歴史と文化の路を訪ねて

季刊同人誌「まんじ」に投稿した歴史探訪紀行文を掲載しています。

私の本州マラソン歴史紀行(関東編⑦《神奈川県》ー2)

2024-08-04 14:53:50 | 私の本州マラソン歴史紀行
【神奈川県④:源頼朝の夢の跡を訪ねて】 

【鎌倉を巡る源平交替劇】

 なぜ源頼朝の開いた幕府が鎌倉だったのだろうか。鎌倉は、元々源氏ではなく平氏ゆかりの地であった。
 898年に桓武天皇の曽孫高望王が平姓を賜り臣籍降下、長男国香、次男良兼、三男良将がそれぞれ常陸、下総、上総に土着、国香の嫡男貞盛の嫡男維将が相模介となりその孫直方が鎌倉を本拠にした。貞盛の弟繁盛が常陸平氏の祖、貞盛の四男維衡が伊勢平氏の祖となる。
 高望王の五男良文は、923年に相模国に下向、武蔵国熊谷郷村岡に住み村岡五郎を称し、良文の三男忠頼から、千葉氏、上総氏、秩父氏など、五男忠光から三浦氏、梶原氏などが出て、良文流坂東平氏を形成していく。

 桓武平氏が関東を地盤にしたのに対して、清和源氏は関西を地盤にした。938年に清和天皇の孫経基王が源姓を賜り臣籍降下、嫡男満仲の長男頼光が摂津源氏、次男頼親が大和源氏、三男頼信が河内源氏の祖となる。
 関東を地盤とする坂東平氏が、関西が地盤の河内源氏に随って平家打倒と鎌倉幕府を支える切っ掛けとなったのが、頼朝挙兵の150年前に起きた平忠常の乱である。
 1028年に平忠頼の子忠常が、安房守平維忠を焼き殺して上総の国衙を占領する事件を起こすと、関白藤原頼通は、良文流平氏の忠常と仇敵関係にあった貞盛流平氏で殺された維忠の兄維時の子直方を追討使に起用するが、直方の忠常追討は容易に進まず、叛乱は房総三国に広がり、頼通は直方を更迭し、検非違使で甲斐守の源頼信を起用、長期戦で疲弊していた忠常は、頼信の家人だったこともあり頼信に降伏、忠常の叛乱は平定された。
 1031年に平忠常の乱が平定されると、平直方は叛乱を平定した源頼信の嫡男頼義を娘婿に迎えて、鎌倉の大蔵の屋敷や所領と伝来の郎党を頼義に譲り渡し、以降鎌倉は、河内源氏による関東支配の拠点となっていく。
 直方が頼義を娘婿に迎えた理由について、頼義が俘囚長安倍頼良を討伐した前九年の役を記す「陸奥話記」に「頼義は、性、沈毅にして武略多し。最も将師の器たり」そして「軍旅に在るの間、勇決群を抜き、才気を世に被る。坂東の武士、楽属するの者多し」そして「上野守平直方朝臣、その騎射に感じ、竊に相語らいて曰く『僕、不肖と雖も、いやしくも名将の後胤たり。偏に武芸を貴ぶ。而るに未だ曽って控絃の巧み、卿の如き能者を見ず。請う。一女を以て、箕箒妾と為せ』と。則ち彼の女を納れ、妻として三男二女を生ましむ。長子義家、仲子義綱等なり。判官代の労に因りて相模の守と為る。俗に、武勇を好み民多く帰服し頼義朝臣の威風大いに行わる」と直方は頼義の武勇に惚れて婿に迎えたと書いている。
 しかし頼義が騎射を披露するような忠常追討戦を展開した形跡はなく、直方が頼義の武勇に感じたというのは名目で、勅命を受けながら忠常叛乱を鎮圧できなかった汚名を払拭し、叛乱を平定した頼義を婿に取り込むことで、夷狄討伐を使命とする桓武平氏嫡流としての権威を護ろうとしたのが真相だったのではないだろうか。
 頼義は、直方の娘婿になることで坂東の地と家臣団を掌中に、頼義と直方の娘との間に生まれた義家は、源氏と平氏の二つの血統を受け継いだ嫡流として崇敬されて傘下にした坂東平氏と様々な絆を育んでいく。
 平良文の五男忠光の子忠通の孫鎌倉景通が、前九年の役で安倍貞任に大敗して包囲された源義家主従七騎の一人と陸奥話記に記され、景通の子景政が後三年の役で義家の配下として従軍して右目を射られ、その矢を抜かんと忠通の孫三浦為次が景政の顔を踏み付けたという逸話が奥州後三年記に記される。坂東平氏は二つの戦役を通して直方の外孫義家と情誼的な主従関係を結んでいく。

 源平両統の棟梁となった義家の晩年に源氏は内訌で自壊していく。義家の嫡男義親が謀反を起こし平正盛の追討を受けて誅殺され、義親の弟義忠が暗殺されると、義忠暗殺の嫌疑を受けた叔父義綱が義親の六男為義に追討され、源氏の権勢は失墜、代わって平氏が台頭する。
 河内源氏の棟梁義忠を継いだ為義は、義綱追討の功で左衛門尉に補任されるが、郎党との主従結合を重んじるあまり粗暴な振る舞い多く、やがて伊勢平氏を登用する白河・鳥羽院から疎外され、鳥羽院政下で孤立していた摂関家の藤原忠実・頼長親子に臣従する道を選ぶ。
 為義は従五位下に叙され左衛門大尉に任じられ、検非違使の宣旨を受けて摂関家の在京武力として勢力を回復させるが、鳥羽法皇の崩御で皇位を巡り勃発した保元の乱で藤原忠実の家人として崇徳上皇方に与し、後白河天皇方の清盛と義朝に敗れ、息子義朝の手で処刑される。

 父為義を処刑した義朝は、母が白河院の近臣藤原忠清の娘だったため、院と対立する摂関家に伺候していた父為義に廃嫡されて摂関家領の坂東に下され、上総国の豪族上総常澄の許で養君として育てられていた。
 上総曹司と呼ばれた義朝は三浦義明の娘婿となり、曾祖父頼義以来の坂東の拠点である鎌倉に移り、下総国相馬御厨や相模国大庭御厨をめぐる在地豪族間の抗争を調停するなど在地武士団を麾下に坂東に平穏をもたらした。
 鳥羽院の寵姫美福門院得子の乳母夫の藤原親忠の子親弘が相模守に任じられると、義朝は、美福門院やその従兄の藤原家成に接近、王家領荘園の立券に協力することで鳥羽院に近侍して摂関家と結ぶ父為義と対立、ついに保元の乱で父為義と骨肉の対決をする。
 保元の乱で、三浦義明の娘との長男義平に坂東を委ねて上洛した義朝は、後白河院の近臣として東国武士団を率いて崇徳上皇方の父為義と弟為朝を相手に戦い、勝利して恩賞に武家の棟梁に比される左馬頭に任ぜられた。
 保元の乱の3年後に起きた平治の乱では、武蔵守の藤原信頼を支援、東国にいる義平が三浦義澄や上総広常ら坂東武者を率いて上洛するが、平清盛に敗れ、東国に逃れる途中、義朝は尾張で殺害され、長男義平は処刑、次男朝長は傷死、三男頼朝は伊豆に流罪、坂東は再び平氏の治下で在地豪族の紛争絶えない不安定な時代に戻る。

 平治の乱の20年後に起きた伊豆の流人頼朝の平家打倒の挙兵は、在地紛争の調停機能が期待できない平家を見限った源氏恩顧の坂東平氏の蜂起だったといえよう。
 相模で平家に重用される大庭景親に権益を侵されていた三浦義澄、平家姻戚の藤原氏や平家目代に圧迫されていた千葉常胤、兄弟間で内訌を起こしていた上総広常ら坂東平氏が、平家打倒の石橋山合戦に敗れ安房に逃れてきた頼朝の許に参陣、大軍を率いた頼朝は常胤が要害の地で御嚢跡(先祖ゆかりの地)と勧める鎌倉に入った。
 富士川の合戦で敗走する平家を追撃して上洛を命じるが、東国の制圧が優先すべきと義澄と常胤と広常に制止され、鎌倉に戻り常陸の佐竹氏を討伐する。1183年に同族の源義仲が平家打倒の上洛を果たすと、1184年に上洛に反対する広常を誅殺して翌月に義仲追討軍を上洛させ、1185年に壇ノ浦で平家は滅亡した。
 義経追捕の名目で諸国に守護・地頭の設置と任免権が朝廷に認められ、実質的な頼朝の武家政権が確立、1189年に義経を匿った奥州藤原氏を征討、1190年に頼朝が初上洛、1192年に後白河法皇が崩御、後鳥羽天皇により征夷大将軍に任ぜられ鎌倉幕府は完成した。
 頼朝が治承四年(1180年)に鎌倉に入ると、現在の雪ノ下3丁目に屋敷を構え、侍所や公文所、問注所などの役所を建て、幕府(大倉幕府)の形を整えた。
 西隣りに先祖の源頼義が建てた由比之若宮を移して源氏の氏神として鶴岡八幡宮を創建、南側に滑川を挟んで父義朝を弔う勝長寿院を、東側に奥州征伐で直に平泉文化に触れて感嘆した平泉の二階堂を模倣した永福寺を建立、三方を山で囲まれ海を前面にする狭隘な地形の一寒村だった鎌倉は、政教一致の武家政治の中心となる鎌倉幕府の一大拠点に変貌していった。
 鎌倉幕府が名実とも完成した9年後、頼朝が突然死去した。後を継いだ長子頼家は、独善的な行動で御家人の支持を失い北条氏によって伊豆修善寺で幽閉殺害され、頼家の弟三代将軍実朝もまた、頼家の子公暁に鶴岡八幡宮の境内で暗殺される。頼朝の弟義経、範頼、全成は既に殺害されており、清和源氏の正統は三代で断絶した。
 鎌倉時代148年のうち源氏の時代は、僅か34年で終焉、頼朝の妻政子の実家で桓武平氏直系の直方の五代の孫の北条時政による執権政治に移行した。



