歴史と文化の路を訪ねて

季刊同人誌「まんじ」に投稿した歴史探訪紀行文を掲載しています。

私の本州マラソン歴史紀行(関東編③《埼玉県》)

2023-08-01 23:32:43 | 私の本州マラソン歴史紀行
【埼玉県①:行田市に古墳群を訪ねて】

埼玉県名の発祥地といわれる行田市埼玉は、古代律令制下の行政区画の名称を纏めた「倭名類聚抄」に「郡:佐伊太末、郷:佐以多萬」とあり、五世紀後半から七世紀中頃に築造された九基の大型古墳が集中して大きな勢力圏が形成されていた。
東京都と神奈川県の境を流れる多摩川下流域の南武蔵に、四世紀後半から五世紀にかけて築造された前方後円墳が、六世紀後半から七世紀に入ると大型古墳の築造はなくなり、代わって、群馬県の利根川上流域の上毛野と埼玉県の元荒川上流域の北武蔵に、五世紀中頃から六世紀前半にかけて巨大な前方後円墳が築造され、南武蔵に拮抗する勢力圏が形成されて、六世紀中頃には関東地方の南から北に勢力圏の移動があったようである。
かかる古墳分布の南北移動は、安閑天皇元年(534年)に起きた「武蔵国造の乱」で、北武蔵の武蔵国造笠原直使主と南武蔵の小杵が国造の位を相争い、小杵が上毛野の小熊に支援を求めて使主の殺害を謀り、使主が朝廷に申し立てて国造となり、結果的に小杵は誅殺され、勝者の使主はこれを喜び、朝廷に四つの屯倉を献上したという日本書紀の記述を考古学的に裏付けている。
武蔵国造の乱は、北武蔵に勢力を広げる笠原使主を支援する大和政権と南武蔵の小杵を支援する上毛野政権の代理戦争といわれ、北九州で起きた磐井の乱と共に大和政権による国家統一の一環だったとする説がある。
行田市埼玉の「さきたま古墳群」は、武蔵国造の乱に勝利して武蔵国造となった笠原直使主とその子孫が、大和政権との関係強化を図りながら武蔵地域を統合した首長の墓域として造営されたのかもしれない。

【稲荷山古墳出土鉄剣の銘文が伝える古代史】

昭和43年(1968年)に行田市さきたま古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣の保存処理の過程で浮かび上がった金象嵌の銘文が大和政権による日本統一国家形成の時期を解明する重要な手がかりをもたらした。
昭和30年代の高度経済成長の掛け声による各地の遺跡破壊が社会問題となり、点から面への保存事業として、文化庁が「さきたま風土記の丘」構想を打ち出し、40年に指定古墳と周辺園地の用地買収が進められ、内部が公開できる古墳を一基発掘しようと、前方部が破壊されていた稲荷山古墳の主体部調査が始まった。
明治26年に発掘調査された隣接する将軍塚古墳と同じ横穴式古墳を想定して後円部に横穴式石室を求めたが見当たらず、竪穴式も想定しなければと墳頂部を30センチほど掘ったところ、L字型に並ぶ礫槨と粘土槨の埋葬施設が発見され、礫槨から大量の副葬品が出土した。
頭の部分に画文帯神獣鏡一面、銀環二個、ヒスイの勾玉一個、腹の部分に龍の文様と鈴が付いた帯金具、両脇の頭寄りに直刀と鉾、足寄りに鉄剣が置かれていた。
この鉄剣の保存処理のためエックス線撮影がなされて銘文のあることが判明、54年から奈良文化財研究所で鉄剣の研ぎ出し作業が行われ、百十五文字の金象嵌銘文が時空を超えて蘇り、世紀の大発見ニュースとなった。
鉄剣銘文の訓み下し(大野晋:学習院大学教授)
「辛亥の年七月中に記す。乎獲居の臣、上祖意富比垝、其の児多加利足尼、其の児の名、弖已加利獲居、其の児の名、多加披弥獲居、其の児の名、多沙鬼獲居、其の児の名、半弖比、其の児の名、加差披余、其の児の名、乎獲居臣。世々杖刀人の首と為りて、事へ奉り来りて今に至る。獲加多支鹵大王の寺、斯鬼宮に在る時に、吾天下を治むることを左く。此の百練の利刀を作ら令めて吾が事へ奉る根原を記す也」
要約すると「辛亥の年七月中に記す。私は祖先が意富比垝(オホヒコ)の八代目乎獲居臣(ヲワケノオミ)である。代々近衛兵の長として仕えて今に至る。獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)の朝廷がシキの宮に在った時に、天下統治をお助けした。百練の利刀を作らせて刻字し、自分がお仕えしてきた由来を記す」と述べている。
国宝銘文鉄剣(埼玉県立さきたま史跡の博物館展示)



乎獲居臣の上祖の意富比垝(オホヒコ)は、孝元天皇第一皇子で崇神天皇が四道将軍として北陸に派遣した大彦命(古事記の大毘古命)が比定されている。
辛亥の年は、雄略記の471年と継体記の531年の2説あるが、銘文の獲加多支鹵(ワカタケル)大王が、日本書紀に大泊瀬幼武(わかたけ)天皇、古事記に大長谷若建(わかたけ)命とある雄略天皇が比定され、鉄剣の辛亥の年を471年とするのが定説である。

明治6年に熊本県江田船山古墳に出土した在銘大刀に刻まれた75文字に欠落と判読不能箇所があり、銘文の「治天下獲○○○鹵大王」がこれまで五世紀前半の終わり頃に大王だった反正天皇と推定されていたが、稲荷山古墳出土の鉄剣銘文から獲加多支鹵大王と読めることが判明、五世紀後半中頃の雄略天皇の時代に大和政権の勢力が関東と九州に及んでいたことが立証された。
また稲荷山古墳で銘文鉄剣と一緒に副葬されていた画文帯人神獣鏡の同笵鏡が、群馬県と千葉県、福岡県、宮崎県の四古墳にだけ出土しており、大和政権を支える関東と九州が特殊な関係にあったことも証明された。
そして鉄剣の銘文は、1500年の時を超えて、四道将軍の大彦命を祖先にする乎獲居臣が、雄略天皇の近衛隊長として活躍したことを誇って刻字させた鉄剣を抱いて稲荷山古墳に眠っていることを今に伝えていた。 
雄略天皇は、仁徳天皇の第四皇子允恭天皇の第五皇子で、中国正史「宗書」の倭国伝に登場する「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」の最後の武王に比定され、478年に倭王武の宗への上表文で、大和朝廷の国土統一を伝えており、雄略天皇の崩年が日本書紀に己未年(479年)とあり、五世紀後半の築造とされる日本最大の大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)の被葬者とする説がある。
仁徳の崩御で第一皇子履中天皇が弟住吉仲皇子を誅殺して即位、履中の崩御で弟反正天皇が即位、反正の崩御で弟允恭が即位、允恭が崩御すると允恭の第二皇子安康天皇が廃太子された兄木梨軽皇子に替わって即位し仁徳の皇子大草香皇子を誅殺するが、その子眉輪王に暗殺され、眉輪王と二人の兄と履中の皇子市辺押磐皇子を粛正して即位したのが允恭の第五皇子雄略天皇である。
王権争奪を巡る骨肉の争いの最終勝者となり、大王を中心に中央集権体制を固めた雄略天皇を支えたのが鉄剣銘文にある近衛隊長乎獲居臣だったのかもしれない。

辛亥の年を471年に比定する定説に対して、昭和53年埼玉新聞社発行の冊子「稲荷山古墳」に大野晋教授が「鉄剣銘文百十五文字からみた日本語の源流」と題して辛亥の年を531年ととるべきと論述されていた。
大野教授は、鉄剣銘文の中の「獲加多支鹵大王寺、在斯鬼宮時、吾左治天下」の「在斯鬼宮時」の「時」という言葉に着目、この「時」の前後をどう読むかによって文意がかなり違ってくる、と問題提起した。
「在斯鬼宮時」の「時」を過去形にとり「ワカタケル大王の朝廷がシキの宮に在った時に、私も天下を治めることをおたすけした」と解釈すると、この文章を書いた時点(辛亥の年)は、雄略天皇の治世(日本書紀によれば456年から479年)が終わった479年以降ということになり、辛亥の年を定説の471年に比定することはできず、531年にしなければならなくなるという。さすが国語学者、まさに目から鱗である。
乎獲居臣が辛亥の年531年に銘文鉄剣を作ったとすると、雄略天皇が崩御した479年の52年後、30歳に近衛隊長だったとして乎獲居臣は82歳という高齢になってしまうが、雄略天皇の崩年を古事記の己巳年(489年)だとすると、鉄剣を作らせた時の乎獲居臣の年齢は72歳となり、その何年か後に稲荷山古墳の被葬者になったとしても年齢的に整合性はあるだろう。

