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歴史と文化の路を訪ねて

季刊同人誌「まんじ」に投稿した歴史探訪紀行文を掲載しています。

私の伊達政宗像を訪ねて(その3ー②)

2019-05-01 14:11:16 | 私の伊達政宗像を訪ねて


題 : 『私の伊達政宗像を訪ねて(その3-②)』

【政宗毒殺未遂と弟小次郎刺殺事件】

天正18年(1590年)4月5日、政宗の小田原参陣出立の前夜、母保春院による政宗毒殺未遂事件、その二日後に政宗による弟小次郎刺殺事件が起きた。

100年後の元禄期に編纂された伊達氏正史「伊達治家記録(以下治家記録と略す)」の記述を抜粋する。
「五日、御西館ニ於テ御膳調進ノ時、御供ノ御膳番嘗試ル處ニ忽チ目眩キ、血ヲ吐テ気息絶入ス。公毒殺ノ謀タリト知リ給ヒ、俄カニ御虫気ト称シテ帰セラル」
「七日、公御弟小次郎殿ヲ殺シ給フ。一昨日、御西館ニ於テ毒殺ヲ謀ル何者ノ所為ナリト糺察セラル。御母公ノ命ナル由ヲ白状ス。是小次郎殿ヲ御家督ニ立給フヘキ御謀ナリト云々。公御憤リ甚シ。御母公ノ事ハ兎角ニ計ヒ給フヘキ様ナシト仰セラレ、小次郎殿ヲ御前ヘ呼ヒ給ヒテ御扇ヲ遺サレ、即チ御手撃ニ為玉フト云フ」
「今夜(七日夜)御母公潜カニ黒川城ヲ御出アリテ、羽州山形ヘウツリ玉フ。(中略)御母公今度不義ノ事ヲ企テ玉ヘル由来ハ、御弟最上出羽守義光ノ奸悪ヨリ起レリ。
義光連々甘言ヲ以テ、御母堂ヲ誑カシ、公会津ヲ攻取リ玉フニ就テ、関白殿御憤リ深シ、如何様ニ仰付ラルヘキモ計リ難シ、此時節、公ヲ毒害シ、小次郎殿ヲ立テ玉ハゝ上ノ尤(咎)メモナク、近郡諸将ノ怨モ有ルヘカラス。然レハ此計策、御家長久ノ基タルヘシ」

母が息子の毒殺を謀り兄が弟を刺殺する、戦国の世の常なのかもしれないが、記述はあまりに劇画的である。
政宗の母保春院は、兄最上義光に誑かされ、会津蘆名氏を滅ぼして秀吉の不興を買い、苦境に立っている伊達家を救わんがため、政宗を毒殺して弟の小次郎に継がせようとしたが、政宗は一命を取り止め、生みの親を成敗するわけにはいかない、弟おまえに罪はないが、おまえの居る立場が悪い、と自らの手で弟小次郎を刺殺、保春院はその夜の内に実家山形最上氏へ逃走したという。

母保春院(義姫)の実家、出羽国山形の最上氏は、米沢伊達氏の北に隣する戦国大名で、源義家四男義国を祖とする足利宗家の嫡流斯波兼頼が流れという名門である。
奥州洞社会の盟主の座に君臨してきた伊達氏は、歴代最上氏に介入してきており、最上義姫の伊達輝宗への婚入りも伊達氏の政略結婚だった。
義姫の兄で最上氏当主となった義光は、伊達氏からの独立を図るべく内乱を起して父義守を隠居させており、義光と甥の政宗は、まさしく犬猿の仲になっていた。
家督相続して数年の内に会津蘆名氏を滅ぼして奥州南部を制圧した若き政宗は、北に隣接する義光にとって大きな脅威だったのだろう。伊達氏に内紛を生ぜしめ、政宗だけでなく弟小次郎をも殺害して、伊達家を乗っ取ろうとした義光の計略に、妹保春院が誑かされ我が子政宗の毒殺を謀ったのでは、とも治家記録に記されている。

政宗毒殺未遂と弟小次郎刺殺事件について、治家記録以外の史書は、どう伝えているのだろうか。

天正15年から18年5月までの政宗の言動を中心に側近者が記録した「伊達天正日記」には、「五日、御東へ御出也、御虫気にて御帰候、即御平ふくニて候。七日、小原縫殿助御亭へ参付而、すなはち討たせられ候」とあり、政宗が傳役の小原縫殿助を手討ちにしたとあるが、弟小次郎を刺殺したかどうかまでは書いていない。
このことについて、元仙台市博物館長の佐藤憲一氏が後掲する論文で、伊達天正日記の小原縫殿助手討ち云々の直前三行分が切り取られており、もしかしたらそこに小次郎手討ちの記述があったのかもしれないが、真相は不明だ、と語られていた。
政宗が晩年に小姓に語った言行録といわれる「木村宇右衛門覚書」に、母との確執が語られている。
「父母の御情、山よりも高し海よりも深しとハ、人の常にいふ事成。然れとも、天道の恐れ多き事なれ共、御母儀御東様へハ御恨みあり。 我に疱瘡の煩の時、諸神諸仏へも輝宗公は御心を尽くされ候へとも、次郎誕生このかた御寵愛深く、煩の内に一度見舞給ふて、かくとの給はぬのみならす (中略) 本復の後、次郎の成人に従って、伊達の家督ハ二男の継ぐ例なれは、弟の次郎へ代を継がせんとの事成。 ともかくも、親の御心次第と思ふところに、我等に幼少の時あへなく殺し給ハんとの御企み知らすものありけれとも、一度ハ逃るゝとも、左様に思召す上ハ天命逃れかたし、如何様にも仰せにまかせんと、疑いを切って覚悟す」
幼く疱瘡になった時、父輝宗は神仏に祈願してくれたが、母は一度見舞っただけで、弟次郎を寵愛してばかりと、恨み言を言いながら、弟が代を継ぐとも親が決めること、親に殺されるともこれも天命、と政宗は受け止めようとしていたという。
言行録の後段に、母に酒を勧められ、毒殺を謀られた様子を「恨めしく思へとも、疑いハ未練のもと、たとへ此酒毒薬にてもあれ、母儀の給ハる酒は、天命より授ける事成。運強くハ飲みたるとて当たるまし。死すとも孝の道背くへきかハと、慎んでいたゝき (中略) 日暮れに俄かに目も眩み、心引いるゝ様になりて、血を吐く事しきり成」、弟を刺殺する場面を「(初秋に虫取りに来た弟を)汝、不憫の事なれども、全く我を恨むる事なかれ、御東、汝に与え給う罪なり、天罰逃れがたしと、二脇差指ければ、倅なれども仰逃れがたし。なんといえる因果にて、眼前に弟を殺す事、身一代の面目、人に聞かれん事恥かし。さてども母儀の事なれば、様々いたわり参らするに」と語っており、政宗毒殺未遂と弟刺殺のあったことは、事実のようである。