 実朝が暗殺された1219年に大倉御所が焼失すると、元の大倉御所の地は頼朝の墓所の下にあり縁起が悪いと執権北条泰時は大倉から宇津宮辻子に移転させた。北側の高台に埋葬された頼朝に見守られている大倉幕府の地は、源氏三代を抹殺した北条氏にとって、頼朝の亡霊が見下ろす忌まわしい場所だったのだろう。
 幕府が若宮大路沿いの宇津宮辻子に移転した1225年は、頼朝旗揚げ以来の主要な御家人の多くが北条氏との権力闘争で一掃され、源氏の正統も三代将軍実朝の暗殺で途絶え、鎌倉幕府の実権を掌握した二代執権北条義時が急死、嫡男泰時が後継執権を巡る伊賀氏事件を制圧した翌年で、頼朝の側近で最高官位の大江広元と頼朝の正室政子がこの世を去った直後である。
 鶴岡八幡宮を残して頼朝の創建した勝長寿院と永福寺は廃絶され、鎌倉の名勝である建長寺、円覚寺、東慶寺は、いずれも北条執権五代時頼、八代時宗、九代貞時の創建である。我々はもはや頼朝の鎌倉幕府を見ることはできない、鎌倉に頼朝の影はもうないのかもしれない。

【頼朝の死と源氏の崩壊】

 源氏三代崩壊の契機となった頼朝の急死について、北条氏が編纂した鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」は、頼朝の死の3年前から死の当月までが欠落している。欠落の年は他にもあるが、3年もの欠落、しかも鎌倉幕府創始者の死の重要部分の欠落は尋常ではない。編纂されなかったのか、散逸したのか、意図的に削除されたのか。
 「吾妻鏡」は頼朝の死について13年後の建暦2年の条に朽損した橋の謂れの中で触れている。「相摸國相摸河橋、數ケ間朽損す(中略)去る建久九年、重成法師之を新造す。供養を遂げる之日、之と結縁の爲、故將軍家渡御す。還路に及び御落馬有りて幾程を經不薨り給ひ」
 重成法師は北条時政の娘婿稲毛重成、亡妻の供養のため架けた相模川橋の落成式の帰途に頼朝が落馬してほどなく薨ったとあり、落馬で死んだとは書いていない。
 当時、頼朝の後嗣を巡り嫡男頼家を擁する比企能員と次男実朝を擁する時政が対立しており、頼家の妻が能員の娘で乳母が能員の妻、実朝の乳母が時政の娘である。
 頼朝が初孫一幡の生まれた頼家を後嗣に推していたとしたら、頼朝の急死に、5年後に舅時政の意を受けて頼朝の忠臣畠山重忠の嫡男重保を誘い出して三浦義村らに討たせた稲毛重成が関わっていたかもしれない。

 頼朝の死の欠落した空白の3年間に何があったのだろうか。欠落前年の建久6年(1195年)頼朝は東大寺落慶供養への参列のため5年ぶりに上洛、政子を丹後局に引き合わせて長女大姫の入内工作を図っていた。
 当時の朝廷は、後白河法皇の崩御で後鳥羽幼帝を擁して実権を掌握し頼朝に征夷大将軍を宣下して鎌倉幕府との協調に努めていた関白九条兼実が、後白河法皇と寵姫丹後局との間に産まれた皇女宣陽門院を後見する土御門通親と敵対関係にあり、後鳥羽天皇の後宮に入れていた通親の養女在子が為仁親王を産むと形勢は逆転、通親は中宮に入内していた兼実の娘任子を内裏から退去させて関白兼実は失脚した(建久七年の政変)。
 政子が大姫入内工作を図った丹後局は、親幕府派の兼実と敵対しており、通親は政子を丹後局に引き合わせて兼実と頼朝を離間させる意図があったのかもしれない。
 親幕府派勢力を朝廷から排除したい通親は、建久9年正月に幼主の即位に反対する頼朝を無視して御鳥羽天皇を譲位させ、4才の為仁親王を土御門天皇に即位、新天皇の外祖父となった通親は、後鳥羽上皇の院政が始まると院別当となり、禁裏の天皇と仙洞の上皇を掌握した。
 建久8年7月に入内を進めた大姫が病死するとすぐ頼朝は次女乙姫の入内工作を急がせたが、正治元年(1199年)兼実に上洛の意志を伝えながら正月13日に急死、頼朝が描いた次女乙姫の入内工作も頓挫した。

 吾妻鏡の空白の3年間に繰り広げられた頼朝の朝廷工作の狙いは何だったのだろうか。天皇の外戚となることで朝廷の実権を掌握することが目的だったのだろうか。
 鎌倉幕府が御家人たちの政権抗争の場と化してきたことを嫌忌する頼朝が、娘と後鳥羽天皇との皇子を鎌倉殿に迎えることで、北条時政の血を継ぐ頼家と実朝を排除することが真の狙いだったのかもしれない。
 頼朝の朝廷工作の狙いに気付いた北条時政の逆襲が頼朝の落馬事故死の真相だったのではないだろうか。
 頼朝を支えてきた東国武士団は、頼朝が死亡すると血みどろな権力抗争の中で瓦解していく。頼朝の死で主要御家人13人による合議制に移行するが、二代将軍頼家が頼りにした頼朝の側近梶原景時と義父の比企能員が暗殺され、忠君の誉れ高い畠山重忠が二俣川の戦いで北条軍に敗死、侍所別当の和田義盛も鎌倉市街戦で北条義時に敗れ、北条氏に組みしてきた三浦氏と千葉氏も後に北条氏に切り捨てられ、頼朝挙兵以来の有力御家人の悉くが粛清されて、北条氏の専制政治に移行した。
 頼朝の死を待っていたかのように始まった権力闘争とその結末をみると、頼朝は、在地紛争の調停者として担ぎ上げられ、東国武士団が希求する朝廷からの独立に利用されただけで、役目を終えた頼朝は、もはや老害でしかなく、忠実な側近共々排除され実権を掌握する北条氏に抹殺されたのかもしれない。頼朝の落馬が暗殺の偽装工作とする疑惑も当然である。

【鎌倉トレイルラン初挑戦(2013年2月)】

 11年前の2013年2月、マラソン6年目にしてトレイルランを初体験した。トレイルランは山歩きとランニングを兼ねたスポーツで、リュックを背負って野山や森を走り、大自然の空気と素晴らしい景色を堪能しながら、山道を走って登る負荷で走力アップが図れるとあって、最近とみに愛好者が増えてきている。
 マラソンコースの坂道が大の苦手で、これまで幾たび急坂に苦しめられたことだろう。館山、蔵王、松島、磐城の壁のように聳える急坂が浮かんでくる。なにもあえて嫌いな山道を走るトレイルランに挑んでまで筋力を鍛えたい年令でもないだろうと思うのだが、憧れの鎌倉の寺社や野山を走りながら歴史ロマンが堪能できるとあって、軽い気持ちでエントリーした。

【天園ハイキングコースを走る(2月16日)】

 1月14日に予定していた鎌倉トレイルランが7年ぶりの大雪で中止となり、今日に順延開催となった。前日が昼から冷たい雨で、今日の最高気温も6度という冬日に、湘南とはいえハイキングコースの尾根を走るのだから、防寒ウエアの上下が必須ではと初トレイルランの準備に戸惑うばかりである。早朝7時に出立、JR湘南新宿ラインで9時前に鎌倉駅に下車、冷たい風が吹きつけて、曇天の冬空はかなり厳しいランになりそうだ。
 鎌倉駅のコインロッカーに荷物を預け、防寒ウエア上下にネックウオーマーと帽子に軍手の完全装備、大型ウエストポーチにペットボトルとデジカメと携帯電話を入れて集合場所に向かうと、小型リュックを背にしたトレイルランの熟達者が勢揃いしていた。
 今日のコースは、鎌倉駅→鎌倉宮→大平山→大丸山→永福寺→鎌倉駅の延べ14キロの入門コースである。
 インストラクターの先導で総勢11人が鎌倉駅を9時半に出発、観光客でごった返す駅前通りを抜けて、二の鳥居から鶴岡八幡宮に向けた参道の若宮大路を軽いジョッキングで足慣らしである。三の鳥居を右折、鶴岡八幡宮の境内を左に見ながら、頼朝の墓の前の小さな児童遊園で、まずは準備体操が始まった。肩甲骨と足腰を中心にしたストレッチの後、主催者からトレイルランの注意事項が伝達され、特にハイキングコースでは一般ハイカーの迷惑にならないマナーの遵守が強調された。