鉄剣銘文にある獲加多支鹵(ワカタケル)大王が、雄略天皇ではなく欽明天皇だ、とする説がある。
銘文の獲加多支鹵大王を固有名詞ではなく普通名詞と捉えて銘文にある斯鬼宮に着目、雄略天皇の宮殿は泊瀬朝倉宮で銘文の斯鬼宮と一致せず、斯鬼宮(シキの宮)に似た名前の磯城島金刺宮(シキシマカナサシの宮)を宮殿にする欽明天皇こそ乎獲居臣が仕えた大王で、辛亥の年は欽明天皇が即位した531年だという。
この年は「百済本記」に「日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」とあり、雄略天皇の五代後の継体天皇と太子・皇子が共に薨去、安閑・宣化天皇と欽明天皇の二朝が並立して内乱が起きたとされる辛亥の変の年である。この年に銘文鉄剣を作った乎獲居臣は、内乱を勝ち抜いた欽明天皇の天下取りに貢献した近衛隊長だったのかもしれない。
雄略天皇の泊瀬朝倉宮と欽明天皇の磯城島金刺宮を、奈良県桜井市の地図で見ると、二つの宮は初瀬川(大和川上流)に沿って約二キロの至近距離にある。
明治13年の奈良県行政区画にある城上(シキノカミ)郡に朝倉村と初瀬町があり、奈良時代には共に磯城(シキ)郡に属しており、雄略天皇の泊瀬朝倉宮は磯城郡にあって通称シキの宮とも呼ばれていて、乎獲居臣は鉄剣に斯鬼(シキ)宮と刻ませたのかもしれない。
 
鉄剣銘文の系譜を改めてみると、孝元天皇第一皇子の大彦命を上祖に、二代から五代まで皇族系カバネの足尼(スクネ)と獲居(ワケ)が付くのは当然として、六代と七代にはカバネが付いておらず、八代の自分は、助字の乎を頭に、獲居と臣の二つのカバネが並べただけで、本来の自分の名がない不自然な系譜である。
銘文の二代多加利足尼が四道将軍として東海に派遣された武淳川別命、三代弖已加利獲居がその子豊韓別命に比定できるとしたら、乎獲居臣は、大王に左治した東国豪族として出自の由緒を誇示するため、派遣された東国に土着した大彦命の子孫を自称したのかもしれない。
そして五代まで皇族系カバネの付く大彦命の子孫の名を転用、六代の祖父と七代の父は、カバネのない豪族であることが周知されて、さすがにカバネを詐称することが出来ず、先人の皇族系カバネの獲居を自分の名にして銘文にある系譜を創作させたのではないだろうか。

乎獲居臣は一体何者なのだろうか。大和政権から北武蔵に派遣された畿内の中央豪族なのだろうか。それとも雄略天皇に近侍して帰国した地方豪族なのだろうか。
前掲の国語学者大野晋教授が、鉄剣の銘文に当時の武蔵国の発音の状態が反映していると指摘していた。
鉄剣銘文の系譜の三代の弖已加利獲居(テヨカリワケ)は、本朝皇胤紹運録にある大彦命の孫の豊韓別命(トヨカラワケ)と同人物とされるが、テヨはトヨの方言形であり、系譜の五代の多沙鬼(タサキ)は、古事記の佐佐紀(ササキ)の訛りであると推定していた。
大野教授の推測通りなら、乎獲居臣は武蔵国の出身で上番して知りえた四道将軍大彦命の系譜を持ち帰った地方豪族だったことになるが、その後の研究を待ちたい。

【行田市鉄剣マラソン大会(2008年)】

行田マラソンの朝(四月六日)不思議な夢を見た。 マラソンの帰りに大学同期の友を見舞うと、ベッドに座り直してネクタイを締め背広を羽織ろうとしていた。「どうしたんだ!」と問い詰めると「俺は肝硬変なんだが、肝臓移植をしないと生きられない。移植の順番は、社会復帰出来る奴から優先されるんだ」と言う。頑健を装う健気な彼に思わず抱きつき泣いてしまった、そこで目が覚めた。彼が誰だったか思い出せないが、生きたいという強い気持ちに衝撃を受けた。元気な体を持てている今に感謝して、今日のマラソンを走り切ろうと思う。
大宮でJR高崎線に乗り換え、乗車30分程で行田駅に下車、駅前からシャトルバスで大会会場に向かった。
行田市は、後に小説と映画「のぼうの城」の舞台となった成田氏の城下町、忍城は、激動の戦国時代を生き抜いた名城である。秀吉が10万の大軍を率いて小田原攻めを始めた際、成田氏は圧倒的に劣勢な小田原北条氏に与して将兵2000で籠城、10倍の石田三成軍の猛攻と水攻めに合いながら、小田原が降服まで落ちることはなかったという。バスの車窓に、下克上の戦国時代にあって主従の忠義を全うした成田忍城の雄姿を期待したが、見過ごしてしまったようだ。

シャトルバス20分程で大会会場「古代蓮の里」に到着した。JR行田駅前の閑散な様子に拍子抜けしていたが、広々した大会会場には、5キロとハーフ21キロのほか、小中学生のレースも組まれて、参加者総勢4000人以上の人出で大変な賑わいになっていた。
受付と着替えを要領よく済ませ、公園内を軽くジョグしながら裏手の蓮池に出ると、昭和46年に造成工事中に掘り起こされた1400年~3000年前の古代蓮の実が自然に発芽して開花したという立て看板があった。
本大会は、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の国宝指定を記念して「鉄剣マラソン」と銘打って始まった大会である。今日のコースは、古代蓮の里公園をスタート、公園外周を大回りして行田市街に入り、三成が忍城を水攻めした時に構築した石田堤を走り、桜咲くさきたま古墳公園の中を縦走して古代蓮の里に戻る21キロである。
春爛漫の暖かなマラソン日和である。ハーフ1300人がスタート地点に終結、少しも気負うことのない自然体で屈伸とジャンプを繰り返しながらスタートを待っていると、ピストルの音は聞こえなかったが、前方から大きな歓声と拍手が聞こえてきた。スタート地点を通過する時、スピーカーから「前半は無理しないで」というゲストの谷川真理さんの声が聞こえてきた。
昨年九月に国立競技場で開催された日本移植者協議会主催のグリーンリボンフェスティバルのランニング教室で、マイクを持って間近を走りながらアドバイスをする谷川真理さんの颯爽と走る煌めくような姿態に魅了されたことが思い出された。今日は走らないのだろうか。

最初の1キロが5分5秒、調子は上々、昨日の昼のお花見で五時間も飲んでいたのに気分は爽快である。やがてコースは、耕耘機で掘り起こされたままの広大な乾土の田んぼの中を走り、L字に折れた農道の先にランナーの列が数珠繋ぎに見え、その先頭は遥か彼方である。
2.5キロで見沼代用水に出ると、左手に用水堀、右手に美しい菜の花ロードが延びていた。甘ったるい菜の花の香りを嗅ぎながら、今年1月に房総半島南端のフラワーラインを走った初フルマラソンが浮かんできた。
あの時は、太平洋岸沿いに菜の花が続くフラワーラインを折り返して丘陵に入ると、足に豆が出来てペースダウン、制限時間の五時間が迫る中、リタイアを覚悟したが、地元高校生たちが「負けないで」を歌ってゴールまで伴走してくれたお陰で、制限時間をオーバーしながら涙のゴールをした感動が、昨日のようである。
古代蓮の里の裏側に戻り、桜並木ロードに入るとまもなく、賑やかな会話がすぐ左隣から聞こえてきた。ゲストランナーの谷川真理さんが蜜蜂に仮装したランナーに追い付いて話し掛けていた。蜜蜂さんとはラン友のようで、楽しそうな二人の会話に耳を傾けながら、手を伸ばせば触れられる距離感で100メートル程を並走した。
我々のスタートを見送ってから最後尾から追い上げてきたのだろう。長い髪をなびかせて、しなやかに颯爽と走る谷川真理さんの隣を走っていると、自分までが蝶が舞うように軽やかに走れるのだから不思議である。去年の国立競技場のグリーンリボンに参加しましたよと声掛けようとしたが、谷川真理さんは、追っ掛け集団を引き連れるようにスパートしていった。

行田市街地を抜け、7キロ過ぎから忍川沿いの桜並木道に入った。暑い陽射しを避け、桜の花びらが一面に敷き詰められた木陰の花びらロードを踏み締めて、忍川の緩やかな淀みに浮かぶ美しい花いかだの紋様を横目に、風に舞う花吹雪を手のひらに受けて桜花との戯れを楽しみながら桜並木道を走り抜けた。
再び市街地に入ると家族ぐるみの応援に応えるランナー達の微笑ましい光景が目の前に繰り広げられていた。
組織的な応援ではないが、自宅の前に並んで見知らぬランナーに思い思いに寄せられる三世代家族の心のこもった声援には、これまで以上に意識して応えるように心掛けた。お年寄りや子供さん達に走り寄って連続ハイタッチを交わしあい、沿道の声援に、頑張りまあーす、と大声で応える楽しさに自己陶酔していた。
10キロで53分45秒。ペースは落ちてきたが、余力も十分で1時間50分で走り切れるかもしれない。
12キロを過ぎると武蔵水路に並行した「さきたま緑道」が直線で約2キロ続いていた。暑い陽射しを遮る桜並木の日陰のトンネルをひた走り、爽やかな風を頬に、落伍し始めたランナーを抜き去り快適なランである。
左手の武蔵水路は、利根川の利根大堰で取水した水を鴻巣市で荒川に注ぐ連絡水路で、埼玉県と東京都の都市用水と隅田川の浄化用水を運んでいるという。水質の汚濁した都心の河川の水量を増やして汚濁を薄めるという姑息な発想で、生物学的・化学的には本質的な水質浄化策ではないと思うのだが、それを事業化した政治力と実行力には敬意を表したい。