政宗は生後間もなく乳母任せとなり、五歳のとき疱瘡に罹り右眼を失明、醜い容貌から母義姫に嫌われ、母の愛情は、自ら手元で養育する弟小次郎に注がれ、父輝宗が早くに政宗に家督相続したのも、妻義姫の小次郎擁立を断念させ、家中分裂を防ぐためだったといわれる。
或る説に、小田原参陣に当たり、反政宗・弟小次郎擁立派を封じ込め、後顧の憂いを断つべく、断腸の思いで弟小次郎を刺殺したともいわれているが、曽祖父稙宗と祖父晴宗の対立が奥州内乱を惹き起し、晴宗と父輝宗の不和が家臣団を分断する、伊達家に内在する根深い悪弊を、この際に一掃しようとしたのかもしれない。 

ところが1995年に、母保春院が実は政宗毒殺未遂事件直後に山形の実家に逃げてはおらず、文禄3年(1594年)11月まで岩出山城(奥州仕置で米沢から岩出山に改易)に住んでいたことを示す書状が発見された。
政宗の師虎哉和尚が岩出山から京都の大有和尚に宛てた書状の追伸に「政宗北堂、今月四日夜、向最上出奔、尊聴乎」とあり、保春院が岩出山から実家の山形に出奔したのをお聞き及びでしたか、と尋ねているのである。
もし本当に母が政宗に毒を盛っていたのなら、事件後四年以上も政宗のもとに一緒に居続けていたとは考えられない。この書状の発見で、母による政宗毒殺未遂が本当にあったのか、疑問視されたのである。

毒殺未遂事件以降も、政宗と母の間で、情愛溢れる手紙が数多くやりとりされており、現存する七通の中で、特に事件3年後の文禄2年に朝鮮の役で渡海した政宗が母に宛てた書状には、長さ154㎝の継紙に仮名文字がびっしり書き込まれていた(仙台市博物館所蔵)。
朝鮮に渡海している政宗に小遣いにと現金三両を同封した母の陣中見舞い状に対して、御礼を述べて戦況や朝鮮の風俗習慣の違いなど克明に書き、家臣の病死や兵糧の枯渇など苦しい本音を漏らして、早く帰国して母上にお会いしたい、と心情を吐露する政宗の書状には、自分を毒殺しようとしたとされる母とのわだかまりを思わせる暗さが微塵も感じられない。母による政宗毒殺未遂事件は、本当にあったのだろうか。

【弟小次郎は生きていた】

政宗の小田原参陣の出立直前に、政宗毒殺未遂と政宗の弟小次郎刺殺事件が起きて、小田原参陣が遅れたとされているが、小次郎が実は殺されずに、仏門に入り生き延びていたという説のあることを九年ほど前に知った。

平成22年8月に私の所属する宮城県出身者で組織する任意団体「みやぎ夢フォーラム」で、役員の佐藤芳博氏が、東京都あきる野市の大悲願寺を見学する歴史探訪を企画され、所用で参加しなかったが、当寺に政宗が庭に咲く白萩を所望した書状「白萩文書」が残されており、政宗が刺殺したとされる弟小次郎を、家康の紹介で大悲願寺に密かに預けていたらしいとレポートされていた。

奥州の政宗がなぜ弟を刺殺したと偽って奥秩父の寺に隠匿したのか、俄かには信じられない話だと、聞き流していたが、数年前に、政宗研究の第一人者である元仙台市博物館長佐藤憲一氏の著書「伊達政宗謎解き散歩」に「政宗が手討ちにした弟小次郎は生きていた?」とする稿を読み、持ち前の好奇心が掻き立てられた。
佐藤憲一氏は、著書の中で、政宗が「白萩文書」を送った大悲願寺住職海誉上人に法印秀雄という弟子がおり、その白萩文書の包み紙に、秀雄が伊達輝宗の末子で政宗の弟、幼名を鶴若と称した、と記されていた。また大悲願寺に伝わる「金色山過去帳」の、十五世住職秀雄の命日の条に、輝宗之二男・政宗ノ舎弟、政宗の命日の条に、輝宗之嫡子で沙門秀雄兄、と書かれていたという。
この秀雄は、伊達家の系図や記録には一切出てこない。秀雄はいったい何者なのだろう。秀雄が輝宗の末子か次男とするなら、秀雄が小次郎という可能性はないのだろうか。佐藤憲一氏は、確証はないが、大悲願寺の資料等から、小次郎と同一人である可能性が高いとしている。
 