鎌倉天園トレランコース


 いよいよ天園トレランコースのスタートである。頼朝が最初に開いた大倉幕府のあった西御門の住宅街を500m程走り抜けると森に包まれた鎌倉宮が見えてきた。
 鎌倉宮は、1333年に鎌倉幕府を倒して建武の新政を敷いた後醍醐天皇の皇子で、後に足利尊氏と対立して鎌倉に幽閉され、中先代の乱で非業の最期を遂げた護良親王を祀るため、明治天皇の勅命で創建されたという。
 鎌倉宮前を左折して更に二階堂の住宅街を500m程で抜けるとまもなく、ハイキングコースに入った。緩やかな細い山道だが、イレブンは一糸乱れない列を作り、快調に駆け登っていく。マラソンであれほど苦手にしていた坂道を、嬉々として登っている自分が信じられない。ランニングシューズで、山道を軽快なフットワーク、まさにトレイルランの醍醐味を味わっていた。
 6分程の上りで尾根に出ると、北鎌倉の建長寺方面からの天園ハイキングコースと合流、アップダウンを繰り返す稜線を飛び跳ねるように、2月の冷たい風も杉林や背の高い笹に遮られ、尾根道ですれ違うハイカー達と挨拶を交し合う山のマナーも気持ちがいい。
 尾根を30分程で視界が開けて大平山山頂に到着した。鎌倉市最高地点の看板があり海抜159mとあった。さすが鎌倉アルプスの眺望は素晴らしい。文字通りの天園である。イレブン同士で記念写真を撮り合い、眼下に広がる絶景に、久方振りのハイキング気分を満喫した。遥か左手に横浜市の高層ビル街が遠望できた。

 大平山頂からの急な岩場を降りると、再び尾根道のアップダウンが続いたが、軽快な走りは全く変わらない。横浜市との市境広場で小休止をとり、リーダーが案内板を指して今日のコースを解説してくれた。木の根が張り出す山道は、昨日の雨でかなりぬかるんでいたが、右に左にラグビーのステップワークのように跳ねながら、若いイレブンに交じって、69歳になったがすっかり若者気取りである。左手にゴルフ場や霊園が広がり、やがて135段の急な階段を一気に駆け登って横浜市最高峰の大丸山山頂に出た。


 頂柱に156mとあり、さっきの鎌倉市の大平山と高さを競い合っている感がした。左手に美しい金沢八景が眺望され、前方に三浦半島が延びていた。今日は三浦半島縦断の42キロのトレイルラン大会があるという。フルマラソンで山道を走るトレランとは超人的だ。
 大丸山山頂での全員集合写真には、年甲斐もなく赤い軍手の両手を挙げて万歳ポーズで応えた。時計はちょうど11時を回っていた。折り返して大平山方面に向かう尾根の走りは依然として軽快である。あれほど嫌いだった山道ランがこんなに楽しいとは、来月の京都フルマラソンで最難関といわれる、洛西の広沢池から仁和寺、竜安寺、金閣寺まで続く「きぬかけの路」約5キロの上り坂もこれで走れ切れそうである。

 帰路は途中から新たな下山コースに入った。ぬかるんで滑りやすい山道は、やがて沢伝いの道に変わり、苔むす岩場が両側に切り立つ薄暗い景観に、思わず足を止めてシャッターを切った。これが鎌倉特有の切通しなのだろう。相模湾を前面に、三方を山に囲まれた鎌倉を外部と結ぶ交通のため岩場を切り開いて道路を作ったというが、あえて狭隘なのは、経済交流というより鎌倉防衛のための関門のような役割を担っていたのだろう。
 山道を一気に下り切り、舗装道路に出てまもなく、山裾に永福寺跡の復元工事現場が見えてきた。頼朝が奥州合戦で目にした平泉の絢爛豪華な寺院を模倣して創建したと言われるが、この後にゆっくり再訪しよう。
 鎌倉宮から鎌倉市街に入り駅前で解散となった。約3時間、全長14キロの鎌倉トレイルランだったが、少しも疲れを感ぜず、鎌倉の山野を走った爽快感と充実感に包まれ、駅のコインロッカーの片隅で着替え合いながら共に走ってきた仲間と裸の交歓をしばし楽しんだ。

【レンタサイクルで頼朝の夢の跡を巡る】

 鎌倉天園トレランの後、いよいよ鎌倉歴史探訪である。駅のレンタサイクルで先ず鶴岡八幡宮に向かった。改めて高い石段上に聳える朱色の八幡宮を見上げると、幕府を開き天下を睥睨する威厳に圧倒された。1180年に鎌倉入りした頼朝は、1063年に源頼義が前九年の役の戦勝を祈願して海浜近くに建てた由比之若宮をこの地に遷して源氏の氏神と鎌倉の街づくりの中心にしたという。1191年の鎌倉大火で焼失すると、裏山を削り石段を設けて本宮(上宮)を、若宮跡に下宮(舞殿)を建てて、現在の上下両宮形式の八幡宮が完成された。
 大石段下に建つ朱色の艶やかな舞殿を前に、あの「静の舞」の話が浮かんできた。吉野山で捕えられ鎌倉で義経の行方を尋問された静御前は、頼朝や政子・大姫の所望で渋々ながら神前で白拍子の舞を奉じたが、頼朝の面前もはばからず、ひたすら義経を恋慕して義経がときめいた世に戻せないものかと、吟じて舞ったという。
 静は古今和歌集の「み吉野の山の白雪踏み分けて入りにし人のおとづれもせぬ」の後段を「入りにし人の跡ぞ恋しき」と変えて、白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人の後ろ姿が恋しいと歌い、伊勢物語三二段の「いにしえのしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな」の前段の倭文の苧環を自分の靜とかけて、靜よ静よと織物の麻糸を紡いで巻き取った糸玉から糸を繰り出すように私の名を呼んでくれた昔にもう一度時を巻き戻したいと歌ったのだから頼朝が激怒したのも当然だろう。
 頼朝の妻政子が、流人の身だった頼朝を慕い続け、石橋山合戦では伊豆山に独り残されて君の存亡を知らずという女の思いを語り、今の静の心も同じだと頼朝を宥めたという。しかしこの可憐な静の強い心意気故に、やがて生まれた義経との子は命を断たれてしまう。平清盛が自分にかけた温情の轍を頼朝は踏まなかったようだ。

 舞殿の背後に聳える鶴岡八幡宮本宮の大石段横に立つ三代将軍実朝暗殺の舞台となった大銀杏は、平成22年3月10日の強風に根元から倒伏、再生・再起を願って残された根の保全処置が施され、根元から高さ四m部分を左隣に移植したところ、なんと残された根から若い木が伸び出し、移植した幹から萌芽して葉を付けるまでになり「頑張る大銀杏」と呼ばれたという。翌年の東日本大震災の被災地に大きな力を送ってくれたことだろう。
 この大銀杏は、二代将軍頼家の遺児公暁が、叔父の三代将軍実朝が右大臣拝賀の儀式から退出するのを待ち受けて襲い掛かりその首級をあげた歴史的舞台でもある。
 公暁は乳母夫の三浦義村にそそのかされたとする黒幕説が有力だが、私は公暁が犯人にデッチ上げられただけで、実行犯は他にいたのではと思えてならない。
 右大臣拝賀の儀式では、京都からの公卿や鎌倉の御家人以下1千騎が実朝に従って鶴岡宮に向かったとあり、実朝が晴れがましい祝宴を退席するのに、雪が2尺余り積もる中、夜の八幡宮の大石段を、警護の供も連れずに下りて来るものだろうかという疑問が湧いてくる。
 一方の公暁は、八幡宮別当(代表)として祝宴を取仕切る大役の任にありながら、式典後に密かに太刀を携えて先回り、大銀杏の陰に潜んで待ち構えるなど、とてもそんな余裕があろうはずがない。また公暁が実朝を斬殺したとき、父の敵を討ったと叫んだとされるが、父頼家を伊豆修善寺に幽閉し殺害したのが北条氏だったことは当時周知のことで、そしてなにより頼家が殺された時に実朝はまだ12歳、親の仇になれるはずはなく、公暁に命を狙われる謂われなどあろうはずもない。

 実朝が公暁に襲われた状況についても「吾妻鏡」に石階を降りようとした時とあるが、「増鏡」には実朝が車を下りようとした時に、「保暦間記」には 社参のため石階を上ろうとした時、「百練抄」には社壇(拝賀の式典中)において、信憑性の高い「愚管抄」には儀式を終え石段を下りて扈従の公卿が列立している前を通り過ぎようとした時にと、殺害現場さえ諸説まちまちである。
 そのうえ愚管抄に法師の行装頭巾姿の公暁と同じ姿の3,4人が出て来て供の者を逐い散らしとあり、複数の暗殺団だったようでもあり、真相は闇なのである。
 実朝暗殺の前年に政子が上洛して皇族将軍を迎える準備を進めており、義家以来武士の棟梁として伝統的権威を持った源氏将軍を廃し、皇族将軍の権威を利用して後見する北条執権の地位向上を目論んだのかもしれない。
 源氏の廃絶を狙う北条氏が、刺客団を送って実朝を斬殺、犯人が三浦義村に助勢を求めたと吹聴して、北条氏にとって最大対抗勢力の三浦氏を牽制しながら、実朝殺害の罪を公暁に押し付けて口封じに頼家の子公暁も殺してしまったというのが真相なのではないだろうか。