やがて緑道を右折、三列の桜並木を突き抜けると、前方の視界が広がり、東日本最大の古墳群が見えてきた。花見客で溢れる公園内を走りながら、給水所で両足指の摩擦熱を冷ますべく、靴先に水を掛けてやった。やがて目の前に大山のような丸墓山古墳が現れた。直径105mもある巨大な円墳を外周、隣の稲荷山古墳の西縁を廻って、菜の花の黄色で彩られた中腹に無数の復元埴輪が飾られた将軍山古墳を左に、まさに古代ロマンに夢を馳せながら行田さきたま古墳群の中を駆け抜けた。
古墳公園を抜けると、遥かにスタート兼ゴールの古代蓮の里の展望台が見えてきた。残り5キロ、キロ5分30秒前後のペースに落ちて、目標の1時間50分達成は無理だが、なんとしても55分は切りたい。
沿道の手作りの応援に応えながら、これまでの大会では必ず襲われた筋肉痛も、立ち止まって膝の屈伸することもなく、残り一キロ強の直線ロードを全力疾走した。
なかなか近付かないゴールアーチに向かって歯を食い縛りピッチを落とすことなく、今朝の夢で感じた走れる喜びを体現しながらついに走り切れた。
ゴールタイムは1時間54分18秒。20度近い初夏のような暑さのなか、桜と古墳に自然と歴史を楽しみながら、55分を切ったベストタイムで走り切れたのだから、これ以上の贅沢はないだろう。

【さきたま古墳公園を歴史散策】

今日のマラソンコースには桜と古墳の見所が多く、帰路はかなり歩くことになるが、大会専用シャトルバスは利用せず、古代蓮の里からさきたま古墳公園経由で吹上駅まで歩くことにした。
さっきまでのマラソン大会の喧騒が嘘のようで、人っ子一人いない旧忍川の土手を約四キロ、さきたま古墳群にまず向かった。沼地のような湿原に、白鷺の美しい姿が点在してさえずり声が飛び交い、走り終えた重い足取りながら、のどかな歴史ロマンの散策となった。
九基の古墳を抱える「さきたま古墳公園」は、37万㎡、東京ドーム八個相当の広さで、学術上の価値が特に高く我が国文化の象徴たるものとして、後に県内初の国宝に相当する特別史跡に指定された。



まずマラソンの復路で最初に出会った丸墓山古墳に向かった。墳丘の麓に立つ案内板に「直径105mあり円墳では日本最大、墳丘は埼玉古墳群の中で1番高く約19mあり、墳丘につかわれた土の量は二子山古墳より多かったという試算もある。出土した埴輪から、六世紀前半ごろに築かれたと推定されるが、埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていない」とあった。
墳丘の階段を登ると、墳頂に5本の桜の大木から花吹雪が春風に舞っていた。頬を突き出して花びらを受けとめ、秀吉の小田原北条攻めで石田三成が忍城攻略の陣を張ったという歴史ロマンに思いを馳せてみた。
西北西の方向2.4キロ先に、忍城の三階櫓が微かに遠望できた。三成がここを起点に総延長28キロの石田堤を築いて利根川と荒川から水を引いて水攻めをしたという。眼下に水面に浮かぶ忍城の姿を思い浮かべてみた。



墳頂の東側に回ると、高さ19mとは思えない眼下に広がるさきたま古墳群の眺望は、さすがに絶景である。稲荷山古墳や二子山古墳を眼下に睥睨する丸墓山古墳はさきたま古墳群の盟主の墓のような存在感である。
丸墓山は名前通りの巨大な円墳だが、石田堤が円墳の南側に築かれており、他の古墳と同じ南北主軸線だとすると、三成が陣地構築のため前方部が掘削して、元はさきたま古墳群最大の前方後円墳だったかもしれない。
墳頂から下りると、三成が1590年に忍城を水攻めした時に築いた石田堤に沿った満開の桜並木は、今まさに盛りを過ぎんと、春の風に舞う花吹雪が天空を覆い、足元を雪のように敷き詰めた花びらが花道を作り、華やかさと儚さの同居した抒情的な景観に独り酔い痴れた。

次いで隣接する銘文鉄剣出土の稲荷山古墳に向かった。さきたま古墳群九基の中で最も古く、全長120m、後円部径62m、高さ11mの前方後円墳である。
後円部の墳頂に登ると、銘文鉄剣が発見された河原石が敷かれた礫槨が、発掘当時のまま晒されていた。1500年の時を超えて囁く被葬者の声が聞こえてきそうである。鉄剣に思いを刻んだ被葬者の安寧を祈り合掌した。
金象嵌銘文の発見が、大和政権の勢力が当時既に北関東まで及んでいたという学術的資料としてだけでなく、我々を古代の壮大なロマンの世界に誘い込んで古代人の息吹に触れさせてくれた感動が思い起こされる。

礫槨とL字形で粘土槨が発掘されていたが、粘土槨は後円部の中軸線に直角に、礫槨は中軸線に並行だが少し西にずれて、粘土槨の方が先に造られたのだろう。
古墳の築造時期は出土した埴輪や土器から五世紀末から六世紀初頭とみられており、鉄剣銘文に刻された辛亥の年が531年とすると、粘土槨に眠る父加差披余(カサヒレ)のために築造された稲荷山古墳に、鉄剣の持ち主の乎獲居臣が礫槨に追葬されたのかもしれない。
L字形に並ぶ粘土槨と礫槨が、墳頂の中心点から少し南にずれていることが気になった。なぜ墳頂の真ん中ではないのだろう。もしかしたら墳頂の中心のもう少し深い所に本来の埋葬施設があり、そこに古墳の築造主が眠っているのかもしれない。その被葬者こそ銘文鉄剣の乎獲居臣の祖父でカバネの付いていない実在を予感させる半弖比(ハテヒ)で、この地に一大勢力を築いた宗主ではないだろうか。足元に人知れず眠っているかもしれないもう一人の被葬者にしばし思いを馳せていた。
後円部の墳頂から前方部の墳丘の延長線上に奥多摩の山並み、その上に冠雪の富士の頂きが微かに望めた。
行田市さきたま古墳と同じく東松山市野本将軍塚古墳や東日本最大の群馬県太田市天神山古墳の主軸線が、いずれも南から西へ40度ほどずれた方角に聳える富士山を指している。走湯山縁起に482年頃に富士山が噴火した記述があり、北関東の古代人には、南北を主軸にする北極星信仰ではなく、南西の方角に噴煙上げて荒ぶる富士への畏敬と崇拝の信仰があったのかもしれない。

古墳散策を終えて3キロ先の吹上駅まで歩き始めていると、ちょうど路線バスが来たので飛び乗った。まもなくバス停音声ガイドが「ものつくり大学前」の名を告げた。21世紀を担う若者の創造的な技術者養成のために開学されたものつくり大学で、初代総長が30年程前の私に歴史ロマンの扉を開けてくれた梅原猛である。
法隆寺が聖徳太子の怨霊を閉じ込めるため建立されたという「法隆寺論」と「梅原哲学」に、仕事オンリーだった当時、大きな衝撃を受けたことが思い出された。


【埼玉県②:熊谷市に今昔物語を訪ねて】

2015年3月22日、埼玉にもようやく桜の便りが届くようになった。この時季は桜の花を愛でながら走ろうと、2008年に行田市さきたま古墳公園、2009年に幸手市権現堂桜堤、2010年に小山市思川桜堤、2012年に郷里宮城の一目千本桜堤、今年は熊谷市の「熊谷さくらマラソン大会」にエントリーした。
熊谷市は、同じ埼玉に住みながら高校サッカーの応援で一度行っただけだが、市の広報を覗いてみると、熊谷の桜堤は江戸時代からの桜の名所で日本さくら名所100選に選ばれ、市の花火大会は関東最大級の規模で80年の歴史があり、八坂神社例大祭のうちわ祭りは12台の山車や屋台が市街を練り歩いて延べ70万人の集客を誇る関東一の祇園祭と言われるという。
平成19年に日本最高気温40.9度を記録して以来「日本一暑い街」として全国に知られるようになり、熊谷市のシンボルキャラクターが、汗だくでうちわを扇ぐ太陽君の「あつべえ」とは、関東一のうちわ祭りと日本一の暑さをセットに売り出す商魂はさすがである。
その熊谷市が先日、2019年に日本で開催される「ラグビーW杯」の開催都市に選ばれた。熊谷市内には≪東の熊谷、西の花園≫と言われた高校ラグビーの名門校があり「サッカーの浦和」に負けない「ラグビーの熊谷」の名声は全国区、まさにラグビータウンである。四年後のラグビーワールドカップ2019では、熊谷は大いに暑く熱い盛り上がりを見せてくれるに違いない。
その日本一暑い熊谷市に、悲しく熱い日があったことはあまり知られていない。太平洋戦争終戦の日の8月15日に、米軍機による日本最後の空襲で埼玉県最大規模の空襲が、熊谷市を襲ったのである。
熊谷市には中島飛行機の部品製造など軍需関連の重点拠点があったが、米軍の爆撃目標は、住宅地域だった。米軍B29爆撃機81機が、住宅地域全域に焼夷弾8000発を投下、市街地の七四%が焼失して266人が死亡、約3000人が負傷する甚大な被害があった。
前日の14四日正午にボツダム宣言の受諾が決まり、詔書の発行が午後11時、中立国のスイス経由で米国に通告されたのは15日午前7時すぎ、この時すでに熊谷の街は燃え尽きていた。終戦の日に爆撃は中止できなかったのだろうか、戦争の非情さを改めて思い知らされる。

