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歴史と文化の路を訪ねて

季刊同人誌「まんじ」に投稿した歴史探訪紀行文を掲載しています。

私の本州マラソン歴史紀行(関東編⑤《千葉県》ー2)

2024-02-09 09:51:42 | 私の本州マラソン歴史紀行
【千葉県④:千葉常胤と上総広常の両雄】

千葉県の歴史に残る武将といえば、2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、岡本信人が演じた千葉常胤と佐藤浩市が演じた上総広常であろう。
二人は頼朝の平家追討の挙兵にいち早く駆け参じた御家人で、常胤の本拠は千葉市、広常の本拠は外房の上総一宮町である。ドラマ放映の翌年6月、勤務していた会社OBの会合の帰りに常胤の本拠地千葉市まで足を延ばした。
京葉線の千葉みなと駅で千葉モノレールに乗り換え、高層ビルを縫うように終点の県庁前で下車、千葉氏の拠点となった亥鼻公園に向かった。10分程でこんもりした丘陵の頂に千葉城の天守閣の屋根が見えてきた。
戦国時代に築城された亥鼻城の跡に、昭和42年に小田原城の天守をモデルに建てられた模擬天守で、正式名称は千葉市郷土博物館、もともと亥鼻城に天守閣はなかったというから千葉市民に天守閣への憧れがあったのかもしれない。
千葉城天守の前に、千葉市の礎を築くとともに鎌倉幕府の創設者源頼朝の深い信任を受けて幕府の創設に大きく貢献した千葉常胤が、千葉市の更なる飛躍と発展を願い未来へのメッセージを鏑矢に託して大空に放つ勇壮な騎馬像が建っていた。

千葉市郷土博物館(千葉城模擬天守)と千葉常胤騎馬像


常胤の父常重が1126年に上総大椎から下総千葉荘に本拠を移し千葉氏を名乗ったとされるが、亥鼻城跡の発掘調査で鎌倉時代の遺構は見つからなかったという。
1455年に鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の抗争の中で千葉胤直の居城千葉城が落城、文明年間に本佐倉城に移り、1590年に秀吉の小田原合戦で千葉重胤が北条氏に組みしたため北条氏と共に千葉氏は滅亡した。

【千葉氏と京都との結び付き】

千葉市郷土博物館の1階が千葉氏、桓武平氏、源平合戦のQ&Aパネル展、2階が甲冑や鉄砲等の展示、3階が千葉氏の勃興から滅亡までの歴史パネル展である。
パネル展の冒頭に、武士のルーツについて、従来の研究では地方の在地領主が所領を守るため武装したことから武士が発生したと考えられてきたが、現在では京都の王朝社会で天皇や有力貴族を守り軍事や警察、治安維持を担う軍事貴族が武士の起源と考えられている。
そして武士と貴族、東国と京都とを対立するものと捉えてきた従来の中世史の見方から離れ、今まで余り注目されることのなかった「千葉氏と京都との結び付き」に注目して新たな千葉氏像を示したいとあった。
千葉氏が京都と結び付きがあったとは、どういう結び付きだったのだろう。なぜ桓武平氏の千葉氏が清和源氏の頼朝の平家打倒戦に加勢したのだろう、なぜ富士川合戦で敗走する平家軍を追撃して上洛しようとした頼朝に反対したのだろう、かねて抱いていた疑問に目の前のパネル展が答えを出してくれそうな予感がしてきた。
千葉氏の出自である桓武平氏は、桓武天皇の曽孫高望王が、898年に平姓を賜り上総介に任ぜられ、関東に下向すると私有田の拡大を図り、高望王の子の国香、良兼、良将、良文が私有田領主となり武士団を形成した。
長男国香は、常陸国を本拠に源護の娘を妻に迎えて常陸大掾の地位を受け継ぎ勢力を拡大するが将門に殺され、藤原秀郷と共に将門の乱を鎮圧した国香の長男貞盛が後の伊勢平氏の祖となり、次男維将が北条氏の祖となる。
高望王の二男良兼は、族長として上総国を本拠に後に将門に敗れ、三男良将は、下総国を本拠に子の将門が承平天慶の乱を起こして敗死、五男良文は、武蔵国を本拠に将門を援護して、後に坂東八平氏の祖となる。
良文の三男忠頼の子忠常の孫常長の次男常兼が千葉氏の祖、五男常晴が上総氏の祖、忠常の弟将恒が秩父氏の祖、良文の五男忠光の子忠通が三浦氏の祖となる。
平家打倒の緒戦に敗れ三浦半島から海路を房総半島に逃れて再起を図る源頼朝の許に大軍を率いて参陣した千葉常胤と上総広常は、常長を曾祖父にする又従兄弟で、忠通の五代孫三浦義澄と共に平家討伐の源平合戦に活躍して後に鎌倉幕府の創立を支えた有力御家人である。