山岡荘八の小説「伊達政宗」で、正室義姫に褥で寝首を掻かれようとした恐妻家の輝宗に、側室を持つ甲斐性があったとは思えず、秀雄が異腹の第三子の可能性は考えられない。秀雄は小次郎だったのか。政宗に刺殺されたはずの弟小次郎は、実は生きていたのか。ぜひ自分の目と耳で確かめたいと、一昨年(平成二九年)四月中旬にお花見を兼ね、あきる野市の大悲願寺を訪ねた。

【大悲願寺の白萩文書を訪ねて】

埼玉から高速圏央道に入りあきる野インターを下りると、奥多摩に延びる五日市街道沿いの桜がちょうど満開、秋川溪谷の清流を車窓に六キロ程で大悲願寺に着いた。
「吉祥院大悲願寺」は、建久2年(1191年)に源頼朝の命で平山季重が建立した真言宗豊山派寺院である。
白壁の塀に囲まれて古色蒼然とした仁王門を潜ると、樹齢五百年を超える大杉の奥に荘厳な観音堂が現れた。正面の扁額に無畏閣とあり、人を畏れから救うという意味であろうか。扁額両側の欄間の、彩色豊かに塗られた彫刻は、極楽と地獄を描いた精緻な造りが美しい。
観音堂内に安置されている阿弥陀如来三尊像は、国指定重要文化財で、今週末に年一度の御開帳があり、特別バスツアーが組まれるのだという。

本堂前の綺麗に整備された境内に、政宗自筆の「白萩文書」写しの貼られた説明板(次頁)が立っていた。
説明板に「政宗が大悲願寺に宛てた書簡で、当山十三世住職海誉上人の時代、たまたま政宗の末弟秀雄が上人の弟子として在山しており、書簡内容は、先日訪問した折、庭の白萩が見事であったが、その白萩を所望したいという主旨で、年次は「政宗公実記」より元和9年(1623年)と推定される」とあった。
先日訪問した時には言い出せなかったがと語る、陸奥の大大名が奥多摩の田舎のお寺の住職に自筆する書状とはとても思えない、遠慮がちで丁重過ぎる文面に、政宗の何か特別の心情が秘められているように思えてくる。
書状の冒頭に「先度者参、遂会面本望候」とあり、先度とは、政宗は度々この寺に来ていたのだろう。それなのに会えて本望と喜びを表現する相手は誰なのだろう。通り一辺の儀礼的な挨拶とはとても思えない。お寺の誰かを意識した丁寧な挨拶言葉のようである。
書状の宛名が「彼岸寺御同宿中」になっていたが、悲願寺の皆様という意味なのだろうか。追書に小袖一着を進ぜる、とあり、寺の誰か特定の人宛ての書状のようでもある。なぜ御同宿中宛てとしたのだろうか。
大悲願寺に現存している増上寺源誉の見舞状の宛名は吉祥院海誉宛となっていたが、白萩文書が海誉個人宛なら海誉宛としただろう。同宿中の弟宛てだったが、弟を預かってくれる住職海誉上人を憚り、宛先を御同宿中としたのであろうか。弟宛ての私信に、公用花押を描いて公信扱いに認めた政宗の海誉への気遣いが窺えてくる。



本堂前に大きな枝ぶりの梅の古木があり、傍らの説明板「白萩と臥龍梅」に、昭和四七年に五日市町(現あきる野市)で全国健康都市会議が開催された折、議長の仙台市長に因縁ある白萩を贈呈したところ、仙台市が政宗公縁の市の銘木臥龍梅を贈り当寺に移植されたとあった。
その時に初めて政宗の弟秀雄の存在が公に知られたという。政宗に刺殺されたはずの弟小次郎が生きていたと知った仙台市民の衝撃は、如何ばかりだったろう。
大悲願寺住職は、突然の来訪者を快く迎えてくれた。
「秀雄が輝宗の末子とは、小次郎以外にも弟がいたのでしょうか」と尋ねる私の不躾な質問に、輝宗は側室を持たず子供が二男二女の四人だけ、秀雄は小次郎に間違いないと断言された。そして、小田原陣の遅参で秀吉に殺されるかもしれない時に、唯一の跡取りになる弟小次郎を殺すはずがない、とも力説されていた。
更に、政宗毒殺未遂と小次郎刺殺事件の後も、母と政宗は頻繁に手紙をやりとりしており、とても母子の関係が悪かったようには思えない。そして、主君に子が授からないのに先に子が出来たことを憚り生まれた我が子を殺めようとした家臣片倉景綱を政宗が諫めたという逸話を紹介して、そんな心優しい政宗が、弟を刺殺するはずがない、と政宗の弟小次郎刺殺説を否定されていた。
政宗は鮎釣りが好きで、ここ秋川溪谷によく来ていたが、隠棲していた弟秀雄に会いに来るのが本当の目的だったのではないか。当寺の住職海誉上人は、徳川家の菩提寺増上寺住職源誉上人の甥で、政宗は弟小次郎を殺したことにして、家康の紹介で密かに当寺に預けたのではないか、など、1時間近く貴重な話をいただいた。