先月末に東京国立博物館の「みちのくの仏像」展で、慈愛に満ちた東北三大薬師如来坐像(岩手黒石寺・宮城双林寺・福島勝常寺)と東日本大震災の大津波に耐えた十一面観音菩薩立像(石巻給分浜観音堂)に対面したあと、本館二階で眼と口を丸く開けておどけた表情でポーズをとる二体の埴輪「踊る人々」に足を止められた。
教科書に載る有名な埴輪だが、埼玉県熊谷市の野原古墳から出土したものだったとは知らなかった。今回、熊谷桜堤ランを楽しみに熊谷マラソンにエントリーしたが、時間が許せば野原古墳まで足を伸ばして埴輪「踊る人々」のふるさとを訪ねて古代ロマンに思いを馳せてきたい。

【熊谷次郎直実と平敦盛の悲劇】

熊谷と聞いて思い浮かぶのが源平合戦の「熊谷次郎直実」である。熊谷直実は、源義経に従って一ノ谷の戦いで平敦盛を討ち取り、後に出家した武将で、直実と敦盛の悲劇は、武士の性と世の無常を表現する題材として、能や歌舞伎の演目に取り上げられている。
熊谷直実は、桓武天皇の孫高望王が平姓を賜与されて臣籍降下し坂東に下向して土着した桓武平氏の末裔である。平高望―国香―貞盛―維将―維時―直方の五代孫で、後に鎌倉幕府の初代執権となる北条時政も平直方から分かれた五代孫で直実と同族である。
直実の父・平直貞が、武蔵国熊谷郷の領主となり熊谷を名乗るが17才で死去、2才の直実は母方の伯父久下直光に養われ、15歳で保元の乱で源義朝に従い、平治の乱では源義平に従うが平重盛に敗れて熊谷に帰る。
その後、養父直光の代理で京の警備に当たり、直光に無断で平清盛の四男知盛の配下に入る。怒った直光は熊谷郷の一部を取り上げ、伯父甥の確執は深まっていく。
治承4年(1180年)源頼朝挙兵の石橋山の合戦まで平家方に属していたが、勢力を回復する頼朝に臣従して、冨士川の合戦では、頼朝軍の武将として冨士川に布陣、常陸国佐竹氏征伐の功で、久下直光から武蔵国の旧領を取り戻して熊谷郷が安堵された。
寿永3年(1184年)一ノ谷の戦いで直実は義経の奇襲部隊に属して、鵯越を逆落としに下り、息子小次郎(直家)と郎党1人の3人で平家陣内に一番乗りの功名をあげる。小次郎が負傷する激戦となるが、義経の奇襲作戦で平家軍は総崩れとなり、海上の船に逃れんと馬を海に乗り入れた平敦盛を呼び戻してその首を上げて、後に出家、熊谷次郎直実の名を歴史に残すことになる。



熊谷直実の名は、チャンバラごっこが大好きな男の子であれば誰でも読んだことがある源平盛衰記に出てくる武将であり、平敦盛の名は、織田信長が桶狭間の前夜に「人生五十年、下天の内に比ぶれば夢幻のごとくなり。ひとたびこの世に生を得て滅せぬ者のあるべきか」と吟じて舞った演目「敦盛」で広く知られている。
改めて源平盛衰記を読み返してみると、直実に名を問われた敦盛は名乗って討たれていたが、吉川英治の新平家物語では、名乗ることを拒んで討たれていた。なぜ違うのだろうか。平家物語の原典といわれる「語り本系覚一本」と「読み本系延慶本」を読み比べてみた。
まず、語り本系の「覚一本:平家物語」に、直実と敦盛の対決する場面を再現してみる。
「熊谷「あれは如何に、好き大将軍とこそ見参らせて候へ、正なうも敵に後を見せ給ふものかな、返させ給へ返させ給へ」と扇をあげて招きければ、招かれて取って返し、渚に打ち上がらんとし給ふ処に波打際にて押し竝びむずと組んでどうと落ち、取って押さへて首を馘かんとて内甲を押し仰けて見たりければ、年の齢十六七ばかりなるが薄化粧して鉄漿黒なり。我が子の小次郎が齢ほ どにて容顔まことに美麗なりければ何処に刀を立つべしとも覚えず「いかなる人にて渡らせ給ひやらん、名乗らせ給へ、助け参せん」と申せば「汝は誰そ」と問給ふ。「物その者では候はねども、武蔵国の住人熊谷次郎直実」と名乗り申す「汝が為にはよい敵ぞ、名乗らずとも首を取って人に問へ、見知らうずるぞ」とぞ宣ひける」 「我が子の小次郎が薄手負うたるをだに直実は心苦しう思ふぞかし、この殿の父、討たれ給ひぬと聞き給ひてさこそは嘆き悲しび給はんずらめ、助け参らせんとて後ろを顧みたりければ土肥梶原五十騎ばかりで出て来たり。 熊谷涙をはらはらと流いて「あれ御覧候へ、いかにもして助け参らせんとは存じ候へども、御方の軍兵雲霞の如くに満ち満ちてよも遁れ参らせ候はじ、あはれ同じうは直実が手に懸け奉ってこそ後の御孝養をも仕り候はめ」と申しければ「ただいかやうにも疾う疾う首を取れ」とぞ宣ひける。熊谷あまりにいとほしく何処に刀を立つべしとも覚えず、目も眩れ心も消え果てて前後不覚に覚えけれども、さてしもあるべき事ならねば泣く泣く首を馘いてける。あはれ弓矢取る身ほど口惜しかりける事はなし、武芸の家に生まれずば何しに只今かかる憂き目をば見るべき、情なうも討ち奉ったものかなと袖を顔に押し当てさめざめとぞ泣き居たる」

盲人の琵琶法師による語り本系の覚一本は、応安4年(1371年)に琵琶法師の覚一検校が制定したと奥書を持つ伝本群で、敦盛が逃げずに引き返してきた潔さ、殺すことをためらう程の若さと美貌、組み敷かれてなお失われない上臈らしい振る舞いに、直実は「お前は誰か、助けよう」と名乗りを求めたが、敦盛は、直実を功名目当ての坂東の田舎武士とみたのか、名乗りを最後まで拒絶して早く殺せと叫んで討たれていった。

次に、読み本系で延慶2・3年(1309・10年)に根来寺で書写されたという「延慶本:平家物語」を見ると、直実が敦盛に「誰か」ではなく「誰の子か」と問うて、更に「君を雑人の中に置き進らせ候はむ事のいたはしさに、御名を備さに承りて必ず御孝養申すべし。是は武蔵国住人熊谷二郎直実と申す者にて候ふ」と名乗れば、敦盛は「いつの馴染みいつの対面ともなきに、是程に思ふらむこそ難有けれ。我は太政入道の弟、修理の大夫経盛の末子、大夫敦盛とて生年十六歳になるぞ、早切れ」と自ら名を名乗り討たれていた。
延慶本の直実は、組み敷いた敦盛に、なぜ誰の子かと問うたのだろうか。鵯越で共に平家の陣営に討ち入って負傷した息子直家のことを案じていた直実は、息子と同じ年頃の敦盛の首を掻こうとして、息子を討たれる父親の悲しみに思いを馳せて誰の子かと問うたに違いない。
直実に誰の子かと父のことを問われ、親の子を思う直実の情愛と優しい心根に感じた敦盛は、東国の荒くれの雑兵に討たれるより、父のことを思いやる直実に、功名をとげさせてやろうと、頑なな心を開いて父経盛と自分の名を名乗り潔く討たれていったのではないだろうか。

覚一本は、敦盛の鎧直垂の下に鳥羽院より下賜された笛を見つけたこと、そして直実が発心して仏門に入るところで終わるが、延慶本には、笛の話の他に敦盛の頸を父親の経盛に届ける次の後日談がある。
直実が敦盛の頸を直垂に包んで「御孝養候ふべし」と書状を添えて屋嶋に逃れている父親の経盛に送り届けると、経盛は「熊谷はひたすらの荒夷にこそ有らめと思ふ程、情有りて敦盛が首を送りたる心の中こそ哀れなれ」と直実に「盛者必衰は無常の理、会者定離は穢士の習ひ、と言いながら、其の面影、未だ身を離れず、燕来りて語らへども其の音を聞かず、生死遥かにして行方に迷ふ」と我が子敦盛の行方を案じていた父親の情と直実への礼を認めて直実に返状していた。
そして「是よりしてぞ、熊谷は発心の心をばおこしける。法然上人に相ひ奉りて、出家して法名蓮性とぞ申しける。高野の蓮花台に住して、敦盛の後世をぞ訪ひける。有り難かりける善知識かなとぞ、人申しける」とあり、我が子と同じ年の敦盛を手に掛けてしまったことを傷わしく悔いた直実は、御孝養申すべしと約束したとおり、父親の経盛に頸を届けて後、法然上人について仏門に入り敦盛の菩提を弔ったという。