鶴岡八幡宮と「頑張る大銀杏」


 鶴岡八幡宮本宮から真東に500mほどの「大蔵幕府跡」に向かった。八幡宮の広い境内を横切り、赤い鳥居を出て、鎌倉小学校の外周に沿って自転車を走らせた。
 築地塀のある閑静な住宅街の桜並木を抜けた街角に、大藏幕府舊蹟跡の石碑が建っており、碑文に「治承四年源頼朝邸ヲ此ノ地ニ営ミ後覇権ヲ握ルニ及ビテ政ヲ此ノ邸中ニ聴ク所謂大藏幕府是ナリ、爾来頼家実朝ヲ経テ嘉禄元年政子薨ジ幕府ノ宇津宮辻ニ遷レルマデ比ノ地ガ覇府ノ中心タリシコト實ニ四十六年間ナリ」とあった。
 大蔵幕府の跡地が清泉小学校の敷地になっており、石碑の裏側に清泉小学生による手作りの大蔵幕府跡についての説明板が掲示されていた。今はその面影が全くない短命に終わった源氏三代の大蔵幕府の歴史を、カトリック系の小学生が学んでいることが何より嬉しかった。

 次の目的地「頼朝の墓」は、大倉幕府跡の真北500mにある。午前中の鎌倉トレイルランの準備体操をした公園から石段を上ると、苔生す高さ1mほどの立派な五層石塔が建っており、安永8年(1779年)に頼朝のご落胤といわれる島津忠久の末裔薩摩藩主島津重豪が整備して、この石塔は勝長寿院から移したという。
 隣接する白幡神社の案内板に「この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山の合戦にあたって髪の中に納めて戦ったという小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。正治元年頼朝公が亡くなるとここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍が参詣し仏事を執り行い多くの武将も参列した」とあった。

頼朝の墓


 頼朝の墓のある法華堂跡に建つ石碑には「建保元年五月和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時、将軍實朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ處ナリ」そして「寶治元年六月三浦泰村此に籠リテ北條ノ軍ヲ邀へ刀折レ矢盡キテ一族郎等五百餘人ト偕ニ自盡シ満庭朱殷ニ染メシ處トス」とあった。
 石碑にある和田義盛は、頼朝の旗揚げに間に合わず三浦衣笠城で討死した三浦義明の嫡男杉本義宗の嫡男で初代侍所別当、三浦泰村は義明の二男義澄の嫡孫である。
 平家打倒に頼朝を最も支え、頼朝の死後も専横する北条氏に組みしてきた三浦一族だったが、北条氏の専制執権体制に決起した宝治合戦で、頼朝の眠る墓所に立て籠もり一族郎党500余人が自害して果てた。亡き主君に源氏三代を滅ぼした盟友北条氏の謀反を訴えたかったに違いない。泉下の頼朝はどんな思いで見ていただろう。
 頼朝の墓は、大蔵幕府を見下ろすような高台に建っている。頼朝はこの景色を見ながら持仏堂で何を考え何を祈っていたのだろうか。死してなお幕府の行く末を案じて鎌倉の地を見守るようにここに埋葬させたに違いない。
 それにしても頼朝の墓は、なぜ頼朝が父義朝の菩提を弔うため父の遺骨を京から探し出して創建した勝長寿院でなく、政子が頼朝を弔うために建立した寿福寺でもなく、この持仏堂だったのだろうか。そしてなぜ法華堂と名を変えたのだろうか。新たな疑問が浮かんできた。

 次は頼朝が鶴岡八幡宮、勝長寿院とともに建立した三大寺院の一つ「永福寺」である。大倉幕府跡の概ね東方に500m、三寺院は大蔵幕府跡を中点に逆三角形の位置関係にあり、永福寺は広範囲に復元工事中だった。
 「吾妻鏡」の文治5年(1189年)12月9日の条に「今日永福寺事始也。奥州に於て、泰衡管領之精舎を覽令め、當寺花搆之懇府を企て被る。且は數万之怨靈を宥め、且は三有之苦果を救はん爲也。 抑、彼の梵閣等並ぶる之中に二階大堂有り(大長壽院と号す)專ら之を摸被るに依て別して二階堂と号する歟」とある。
 平泉の奥州藤原氏を征伐して鎌倉に帰還、これまでの戦で殺生した数万の怨霊を鎮め、欲有・色有・無色有の三界に惑う苦悩を救うため、平泉で見た二階大堂(大長壽院)を模した永福寺を造らせ二階堂と号したという。
 昭和58年から永福寺の発掘調査が始まり礎石や古瓦が出土し寺院跡であることが確認され、その後の調査で壮麗な二層の二階堂(釈迦堂)の両側に阿弥陀堂と薬師堂を配しお堂の前に大きなひょうたん型の池が広がる浄土式庭園を持った大寺院の姿が浮かび上がってきた。

 お堂の跡に土を盛り木枠で囲み基壇を作り、埋め戻した礎石の模倣石を元あった位置に配する復元工事で、南北に全長約130mの永福寺は、浄土式庭園を持つ宇治の平等院の3倍、平泉の無量光院の2倍の規模である。
 現場責任者らしき人に、お堂も復元するんですかと尋ねてみると、鎌倉市は予算がないから池を掘って公園にして終りですよ、と寂しそうな答えが返ってきた。

永福寺復元工事


 頼朝が模したという大長寿院は、奥州藤原氏初代清衡が嘉承2年(1107年)に造立したとあるが、中尊寺に現存する大長寿院は、関山の山上に建ち並ぶ中尊寺伽藍の北端の白山神社の西隣にあり、永福寺のような大きな池もそのスペースもなく二階建てでもない。頼朝が範にしたという大長寿院は一体どこにあったのだろうか。
 中尊寺境内の発掘調査で池の遺構が発見されたのは、金色堂の北側にある弁財天堂前の伝三重池跡と金色堂の南東崖下24mに広がる伝大池跡の2カ所だけである。
 伝三重池跡は、隣接する伝金堂と非対称の位置関係にあって、浄土式庭園ではなく山上伽藍の景観の中心として造成された小型の独立した園池のようである。
 もう一つの中尊寺関山の南麓にある伝大池跡は、清衡が中尊寺落慶供養願文に描いた伽藍と比定される浄土式園池だが、発掘調査の結果、何らかの理由で作庭作業が中途で放棄されたと考えられている。
 考古学者中川成夫の大長寿院に関する興味深い考察がある。中尊寺文書の弘安2年(1279年)の経蔵別当永栄判物「大長寿院四方堺事」に、大長寿院の境内の南限が東の境を南に下った大日堂と大堂の燈油畑とあり、弘安九年の勝弁判物「寺中池辺坊地一所」に重代相伝所領也とある。寺中池辺坊地は大池周辺の坊地を指しており、大日堂や大堂や燈油畑がある大池周辺遺跡こそ大長寿院の故地ではないかと中川氏は推定している。
 「吾妻鏡」の文治5年9月17日の条に「寺塔已下注文曰(衆徒注申之)無量光院(号新御堂)事、秀衡之を建立す」とあるが、無量光院を新御堂と割注しているのは毛越寺の新院という意味だとこれまで理解されてきたが、寺と院は格が違い、秀衡は父基衡が建立した壮大な伽藍の毛越寺を、御堂とはさすがに言わないだろう。
 無量光院を新御堂と云うということは、無量光院と同格の御堂をもう一つ建てていたことを示しており、それが安元2年に父基衡の追善と後白河法皇の安穏と自己の修善のために建てた大池の大長寿院であり、頼朝が永福寺二階堂のモデルにした二階大堂は、この大池周辺の西側にあった南側遺構の大堂だったのではないだろうか。

 頼朝の奥州征伐で奥州藤原氏が滅び平泉の諸寺院は荒廃したが、中尊寺の寺務に補された越後助法印盛朝が幕府に働きかけ、弘安10年から大修理工事が行われた。
 盛朝は荒廃した堂塔を金色堂周辺に集中移築させたが、大長寿院もこの時に山下の大池周辺から山上の現在地に規模を縮小して移されたのではないだろうか。
 伝大池跡の発掘調査で12世紀初頭と12世紀後半の遺跡が確認されており、嘉承2年(1107年)に清衡が伝大池跡に大長寿院を造立、安元2年(1176年)に祖父清衡が造りかけた大池を秀衡が盛土整地して規模を縮小し大長寿院を改修したのかもしれない。
 改めて永福寺に対峙してみると、確かに伝大池跡の遺跡と同じ東向きである。奥州征伐で平泉の仏国土を目の当りに、浄土思想の強烈な洗礼を受けた頼朝は、関東長久のためとはいえ、泰衡や義経を私意を以て誅し亡ぼした怨霊を宥めんがため、大池の大長寿院を模倣した西方浄土に向かって合掌する永福寺を建立したに違いない。

 今日最後の目的地「勝長寿院跡」に向かった。永福寺跡から岐れ路交差点に戻り、勝長寿院の別名大御堂の名が付く大御堂橋を渡って、滑川と山並みの間の櫛の歯のような狭い谷あいをびっしり住宅が建ち並んだ町はずれを車1台がやっと通れる道の傍らに、木立に隠れた看板を見付けた。文字を読まずともすぐここだと直感した。
 数坪の空地に朽ちかけた勝長寿院跡の案内板と石碑が立ち、奥に2基の五輪石塔が覗き見えて、それぞれに源義朝之墓と鎌田政家之墓の墓標が建てられていた。
 鎌田政家は源義朝の第一の郎党で、平治の乱に敗れて東国で再起を図るべく逃走中、立ち寄った尾張国知多郡野間の政家の舅と義兄(長田忠致と景政)の裏切りで主君義朝と共に討たれた。主従の供養石塔に合掌した。
 傍らの案内板に「文治元年源頼朝は父義朝の菩提を弔うためこの地に勝長寿院を建立し、同年九月三日、義朝と郎等・鎌田正清(政家)の頸を埋葬した。石碑と後の五輪塔は、主従の供養のため源義朝公主従供養塔再建委員会の方々の御厚志により建てられたものです。勝長寿院には定朝作の本尊金色阿弥陀仏像を始め運慶作の五大尊像などが安置され、壁画に彩られた阿弥陀堂、五仏堂、法華堂、三重の宝塔などの荘厳な伽藍が建ち並んでいました。鎌倉幕府滅亡後も足利氏によって護持されましたが十六世紀頃に廃絶したと思われます」とあった。