境内の説明板に「白萩文書」の出状年次が元和9年とあったが、母保春院逝去の1ケ月後である。その年は家光の三代将軍就任で京に随行しており、江戸に戻った政宗が弟秀雄を訪ねて母の死を伝え、共に母を偲び庭に咲く白萩を愛でて秋彼岸のひと時を過ごしたのであろうか。
萩の花は、万葉集に最も多く詠われており、萩の枕詞は宮城野である。詩歌の才に秀でた政宗は、秀雄こと小次郎の知らない宮城野に咲く萩の景色や心血を注いでいた仙台城下の町造りを話題にしていたにちがいない。
白萩文書の五年後に、政宗は宮城野に隠居城の若林城を築城、屏風絵に「萩と鹿」を描かせ、上部余白に新古今集の源通光の和歌を、自ら散らし書きしていた。
「明けぬとて野辺より山に入る鹿のあと吹きおくる萩の下風」、夜になれば山より野に出でて、夜が明ければ山へ帰る鹿を、見送るように萩を靡かせて吹く風よ、と歌い、慕うように靡く萩は鹿の妻といわれる。政宗は大悲願寺の庭で風に靡いていた白萩を取り寄せて屏風絵に描かせ、薄幸な弟小次郎を偲んでいたのかもしれない。

それでは大悲願寺は、いかなる素性の寺なのだろうか。なぜ政宗の弟が奥多摩のお寺に預けられたのだろうか。
福生市史資料編中世寺社に掲載されている大悲願寺の過去帳に、小田原合戦の八王子城で討死した北条氏照家臣8名の名があり、その一人由木豊前守の子息が、白萩文書当時の大悲願寺十三世住職海誉上人だという。
小田原北条氏と同盟を結んでいた政宗は、対秀吉の徹底抗戦派で外交を担当する八王子城主北条氏照と書状交信を通じて昵懇の間柄にあり、刺殺したとされる弟小次郎を、氏照配下の由木一族の海誉上人が住職をしている大悲願寺に密かに託したとは考えられないだろうか。
家康が関東に入府する折に師檀の関係を持ったといわれる増上寺十二世観智国師源誉上人も、由木一族の出自で海誉上人の叔父である。秀雄の大悲願寺預かりに、政宗からの頼みを受けた家康が、増上寺源誉上人を通じて大悲願寺の海誉上人に周旋したのではないか、と住職は話されていた。
秀雄は、後に大悲願寺十五世住職となり、更に中野宝仙寺の十四世住職になるが、中野宝仙寺も小田原北条領下の名主堀江氏が檀越となり、家光以降の徳川歴代将軍の尊崇あつい御鷹狩の休息所である。秀雄が住職を勤めた大悲願寺と宝仙寺は、奇しくも共に北条繋がりの徳川ゆかりの寺だったということになる。

政宗と家康の関係はどんなだったのだろうか。小田原陣に遅参した政宗は、小田原城包囲網の東側に布陣する家康の陣地に直行、家康はその政宗を秀吉との謁見場に同伴して、秀吉への取り成しに尽力している。
小田原北条氏の討伐後に、故地の三河から関東へ転封を秀吉に命ぜられていた家康にとって、北関東に勢力を持つ親秀吉派の佐竹氏の存在は、関東移封後の大きな脅威になっていた。佐竹氏と連携して家康を関東に封じ込めようとする秀吉の構想に対抗するには、常陸佐竹氏の背後にあって佐竹と長年抗争してきた政宗を取り込むことは必須だったろう。後の関ヶ原合戦後に家康は、石田三成に組みした佐竹氏を常陸から秋田に減封している。
家康は、小田原遅参で断罪されかけた政宗の窮地を救うべく、小田原陣に遅参した口実に、政宗毒殺未遂と弟小次郎刺殺の事件をでっち上げ、刺殺したはずの小次郎を大悲願寺に匿う隠蔽工作に一役買ったかもしれない。

大悲願寺から帰宅後、白萩文書の内容について調べるうち、出状年次に疑問を抱いた。
大悲願寺の説明板にも、あきる野市のHPにも、元和九年とあったが、治家記録を調べると、政宗は、その年の5月16日に家光の将軍就任上洛に併せて江戸を出立しており、参内を終えて大阪と堺を回り、江戸に帰着したのは9月20日である。
この上洛日程では、白萩の咲く時期に大悲願寺に行けるはずがなく、京にいる8月21日に、わざわざ白萩を所望する書状を書くはずもなく、京から出状する緊急性も考えられない。
郷里宮城に帰省した折、仙台市博物館で白萩文書の出状年次について尋ねると、学芸員さんが書架から仙台市史資料編十二『伊達政宗文書』を取り出してきた。
収録2339の大悲願寺宛書状の解説に「政宗が8月21日に在府していること、自署・花押の形から、元和8年のものか」とあった。
政宗は1年毎に仙台と江戸を往復していたが、治家記録をみると、元和年間で政宗が江戸に出府していた3年と5年と9年の8月は、将軍に随行して上洛しており、8月に江戸にいたのは元和8年だけ、その8月の条の最後に「此月、公伊奈ヘ御川猟ニ御出アリ、御出御帰ノ日等不知廿日前ナリ」とあるではないか。秋川溪谷の住所はあきる野市伊奈、やはり白萩文書は元和8年だった。

元和9年に母保春院の訃報を持って大悲願寺を訪ねたとする私の仮説は脆くも崩れたが、元和8年8月21日を調べると、なんと母保春院が逗留している実家山形最上家が改易された日ではないか。
保春院の兄義光の死後の後嗣争いに幕命で改易となり、政宗は山形城請け取りの手勢派遣を下命され、各所に改易受取の手配を出状して忙殺されている様子が克明に治家記録に記載されており、とても大悲願寺に白萩を所望する書状なんぞを書いている暇などあろうはずがない。
しかし、もし書状の宛先が弟小次郎だったとしたら、どうだろう。実家最上家の改易で行き場を失った母保春院を仙台に呼び戻することを決意した政宗が、そのとき先日、伊奈へ川猟に出た時に会った弟小次郎とのことを思い出し、弟が寄宿する大悲願寺の庭に咲いていた白萩を仙台に持ち帰り、再会する母への手土産にしようと思いついたのかもしれない。単に庭の白萩が見事だったから所望したというだけではなかったのだ。
元和8年の仙台下向の江戸出立は、10月16日である。大悲願寺から白萩が届いてからの出立だったろう。山形から仙台に移り住んだ保春院は、翌年7月17日、76才の波瀾の人生を閉じた。