敦盛が名乗りを拒絶して直実に討たれた覚一本と誰の子かと問われて名乗って討たれた延慶本のいずれが、敦盛最期の真実を伝えているのだろうか。
延慶本は、平家の凋落と源氏の興隆を勝者の源氏の視点から軍記物語風に描いており、記述が詳細で、説話も豊富、成立時期が覚一本より60年も古いことから、敦盛の最期も、延慶本の方が真相に近いのかもしれない。
覚一本は、平家の栄華と滅亡を敗者の平家の視点から描いており、盲人の法師が琵琶の強弱と抑揚ある幽玄な響きと哀愁ある音色に乗せて切なく謡う口誦芸能の世界で、敦盛の最期も、見目麗しい平家公達の矜持を保ち最後まで名乗らぬまま東国の荒武者に討たれていく悲劇の敦盛を主人公に据えて悲壮感漂う語り物に脚色されており、延慶本とは成立の背景そのものが違うようである。
吉川英治の新平家物語は、語り本系の覚一本を選択しているが、身分が低く障害者でもある盲人法師の語りによって、上級社会だけでなく、寺社の境内などで文字の読めない世の弱者を相手に、世の無常を口誦する覚一本の内容の緩さ加減が、盛者必衰と平家滅亡の悲劇を描きたい小説家吉川英治には魅力的だったに違いない。
壇ノ浦で平家が滅亡した2年後の文治3年(1187年)鶴岡八幡宮の流鏑馬で的立役を命じられた直実は、弓の名手の誇りを傷つけられたと不服を申し立て、頼朝の機嫌を損じて所領の一部が没収されてしまう。
建久2年(1192年)かねてからの叔父久下直光との所領争いで、口下手な直実はうまく答弁できず、梶原景時が直光に加担したこともあって頼朝の不公平な裁定となり、憤慨した直実はついに出家してしまう。
息子と同じ年頃の敦盛を討ってしまった慙愧の念と世の無常を儚んで「罪の軽重を問わず、阿弥陀如来を信じてただ念仏を称えれば極楽に往生できる」と説く法然の弟子となり、名を蓮生と改め出家したとされているが、源氏再興のため死力を尽くしながら正当に評価されず、梶原景時ら取り巻きを重用する主君頼朝に対する不満もあり、現世を諦観した直実は、家督を直家に譲り、武士を捨て出家してしまったのが真相だったかもしれない。
晩年は本領の熊谷郷に帰り、庵で念仏三昧の生活を送り建永2年(1207年)に往生した。熊谷市仲町に熊谷蓮生(直実)生誕・往生地とされる浄土宗熊谷寺がある。ぜひ墓所を訪ねて無骨な直実と向き合ってみたい。

【坂東武者:白髪染めの斎藤別当実盛】

平敦盛が名乗らなかった若武者だとしたら、熊谷にもう一人、名乗りを拒絶した老武者がいた。斉藤別当実盛である。武蔵国長井庄(熊谷市妻沼)を本拠地にした斎藤実盛は、熊谷直実ほどの知名度はないが、無骨な坂東武者の生き様に子供心ながら憧憬の念を抱いていた。
実盛の武蔵国は、平安時代末期に兄弟対立する源義朝(頼朝の父)と義賢(義仲の父)が領する相模国と上野国の緩衝地帯にあり、その去就に悩んだといわれる。
河内源氏の棟梁源為義が、南関東の相模国に勢力を伸ばす長男義朝を牽制すべく、次男義賢を北関東の上野国に送り込んで武蔵国最大の武士団秩父氏と姻戚を結ばせるが、義朝の嫡男義平が叔父義賢の拠点大蔵館を襲撃して義賢と秩父重隆を攻め殺し、後に悪源太義平の武名を轟かせる大蔵合戦が起きた。
実盛は、初め義朝に、次いで地政学から義賢に従い、後に義朝・義平親子の麾下に戻るが、義賢の旧恩を忘れておらず、大蔵合戦に敗れた義賢の遺児を見付け出した畠山重能から、その遺児を託された実盛は、密かに信濃国の中原兼遠の許に送り届けた、後の木曽義仲である。
実盛は、保元の乱と平治の乱に源義朝方の武将として奮戦するが、平治の乱の敗北で関東に落ちて、その後平氏に仕え、長井荘の荘官となる。源頼朝の挙兵時には平維盛の後見役として頼朝追討に出陣して富士川の戦いに参戦、寿永2年(1183年)に再び維盛に従い、かつて命を救った木曽義仲追討のため北陸に出陣する。
加賀国篠原の戦いで木曽義仲軍に平家の大軍が大敗、敗走する平家軍を追撃する木曽義仲軍にただ一騎引き返して奮戦した実盛は、義仲の部将に討ち取られる。

斎藤実盛を討ち取った手塚光盛が義仲の御前の首実検で「大将軍と思ったが従者もなく、名乗らせ給えと言うと「在るむねがあれば名のるまじいぞ」と名乗りを拒み、錦の直垂を着た坂東声(関東訛り)だった」と言うと、義仲は「おそらく斎藤別当実盛だと思うが、もう七〇歳も過ぎて髪や髭が黒いのは腑に落ちん」と、実盛と長年懇意にしていた中原兼遠の子樋口兼光を呼び寄せた。
兼光は「六〇を過ぎて合戦に赴くときは、髪と髭を黒く染めて若々しくありたい、若い者たちと争って先駆けるのも大人げないし、老武者と人に侮られるのも悔しい、と言っていたが、本当に染めておられたとは」と実盛の頸を前にほろほろ涙したという。
義仲が首を洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため実盛と確認され、かつて父義賢が討たれ時に幼い自分を救い出して密かに木曽へ送り届けてくれた命の恩人を討ち取ってしまった慙愧の念に、義仲は人目をはばからず涙にむせんだという。白髪のままであれば実盛と分かられて義仲に助命されると思ったのであろうか、白髪を黒く染めた覚悟の死であった。

源義朝、義賢、最後には平維盛に、相争う主君に従って最後には旧主義賢の子義仲に殺される、強き側に付かねば生き残れない、武蔵国の弱小武将の悲劇である。敵味方の間を風見鶏のように生き延びてきた自分に決着を付けるべく最後に頼った平氏への恩に殉じたのだろう。
室町時代に加賀国篠原に実盛の亡霊が現れたという噂をもとに、猿楽師世阿弥が謡曲「実盛」に作品化、現在能舞台で上演されている。
熊谷市妻沼(武蔵国長井庄)にある歓喜院は、妻沼聖天山と呼ばれ、治承3年(1179年)に斉藤実盛が守り本尊の大聖歓喜天を祀る聖天宮を建立して長井庄の総鎮守としたと伝えられる。その後、良応僧都(実盛の次男実長)が聖天宮の別当寺院に長楽寺を建立して十一面観音を本尊とした。
江戸中期に再建された聖天宮は、近世装飾建築の頂点をなす建物として2012年に国宝に指定された埼玉県唯一の国宝建造物で、源平合戦に翻弄されながら平氏に殉じた無骨な坂東武者実盛の菩提を弔ってきたい。

【踊る埴輪と野原古墳】

2015年2月末に東京国立博物館の本館2階入口で出会った埴輪「踊る人々」が、大和王権の地元畿内ではなく埼玉県の古墳から出土したとは知らなかった。
俗に「踊る埴輪」とも呼ばれ、高さ63㎝と56㎝の二体の埴輪は、首のない円筒形のずん胴な頭に、直径2㎝の大きな眼と口の丸い穴を開け、頭頂から粘土紐を貼り付けて長く高い鼻を作り、斬新にデフォルメされた表情は、ムンクの叫びを彷彿させる。



埴輪は三世紀後半から六世紀後半にかけて造られ古墳上に並べられ、前方後円墳とともに消滅したとされている。古墳時代の初期は、円筒形や壺形・家形が主流だったが、古墳時代の中期には馬などの動物埴輪が、六世紀には人物埴輪が造られて、葬送の儀礼や生前の祭政の様子を再現するものに変遷していったという。
人物埴輪のいずれもその時代の衣服を着て被り物や髪、その顔も写実的で表情も優しくその所作も静的で、これぞ埴輪という定形化された造作物だが、この踊る埴輪は、生命感宿る動的な表情の持ち主で、大きく目を開き、大きく口を開け、何かを叫び訴えているかのような面相は余りに異様で、余分なものを捨象したシンプルな抽象造形はモダン芸術のようであり、とても1500年も昔に造られたとは思えない、もしかしたら現代人の捏造ではないかと疑ってしまう佳作である。

捏造などとあらぬ疑念に戸惑いながら、同じような埴輪が他にも出土していないか、ネット検索してみたが、人物埴輪のどれもが、顔面を粘土ヘラで細く削って目と口を作り、鼻も小さな三角形で、ずん胴の頭に大きな丸い穴で眼と口を開け鼻筋の高い踊る埴輪に似た人物埴輪をついに見付け出すことはできなかった。 
古墳時代から更に弥生時代そして縄文時代にまで時代を遡って出土遺物を調べるうち、縄文時代の土偶と石棒にそのルーツがあるのではと思い当たった。
いずれも呪術や祭祀の機能を持つといわれるが、遮光器土偶の大きな眼と男根を模した石棒こそ、踊る埴輪の大きく開かれた眼とずん胴の頭の原形なのではないだろうか。片手を挙げる姿と腰にさげる鎌から、馬の手綱をひく男子像だとする説があるようだが、葬祭を仕切るシャーマン的な巫女を造形したものかもしれない。踊る埴輪がどんな土地に生まれたのだろうか、古代ロマンへの想像は果てしなく広がっていた。
その踊る埴輪は、昭和5年に旧江南町大字野原(現熊谷市)の野原古墳から畑の開墾中に発見された。
熊谷駅から南西5キロの洪積台地に位置し、昭和37年に採土工事に伴う調査で、全長40m高さ5mの前方後円墳で横穴式石室が2か所あり、大刀や埴輪類の出土から六世紀後半から末葉の築造と推定されている。