その千葉常胤が頼朝から平家打倒の挙兵に参陣を求められる以前から、京都と様々な繋がりを持ち京の情勢に精通していたことをこの歴史パネル展で初めて知った。
常胤は若年の頃に一時京に出仕して、出仕が終わり京から帰還した後も、天皇や有力貴族の警護のため3年間京都に滞在する京都大番役という義務があり、下総国内の所領経営に専念する一方で子供たちを京都に送り有力な皇族や貴族に仕えさせており、千葉氏が代々培ってきた京都との密接な関りが、後に源平合戦期における常胤人生最大の選択に大きな影響を及ぼしたという。
「源平期中央権門との関係」と題したパネルに、千葉氏の本領であった下総国千葉郡の地(千葉市域)は、平安時代末期の12世紀前半に八条院瞕子内親王に寄進して、荘園「千葉荘」を成立させたとあった。
八条院は鳥羽天皇の娘で母が鳥羽天皇の寵愛した美福門院、近衛天皇は同母弟、崇徳天皇と後白河天皇は異母兄、後白河天皇の子で甥の守仁親王の准母となり、守仁が二条天皇に即位すると后位を経ずに初めての女院となる。父鳥羽上皇と母美福門院の遺領の大部分を伝領、その荘園は240箇所に及び、鳥羽院の正統を継ぐ嫡流の皇女として経済的に政治的に大きな勢力を有していた。
後に平家討伐の令旨を発した以仁王は、後白河天皇の第二皇子で八条院の猶子となり、以仁王の令旨を各地の源氏に伝達を託された源行家は、八条院蔵人に任じられて全国の八条院領に向かっており、八条院瞕子内親王こそ平家討伐の中心人物だったのかもしれない。

以仁王は、後白河天皇の子でありながら兄は二条天皇に弟は高倉天皇になったにも関わらず、平家の縁に繋がらなかったため親王宣下すら受けられず、父の後白河法皇を幽閉し高倉天皇を譲位させ娘徳子の産んだ幼い孫を安徳天皇に即位させた清盛の専制横暴に憤り、源頼政の進言もあって全国に雌伏する源氏に平家討伐の挙兵を促す令旨を発しており、以仁王には、藤原北家流れの後白河法皇第二皇子として、平家流れの安徳天皇から皇位を奪還する個人的な野望があったに違いない。

以仁王の令旨が頼朝の手元に届いた治承4年4月27日の翌5月に頼朝から御願書を受けた千葉常胤の子日胤が、京の石清水八幡宮で千日所願の祈祷をしていたが、三井寺に逃れてきた以仁王の許に参陣して討死した。 
常胤の六男胤頼が若い時から京に出て仕えていた上西門院統子内親王は、鳥羽天皇の皇女で母は白河法皇が寵愛していた待賢門院、崇徳天皇と後白河天皇は同母兄弟で、後白河天皇の准母として皇后となり、12歳の頼朝がこの上西門院の蔵人に任じられていた。翌年に起きた平治の乱で捕えられた頼朝の助命を清盛に嘆願したのは上西門院だったといわれ、背後に源氏を絶やさず源平の並立を望む思惑が後白河法皇にあったかもしれない。
治承4年(1180年)6月27日、その胤頼が京都からの帰途に三浦義澄と共に伊豆国北条の館に頼朝を訪ねている。以仁王の挙兵と敗北など京都の情勢を伝えて、頼朝に平家討伐の決起を促したといわれ、石橋山の敗北で安房に逃れてきた頼朝から来援を求められた時には、率先して応じるべきと父常胤に進言したに違いない。
頼朝が常胤と共に来援を要請した上総広常の本領一宮も上西門院領である。頼朝の挙兵と常胤と広常の参陣の背後に、鳥羽天皇の皇女で後白河法皇の姉妹である上西門院と八条院の存在があり、背後に清盛の横暴に対決して幽閉された後白河法皇の意向があったかもしれない。常胤らは京都との様々な繋がりの中で生々しい情報を的確に収集、中央の政治情勢を踏まえた主体的な判断のもと頼朝の挙兵に応じる道を選んだに違いない。