【中野宝仙寺に秀雄の墓を訪ねて】

大悲願寺訪問の1週間後、中野区中央の宝仙寺を訪ねた。政宗の弟といわれる秀雄が、大悲願寺の後に、同じ真言宗豊山派の宝仙寺住職を勤めて、墓があるという。
宝仙寺の考證資料は、江戸時代の火災や昭和の戦災などで焼失して残っていないと大悲願寺の住職に聞いてはいたが、墓参だけでもできればと伺った。

宝仙寺は、平安時代後期に源義家が後三年の役を平定して凱旋帰京の途上、父頼義が祭祀した八幡社のある阿佐ヶ谷に、陣中に護持していた不動明王像を安置するため建立したといわれ、室町時代に当地に遷されたという。
宝仙寺のある中野とは、武蔵野の中央、という意味で、家光や吉宗がよく出向いた良好な鷹狩場があり、宝仙寺は将軍の休息所として利用され、寺内に御成門や御座所が遺っているという。家光は鷹狩の好きな政宗を誘って当寺に立ち寄っていたかもしれない。政宗の弟秀雄がこの由緒ある宝仙寺の住職になれたのも、政宗を慕う家光の助力があったのだろうか。

東京メトロ丸ノ内線中野坂上駅に下車、青梅街道を西へ5分ほど、会社時代によく葬儀のお世話で通った門前町並みの奥に、懐かしい山門が見えてきた。
阿吽の仁王像が納められた山門を潜り、境内に入ると左手に色彩鮮やかな「三重塔」が聳え立ち、案内板に「寛永13年に飛地の境内に建てられていた三層の中野塔が、昭和20年の戦火で焼失、平成4年に当地に奈良法起寺を模して再建された」とあった。
武蔵野の叢林に建つ三重塔は、江戸六塔の一つとして江戸庶民に親しまれたと中野区史にあったが、三重塔内に安置されていた夫婦木像の裏面刻銘から、一般人の飯塚惣兵衛が施入したものと判明したという。
本堂の五大明王像に参拝、大書院の寺務室で御朱印を頂いたが、秀雄に関する話を聞くことはできなかった。職員さんに、秀雄の「墓標」と「供養塔」の写真入り資料をいただき、三重塔の背後に広がる墓地の中央に位置する住職墓地区画に向かった。
歴代住職の五輪塔と板碑が40基ほど口型に立ち並んでいた。正面の大きな五輪塔は、第五十世冨田斅純大僧正で、真言宗豊山派管長に就いた名僧だという。その後ろに並ぶ9基の五輪塔の真ん中に高さ180㎝の「秀雄墓標」が、傘型の形状からすぐそれと分かった。
刻まれた文字が比較的鮮明に読み取れ、五輪に空風火水地の梵字、地輪正面に「為當寺第十四代 法印大僧都秀雄」とあった。側面の「干時寛永十九年 十月二十六日」は秀雄の命日なのだろう。
政宗の実弟についに会えた興奮に打ち震えながら合掌、「あなたは、政宗に刺殺された小次郎さんですか」と数奇な運命に翻弄された秀雄の安寧を祈った。

「秀雄墓標」に向かい合い「秀雄供養塔」が立っていた。高さ120㎝の苔生す五輪塔の地輪正面に、寺務所で貰った資料にある「為大僧都秀雄預修成」、両側面に「寛永十三年」と「七月七日敬白」の刻字が辛うじて読めた。秀雄没年の六年前であり、資料に「秀雄供養塔」とあったが、秀雄を供養したものではなく、秀雄が誰かを供養したものなのだろう。
刻字にある預修とは、生前に予め死後の冥福を祈って仏事を営むこと、敬白は祝い言葉である。秀雄は誰の生前供養のためにこの五輪塔を建てたのだろうか。
供養塔の後の隙間から、地輪裏面の刻字が辛うじて「為當塔開眼供養導師以故建之」と読めた。側面の寛永十三年は三重塔が建立された年、故を以てこれを建つとは、三重塔の開眼供養のため建てられたという意味か。
帰宅して宝仙寺へ三重塔を寄進したという飯塚惣兵衛なる人物について調べるうち、「東京府史蹟保存物調査報告書」第九冊「府下に於ける佛塔建築」に、塔内に安置されていた飯塚惣兵衛夫婦木像の背面に刻まれた銘文が載っていた。なんと、夫人の木像の銘文が、秀雄供養塔の刻字と同じではないか。
飯塚惣兵衛像の背面の刻銘が、「願主 塔院開山 法印権大僧都賢海 施入院塔場居士像 俗名飯塚惣兵衛 寛永十一年十月吉日 開眼師大僧都秀雄」とあり、
惣兵衛夫人像の背面の刻銘が、「願主 塔院開山 法印大僧都賢海 施心院妙塔大姉影像 飯塚惣兵衛内 寛永十三年七月七日 開眼供養導師法印大僧都秀雄上人」とあった。秀雄供養塔の刻字「為大僧都秀雄預修成」「寛永十三年」「七月七日敬白」「為當塔開眼供養導師以故建之」と夫人像刻銘の下線部が同じなのである。