 「吾妻鏡」の文治元年8月30日の条に「法皇亦勳功を叡感之餘り、去る十二日刑官に仰せて、東の獄門邊に於て故左典厩の首を尋ね出で被、正淸(鎌田二郎兵衛尉と号す)の首を相副へ、江判官公朝を勅使と爲し之を下被る。今日公朝下着す」とあり、同年九月三日に「故左典厩の御遺骨(正清の首を副ゆ)南御堂の地に葬り奉る」そして同年10月24日に「南御堂(勝長寿院と号す)供養を遂げらる」とあり、記名された100余名の隋臣と共に勝長寿院の盛大な落慶供養が行われたという。
 傍らに建つ石碑の「勝長壽院舊蹟」の後段に「實朝及ビ政子モ亦此ノ地ニ葬ラレタリト傳ヘラルレドモ其ノ墓舎ハ扇ケ谷壽福寺ニ在リ」とあった。
 「吾妻鏡」の建保7年正月28日の条に「將軍家、勝長壽院之傍于葬り奉る。御首の在所を知ず、五體不具、其の憚り有る可しに依て、御鬢を以て御頭に用い棺に入れ奉る」とあり、実朝を殺害した公暁が首を持ち去ったため、頭の代わりに髪の毛を棺に納めて勝長寿院の傍らに葬られたとあり、承久元年(改元)12月27日の条に「二位家政子の願で故右府追福のため勝長寿院の傍に一伽藍を草創し、仏師運慶作の五大尊を安置す、これを五佛堂と号す」とあり、月命日に母政子は五佛堂を建立して病弱で悲運な最期を遂げた実朝を弔ったのだろう。源氏三代の歴史を閉じる舞台となり、今は全くその面影がない勝長寿院の跡に建つ2つの五輪塔に合掌した。

 源義朝の墓


 勝長寿寺は、頼朝が父義朝の首を京から鎌倉に迎えて建立した源氏の菩提寺であり、三代実朝と母政子は勝長寿院に葬られている。頼朝はなぜ源氏の菩提寺たる勝長寿寺ではなく持仏堂に葬らせたのだろうか。
 さっき訪ねてきた永福寺を建立する頼朝の姿が浮かんできた。奥州征伐で平泉に黄金の仏国土を目の当たりにして二階堂を模した永福寺を建立したが、奥州藤原氏三代の遺体が眠る葬堂の金色堂も見て来たはずである。
 初代清衡が仏国土平泉を眼下に見守る関山の山頂に建立した金色堂は、全国から僧を呼び世の安寧を願い法華経や阿弥陀経を読誦させる持仏堂として建てられたが、脳卒中で半身不随となった晩年の清衡は、堂内でひたすら南無阿弥陀仏と念仏を唱え、入寂すると己の遺体を金色の柩で須弥壇に納めさせ、極楽浄土の世界を具現化した葬堂として、二代基衡が法華経の書写を発願し父を供養、基衡に続き三代秀衡も2年前に堂内に眠っている。
 頼朝も落馬で半身不随となった晩年は、戦乱の御霊を鎮魂し西方浄土を祈願する持仏堂で法華経を書写しながら死を迎え、死してなお鎌倉の行く末を見守ろうと、奥州藤原氏三代に倣って大蔵幕府を見下ろす持仏堂内に遺体を安置させ法華堂と改称させたのではないだろうか。

 それにしてもススキの原となって後世に発掘される幸運を持った永福寺に比べて、谷あいが市街化されて住宅で埋め尽くされ、どこにあったのかも知れず、二度と陽の目を浴びることのない勝長寿院は、源氏三代の悲劇と末路を象徴しているかのようである。
 源氏の嫡流に生まれ、平治の乱で父を失い、20年の伊豆流人生活の末に、平家を滅ぼし奥州藤原氏を倒して鎌倉に幕府を開いたが、多くの命を奪った怨霊に悩まされ、落馬後の死の真相も定かでなく、頼朝は永福寺を建立していた頃が唯一、心休まる時だったに違いない。


【神奈川県⑤:鎌倉幕府終焉の跡を訪ねて】

【北条鎌倉幕府の栄枯盛衰記】

 源頼朝が開いた鎌倉幕府は、二代頼家と三代実朝が殺害されて源氏直系は三代で断絶、幕府の実権を掌握した北条氏は、時政から義時、泰時、経時、時頼へと執権職を世襲していく。三代執権泰時は御成敗式目を定めて武家統制の強化を図り、五代執権時頼は頼朝挙兵時からの最大勢力だった三浦氏と千葉氏を滅ぼして幕府内の反北条勢力を一掃、かくして桓武平氏の北条氏は、清和源氏の正統と敵対する御家人を抹殺、鎌倉幕府を乗っ取った。
 初代執権時政は娘婿の源頼義に坂東の地を譲った平直方の五代の孫である。時政が直方に倣って娘政子の婿に源頼朝を迎えて開いた鎌倉幕府を源氏三代で滅ぼした北条氏は、源氏に譲った坂東を取り戻したことになる。
 八代執権時宗の時代に、二度にわたる蒙古軍の来襲を鎌倉武士の勇敢な戦いと九州地方を襲った台風の天運で撃退したが、御家人の国土防衛の負担や元寇恩賞の停滞、米不作による幕府財政の逼迫、貨幣経済の普及と荘園市場の発達で御家人の生活は困窮を極めた。
 次の執権貞時が御家人の借金を棒引きする徳政令を発して対応するが、諸国で悪党が活発になり治安は乱れ、執権北条得宗家の権威は次第に失墜していく。
 九代執権貞時の死後、四代の中継ぎを経て貞時の三男高時が十四代執権となる。当時の天皇家は、持明院統と大覚寺統に分かれ交互に天皇を出して対立しており、大覚寺統の後醍醐天皇は、両統迭立を支持する鎌倉幕府の討幕を企てたが、正中の乱(1323年)で六波羅探題の鎌倉武士に制圧され、元弘の乱(1331年)では、尊良親王と護良親王の皇子軍と僧兵に楠木正成一党が味方して笠置山に挙兵するも、持明院統を取り込んだ幕府軍に敗れ、後醍醐天皇は隠岐に配流された。
 潜伏していた正成が千早城を奪還、幕府軍相手に持ち堪え、各地の討幕機運を触発すると、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆で討幕を挙兵、鎮圧に派遣された北条高家が迎撃した赤松則村に討たれると、幕府軍の足利高氏は西国武士の反北条機運に乗じて後醍醐天皇側へ寝返り、幕府軍の京都の拠点である六波羅を陥落させてしまう。

 後醍醐天皇の討幕の綸旨を戴くと虚病を使って帰国、密かに一族を集めて討幕の計略を巡らせていた新田義貞は、西国の叛乱を鎮圧する派遣軍の兵糧調達のための過酷な臨時租税を課してきた幕府の使者を斬殺、これに激怒した高時が新田討伐を下命すると、新田荘で討幕を決意して、越後、甲斐、信濃、坂東からの加勢を擁して鎌倉の山越えと稲村が崎の浜伝いから鎌倉に攻め入り、高時は一族家人と東勝寺で自刃、鎌倉幕府は滅亡した。



【鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞と足利高氏】

 1333年(元弘3年)の鎌倉攻めで鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞は、前九年の役で陸奥俘囚長安倍氏を倒し後三年の役で藤原清衡を助けた源義家の子孫である。
 河内源氏の嫡流である義家の長男義宗が早世、次男義親が反逆の罪で平正盛の追討で誅殺され、家督を継いだ三男義忠も一族の内紛で暗殺され、その嫌疑を受けた義家の次弟義綱を征討した義親の四男為義が河内源氏の後継者となり、父為義と対立して坂東に下った義朝の嫡男頼朝が後に平家を打倒して鎌倉に幕府を開く。
 後三年の役で長兄義家を援けた三弟義光は、常陸国に土着して三男義清が武田氏を、嫡男義業の長男昌義が佐竹氏を称し、義家の四男義国は、下野国足利荘(栃木県足利市)を領し、長男義重が上野国新田荘(群馬県太田市)で新田氏を称し、次男義康が足利氏を称した。
 後に鎌倉攻めする新田義貞は義重の八代目、京六波羅の鎌倉軍を破る足利高氏は義康の八代目、共に北条氏の鎌倉幕府を倒す主役となるが、二人は、同族ながら頼朝の平家打倒の挙兵に対照的な対応を取っていた。
 新田義重は北関東の主導的立場にあり格下の頼朝の平家打倒の挙兵に日和見的だったが、足利義康は正室が頼朝と従兄弟関係、義康の三男義兼が北条時政の娘時子を妻に迎えて頼朝と義兄弟、頼朝の挙兵時から平家討伐や奥州合戦に参加、義兼の三男義氏が北条泰時の娘を妻に迎えて北条氏と強固な血族関係を結んでいた。
 新田義貞はいかに鎌倉を攻略したのだろうか。鎌倉は三方が山に囲まれ一方が海に面する天然の要塞であり、鎌倉を攻略するには七箇所ある切通し(尾根を垂直に掘り下げて造った狭隘な通路)を突破しなければならない。
 義貞は、西の極楽寺坂切通しと北の巨福呂坂切通しと中間の化粧坂切通しと三方から攻めかかり、北条鎌倉軍と壮絶な戦闘を繰り広げたが、狭い切通しでの大軍の戦いは容易に決着がつかず、義貞は西の海岸線に突き出た稲村ケ崎の海岸線を干潮時に突破する奇策を用いてついに鎌倉へ突入した。追い詰められた北条一門は、東勝寺の火中にて全員自刃、かくて鎌倉幕府は滅亡した。
 河内源氏の頼朝が開いた鎌倉幕府を奪い取った桓武平氏の北条得宗家から再び源氏の手に奪い返すべく、京都と鎌倉で幕府軍を破った足利高氏と新田義貞だったが、戦後の戦功を巡り不仲となり、弟直義の大塔宮弑逆で朝敵となった尊氏を征討する宣旨が義貞に与えられ、北朝方の尊氏と南朝方の義貞が相争う建武の乱を経て、勝者の尊氏が頼朝宿願の京都に新たな室町幕府を開いた。

