんな形であったのか推測してみた。
清和天皇の孫源経基を始祖とする清和源氏は、藤原摂関家に仕えて勢力を伸ばし、経基の孫頼信・頼義親子が「平忠常の乱」を平定した折、乱の鎮圧に失敗して更迭されていた前任の平直方が、頼義の武勇に惚れて娘を嫁がせ、鎌倉の所領と坂東平氏郎党を頼義に譲り渡し、後の源氏の東国支配の礎となったといわれる。
清和源氏と桓武平氏の血を受け継いで武家の棟梁と崇められた源義家が没すると、嫡男義親が乱行を繰り返して平正盛に誅殺され、家督を継いだ三男義忠が叔父の義綱に暗殺され、その義綱を成敗した為義が源氏の棟梁となるも、名門源氏は相次ぐ内紛で名実ともに凋落、義親を討伐した平正盛の名声が源氏を凌いで、やがて忠盛・清盛と続く伊勢平氏の興隆期を築いていく。
源義綱の叛乱を討った功で左衛門少尉に任ぜられ、白河法皇の院御所守護を担い検非違使となった為義は、凋落した源氏の権勢を挽回すべく、崇徳天皇の実母で白河法皇の寵愛する待賢門院に接近しようと、待賢門院非蔵人の光隆に娘を娶わせたのであろうか。
「伊達出自世次考」に朝宗の誕生が大治五年とあり、光隆が待賢門院非蔵人になる長承二年の二年前になる。為義が待賢門院に接近するため非蔵人の光隆に娘を娶わせたとする推測は年代的に成り立たない。光隆の父家周は、従四位下で宮中の宿直警護する大舎人を統率補助する大舎人助、為義は光隆の父家周に接近すべく、娘を家周の子息光隆に娶わせたのかもしれない。

【福島に伊達氏発祥の地を訪ねて】

①念西が討ち取った佐藤庄司基治とは

念西が佐藤庄司を討ち取った石那坂の戦いが、吾妻鏡の阿津賀志山合戦初日の半分を占めており、それほどの扱いを受ける佐藤庄司とはいかほどの武将なのだろうか。
佐藤庄司基治は、藤原北家魚名流で、940年に起きた「平将門の乱」を桓武平氏の平貞盛と共に鎮圧して関東に多くの武家氏族を残した藤原秀郷の子孫である。
奥州藤原二代基衡の弟清綱の娘を後妻に迎え、福島県中通りから山形県南部さらに会津まで支配圏を広げた豪族で、庄司の名は荘園を管理する荘司に由来するという。
後妻乙羽姫との子継信・忠信は、義経が兄頼朝の平家追討の挙兵に平泉から馳せ参じる際、奥州藤原三代秀衡が家来に付けた武将で、兄継信は屋島の戦いで平教経の矢から義経をかばって討ち死、弟忠信は頼朝に追われる義経に同道、吉野山で別れて京に残り討手に誅殺され、後世の歌舞伎「義経千本桜」の狐忠信のモデルである。
継信・忠信の父基治は、娘を義経の側室に、その姉を秀衡の三男忠衡の正妻に娶わせ、奥州合戦で阿津賀志山に布陣して平泉軍総大将になった秀衡の長男国衡の母は、信夫佐藤氏の娘ともいわれている。
秀衡の三男忠衡は、父秀衡の遺言を守り義経を大将軍に擁して頼朝に対抗せんとして兄泰衡に誅殺されたが、奥州藤原氏と強固な血縁と主従関係を結ぶ基治は、秀衡亡き後の奥州平泉を守護する超大物であり、朝宗はその基治を討ち取る大殊勲を挙げたのである。