【頼朝の平家打倒に参陣した常胤と広常】

それでは桓武平氏を祖とする坂東武者が、なぜ清和源氏の嫡流頼朝の平家打倒の挙兵に加勢したのだろうか。 
平将門の乱から100年後の1028年、平良文の孫忠常が安房国府を襲撃して安房守を焼き殺し上総の国を制圧する長元の乱(平忠常の乱)を惹き起こすと、追討使に派遣された平国香の曽孫直方に代わり乱を平定した源頼信・頼義親子は、忠常の子常将らを許し、坂東平氏が頼信の配下に入り河内源氏に追従するようになる。
1036年に源頼義が相模守に任じられると桓武平氏の国香・貞盛の嫡流平直方は、頼義の弓射の巧妙に感じ入り娘を嫁がせ鎌倉の屋敷と坂東平氏の権益を譲り渡して、鎌倉は河内源氏の東国への進出の拠点となった。
1051年の安倍氏を討伐した前九年の役で、頼義が直方の娘との子義家と黄海の戦いで貞任軍に大敗、主従僅か七騎、包囲され風雪甚だしく食無く人馬共に疲れる中、義家頻りに魁師を射殺、夷人に八幡太郎と号されたといわれ、1083年の出羽の清原氏の内紛に義家が介入した後三年の役では、朝廷から私戦と見做され論功行賞がなく、義家は関東から出征した将士に私財から恩賞を施して部下を感涙させ東国での基盤を築いたという。
前九年と後三年の両役に参陣した坂東武者の子孫に義家への報恩の信望と忠誠心が広く伝承され、源氏の名声は高まり、源氏累代の家人たる自覚が育まれていく。
房総平氏の千葉常胤と上総広常は、保元の乱(1156年)と平治の乱(1160年)で、義家の曽孫で東国に育ち房総平氏や三浦氏の庇護を受けていた義朝の傘下に参陣、平治の乱で義朝が敗死するとその後は平家に従うが、治承4年(1180年)の義朝の子頼朝が平家打倒の旗揚げをすると率先して参陣した。坂東平氏と河内源氏の絆は、頼信→頼義→義家→義朝→頼朝へと150年の長きに亘り受け継がれていたのである。

一方の桓武平氏を俯瞰すると、関東に臣籍降下した高望王の長男国香の子貞盛と三男良将の子将門が将門の乱で対決、忠常の乱では五男良文の子忠頼と将門の娘との子忠常と貞盛の孫直方が対決、源平合戦で対決する良文・忠頼流の房総平氏と国香・貞盛流の伊勢平氏は、同じ桓武平氏でありながら歴史的に対立の構図にあった。
房総平氏の常胤と広常が、伊勢平氏の清盛打倒の挙兵の緒戦で敗れ伊豆から安房に逃れて再起を図る河内源氏の頼朝の許に参陣する経緯を「吾妻鏡」にみてみる。