夫婦の木像の刻銘から、十三世賢海が三重塔建立の願を立て、寛永11年10月吉日に惣兵衛が塔の寄進を約して自像に秀雄が開眼、寛永13年7月7日に三重塔を完成させて宝仙寺に寄進した夫人の像に秀雄が開眼、その時には夫の惣兵衛は亡くなっていたのだろう。もしかしたら三重塔の寄進理由は、惣兵衛の病気平癒だったのだろうか。同じ年月日と文言の刻字がある「秀雄供養塔」は、惣兵衛夫人の生前供養塔だったのかもしれない。
宝仙寺の三重塔を寄進した飯塚惣兵衛とは一体何者なのだろう。「中野区史」上巻の江戸行政「村役人表」中野村の年寄欄にその名があり、家の構造と壮大さから「長棟」と称されたという。豪農だったのだろうか。
江戸六塔と呼ばれた浅草寺の五重塔が家光、寛永寺の五重塔が土井利勝、芝増上寺の五重塔が酒井忠清、池上本門寺の五重塔が秀忠の乳母岡部局の寄進、谷中天王寺の五重塔が家光の庇護を受けた日長上人の建立、いずれも将軍や譜代幕閣の寄進だったのに対して、宝仙寺の三重塔は、一村役人の寄進である。
長棟と称された豪農だったとはいえ、中野村に9人いる年寄の一人に過ぎない飯塚惣兵衛が 本当に自前で建てられるものだろうか。誰か外に有力な後援者がいたのではないだろうか。いるとしたら、鷹狩りで宝仙寺に立ち寄る将軍家光と宝仙寺住職の秀雄の接点に浮かぶのは、家光が心酔する、秀雄の兄、政宗である。

政宗が秋川へ釣りに通う青梅街道沿いに勢力を張る惣兵衛と懇意になっていたかもしれない。あるいは家光の鷹狩に必要な勢子の動員役を担う年寄惣兵衛と鷹狩場で懇意になり、家光が休息所に使う宝仙寺に、病気平癒で三重塔を寄進しようとする惣兵衛を、住職が弟の秀雄だったこともあり、譜代ではなく表立った支援の出来ない外様の政宗が陰ながら財政支援をしたのかもしれない。
「中野区史」の宝仙寺沿革に「秀雄は、伊達政宗の一族とも伝えられ、幼くして仙臺龍宝寺に学び、長じて大和の長谷寺に勉学、一時悲願寺に居り、賢海の徳風を慕って當寺に来り、賢海の後任となり寛永9年8月、大僧都に任ぜられた」とあり、宝仙寺に伝承があったのだろう。
秀雄が学んだという仙台龍宝寺のHPに「文治年間に伊達家初代朝宗公が伊達家祈願寺として開かれ、常陸から福島梁川、山形米沢、宮城岩出山と伊達家と共に移動、仙台城築城に伴い仙台市に移された」とあったが、秀雄の幼少期に仙台は、まだ政宗の支配地ではなかった。
福島県伊達市発行の冊子「伊達氏発祥の地」に、梁川龍宝寺は、十五世紀に伊達氏の本拠が福島から米沢に移った後も八幡宮別当として存続していたとあり、小次郎は、梁川の龍宝寺に匿われていたのかもしれない。
奥州仕置で伊達郡が蒲生氏郷の所領になると、梁川龍宝寺から奈良長谷寺に移され、後に家康の配慮で奥多摩の大悲願寺に、家光の配慮で中野の宝仙寺に移って波乱の人生を全うしたのであろうか。歴史から抹殺されていた小次郎の足跡を見付け出した感慨にしばし浸った。

【大悲願寺過去帳への私的再考察】

昨年(平成30年)11月、みやぎ夢フォーラム会員で仙台市出身のS氏より、元仙台市博物館長佐藤憲一氏が「市史せんだい」Vol27(2017年9月発行)に投稿された論文「伊達政宗と母義姫―毒殺未遂事件と弟殺害についてー」のコピーをいただいた。
論文を要約すると、母義姫が我が子の膳に毒を盛るだろうか、事件後の二人の手紙のやりとりをみていると疑問が湧いてくる、1995年に発見された虎哉和尚の手紙から、事件後も母義姫が黒川城から米沢を経て岩出山に政宗と移っていたことが明らかで、政宗の毒殺未遂と小次郎殺害は、疑わしい。大悲願寺の法印秀雄が、寺の過去帳から小次郎の可能性が高く、小次郎殺害の話は、伊達家の一本化を図った政宗と母の共謀による擬装だったのではないか、と結ばれていた。

小次郎生存説第一人者の説得力ある論文に一々納得だったが、その中で「法印秀雄 輝宗二男政宗ノ舎弟」と明記されていた過去帳が、第二四代住職如環が江戸時代中期に整理したもの、という記述に引っ掛かった。
『整理したもの』とは、どういう意味なのだろうか。単に分冊を一冊に纏めただけなのか。原本から転記したのか、転記だけでなく加筆もしたのか。小次郎生存説の根拠となる過去帳の信憑性は、大丈夫なのだろうか。
大悲願寺過去帳の内容は、福生市史資料編中世寺社(以下資料編と略す)に掲載されており、国会図書館に出向き閲覧すると、確かに、寛永13年5月24日(政宗命日)に「藤原政宗左京太夫輝宗之嫡子沙門秀雄兄」、寛永19年7月26日(秀雄命日)に「俗生ハ伊達大膳太夫輝宗之二男陸奥守政宗ノ舎弟也」と追記されていた。
そして資料編の寺院史料編に、大悲願寺過去帳が三巻からなり、第一巻は大悲願寺創建の建久2年(1191年)から二四世住職如環が入院する享保17年(1732年)まで、第二巻は享保18年から享和3年(1803年)まで収録され、三巻が納められた桐箱の裏書に「開山澄秀師以来過去帳紛失干不見去天正巳来載之古本一巻有、如環重紛失嘆而今新書写之者也」とあるという。