②石那坂合戦場はどこか

念西が佐藤基治を討ち取った石那坂合戦場はどこにあるのだろうか。定説では、東北本線南福島駅から南2キロの丘陵地帯:石名坂が比定されている。
白河関を越えて福島県の中通りを北上してくる頼朝の大軍を福島盆地南端入口で迎撃する作戦だったことになるが、石那坂合戦の前日には、頼朝軍は既にこの石名坂を通過して遥か北に22キロの福島盆地北端の阿津賀志山麓の国見に着陣している。
平泉軍が福島盆地の北と南に22キロも離れた二か所で、大軍で頼朝軍を包囲するのなら兎も角、10分の1の兵力を二分して挟撃戦に挑むとはとても考えられない。「吾妻鏡」には、念西が伊達郡澤原に進出して石那坂の上に陣取る佐藤庄司を奇襲したとある。伊達郡とは、基治の居城大鳥城の北側を西から東に流れて阿武隈川に注ぐ摺上川の左岸側で、右岸側が信夫郡、念西が摺上川の左岸から右岸にある信夫郡の基治陣地に奇襲をかけたとすれば、基治が陣取った石那坂は、居城の大鳥城周辺だったことになる。その界隈は現在の飯坂温泉、石那坂は飯坂の古名だったかもしれない。
佐藤基治は、居城の大鳥城から南に13キロも離れた福島盆地南端の石名坂まで出陣したのではなく、居城近くに布陣して頼朝の大軍を迎撃せんとしたにちがいない。
「福島県通史」に「伊達郡澤原は信夫郡佐原なり、鎌倉の記録係が地名を誤りしものなり」とあるが、佐原を澤原と誤記することはあっても信夫郡を伊達郡とは誤記しないだろう。石名坂説を定説にしたい意図が見えてくる。

③佐藤庄司基治の菩提寺:医王寺

2015年5月、仙台国際マラソン大会前日、福島駅に途中下車して飯坂線に乗換え、佐藤庄司基治の菩提寺「医王寺」に向かった。参道奥の薬師堂に植わる古木「乙和の椿」は、継信忠信兄弟の死に悲しむ母情が乗り移ったのか、蕾のまま咲かずに落ちてしまうのだという。
境内の芭蕉の句碑『笈も太刀も五月にかざれ紙幟』は五月節句に勇ましく幟は旗めくが、寺に仕舞われている弁慶の笈や義経の太刀も一緒に飾って欲しい、彼らの武勇の悲話を忘れないで欲しい、と嘆じているようだ。

④佐藤庄司基治の居城:大鳥城跡

飯坂温泉駅でレンタサイクルを借り、温泉街の西側の小高い標高130Mの館山に築かれた大鳥城に向かった。
「吾妻鏡」に「泰衡郎従信夫の佐藤庄司、石那坂の上に陣す、隍を堀り逢隈河の水をその中に懸け入れ、柵を引き石弓を張り、討手を相待つ」とあり、基治は、居城大鳥城の館山麓に布陣して、濠を掘り阿武隈川支流から水を引き、柵を張り頼朝軍を迎撃せんとしたのであろう。
山頂の本丸跡に登り眼下に福島盆地を俯瞰すると、北方の阿津賀志山麓に布陣する平泉軍と対峙する頼朝の大軍がすぐ足元に見えてきそうだ。頼朝の遠征軍を背後から襲える好位置に、関ヶ原の南宮山に布陣した西軍毛利秀元が浮かんできた。もし秀元が家康本陣を腹背から攻撃していたら、そしてもし基治がここから頼朝本陣の背後を突いていたら、歴史は変わっていたかもしれない。 
念西は、この大鳥城の北側の摺上川を渡河して山麓の基治陣地の背後から奇襲したのだろう。もし念西が基治を討ち取っていなければ、頼朝軍は正面の阿津賀志山に布陣する藤原国衡軍と背後の大鳥城山麓に布陣する佐藤基治軍の両面作戦を強いられることになる。緒戦に背後の敵を駆逐した念西の軍功は、まさに大殊勲だった。
頼朝にとって大軍を率いた本格的な戦闘は、この阿津賀志山合戦が実質初戦だったろう。石橋山の旗揚げは寡兵だったし、大軍で臨んだ富士川合戦は平家軍が水鳥の羽音で戦わずに敗走、一ノ谷・屋島・壇ノ浦は全て弟の義経と範頼の戦功である。自ら大軍を率いて奥州十七万騎と恐れられた平泉軍に挑んだ頼朝は、実質初戦の勝利を決定付けた念西の武功を大いに評価したにちがいない。