治承四年八月廿四日、頼朝が石橋山の合戦に敗れる。
八月廿八日。頼朝は真鶴から舟で安房の国へ向かう。
八月廿九日。頼朝は、実平と共に安房の国平北郡猟島に舟を着けた。北条時政他の人々が迎えて喜び合う。
九月大一日。頼朝が上総介広常の屋敷に行こうと言い出し、北条時政始め面々はそうすべきだと云う。
九月大四日。安西景益は、頼朝の手紙を戴き、一族と在庁官人を引き連れて宿泊所に来て云うには、安易に上総介広常の所へ行くべきではない、長狭のような手柄ばかりを狙う連中が沢山いるので、まず途中から使いを出して、迎えに来るように仰せられるのが宜しいと進言した。そこで、馬首をまわして安西景益の屋敷に行き、和田義盛を上総広常の所へ、藤九郎盛長を千葉常胤の所へ行かせ、頼朝の許へ来るように伝えさせた。
九月大九日。盛長が千葉から帰ってきて云うには、常胤の門前で案内を申し出た所、幾らも待たせずに客用の建物へ招かれた、常胤は前もってそこの首座に在り、子子息の胤正と胤頼がそばにいた。常胤はきちんと全て盛長の話すことを聞いているが、暫く発言をせず、まるで眠っているかのようであった。二人の息子は異口同音に父に「頼朝様がまるで眠れる虎が目を覚ますが如く、先祖の英雄の跡を思い起こして、世間に我が物顔にはびこっている狼のような平家を攻め鎮めようと、事の最初に我が家に呼びかけられたのに、なんで答えを躊躇しているのですか。早く承諾の手紙を献じるように」と云った。
常胤は「心は了承する事に何の異論も無い。源氏の途絶えていた権勢を盛り返そうとのお心に、感動の涙が目に溢れ、言葉では言い表せないのだ」そして酒が振舞われると「今のおられる所は、たいした守りやすい土地でもなし、ましてや先祖の謂れも無い。速やかに相模の鎌倉へ行かれるが良い。常胤が出入りのもの皆引き連れて頼朝様をお出迎えに参りましょう」と云った。
鎌倉は、源頼義が坂東平氏の嫡流平直方から譲られて以来、義家、義光、義朝が源氏の本拠地として坂東平氏を統率してきた源氏ゆかりの地であり、常胤は、伊豆から安房に逃れてきた敗軍の将に対して東国の長として鎌倉を本拠にすることをこの段階で頼朝に進言していた。

九月大十七日。上総広常の到着を待たずに下総へ向かう。常胤が息子六人らを引き連れて下総国府にきた。従う兵隊は三百騎。頼朝は常胤を座右に呼び寄せて「司馬(常胤)を以て父となす之由仰せ被る」と言った。
九月大十九日。上総広常が二万騎を率いて隅田川の辺りに参上、頼朝は遅参を怒り許さず、二心を抱いていた広常はその頼朝の器量に感じ入り帰服す、とある。
「広常潜に以て爲す。当時の如き者率土皆、平相國禪閤之管領に非は無し。爰に武衛流人と爲し、輙く義兵を擧げ被る之間、其の形勢高喚の相無くん者、直に之を討ち取り平家に献ず可し者り。仍て内に二圖之存念を挾むと雖も、外に歸伏之儀を備え參ず。然者、此の數万の合力を得て感じ悦被可き歟之由、思い儲ける之處、遲參を咎め被る之氣色有り。殆ど人主之躰に叶う也。之に依て忽ち害心を變じ和順奉ると云々」と吾妻鏡は記している。

流人の身で挙兵した頼朝に大君の相がなければ討取ろうとしたと記すが、後に頼朝に誅殺される広常を策謀家に仕立て上げる吾妻鏡編者の作意が見えてくる。
上総広常は上総権介常澄の八男である。長兄常景を殺害して惣領の座を奪った次兄常茂が大番役として上洛中で、平家方に与する当主常茂が留守にする上総氏一族を反平家親源氏に纏め上げるため時間がかかったことが遅参の真相だったのではないだろうか。

【鎌倉幕府を創設したのは頼朝ではなかった】

その常胤と広常が、富士川合戦で水鳥の羽音に驚いて戦わずに兵を返した平家軍を追撃して上洛すべしと命じる頼朝に、関東の敵を平らげてからと反対した。
吾妻鏡に「治承四年一〇月二一日、小松羽林を追い攻めん爲、上洛可し之由を士卒等に命ぜ被る。而るに常胤、義澄、廣常等、諫じ申して云はく、常陸國の佐竹太郎義政并びに同じき冠者秀義等は數百の軍兵を相率ひ乍ら、未だ歸伏せず。就中に、秀義の父四郎隆義は當時平家に從い在京す。其の外驕れる者猶境内に多し。然者先ず東夷を平ぐ之後、關西に至る可しと云々」とある。
佐竹義政・秀義兄弟は源義家の弟義光の曽孫で常胤と伊勢神宮の荘園である相馬御厨の領有を争っており、広常は藤原秀衡の後裔で上総介に任ぜられた藤原忠清と対立、忠清は富士川合戦で平家軍の侍大将になっていた。
千葉常胤と上総広常にとって、敵は平氏でも源氏でもなく、所領と治世を脅かす勢力であり、伊豆で平家打倒の挙兵した頼朝にその駆逐を求めていたのであろう。
常胤と広常と三浦義澄に上洛を制止されて富士川から反転した頼朝軍が佐竹氏の金砂城を攻め落としたのは11月5日、このあと頼朝は西上することなく鎌倉に帰り幕府の開府に着手する。