【鎌倉トレイルラン第二弾(2013年9月)】

 2013年に初の鎌倉トレイルランを体験した6ケ月後に計画した鎌倉トレランの第二弾は、新田義貞軍と北条幕府軍の壮絶な戦場となった洲崎古戦場跡、そこで勝利した新田軍を迎えて幕府軍が戦った極楽寺坂と化粧坂と巨福呂坂の三つの切通し、干潮を利用して新田軍が突破した稲村ケ崎、そして鎌倉北条氏一門が自刃し幕府終焉の地となった東勝寺跡、これら新田義貞の鎌倉攻めルートを辿りながら、鎌倉幕府の終焉を訪ねてみたい。
 埼玉から湘南新宿ラインで約2時間、大船で湘南モノレールに乗換え2駅目の湘南町屋駅に降りたのは午前10時半。駅のトイレでランニング姿に着替え、リュックを背負い、高架のモノレールの下を走ること数分、路肩に「洲崎古戦場」の由緒石碑を見つけた。
 碑文に「元弘三年(1333年)五月、新田義貞鎌倉攻めの折、部将堀口貞満と大島守之が洲崎口より攻む。鎌倉方は赤橋守時を将として激撃し戦闘六十数度遂に敗し守時以下九十余人自刃したる古戦場なり」とあった。
 入間川を渡河した新田義貞の大軍を迎撃した小手差原と分陪河原で敗れた幕府軍は、全軍を三手に分けて、十五代執権貞顕の嫡男金沢貞将を大将に3万騎を化粧坂に配し、大仏貞直を大将に5万騎に極楽寺切通しを固めさせ、十六代執権赤橋守時を大将に6万騎を洲崎の敵に差し向け、10万余騎の予備隊を鎌倉に待機させた。

 今は住宅で埋め尽くされた丘陵に囲まれた平原で、数万の大軍が繰り広げる60数度に及ぶ壮絶な戦いを思い浮かべながら、近くにあるという「泣き塔」を探した。
 子供達の甲高い声が飛び交う芝生グランドの一角にフェンスに囲まれた凝灰岩の岩窟と高さ2mはあろう石造宝篋印塔が覘き見えた。洲崎古戦場の戦死者を供養する石塔で、文字の剥がれた案内板に「夜毎に人のすすり泣く声が聞こえることからこの名が生まれた」とあった。

泣きの塔


 幕府軍は小手差原と分陪河原の野戦で大敗してなお、なぜ洲崎で無謀な野戦に臨んだのだろうか。鎌倉を囲む七切通しに最終防衛線を構築する時間稼ぎの捨て石だったのだろうか。その役を現職執権の守時が担わされた。
 十四代執権高時が病で辞職、嫡男邦時の成長までの繋ぎで執権職を継いだ守時は、あくまで傀儡だった。庶流の赤橋守時には、出家してなお実権を握る得宗家高時の鎌倉に自分の居場所はなかったのかもしれない。
 尾崎士郎訳「太平記」に「1日1夜のうちに65度まで白兵戦を行い数万騎あった郎党も次第に討たれて残るは僅か300騎余りになってしまった。守時は侍大将の南条高直に、北条家の運命がここで終わるとは思われぬが、足利殿と縁組していることで疑いをかけられた身で生き延びることができようぞ、と腹を掻き切った」とある。
 守時の妹が朝廷側に寝返った足利高氏の正妻、甥で尊氏の二男千寿王が鎌倉を脱出し新田軍の一方の旗印になっており、守時は得宗家の嫌疑を恐れて退却せず自決の道を選んだ。泣き塔は守時の無念のうめきであろうか。

鎌倉歴史探訪トレランコース


 湘南深沢駅前を左折、梶原の地名を持つ住宅街を等覚寺に向かった。小さなお寺で本堂から流れる彼岸法要の読経に耳を傾けながら庭の一角に纏められた石塔に合掌した。近くの深沢小学校の裏手に梶原景時親子の墓を探してみたが、墓参帰りの老夫婦に尋ねてみると、学校の敷地内にあり中に入れないという。
 梶原やぐらの参拝は諦めて、由比ガ浜まで約四キロの長谷通りを本格的な走りに入った。秋彼岸三連休の中日で車が数珠繋ぎの大渋滞をよそ目に路肩を颯爽と走ること2キロ余り、途中、大仏坂切通しの登り口を見過ごしてしまい、少し戻って道沿いの住宅の裏手を上ってみたがそれらしい切通しの地形は見付けられなかった。
 父足利高氏が京の六波羅探題を攻めたため人質になっていた千寿王は鎌倉を脱出、上野国世良田で挙兵すると足利所縁の軍勢三万が参陣した。新田義貞に願い出て鎌倉攻め口の一つ大仏坂口が足利軍に任されたという。
 
 大仏坂トンネルを抜け、長谷通りの緩やかな下り坂を鎌倉大仏に向かった。高徳院の「鎌倉大仏」はさすが鎌倉のシンボル、国際色豊かな観光客で溢れていた。
 大仏の裏手に与謝野晶子の歌碑「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」があった。
 確かに、仰ぎ見ている我々に前かがみになって慈愛に満ちた眼差しを注ぐ優しいお兄さんの風貌である。
 案内板に「この大仏像は阿弥陀仏である。零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して作ったものではない。初めは木造で1248年に着工し6年間で完成したが、1247年に大風で倒れたので再び資金を集め、1252年に至って現在の青銅の像を鋳造し、大仏殿を造って安置した」とあった。
 「吾妻鏡」の嘉禎4年(1238年)3月23日の条に「相模国深沢里の大仏堂の事始め也。僧浄光尊卑の緇素を勧進令め此の営作を企てる」、寛元元年(1243年)6月16日の条に「深沢村に一宇の精舎を建立し、八丈余の阿弥陀像を安んず。今日供養を展ず。導師は卿僧正良信、讃衆十人、 勧進聖人浄光房、 此の六年之間、都鄙を勧進す。尊卑奉加不は莫し」とあり、鎌倉大仏が貴賤の別なく集めた浄財で造られたとは知らなかった。
 奈良の大仏に匹敵する巨大な大仏と大仏殿の築造は、膨大な財力と労力を要する国家的事業であり、完成の4年後に木造大仏が大風で倒壊損壊すると、5年後には金箔を貼った青銅大仏の再建が始まっている。とても僧浄光の勧進による民間の浄財だけで建てられたとは思えない。

鎌倉大仏


 「吾妻鏡」の寛喜3年(1231年)3月19日の条に「今年世上は飢饉、百姓 多く以て餓死せんと欲す」とあり、前年の冷夏による寛喜飢饉が八年も続いて、疲弊した民衆から資金が集まる状況ではなかったろう。開眼供養を行った導師良信は、源氏の菩提寺の勝長寿院の別当で幕府の護持僧、私人ではなく公人である。
 北条時政の三男で初代連署時房の四男朝直が、三代執権北条泰時の娘婿となり、1233年に宮廷や寺院の造営を担当する木工権頭に任ぜられ、奇しくも大仏(おさらぎ)氏を名乗り、大仏氏の祖となっている。
 木造大仏着工の前年は、鎌倉が大地震と大雨洪水に襲われ、政敵を粛清してきた北条政子の13回忌の年である。天災地変が政子への怨念の仕業と恐れられ、怨霊を鎮め政子の安寧を祈願すべく、時の執権泰時が大仏朝直に民意名目で大仏を建立させたというのが真相ではないだろうか。