⑤初代朝宗の居城:高子岡城跡

大鳥城を探索したあと、念西が阿津賀志山合戦の功で頼朝より賜った伊達郡に最初に築城した「高子岡城跡」に向かった。飯坂温泉駅から福島駅に戻り、阿武隈急行線に乗換えて5つ目の高子駅に下車、田圃の中を北に八分程で高さ30M程の小高い丘が高子岡城址である。
山裾の桃畑を登ると山頂に亀岡八幡宮が建ち、福島盆地が360度に開け、伊達朝宗を名乗った念西の昂揚感が伝わってくる。朝宗は四百年後の1589年に十七代政宗が会津蘆名氏を滅ぼし南奥州の覇者になると想像し得ただろうか。山頂にある円露磐は巨石信仰の祭祀場なのか。蝦夷の神アラハバキが鎮座する神聖な磐座に、朝宗は新しい蝦夷の支配者として君臨したのかもしれない。
高子岡城の南600Mの高子沼に立ち寄った。案内板に、かつて高子地区の山々は有望な金鉱山で、政宗が秀吉に伊達郡を召上げられた時、その痕跡を隠すため土手を築き金鉱山精錬所を水底に沈めた、とあった。高子から北8キロに見える半田銀山は大同年間(九世紀)に採掘が始まった鉱山である。朝宗は信達平野の豊沃な土地と金銀の資源を得て伊達氏繁栄の基礎を築いたのである。



⑥伊達氏の本拠地:梁川城跡

阿武隈急行線で高子駅から七つ先のやながわ希望の森公園駅に下車、駅前の八百屋さんで自転車を借り、梁川城跡に向かった。梁川の町中の各所に城郭の土塁らしき 遺構が見え、中世城郭の面影が微かながら伝わってくる。
梁川城は、四代政依から十四代稙宗が桑折西山城に移すまでの280年、伊達氏の本拠地であり、梁川に城を移した政依は、仏心に厚く豊富な財力を使って京都五山に倣い伊達五山の寺院を創建、伊達氏は地頭・奥州探題の要職を得て、梁川は南奥州の要として栄えたという。
高台の本丸跡に建つ梁川小学校校舎は東日本大震災で損壊して使用不能のまま、今春に新校舎が別に完成して仮設校舎から移転したという。小学校校庭の一角に、東日本唯一の中世庭園といわれる「心字の池」が復元されて、ここが本丸跡だったことを僅かに今に伝えていた。
天文の乱で父稙宗を破った晴宗が、1548年に本拠を桑折西山城から米沢城に移し、政宗は米沢で生まれるが、梁川城は引き続き伊達領の重要拠点であり、政宗初陣の相馬氏との戦いでは伊達軍の拠点となり、また政宗の正室愛姫輿入れでは、田村家からの花嫁の受け渡しは梁川城だったという。
伊達氏が秀吉の奥州仕置で米沢から岩出山に移封されると、梁川は会津に入封してきた蒲生氏そして上杉氏の所領となる。一六〇〇年に家康が会津上杉討伐の軍を発すると、政宗は上杉領になっていた白石城を攻略して奪還、石田三成の挙兵で西に引き返す家康が、政宗に上杉領になっていた旧領7郡49万石の領土自力回復を許す書状(百万石のお墨付き)を送り、政宗は自ら兵を率いて旧領地奪還のため南進するが、梁川城の上杉勢の猛反撃で宿願の故地奪還はついに果たすことはできなかった。
後に米沢藩三代上杉綱勝が嗣子なく急死、忠臣蔵の吉良上野介義央の長子綱憲を養子に迎えて上杉家の存続は認められたが、30万石から15万石に厳封、伊達郡は没収されて徳川幕府の天領となり梁川城は廃城とされた。