頼朝旗揚げの大義となった以仁王の令旨について吾妻鏡に「源家之人、藤之人、兼ねて三道諸国之間、堪える勇士者、同じく予力し追討を令め(中略)若し勝功有る者には、即位の後、必ず乞いに随い勤賞を賜る可き成」とあり、源氏であれ藤原氏であれ清盛や従類叛逆の輩を追討して自分が皇位に就いたら賞を賜うという檄文で、特に源氏の再興を呼び掛けていたわけではなかった。
京の事情に精通する広常と常胤は、以仁王令旨の背後に清盛に幽閉された後白河法皇のしたたかな策謀を見抜いていたに違いない。もし頼朝が富士川合戦後にそのまま上洛していたら、木曽義仲のように平家を京から追放して源氏の再興を果たせたかもしれないが、鎌倉に幕府を開くことはなかったろう。そして都生まれで軍事貴族の頼朝が開く京都幕府は、東国武士に支えられることなく、後白河法皇の干渉で早晩瓦解していたに違いない。
その意味で武家政権の鎌倉幕府を創設したのは、頼朝ではなく、上洛を求める頼朝を鎌倉に押し留めた房総平氏を中心とした坂東武者だったといえるかもしれない。
13歳で右兵衛権佐に任ぜられながら流人として伊豆に配流されてただ京に憧れるだけの貴人頼朝と違い、東国を永代の本拠にして、保元・平治の乱で源義朝の傘下で活躍、その後も京都大番役の兵役を勤めながら、荘園主との交流を通じて皇位争いと醜聞にまみれた都の情勢に通じていた常胤らが、頼朝の上洛を押し留めた諫言こそ、当時の東国武士団の総意であり、彼らの本意は、朝廷の権威から自立した武家社会の樹立と平安で、頼朝はその為の単なる旗頭でしかなかったのだろう。

富士川合戦の3年後の寿永2年(1183年)12月22日、広常が梶原景時に謀殺された。なぜか吾妻鏡の寿永2年10月から12月までの記述が欠落している。
慈円の「愚管抄」の建久元年(1190年)に初上洛した頼朝が後白河法皇に広常殺害を告げる記述がある。
「介の八郎広常と申候し者は東国の勢人、功ある者にて候しかど、ともし候へば、なんでふ朝家の事をのみ見苦しく思ぞ、ただ坂東にかくてあらんに、誰かは引働かさんなど申て、謀反心の者にて候しかば、かかる者を郎従に持ちて候はば、頼朝まで冥加候はじと思ひて失い候にきとこそ申しける。その介八郎を梶原景時をして討たせたる事、景時が功名と云うばかりなり。双六を打ちて、さりげなしにて盤を越えて、やがて首を掻き切りて持って来たりける。誠しからぬ程の事なり」
頼朝を朝廷から自立した東国の主と頼む広常を朝廷への謀反人として討たせたと語っており、頼朝にとって広常誅殺は上洛反対勢力への見せしめだったのだろう。翌年一月に範頼と義経による義仲追討上洛戦が始まった。

広常と常胤の五代祖の忠常の母が平将門の娘春姫である。2人には、朝廷に対して謀叛を起こした将門と忠常の反骨精神の血が流れており、無骨ながら東国武士としての頑な自負心も強かったに違いない。
広常の誅殺によって常胤の立場も脆弱となり、やがて頼朝の身内的存在の北条氏が鎌倉政権の中枢を掌握して広常たちが願った朝廷から自立した武家社会を実現していく。そこに頼朝の影はもはやなくなっていた。
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