この野原古墳群には22基の円墳も確認されており、さらに西に3キロの塩古墳群に四世紀の古墳時代前期の前方後方墳2基を始め方墳26基、円墳8基が、東に2キロの瀬戸山古墳群に前方後円墳を含む30基以上の円墳が確認されている。そして塩古墳群の北4キロの荒川河岸段丘には、七世紀から八世紀の円墳100基を超す鹿島古墳群があるという。
旧江南町一帯は、荒川の氾濫によって作られた肥沃な沖積台地と洪積台地という恵まれた自然環境を持ち、旧石器時代から縄文・弥生時代の遺物も多数出土、古墳用の埴輪を焼いた窯跡も確認されて、この豊かな江南台地で、旧石器時代から縄文・弥生・古墳時代へ綿々と人々の営みが続いていたのだろう。
時代時代の文化が隔絶することなく、前の時代の文化が、後に続く新しい時代の文化に様々な影響を与えながら受け継がれていったに違いない。古墳時代にこの地で造られた踊る埴輪に、古き縄文人の造形美や祈りが悠久の時を経て具現化されているのかもしれない。

【熊谷さくらマラソン大会(2015年 )】

熊谷さくらマラソンにエントリーしたのは、もちろん埼玉県の桜名所を走れることだが、ゲストランナーに女子マラソン日本歴代2位の記録を持つ渋井陽子選手が出られることを知ったこともあった。
2年前の大阪国際マラソンで給水に失敗したライバルの福士加代子選手に自分のボトルを渡した感動のシーンは記憶に新しい。昨年8月の東日本大震災復興支援イベントの被災地を走る1000キロ縦断リレーで、渋井選手が東京2区に飛び入りで参加されて、7人並んで江東区を走ったご縁があり、茶目っ気でひょうきん、さっぱりした男っぽい言動にすっかり魅了されたが、言葉を交わしながらランした思い出は私の大切な宝物である。
1ケ月前の名古屋ウイメンズマラソンでも、テレビ画面に爽やかな笑顔を見せておられ、ますますのご活躍を期待したい。

早朝6時に埼玉の自宅を出立、春霞に昇る太陽が満月のように縁取られて美しい。飛び交う小鳥の可愛いさえずりと沈丁花の甘い香りに春の訪れを感じながら、最寄り駅に向かう足取りも軽快である。
高崎線熊谷駅で乗換える秩父鉄道ホームにSLの乗車位置の案内板があり、一日一往復が走っているらしい。
秩父鉄道ひろせ野鳥の駅で下車、爽やかな春の陽光を浴びながら会場の熊谷さくら運動公園まで15分程、野球場や陸上競技場を擁する23ヘクタールの広大な運動公園には、濃いピンクのヒガンザクラがたわわに咲き誇り、約8000人のランナーで賑わっていた。
今日の大会は10キロとハーフだが、5月の仙台国際ハーフマラソンに備えて久方振りのハーフに挑戦、前回の出雲マラソン10キロで歩いてしまった苦い反省から今日は歩かずに完走することを唯一の目標にした。
                              
今日の出で立ちは、もちろん被災地1000キロ縦断リレー専用のTシャツに帽子、その時一緒に走った渋井陽子選手のサイン入りである。まもなく陸上競技場で開会式が始まった。大会会長の挨拶のあと、ゲストランナーに地元埼玉県庁の川内優輝選手と渋井陽子選手が紹介された。女子1万メートルの日本記録が13年間未だ破られない渋井選手だが、少しも驕ることなくあの時と変わらないマイペースでひょうきんな挨拶をされていた。
準備体操の合間に渋井選手に近づいて「覚えておられますか。被災地1000キロリレーでご一緒した安藤です」とシャツと帽子に書かれた渋井さんのサインを見せると、覚えているはずもないが「おー」と応えてくれた。
「渋井さんは10キロを走られるんですね。私はハーフなので一緒じゃありませんが、頑張ってください」と言った後で、アスリートに頑張ってくださいなんて失礼だったなと「私も頑張ります」と言い添えた。
もしかしたらゴールで待ってくれているかもしれない。ゴールタッチできるよう、まずは時間内の完走だ、冒険はよそう。公園内を軽くアップしながら、たわわに咲き誇るヒガンザクラを見上げて心はときめいていた。

ハーフのスタートは9時12分、公園内のメインストリートは3300人で埋まっていた。自己申告の完走目標タイム順の整列だが、前回出雲のハイピッチスタートで失速した教訓から、2時間以上を目標にする遅いグループに入った。前方からゲストランナーの川内選手の甲高い挨拶が聞こえて、やがて花火が打ち上げられてスタート。2分30秒ほどのタイムラグでスタート地点を通過した。かなり後方に位置してしまったが、今日は制限時間2時間30分内の完走に徹しよう。
最初の1キロが5分55秒、これまでにない楽な走りである。今月は自宅近くの用水堀コースを、20キロ1本、15キロ2本、10キロ3本と、いつも以上に走り込んできた。無理せずこのペースを維持して走ろう。
スタート時の隣組があまり変わることなく一緒に走れているのも心強い。公園から東の熊谷駅方面に街中を抜けて、3キロほどで荒川土手の熊谷桜堤に出た。かなりの老木が連なった立派な桜並木である。ソメイヨシノの蕾は膨らみかけているが、開花には数日かかりそうだ。満開時にはこのロードも花見客で溢れることだろう。
郷里宮城の一目千本桜の白石川堤を思い浮かべていると、途中の神社で祇園会のハッピを着た若者たちが、力強い和太鼓で声援を送ってくれていた。これが関東一の祇園祭りと言われる囃子なのだろう。
熊谷桜堤を1.5キロほど走り熊谷駅に向け左折した5キロ地点で29分55秒。キロ6分ペースが守れている。高崎線のガードを潜り、熊谷駅の北側に抜けて商店街に出ると沿道の声援が大きく盛り上がってきた。

スタートからのメンバーにあまり変わりはない。ターゲットにしていた黄色シャツの男性や浦和レッズ20番の女性、若いカップルさん、お互いにキロ6分ペースをキープしていた。熊谷駅前を折り返して高崎線沿いに西へ籠原駅方向に快調である。8キロ地点の給水も取り、10キロ地点で60分37秒。2度の給水タイムロスがあるのに前回の出雲くにびき10キロのゴールタイムよりいい。
最初の関門は11キロ、6分の余裕で通過したが、後続は一キロ以上あったはず、関門に引っ掛かるランナーもいるに違いない、厳しいがこれが勝負なのだろう。15キロで1時間31分、キロ6分をキープしていた。
途中の老人ホーム前で車椅子のお年寄りが10人程並んで声援を送っていた。2011年の大阪マラソンの時は、沿道に車椅子を見付けては、前にしゃがんで両手で手を包み目を合わせて励まして上げられたが、今日はそんな余裕はなかったが、ありがとう、頑張ろうね、とお年寄りにハイタッチだけはできていた。

籠原の街中を抜けると、広い田圃の中を曲がりくねるコースの遥か前方を走るランナーの長蛇の列が壮観である。さすがにきつくなってきた。右膝が痛くなり左足の土踏まずがツリ加減で、ラップも落ちてきた。
大阪フルマラソンの残り五キロを歩かずに走り通せた経験を思い起こし、まだまだ頑張れるはずだ、絶対歩かないぞ。最後の関門の18キロを過ぎると、気持ちが緩んだのか、歩き始めるランナーも多くなり、路肩に倒れて救護されるランナーも数人いた。残り3キロ、いつも自主トレで走っている用水堀コースの残り3キロの距離感を思い出し、まだまだ走れる手応えはあった。
スタート直後から前後を走っていたプーさん仮装のお兄さんが、相変わらず沿道の人達を楽しませていた。あと1キロの地点で2時間2分、1時間23分遅れでスタートした10キロの先頭グループが追い付いてきて、沿道の熱い声援を受けながら、一緒に陸上競技場のフィニッシュアーチに向けてラストスパートした。
目の前で渋井選手がゴールするランナーを迎えていた。両手で握手して「朝方ご挨拶した安藤です。無事完走できました。ありがとうございました」渋井さんはハーフと10キロのスタートを見送ってから10キロを走り切って我々を迎えてくれていた。さすが日本一である。
先月の名古屋ウイメンズの結果は残念だったが、まだやり残したことがあると笑顔で現役続行を宣言していた渋井さんをこれからも応援していきたい。
今日のネットタイムは2時間8分44秒、60才以上272人中179位、キロ6分ペースで走り通せたことが何より嬉しかった。これで5月の仙台国際マラソンも楽しんで走れそうだ。暖かい陽射しを浴びながら木蔭で着替えを済ませ、シャトルバスで籠原駅に向かい、JR高崎線で熊谷駅に下車、駅前の駐輪場でママチャリを借り、午後の熊谷歴史散策サイクリングに向かった。

【熊谷サイクリング:野原古墳と塩古墳を訪ねて】

今日の熊谷歴史サイクリングは、東京国立博物館に展示されている埴輪「踊る人々」の出土した野原古墳と古墳時代前期の塩古墳群を訪ねて、そのあと斎藤実盛の妻沼聖天山と熊谷直実の熊谷寺を回る、ハーフ21キロ走った後の延べ40キロのハードスケジュールである。
熊谷市の主要な考古資料は江南文化財センターに展示されているが、日曜休館だったため手近な熊谷市図書館に立ち寄った。三階の郷土資料展示室に上がると、弥生時代の出土品が常設展示されていた。市内の前中西遺跡から発掘された壺や甕が大半で、埴輪類の展示はなかった。踊る埴輪と一緒に出土した埴輪が展示してあれば、もしかしたら踊る埴輪のルーツのヒントがあるかもしれない、と期待していたが残念である。
ところが説明パネルの「弥生時代の大規模な集落跡とお墓が(中略)この他にも土偶やヒスイ製の首飾りなども出土した」の文言に、目が点になった。弥生時代にも土偶があったのか。土偶は縄文時代特有の物ではなかったのか。弥生時代に土偶があったとなると、人物埴輪らしくない特異な踊る埴輪が縄文時代の土偶の影響を受けたのではとする私の仮説も満更ではなさそうだ。
意を強くして、展示館ガイドの職員さん相手に、縄文時代の土偶と石棒が踊る埴輪の起源ではないでしょうかという持論を捲くし立てていた。