⑦奥州合戦の阿津賀志山古戦場

梁川城を後に一級河川の阿武隈川を渡り北西に四キロ自転車を走らせ「阿津賀志山麓の防塁跡」に向かった。
信達平野の田畑の中に、背丈が隠れる程の土塁と空堀の二重堀が一部復元されていた。阿津賀志山麓から阿武隈川畔まで三キロにわたり防塁を築いて矢楯を並べ、騎馬武者隊を先頭に攻め寄せる鎌倉の大軍を迎え撃つ平泉軍との両軍四万の激しい戦闘シーンが浮かんでくる。
この一戦に勝利した頼朝軍はその後殆ど抵抗なく平泉に攻め上がったから、奥州藤原氏にとって阿津賀志山は最初で最後の絶対防衛線だったのである。防塁の築造について、吾妻鏡に『泰衡日来二品(頼朝)発向し給う事を聞き、阿津賀志山に於いて城壁を築き要害を固む。国見の宿と彼の山との中間に、俄に口五丈の堀を構え、逢隈河の流れを堰入れ柵す。』とあるが、伊達郡国見町のHPには、延べ25万人六ケ月以上かかったとあった。
頼朝の鎌倉出発が7月19日、阿津賀志山合戦が8月8日、この長大な防塁が20日足らずで完成出来るはずがなく、国見町HPにあるように六ヶ月以上かかったとすると、泰衡が頼朝の圧力に屈して義経を殺害した4月30日より三ケ月も前に既に着工していたことになる。
藤原三代秀衡が「義経を大将軍に頼朝の攻撃に備えよ」と遺言しており、義経が頼朝の奥州攻めを想定した迎撃戦線を平泉から遥か140キロも南の阿津賀志山麓に構築したのだとしたら、天性の戦略を生かした地形上の立地もあったろうが、義経を終始後見してきた佐藤基治の支配地域だったことも大きな理由だったにちがいない。
奥州合戦に勝利した頼朝は、平泉の生命線ともいえるこの伊達郡を念西に恩賞で与え、奥州征伐後の平泉残存勢力の抑えの大役を念西に託したのではないだろうか。

⑧朝宗夫人結城氏女墓所の福聚寺

阿津賀志山麓防塁跡から梁川駅に戻る途中、国見町にある初代朝宗夫人結城氏女の菩提寺福聚寺に立ち寄った。
政宗は、秀吉の奥州仕置きによる会津から米沢そして仙台への移封に伴い、伊達氏四代政依が伊達郡に創建した伊達五山を仙台城下に遷したが、五山の一つ光明寺内にあった初代朝宗夫人墓所を守るため、塔頭の一つを福聚寺に創建したという。
田圃の中を北へ20分、左手の大木戸に布陣する平泉軍総大将藤原国衡の本陣を思い浮かべながら、阿津賀志山の真東二キロに福聚寺があった。住職が快く本堂裏の朝宗夫人墓まで案内してくれた。赤色石材の格子で囲う墓所に五輪塔が建ち、石柱に「常陸介伊達朝宗室結城氏墓所」とあり、供物台に彫られた「丸に縦三引き」の紋は、始祖朝宗が頼朝から下賜された伊達家の紋である。
結城氏は、藤原秀郷の末裔で下野国小山の豪族小山政光の七郎朝光が1183年の野木宮合戦の恩賞で下総国結城を受領し結城氏を名乗ったことに始まるといわれる。
朝宗夫人とされる結城氏女は、結城氏初代朝光の娘なのだろうか。奥州合戦時に結城朝光は満21才、念西の息子達が15~20才台とすると、朝光の娘が念西の妻となり子息達の母親になれるはずがない。
念西は入道を名乗り隠居して合戦に参加せず、戦功で伊達郡に移住したのが二代目とされる念西の次男為重(宗村)だとしたら、結城氏女が嫁いだのは宗村であり、宗村こそ伊達氏初代だったのではないだろうか。