資料編に載っている過去帳は、和国葬礼尊法属釈由来に始まり、前半は国内社寺や大悲願寺の由来・住職履歴等が中心、本来の過去帳は天正年間に入ってからで、由木一族と八王子城落城で討死した地侍の供養に続いて、一般人の没年月日・法名・俗名が、如環が入院する享保17年まで、時系列に判読掲載されていた。
二四世如環が見付けたという「天正以来載之古本一巻」は、十三世海誉から二三世融聖までが収録された過去帳で、如環は、寺の創建から天正までの欠落部分を他の文献からの情報で埋め、第一巻に纏め上げたにちがいない。



それでは、秀雄を政宗の弟とする肝心の書込みは、古過去帳に書かれていたのだろうか、如環が書き写す際に新たに書き込んだものなのだろうか。
福生市1989年発行の「市史研究調査レポート」に、遠藤廣昭氏(福生市史中世調査員:現駒沢大学非常勤講師)が「大悲願寺文書調査報告」の中で「市史資料編に収録した大悲願寺の過去帳は二四世如環が書写したものだが、その基となったと思われる古過去帳を調査できた。この過去帳は資料編に収録した過去帳と体裁は同じであるが、欄外等の細かな注記はなく、その記載は如環によるものであったことが明らかとなった」と書いている。
海誉から融聖までの「古過去帳」に、政宗と秀雄に関する注記がなかったとすると、秀雄を政宗の舎弟とする注記は、百年後の二四世如環が書き込んだことになる。
資料編のグラビアに載る過去帳の写真(前頁)を拡大すると、本文と欄外注記の筆跡が同じ、やはり古過去帳から書き写した如環が欄外注記も書いたのは明らかだ。
「古過去帳」に政宗と秀雄の注記がなかったことをこの目で確かめたかったが、大悲願寺の住職に直接架電するも、過去帳は一般にお見せする物ではないという。研究機関の調査目的でもなければ確かにそうなのだろう。残る手懸りは、資料編に掲載されている過去帳だけだ。

改めて資料編の過去帳を調べて気付いたことがある。
まず、秀雄の命日に追記されていた父輝宗の官位の大膳太夫は、十六代輝宗ではなく室町中期の伊達家九代政宗の官位の誤りで、九代大膳太夫政宗の名を奥多摩の大悲願寺の住職が知り得るのは、仙台藩四代綱村が伊達正統世次考を編纂させた元禄(1700年)以降である。
更に、元和4年(1618年)の欄外に「三代記曰、真田幸村、元和三一月二九日、秀頼公、同十二月十八日、両将於薩摩島津卒去スト」とあるが、三代記とは元禄以降に成立した「真田三代記」のこと、これら追記は、寛永や元和年間の古過去帳にはなく、如環が過去帳第一巻を編纂した1730年頃に書き込まれたことは明らかだ。
このほか、寛永15年の欄外に「肥前国天草ト云フ処ニ吉利支丹宗出来テ島原城ニ籠ルトモ急ニ落城シタリ」とあるなど、後世の識者でなければ知り得ない全国史的出来事が数多く欄外に注記されており、如環が自分の関心事を書き込んだのだろう。
後日書き込んだためと思われるミスもある。政宗の寛永13年5月24日薨去の記事が、3月4日の記事の前にあり、過去帳の記述が時系列なのに、順序が逆になっている。この追記が編纂後に書き込まれたのは明らかだ。

しかし追記の全てを如環が書き込んだとは思えない箇所がある。父輝宗の官位が、過去帳の政宗の命日に左京太夫輝宗、秀雄の命日に大膳太夫輝宗とあり、なぜ違えて書いているのか。秀雄の続柄が、秀雄の命日に輝宗之二男、白萩文書の包紙に輝宗末子となぜ書き方が違っているのか、同じ如環が書いたとはとても思えない。
秀雄の宝仙寺への移住時期についても、寛永12年9月16日に「巳下秀雄引導回向 秀雄ハ中野宝仙寺江転住ス」、寛永13年3月4日と7月10日の間の欄外に「巳上ハ秀雄引導也今中野宝還寺エ移ル」とあり、いずれの移転時期が正しいのか。宝仙寺の字も、転任と移ルの書き方も違う。これも同じ如環が書いたとは思えない。

また、秀雄の大悲願寺の住職期間について、過去帳から寛永12年9月から13年7月頃迄となるが、中野宝仙寺の三重塔内に安置されていた飯塚惣兵衛像の背面に「寛永十一年十月吉日 開眼師大僧都秀雄」と刻銘されており、秀雄が寛永11年には、宝仙寺の大僧都になっている。現存する寛永年間の仏像の刻銘を信じるか、百年後に加筆された過去帳を信じるか。過去帳の如環の加筆部分の信憑性が揺らいで見えてくるのである。
宝仙寺の伝承に、秀雄は寛永9年8月に大僧都に任ぜられたとあり、また、武蔵野地方に、洪水や渇水に加持祈祷して民を救済した秀雄の名僧伝説が伝わっている。
大悲願寺と宝仙寺の秀雄は別人なのだろうか。