 次の目的地は新田軍と幕府軍の最激戦場となった「極楽寺坂切通し」と「稲村ケ崎」である。鎌倉大仏を後に長谷通りを更に由比ケ浜に向かって南下、相模湾の海原が見えてきたところで江ノ島方面に右折した。由比ケ浜ロードから右斜めに住宅街を抜けると、鬱蒼とした上り坂の路肩に「極楽寺坂」の石碑を見つけた。
 碑文に「元弘三年の鎌倉討入りに際し大館宗氏、江田行義は新田軍の大将として比便路に向い、大佛貞直は鎌倉軍の大将として此所を堅め相戦う」とあり、坂道の両側に切り立つ極楽寺坂の切通しが続いていた。
 幕府軍が堅固な陣を構えて両軍の激しい攻防が繰り返され、新田軍の大将大館宗氏が干潟を渡って討死する壮絶な戦いに、一進一退で膠着状態の化粧坂戦線から兵を割いて合流した義貞は、極楽寺坂の突破を断念、稲村ケ崎の海岸沿いから攻め入る作戦に切り替えた。
 極楽寺坂切通しを登りきり、江ノ電電鉄に併行して七里ケ浜に向けた約1キロの下り坂の途中に「11人塚」と「鎌倉時代の出土人骨の埋葬」の説明板があった。
 新田氏一族の大館宗氏以下11人を埋葬し十一面観音堂を建て霊を弔った所とあり、昭和34年に極楽寺橋付近の造成現場で鎌倉時代末期と見られる多数の人骨が発見されその一部をここに埋葬したという。人骨の発見話に680年前の壮絶な戦いがリアルに感じられる。

 極楽寺坂を下り切ると正面に相模湾が広がってきた。右手の七里ケ浜の先に江の島が離れ小島の如く、左手に切り立つ稲村ケ崎の断崖と波打ち際の岩に白波が寄せて織りなす美しい景観にしばし走りの疲れを癒した。
稲村ケ崎


 砂鉄のような黒っぽい砂浜を踏みしめて、稲村ケ崎の中腹にある海浜公園に上ってみると、大正6年建立の板碑に「元弘三年五月二一日新田義貞比の岬を廻りて鎌倉に進入せんとし金装の刀を海に投じて潮を退けんことを海神に祷れりと云うは比の處なり」とあった。
 金装の刀を海に投じたとは義貞を神がかりする後世の創り話だろうが、このとき義貞は、軍神義家の長男が早世、次男が誅殺、三男が暗殺、四男義国の直系たる我こそ源氏本流であり、桓武平氏の北条氏に乗っ取られた鎌倉幕府の奪還を八幡太郎義家に必勝祈願したに違いない。
 大仏貞直率いる幕府軍が頑強に守る極楽寺坂への総攻撃は陽動作戦で、未明の干潮を見計らい、義貞は選りすぐりの騎馬隊を率いて、月明かりの稲村ケ崎の海岸伝いに、極楽寺坂を守る幕府軍の背後の奇襲に成功した。
 山と海からの挟撃作戦に敗走する極楽寺坂の幕府軍を追って鎌倉市中に突入する新田義貞の騎馬武者姿を思い描きながら「由比ケ浜ロード」をひた走りに走った。
 右手に広がる紺碧の大海原が太陽の陽射しに眩しく煌き、潮騒の音と潮風の香が心地いい。浜辺には沢山のサーファーが寝そべり、ロードには色とりどりのランナーが軽快に走り、誰もが湘南を満喫していた。サーフボードを担いで横断するお腹の出た裸の年配男性と笑顔の挨拶を交わしたが、湘南は老いてなお青春の世界である。

 約2キロの湘南海岸から鶴岡八幡宮に向う若宮大路に入った。若宮大路のごった返す観光客の間を縫う様に1キロほど、鎌倉駅の西側を横須賀線に沿って「寿福寺」に向った。閑静な住宅街の中にある寿福寺の山門から樹林の中を奥に伸びる敷石道が美しい。説明版に「この地はもと源頼朝の父義朝の館があったといわれ、鎌倉入りした頼朝はここに館を作ろうとした云々」とあった。
 寿福寺は、頼朝が没した翌年(1200年)に妻政子が夫の菩提を弔うため禅僧栄西を招いて建立した鎌倉五山第三位の寺であり、三代将軍実朝も仏事・供養の導師として栄西を訪ねていたという。裏山の墳墓「やぐら」に源実朝と母政子の墓と伝わる五輪塔があるらしいが、門が閉じられて断念した。三連休で観光客がごった返す鎌倉にあって訪れる人も少なくこの静寂感はありがたい。

 鎌倉七切通しの内「大仏坂」「極楽坂」を走り、残るは「化粧坂」「亀ケ谷坂」「巨福呂坂」である。
 寿福寺から横須賀線沿いに北鎌倉方面に走り、途中から鎌倉特有の地形といわれる山峡の「谷戸」の集落に入り、幅3mほどの隘路でゴツゴツした波打つ山道を登ると「化粧坂」(けわいざか)の由緒石碑が見えてきた。

化粧坂


 碑文に「この名称は往時平家の大将を討取りその首を化粧して実検に備へしにより起ると云う。鎌倉攻防の要路に当り、元弘三年新田義貞軍の鎌倉討入り以来、しばしば戦場となれる所なり」とあった。新田中央軍を迎え撃つ金沢有時を大将とする幕府軍の抵抗激しく戦線は膠着状態となり、極楽坂攻めの大館宗氏討死の報に、義貞は化粧坂攻めを弟義助に託して極楽寺坂に転戦した。

 ようやく化粧坂を登りきると、源氏山公園の芝生が広がり、沢山のハイカーで賑わっていた。公園中央に烏帽子に甲冑姿の凛々しい源頼朝座像が辺りを睥睨していた。
 合掌しながら、あなたの夢の跡はいかに、と問い掛けてみた。自分の死後、2人の息子(頼家と実朝)が妻政子と義弟義時の北条氏に抹殺され、再興した源氏が三代で断絶してしまうとは夢にも思わなかったに違いない。
 次は「亀ケ谷坂切通し」である。急な化粧坂を下りて谷戸を通り鎌倉街道に抜ける山道に入ると、尾根を垂直に掘り込んだ文字通りの切通しである。あまりの急坂に亀も登れず引き返したことから亀返り坂と別名が付くほどの余りの急勾配に今日初めて歩いてしまった。
 平家追討の兵を挙げながら石橋山の戦いで破れて房総半島に逃れた頼朝が、治承4年(1180年)に大軍を引き連れて安房から鎌倉入りする際、北から鎌倉に入るこの亀ケ谷坂切通しを進軍したといわれる。

 次は残る「巨福呂坂切通し」である。亀ヶ谷坂を下った蕎麦屋で遅い昼食をとり、大渋滞の鎌倉街道の路肩を鶴岡八幡宮に向かうと、左手に「建長寺」の境内が広がってきた。このあと巨福呂坂切通しと東勝寺跡の探訪が控えており、建長寺の参拝は断念して先を急いだ。
 途中で天井が透けたトンネルがあり、抜けると両側が切り立た切通しの形状である。鶴岡八幡宮の西側に伸びる谷戸を、地図を頼りに進んでみたが、住宅がまばらになり石碑や板碑が点在していた山道はやがて民家の私有地に吸収されていた。切通しの形状は見えないがこの辺りが旧巨福呂坂切通しなのだろう。
 鶴岡八幡宮のすぐ横で、まさに幕府の喉元である。北条幕府軍の将長崎高重が背水の陣で新田軍の将堀口貞満と四日に亘るし烈な攻防戦を繰り広げた。高重は150騎を従えて密かに敵陣に紛れ込み、義貞の首を狙うが露見、新田軍に大損害を与えた後、残る8騎で東勝寺に戻り、北条高時に自害を勧め、率先して自害したという。

 いよいよ今日最後の目的地「東勝寺跡」に向かった。鶴岡八幡宮の境内を横切り小町大路を南下、住宅街の路地を左に折れ、渓谷のように深く薄暗い滑川を渡り、山城のような上り坂をひたすら走ると、樹林の中にフェンスに囲まれた雑草生い茂る広場が現れた。
 「東勝寺跡」の説明板に「東勝寺は一三世紀前半に第三代執権泰時により得宗(北条氏嫡流)家の氏寺として創建され様々な学派を学ぶ諸宗兼学の寺院であるとともに周辺の地形と一体となった防御のための城郭的な機能も持っていた。元弘三年新田義貞らの鎌倉攻めにより幕府の最高権力者であった北条高時は、東勝寺で一族郎党とともに自害し鎌倉幕府は滅亡しました」とあった。
 高時9才の時に父九代執権貞時が死去、庶流から四代の中継ぎを経て14才で十四代執権となり、24才で病のため執権を辞して出家したが、後醍醐天皇の皇子護良親王が出した元弘3年3月6日付の鎌倉幕府討伐の令旨に「東夷高時相模入道一族等、奉蔑如朝家」とあり、鎌倉幕府の最高権力者は、九代将軍守邦親王でも最後の十六代執権赤橋守時でもなく北条相模入道高時だった。

 時計は16時、薄暗くなりコオロギの声だけが響き渡っていた。雑木の裏手の石段を登ると山肌に抉られた「北条高時腹切りやぐら」に小さな石塔が据えられ生花が供えられていた。傍らの石碑に「新田義貞鎌倉に乱入するや高時、小町の邸を後に父祖累世の墓所東勝寺に篭り、150年来殷賑を極めし府下邸第肆廛の今や一面に焔煙の漲る所となるを望見しつつ、一族門葉870余人と共に自刃す、其の北条執権史終局の惨澹たる一駒は、実に此の地に於て演ぜられたるなり」とあった。

北条高時腹切りやぐら(横穴墳墓)