郷土資料展示室での熱っぽい埴輪談義の余韻に高揚しながら、南西に六キロ先の踊る埴輪が発掘された野原古墳群に向かった。午前中にマラソンで走った熊谷桜堤に出ると、桜の蕾もだいぶ赤く膨らんだ気がする。菜の花が広がる荒川の土手にあがると、水量の少ない河川敷が広がってきた。長大な荒川大橋を渡り、対岸の旧江南町をひたすら南に向けて自転車を走らせた。
熊谷駅前から4キロを30分程、前方に江南台地が広がってきた。野原古墳はこの江南台地の奥である。雑木林に囲まれた山道は、ギアのないママチャリでは、さすがにきつい。立ち漕ぎしながら15分程で目の前が開けて山間部の平地の奥に、村社八幡神社が見えてきた。

境内の案内板に「八幡神社裏から西方にかけて野原古墳群が分布。荒川の一支流和田川に面した南傾斜の小高い丘にある古墳は30余基を数えたが、開墾や採土等で破壊され今は20数基を残すのみ。有名な「踊る埴輪」(昭和5年出土、東京国立博物館蔵)が出土した前方後円墳も神社西方にあったが、現在は開墾されて桑畑となりその跡をとどめていない。古墳の築造は六世紀後半から七世紀前半といわれ、当時この地方にかなりの勢力をもった豪族が居住したことを物語っている」とあった。
社殿の裏に回ってみたが、境内社の祠が建ち、庚申塔や苔生す墓石が並んでいただけ、古墳の遺跡らしい雰囲気が全くない。更なる看板も案内板もない。東京国立博物館の目玉が出土した場所にしては寂しい限りである。
昭和30年代に数次に亘り発掘調査が行われて沢山の遺物が出土したというが、なぜ遺蹟の保存にまで至らなかったのだろう。予算がないからなのか。鬱蒼と雑草の生えるただの雑木林を前に、はるばるママチャリを飛ばしてやってきた期待が裏切られた思いである。
こんな所で本当にあのユニークな踊る埴輪が生まれたのだろうか、という疑念が再び浮上してきた。15年前の忌まわしい旧石器捏造事件が思い起こされる。
マラソンから帰宅してネット検索してみると、野原古墳群から同じ特徴的な目と口を持つ埴輪「笠を被る男子頭部」と「下げ美豆良の男子頭部」が出土して共に東京国立博物館に所蔵されているという。それらを含めて「踊る人々」と複数形で命名されたのかもしれない。
この広い日本で、野原古墳からだけ、斬新でユニークな埴輪が出土したのであれば、この野原古墳群を徹底的に発掘調査して、私の疑念を解明して古代人のロマンの世界を開いてもらいたいと願うばかりである。

時計は15時を回っていた。この後の予定もあり、野原古墳の探索を打ち切り、江南台地と比企丘陵の狭間を流れる和田川沿いに西へ3キロの塩古墳群に向かった。山間地の狭隘な平地を関東ローム層の赤土が覆っており、豊かな土を求めて移住する古代人の姿が浮かんできた。
県道11号線に入り、比企丘陵に入ると、ママチャリではとても登れない急坂の頂点に達したところで、左手に塩古墳群の案内板があり、左折すると杉林の中に綺麗に整備された古墳群が現れた。全長35mの前方後方墳2基と方墳26基、円墳8基が残され、古墳時代前期(四世紀中葉から後半)の土器等が出土したとあった。



古墳の上に生えていた樹木が全て伐採され、丸坊主になった古墳群がスキー場のコブのように密集する光景を前に、しばしタイムスリップしていた。こんな山奥にこれほど綺麗に整備された古墳群があることを知る人は少ないかもしれない。これなら古墳の被葬者も心静かに眠れそうである。それにしても、さきほどの荒れ果てたまま放置されている野原古墳群とは天と地の差である。
比企丘陵の北端の標高80mに位置する塩古墳群は、埼玉県内の古墳の中で最初の時期に造られた古墳で、やがて古墳時代中期に標高50mの江南台地の野原古墳群へ、後期に更に低い荒川南岸の鹿島古墳群へと、生活圏の利便性に併せて拠点を移動していったのだろう。
江南台地を中心に、縄文時代から弥生時代そして古墳時代へと歴史が繋がれ、前の時代の文化と生活が次の時代へと伝えられ進化して、埴輪の「踊る人々」もここの先住民の文化や信仰や生活が受け継がれる中から生まれていったに違いない。

【熊谷サイクリング:実盛と直実を訪ねて】

時計は15時40分を過ぎていた。古墳巡りを打ち切り、江南台地を駆け降りて県道11号線から385号線に入り、荒川に架かる熊谷大橋を渡り、今日のマラソン会場だった熊谷さくら運動公園の手前を右折、交通量の多い国道407号線を実盛の妻沼聖天山に向かった。
やはりママチャリ、スピードが出ない。行き交う車が多く車道は走れない。でこぼこ舗道で尻が痛い、時計は無情に進むだけ。この後またこの道を折り返して熊谷寺訪問があるかと思うと、戻りたくなるが、まだ陽が明るいうちに、埼玉県唯一の国宝建造物をぜひ鑑賞したい、そして名乗らずに殺された斎藤別当実盛を弔いたい、今後二度と訪れることはないかもしれない。頑張ろう。
自転車のハンドルを握る左手にプリントしてきた地図を広げて、群馬県と境する利根川の右岸に位置する妻沼町に着いたのは17時を過ぎていた。塩古墳群から荒川まで7キロ、そこから13キロの合計20キロを1時間半、ママチャリのペダルをひたすら踏み続けた。

日が暮れる前に、妻沼聖天山に着いた。裏門から入ると、平成24年に国宝に指定される歓喜院聖天本堂が見えてきた。拝観時間は当に過ぎており、回廊越しに見える豪華絢爛な極彩色の彫刻群にカメラを向けた。



案内板に「日光東照宮の修復にも参加した職人たちにより優れた技術を惜しみなくつぎ込まれた近世装飾建築の頂点である」とあり、日光東照宮創建から百年後に建立された江戸後期装飾建築の代表例である。
残された明るさの中に浮かび上がる荘厳で華麗な歓喜院聖天山本堂に向かい、悲愴な最後を遂げた斎藤別当実盛に想いを寄せて合掌、源平対立の狭間で弱小故に風見鶏のように主君を代えながら、最後には白髪を染めて旧恩に殉じた坂東武者の生き様にその安寧を祈った。
次は今日最後の訪問地、熊谷次郎直実の生誕地で終焉地の熊谷寺である。妻沼から熊谷駅に向けた10キロがなんと非情にも向かい風になっていた。
茜色の西空が次第に漆黒に変わっていく。ライトを付けた車が高速で行き交う国道407号線をママチャリで長距離を走る人などあろうはずもない。側道のでこぼこ舗装が萎えそうな心に追い打ちをかけてくる。
市街地に入り熊谷寺に着いたのは、すっかり日が落ちて18時半を回っていた。行き交う車のライトで閉じられた山門が浮かび上がり、通用口の立札に「団信徒及び関係者以外の入山はご遠慮ください」が辛うじて読めた。
柵越しに境内を覗いていると、寺の職員が退出してきた。尋ねると、日中でも一般公開しておらず入れるわけにはいかないと連れない返事である。職員の訝し気な視線を感じながら、お参りだけでもさせて下さいと、山門越しに闇夜に浮かぶ本堂の大屋根に向かって合掌した。
坂東一の剛の者と称された熊谷直実が、所領・地位・名声を求める勇猛な武士の生き方に無常感を抱き、敦盛を討ったこともあり出家、心の平穏を求める僧侶の道を選び、後に生誕地の熊谷に戻り往生する、殺伐とした現代にも通じる生き様に、南無阿弥陀仏と念仏を唱えた。

熊谷駅に戻ると、北口ロータリーの中央に建つ熊谷次郎直実像は、一ノ谷合戦で逃げる平敦盛を扇をかざして呼び返す直実の騎馬像で、彫刻家北村西望の作である。ビルの明りが逆光となりうまく撮れなかった。
駐輪場に自転車を返却して帰りの電車に乗ったのは19時、午前にハーフマラソン二一キロ、午後にフルマラソンに近い40キロをママチャリで初めての熊谷市内を駆けずり回り、古代から中世そして現代に通じる人間の生き様を訪ねる熊谷今昔物語の旅はようやく終わった。