それにしても、秀雄死後百年後の二四世如環が、如何なる情報をもとに秀雄を政宗の弟と書き込んだのだろう。
資料編の史料解説編に「当時当山には海誉の弟子として秀雄なる住僧が居り、彼には輝宗の末子鶴若(政宗の異母弟)という伝承がある」とあった。この伝承は、白萩文書の包紙に書かれた内容と同じである。この伝承を知る如環が、白萩文書の包紙に書き込んだのか、それとも如環の書き込みが、伝承の元になったのか。
奥州仕置で政宗に代わり会津に入府した蒲生氏郷が、地名を黒川から若松に変え、黒川城が鶴ケ城と呼ばれたという。鶴若の名は若松の鶴ヶ城をもじった名前のようだが、政宗が、川狩で立ち寄る大悲願寺の住僧の秀雄を鶴若と呼んで弟のように可愛がったことが、政宗の舎弟伝承になった、と考えるのは想像し過ぎだろうか。

資料編の住職関係史料に興味深い情報があった。寛文4年(1664年)の「大悲願寺済養遺告」に、海誉帰寂後、秀雄・淳秀・秀隆と相次ぐ住持の交替で、寺中や寺領が荒廃したと十七世済養が書き遺しているという。
海誉の次の十四世源誉が翌年9月に入寂、十五世秀雄が1年足らずで宝仙寺に転任、十六世淳秀は半年で成田に転住し秀隆が院代を勤めており、短期間の相次ぐ住職交替では、寺が荒れたのも当然であろう。
もし政宗が本当に実弟を預けていたのなら、大悲願寺の窮状を見過ごすはずはないが、政宗が支援した形跡は全くない。政宗と秀雄は本当に兄弟だったのだろうか。
様々な疑問が湧いてくる。秀雄の小次郎説の根拠となる大悲願寺過去帳をもっと吟味する必要がありそうだ。
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Unknown (松谷正彦)
2020-06-19 18:12:07
小次郎生存説に多大な興味があります。大悲願寺の過去張の真偽よりも宮城県の長谷寺(ちょうこくじ)に手打ちにされたとされる小原縫殿助が小次郎殺害とされた二年後に現れ、境内の右年山に小次郎の墓を作り殉死した話があります。長谷寺縁起の古文書に解決法が記載されてはあるまいか。小次郎が俗世間から離れて僧侶になった日が墓に記載している日じゃないか、僧になる=死と解釈すれば、縫殿助の殉死は相当します。思うに、この墓には小次郎の束髪が埋められているのではないかと思います。祖母の実家が小原姓で大昔に伊達の家来だったというのを聞かされていて興味が増した訳です。
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松谷様、コメントをありがとうございます。 (カーテンコール)
2020-06-20 11:47:10
冗長で独りよがりな文章をお読みいただき、コメントまでお寄せいただいて、ありがとうございます。
単なる伝承だけでなく、古文書それも一次史料に自力で挑戦し、何かしらの新たな手懸りを見つけた時は、仮にそれが独りよがりであったとしても、たとえようにない喜びでもあります。
小次郎の死については、生存説など様々な説があり、歴史の好きな人にとって、非条に興味そそられるテーマです。
小原縫殿助が小次郎と同じ日に誅されたと伊達治家記録にありますが、これも後世の元禄年間に編纂されたものですから、真偽の程はやはり謎なのでしょう。
自分のルーツがもしかしたら小原縫殿助に通じているとしたら、と思いを馳せるだけで、胸ときめきますね。まさに歴史ロマンの世界ですね。
宮城県出身者ですが現在は埼玉在住です。両親が逝ってしまい、郷里に帰ることも少なくなってしまいましたが、機会のある都度、郷里の歴史探訪を楽しんでいます。
これからもよろしくお付き合いをお願い申し上げます。
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Unknown (松谷正彦)
2020-08-05 08:53:47
再び小次郎と小原縫殿介に関してです。宮城県白石市小原在住の半沢秀雄氏に寄ると小原村誌の古文書には小次郎殺害とされる4月7日のくだりに政宗が小次郎を守って逃がすという一文があるそうです。また、登米市の長谷寺の古文書にも縫殿介が小次郎と共に一時期どこかで隠れていたという記述が残っているそうで。現在の小次郎縫殿介の墓石は明治頃の建立で小次郎の墓石には1590年4/7没とありますが長谷寺にある小次郎の位牌には没年が1592年正月7日となってるそうです。この没年はやはり小次郎が正式に僧侶になった日=俗世間を離れた日=死、そして2月7日に縫殿介殉死。大悲願寺の秀雄がいつ僧侶になったのか合致すればなあって思っております。
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松谷様、コメントをありがとうございます。 (カーテンコール)
2020-08-05 11:57:47
私は宮城県大河原町の出身で、白石市小原村には、七ケ宿方面にドライブした折に小原温泉に立ち寄ったことがあり、いただいたお話にとても関心を抱いておりましたが、小次郎の守役の小原縫殿助と関連があったとは知りませんでした。
お墓のある登米市は、1591年の葛西大崎一揆鎮圧後に、伊達・信夫郡など6郡が没収された替りに与えられた葛西大崎13郡の一つですが、縫殿助が小次郎を隠匿したか、小次郎の遺骸を改葬して殉死したか、その可能性は確かにあるのだと思っております。
小次郎の大悲願寺生存説については、はっきりとは書きませんでしたが、大悲願寺に残る旧過去帳の内容が後世の住職によって書き加えられた可能性があり、またその後に住職になったといわれる中野宝仙寺の史料とも整合性がとれず、個人的には懐疑的になっています。
遣欧使節の支倉常長が、スペインで洗礼を受けて禁教下の日本に帰国、政宗の棄教の勧めを断った常長を、幕府には2年後に病没したと報告して、黒川郡大郷村の義弟に匿わせて84才まで生存していたという説がありますが、小次郎を刺殺したとして密かに縫殿助に匿わせたという話とも通じる点があり、政宗ならさもあらんと、思っています。
松谷様にはまたいろいろと教えていただきたいと思います。よろしくお願い申し上げます。
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