福聚寺の登り口に建つ由来碑に、当寺を創建した四代政依を三代政依と刻されていた。ここでは「天文系図」の初代宗村・二代義広・三代政依が伝承されていた。
初代朝宗の菩提寺とされる満勝寺について、江戸元禄時代の仙台地誌「仙台鹿の子」に「太守の遠祖常陸入道宗村君の墳墓元伊達郡桑折にあるを慶長年中黄門(政宗のこと)寺院を移す」とあり、満勝寺は宗村の菩提寺だったらしい。仙台藩四代綱村が伊達氏始祖の権威付けのため、宗村太祖を否定して藤原北家の藤原朝宗を伊達大祖に据えたため、それまで宗村だったものが悉く朝宗のものに置き換えられてしまったのではないだろうか。
結城氏女墓所に戻り合掌しながら「あなたの夫は宗村だったんですか」と問いかけた。私の伊達氏のルーツを訪ねる暗中模索の旅は、意外な所で光明が見えてきた。

【伊達氏前史(十七代政宗の誕生まで)】

伊達氏正史は、奥州合戦の功で伊達郡を与えられ常陸国から陸奥国に移住した念西が伊達氏初代朝宗とする。
四代政依は、仏心深く財力を生かし京の東福寺から仏智禅師を請じて京都五山や鎌倉五山に倣い伊達五山を創建する。七代行宗は、後醍醐天皇の建武新政の評定衆となり、奥州における南朝方武将として北畠顕家の二度の上洛に従い、多賀城国府が北朝方に占拠されると国府を伊達郡の霊山城に移して奥州武将第一の名声を得る。
八代宗遠は、長井氏・亘理氏を討ち、米沢・刈田・伊具・柴田郡を攻め取り、足利将軍に朝参帰服して鎌倉公方と関東管領の支配を却け、直接京都の将軍と結びつく。

九代政宗は、足利義満の生母の妹を正室に迎えて足利二代将軍義詮の義弟となり、三代将軍義満の京都扶持衆となって所領割譲を求めてきた関東管領足利満兼と対決して鎌倉の大軍を撃退、伊達家中興の祖といわれる。 十代氏宗は、鎌倉公方足利氏満の傘下に参じ、以後の伊達家歴代当主は将軍家から諱をもらい勢力拡大を図る。十一代持宗は、奥州で三千騎を有する武将六人あるが七千騎を有するは伊達持宗ひとりといわれ、将軍義政に黄金3万両を献じたという。十二代成宗は、従四位上奥州探題に任ぜられ、二度の上洛で足利将軍義政・義尚に太刀23振、馬95頭、砂金380両を献上したという。
十三代尚宗は、越後守護上杉家から正室を迎え、嫡男稙宗と内乱を起す。十四代稙宗は、会津蘆名氏から正室を迎え、藤原秀衡以来の陸奥国守護に任ぜられ、塵芥集と御段銭帳を制定して領内支配を強化、子女を大崎・葛西・相馬・蘆名諸氏に政略結婚させ、更に三男を越後守護上杉氏の養嗣子に送らんとして、稙宗の拡張主義に反対する嫡男晴宗が強権的な稙宗に不満を持つ家臣団を組織して反抗、奥州豪族を二分する7年に及ぶ内乱「天文の乱」に発展、伊達氏の支配力が衰退、周辺豪族が伊達氏からの従属関係を脱し戦国大名として自立していく。

天文の乱に勝利し本拠を福島から米沢に移した十五代晴宗は、内乱で動揺した家臣団の統制と勢力の挽回を図り、1555年に奥州探題職に任ぜられる。十六代輝宗は、天文の乱で晴宗を支え伊達家を実質支配していた中野宗時ら重臣を粛清、父晴宗を杉目城に閑居させ実権を掌握、中央の織田信長と誼を通じ勢力を回復させていく。
天正12年、輝宗は弱冠18才の政宗に家督を譲る。輝宗41才、激動の戦乱の時代に、なぜ輝宗は若き政宗に伊達家の命運を託したのだろうか。その翌年に輝宗の悲劇が起る。政宗は父輝宗の凄惨な死を乗越えて南奥州を制覇していくが、藤原氏と源氏と平氏の流れを汲む華麗な血統と陸奥守護と奥州探題の名門への誇りと自負が、やがて天下人となる秀吉や家康に臆することなく堂々と向き合えていけた所以なのかもしれない。 

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