【埼玉県③:鴻巣市のひな祭りを訪ねて】

2011年3月5日の桃の節句に開催される地元埼玉の「鴻巣パンジーマラソン」にエントリーした。
桃の節句の由来は古く平安時代に遡り、季節の節目に野山に出て摘んだ薬草で体のけがれを祓い健康と厄除けを願った節句の行事が、後に宮中の紙の着せかえ人形で遊ぶ「雛遊び」と融合、災厄を身代わりにさせた紙人形を川に流す「流し雛」へ、そして室町時代に豪華なお雛さまを飾り宮中で盛大にお祝いする行事に発展、やがて宮中から武家社会へ、更に裕福な商家や名主の家庭へと広がり、今の雛祭りの原型となったといわれる。
我が家でも2月に入ると30年前に浅草橋で求めた真多呂作の親王雛を飾るが、伝統を感じる品格溢れた優雅な顔立ちは、心安らぐ我が家の宝である。同期入社の友が勤務する浅草橋支店の紹介で買い求めたが、その直後にその支店に転勤したのだから縁とは不思議なものである。浅草橋には雛人形の有名専門店が軒を並べて、その主たる生産地が、埼玉県の岩槻と鴻巣である。
岩槻と鴻巣のいずれが雛人形のふるさとなのだろう。岩槻側は、江戸初期に日光東照宮の造営修復にあたった工匠がこの地に留まり人形作りを始めたといい、鴻巣側では、同じ頃に京都から江戸にきた仏師藤原吉圀が当地に住み着いて雛人形を作ったといわれている。
いずれにせよ、日光街道の宿場町である岩槻と中仙道の宿場町である鴻巣は、ともに江戸からの往来賑やかな交通要所であり、旅のお土産物として雛人形の産地になったのであろう。江戸末期には、鴻巣人形の生産が増大して江戸の雛職人を多数引き抜いて江戸雛屋仲間を圧迫したとして訴訟事件が起きたという。
鴻巣市では≪ひな人形のまち≫として桃の節句に「鴻巣びっくりひな祭り」が開催されており、マラソン大会会場に隣接する市役所に日本一高い雛壇飾りが設営されるという。この機会にぜひ訪れてみたい。

鴻巣市は≪ひな人形のまち≫と共にマラソン大会の冠名のとおり≪花のまち≫でもある。埼玉県中央に位置して、肥沃な土地と温暖な気候に恵まれた全国有数の花の生産地で、首都圏の巨大な消費地に近接して生産を拡大しその流通拠点に東日本最大級の花卉卸売市場がある。
大会冠名のパンジーは、鴻巣市で最初に生産された草花種で市の花に制定され、花卉のプリムラやマリーゴールド、サルビアの出荷量は日本一だという。
鴻巣駅から南西に1.5キロの川幅日本一の荒川河川敷に日本一の広さを誇るポピー畑があり、五月には1000万本のポピーが鮮やかに咲き乱れて絵のようなお花畑が広がり、まさに≪花のまち:鴻巣市≫である。


【市民ランナーの星:川内優輝選手】

1週間前の東京マラソン2011で、埼玉県職員で実業団に所属していない川内優輝選手が日本人トップの3位に入賞した激走は、日本中に大きな感動を、実業団主導のマラソン関係者には大きな衝撃を与えた。
同じ埼玉県民の身贔屓もあるが、公務員ランナーの彼は、ニュージランド地震や混迷する政局で重苦しい世相を払拭してくれた、まさに市民ランナーの星である。
今回は東京マラソンの抽選に外れてテレビ観戦となったが、絶好のマラソン日和のもとで、東京がひとつになった3年前の自分の思い出と重ね合わせながら観戦するうち、壮絶なデッドヒートを繰り広げた川内選手の激走にテレビの前に釘付けになってしまった。
39キロ付近で実業団エリート選手に追い付いた市民ランナー川内選手の苦痛に歪んだ形相に、ここまでが限界かと思いきや、解説の瀬古さんのアドバイスが聞こえたかのように、一気にスパートして二選手を抜き去り、残り3キロを苦痛に喘ぎながら激走を続け、ついにゴールに倒れ込んで医務室に直行するという、性根尽き果てた泥臭い走りっぷりには、誰もが感動したことだろう。
スマートなガッツポーズではない、極限の苦しさに喘ぐ格好悪いゴールシーンだったが、六回のマラソンで五回が医務室直行とは、これぞまさしく死力を尽くしたマラソン魂である。これまで参加した大会のフォトサイトに載る自分の顔付きも彼に似た苦しい形相だったこともあり、川内選手に妙な親近感を抱いてきたが、川内選手に倣って今日のマラソンを悔いなく走り切りたい。

【鴻巣パンジーマラソン大会(2011年)】

3月なのに気温零下の冷え込んだ朝である。居間に飾られた雛人形に出立の挨拶をして午前7時前に自宅を出た。
冴えた青空が広がり刺すような冷気を眩しく降り注ぐ陽光が和らげてくれた。大宮で高崎線に乗り換え、7時半には鴻巣駅に降り立った。
大会会場の鴻巣陸上競技場に向かうけやき通りに市の花のパンジーが飾られ、参加ランナーの列が連なっていた。15分程で懐かしい陸上競技場が見えてきた。
サッカーJリーグ発足当時、人気の浦和レッズのチケットがなかなか手に入らず、代わりにここで開かれるサテライト(二軍)の試合をよく応援に来たものである。
今日はJリーグの開幕日、レッズがここ数年低迷しており、新監督のペトロビッチにはぜひ頑張ってもらいたい。そんな思いで今日のウエアは、赤のTシャツに帽子のレッズスタイルである。
インターバル走法で2周走ってみたが、疲労感はなく体が軽い。9時半にスタート、ハーフマラソン約4000人がトラックを半周して免許センター前の大通りに繰り出した。
まもなくフラワー通りに入ると、左右に広がる畑の中に無数のかまぼこ型ビニールハウスやガラス張り温室が並んで、色々な花模様が覗いて見えた。2キロ地点のラップが5分17秒。こんなハイペースで大丈夫なのか。
やがて東日本最大の花卉卸売市場フラワーセンター、続いて花の直売所パンジーハウスが見えてきた。露天の花棚に色とりどりのパンジーが咲き誇っていた。

フラワー通りを右折、上越新幹線を潜ると掘り起こされた広大な畑が広がってきた。並走していた視覚障害ランナー(男性)の伴走者(女性)が「畑の匂いがするでしょ!」と話しかけていた。走りながら五感で自然を感じたいという障害者への素敵なサポーターの一言に熱いものが込み上げてきた。さっきのフラワー通りでは「パンジーの香りがするでしょ!」と話しかけたに違いない。
5キロ地点で27分10秒。キロ5分30秒弱と快調である。新幹線沿いから左折して東に向かい畑の中をひたすら一直線のコースに変わった。キロ標識がないのか見失ったのか単調な走りの中で、目前にターゲットを求めてモチベーションを高め、ペースは維持できていた。
10キロ地点で56分28秒、ハーフ2時間切りも夢ではないぞと気合が入ってきた。折り返してまもなく西に向かうと遮る物がない強い向かい風に変わった。陽射しも強くなっていた。前を走る男性群を風除けに、不思議なほどしっかり走れているのに我ながら驚きである。
15キロ地点で1時間24分。キロ5分30秒のイーブンペースで走れている。インターバル走法を取り入れてピッチを上げたり下げたり、メリハリを付けてみるとよく足が上がる。向かい風に抗いながら頑張れている。キロ6分でも2時間が切れそうな貯金が出来ていた。
 
上越新幹線を潜りフラワー通りに戻ると、ペースダウンした先行ランナーを一人一人と追い抜いて快調な走りである。追い上げてくるランナーが並びかけるが、張り合って諦めさせる余裕もあった。しかしさすがに苦しくなってきた。二時間切れは間違いないのだから、少しペースを落としたらと、悪魔のささやきが始まった。
顔が歪んできた。路肩に大会フォトカメラマンを見かけても顔の歪みを正す余裕がなくなっていた。瞼に先週の東京マラソンの川内選手の苦走が浮かんできた。よし今日は川内選手にあやかろう。限界の極限まで頑張り続ける彼の根性を自分も体現しよう。マラソン魂だ。もうこれ以上無理だと悲鳴を上げながらも、前方にターゲットを定めると不思議と足が力強く前に出ていた。
ようやく陸上競技場が見えてきた。川内選手の顔を歪めた形相を自意識しながらトラックに入りフィニッシュゲートに向けて死力を尽くした。自分に向けられる声援が心地いい。ついにゴール。息絶え絶えに時計を見ると1時間56分22秒。ラスト1キロが4四分57秒。あんなに苦しかったが頑張れたじゃないか。川内選手!頑張ったよ!頑張れたよ!有難う!と叫んでいた。

【鴻巣びっくりひな祭り】

2年ぶりのハーフ2時間切れに昂揚感と達成感に酔い痴れながら、着替えを済ませ、豚汁でお腹を満たし、隣接する市役所の≪鴻巣びっくりひな祭り≫に向かった。
正面エントランス一面に約2000体の雛人形が並べられ、吹き上げロビーに聳える1797体の雛人形を飾る日本一のピラミッド型ひな壇は、まさに圧巻である。



高さ7m近い30段の緋毛氈のひな壇に並べられた男雛や女雛は、市内だけでなく全国から提供された雛人形で、傍らに提供者たちの手紙が掲示されていた。
その中に「亡き両親が貧しい中、精一杯買い揃えてくれました。ゆえに道具も完全に揃っているものではありませんが(中略)女の子もいず、亡き両親の心を思いますとこの様に飾って頂けて本当に感謝の気持ちでいっぱいです。亡き両親も喜ぶことと思います」とあった。
子供が成長して家庭で飾られなくなった、マンションに移って飾る場所がなくなったなどの理由で市に提供された雛人形が、こうして日の目を見て、しかも人形の町として鴻巣の町興しに役立ててさぞ幸せに違いない。
今日の苦しい歓喜の走りの後の素敵な時間に感謝したい。
この感動の6日後に未曽有の東日本大震災が起きた。

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