 尾崎士郎訳「太平記」の「相模入道自害のこと並に北条家滅亡のこと」の章を抜粋してみる。
「長崎高重は東勝寺の内を走り廻って『今はこれまでぞ。おのおの方も遅れず自害召されよ。まずは高重が手本をお見せ申そう』というままに、胴だけ残っている鎧を脱いで投げ捨て、前にあった盃をとって弟の新右衛門に酌をさせ、三度傾けて盃を摂津入道道準の前に置き『心をこめた盃です。お受け下され、そして肴は、このとおり』と言うが早いか左の小脇に刀を突き立て右の脇腹へかけて切目長く掻き切り、腸をつかみ出して道準の前に置いてうつ伏した。道準は盃をとりあげ『見事な肴じゃ、いかなる下戸もこれでは飲まずにいられまい』と冗談を言いながら半分飲み残した盃を諏訪入道直性の前において腹を切った。(中略)ようやく元服をすませたばかりの若者の健気な振る舞いに励まされて相模入道(高時)が腹を切ると、続いて城入道が追腹を切った。御堂の中に座をつらねていた人びとも、ある者は腹を切り、ある者はみずから頸を掻き落として、思い思いに天晴な最期をとげた。そのほか金沢崇顕、桜田貞国、長崎思元ら一門二八三人もわれ先にと腹を切り、御堂に火を放った。たちまち猛火燃えさかり黒煙は天を覆った。庭や門外に待機していた兵たちも、或いは腹を切って炎の中へとびこみ、或いは父子兄弟刺し違えて折り重なって倒れ伏した。血は流れて川をなし屍は累々と路傍に横たわって荒野を思わせた」

 北条高時腹切りやぐらの不気味な岩窟の奥から北条一族の怨念の呻きが聴こえてきそうである。
 太平記には北条一門の武者たちの凄惨な自刃の様子が詳細に綴られていたが、一門の妻子や姫君や女房らも共に自ら喉を突いて死出の道を辿ったに違いない。夕暮れの道端に鮮やかに咲く彼岸花は、自刃した美しい姫たちの化身であろうか。今日は奇しくも秋彼岸の中日、改めて彼岸花に合掌、彼女たちの安寧を祈った。
 この東勝寺跡の東に山越えした谷戸の麓に、源氏の菩提寺の勝長寿院がある。東勝寺は北条氏の菩提寺、この一帯はまさに鎌倉幕府の聖域だったのだろう。
 かくして鎌倉幕府終焉の地を巡る約15キロ6時間の鎌倉トレイルラン第二弾は予定通り無事に走り終えた。

 桓武天皇の曽孫高望王が臣籍降下して土着した坂東平氏が、平直方から忠常の乱を鎮定した源頼義に譲られ、平治の乱で源義朝が平清盛に敗れて源氏が滅ぶと、坂東の地は勝者の伊勢平氏の治下に服すことになる。治承寿永の乱で源頼朝の平家打倒の挙兵に坂東平氏が糾合して源氏の鎌倉幕府の樹立を支える御家人となり、源氏が三代で滅ぶと再び坂東平氏の北条氏が幕府の実権を掌握、その北条氏の鎌倉幕府を源氏の新田義貞が滅ぼした。鎌倉を舞台に源氏と平氏が壮絶な交替劇を繰り広げてきた歴史ロマンを感じながら帰途についた。


【余話:鎌倉幕府滅亡の残り火―逃げ上手の若君―】

 元弘3年(1333年)に鎌倉幕府は滅亡したが、その後、北条氏の残党が三度鎌倉を奪還した。その主役がテレビアニメ「逃げ上手の若君」の北条時行である。
 尾崎士郎訳「太平記」の「亀寿、鎌倉を落ちるのこと」の章を抜粋してみる。
「諏訪盛高は、数度の合戦に郎党もみな討たれてしまい、主従二騎だけになって左近大夫入道(高時の弟泰家)の陣に引き上げて来て『鎌倉の合戦も今はこれまでと存ぜられますので最後のお供をつかまつるため参上しました。もはやお覚悟をあそばしませ』と自害を勧めると、左近大夫入道はひそかに盛高の耳にささやいた。『思いがけない叛乱によって当家の滅亡もすでに必至となったが、これもすべて兄入道の振る舞いが人望を失い、神慮に背いたがためじゃ。しかしたとえ天が驕りを憎み、満ちたるものを欠かしめるのであるとはいえ、当家のように数代にわたって善政を積んできた家に果報のなかろうはずはないから、一度は滅びても必ず子孫の中から家名を興す者があらわれるにちがいない。(中略)わしは軽々しく自害するつもりはない。遁れられるだけは遁れて今日の恥辱をすすぎたいのじゃ。お前も慎重に考えていずこかに身を隠して、甥の亀寿をかくまい、時が来たら事を起こして本懐を達してくれ。兄の万寿は五大院右衛門に託したから大丈夫だろう』」

 戦場から戻り自刃を勧める諏訪盛高に、生き延びて北条氏再興を図るよう諭す北条泰家は、北条得宗九代執権貞時の四男、兄高時が病で執権職を退いた時に外戚の安達氏に後継者に推されたが、反対する長崎高資の推挙した庶流の金沢貞顕が十五代執権になる。泰家が貞顕を殺そうとしていると風聞が流れて貞顕は出家し執権職を辞任、庶流の赤橋守時が北条氏最後の執権となった。
 北条得宗家の泰家は、東勝寺の兄高時の自刃に行動を共にせず、高時の遺児を鎌倉から逃した後、屋敷に火をかけ自害したように見せかけて奥州に落ち延び、後に還俗して京都に上がり西園寺公宗を頼り再起を期した。

 公宗は頼朝の妹坊門姫の娘全子が嫁いだ西園寺公経の七代孫、公経は実朝暗殺後の四代将軍に孫の頼経を擁立させた中心人物、承久の乱後、西園寺家は代々関東申次を努め天皇の外戚として朝廷の実権を掌握していた。
 後ろ盾の鎌倉幕府の滅亡で権勢失墜した西園寺公宗は、北条氏残党を支援し再び天下を取らせて朝廷の執政として四海を掌握せんと、泰家と謀叛の計略を巡らせた。
 西園寺公宗は、泰家を京都の大将、高時の遺児亀寿を関東の大将、名越時兼を北国の大将として軍勢を集め、大覚寺統の後醍醐天皇を暗殺し持統院統の後伏見上皇の擁立を企てるが、事前に露見し公宗は処刑、泰家以下北条氏残党は東国と北国に逃れて北条氏再興の機を窺った。
 滅亡する鎌倉から逃れた北条得宗高時の長男万寿(邦時)は、預かった五大院宗繁の裏切りで捕えられて処刑されたが、次男亀寿(時行)は、諏訪盛高に連れられて信濃に落ちのび、諏訪神党に匿われて生き延びた。
 建武2年(1335年)7月、信濃国で諏訪盛高(後頼重に改め)が高時の遺児時行を奉じて鎌倉幕府の再興を謀り、5万余騎を率いて三方から鎌倉に侵攻、執権に任じられていた足利尊氏の弟直義は、突然の来攻に用意の兵も少なく鎌倉を逃走、時行の鎌倉奪還は成功した。
 直義は逃走する際に渕辺伊賀守を呼び「味方は兵力が少なく、ひとまず鎌倉を捨てるが、美濃、尾張、三河、遠江の軍勢を集めて鎌倉へ寄せ返せば相模次郎時行を滅ぼすくらい容易だ。足利一族にとり最後まで敵となるのは兵部卿親王(大塔宮)であり、この際どさくさ紛れに殺してしまう方が得策だ」と、薬師堂の土牢に押し籠めていた大塔宮(後醍醐天皇第三皇子)を殺害させた。父後醍醐天皇や足利高氏と対立していた大塔宮が、時行に奪われて旗頭にされるのを恐れたのかもしれない。

 時行が鎌倉を占領したのは僅か20日、京から大軍を率いて下向した足利尊氏を遠江国橋本から箱根、相模川など17カ所で迎撃するが悉く敗れ、3万に余る平家の軍勢は僅か300余騎を残すだけとなり、諏訪頼重ら主だった武将43人が勝長寿院大御堂で集団自刃した。
 大御堂内の死骸はみな顔の皮を剥いでありどれが誰とも見分けが出来ず、時行もおそらくその中にいたのであろうと思われたが、時行は鎌倉を脱出していた。
 北国で挙兵し京を目指した名越時兼も足利軍に討ち取られ、足利氏の勢威は日に日に拡がった。天皇の諱を賜った尊氏は奪還した鎌倉に居座り宣旨のないまま征夷将軍を名乗り関東八か国の支配を委せられたとして配下に恩賞を与え、親政を進める後醍醐天皇と対立していく。

 鎌倉を逃走した時行は、尊氏と対立する後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝に帰順、南朝方武将として1337年に北畠顕家や新田義貞の子義興と共に鎌倉に侵攻し、尊氏の嫡男義詮は鎌倉から撤退、杉本城で斯波家長を破り再び鎌倉の奪還に成功した。翌年、時行は京都奪還を目指す北畠顕家の上洛軍に加わるが、和泉石津の戦いで執事高師直に敗れ顕家は敗死、時行は逃走した。
 1352年に尊氏が弟直義を毒殺する北朝の混乱に乗じて南朝の北畠親房が京と鎌倉の同時奪還に踏み切り、北畠顕能と楠木正儀が足利義詮を京から追放、新田義興と時行が鎌倉を奇襲して足利基氏が鎌倉を脱出、時行は三度鎌倉奪還に成功した。逃走した義詮と尊氏は、態勢を立て直して反撃、京と鎌倉を奪還、時行は足利方に捕らえられ翌年に鎌倉龍口で処刑された。かくして鎌倉を三度奪還した鎌倉幕府滅亡の残り火は燃え尽きた。
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