歴史と文化の路を訪ねて

季刊同人誌「まんじ」に投稿した歴史探訪紀行文を掲載しています。

私の本州マラソン歴史紀行(東北編⑤ ー2《岩手県》)

2022-11-04 00:16:59 | 私の本州マラソン歴史紀行
【東北にもキリシタン殉教があったーその3ー】

【岩手県:水沢市の殉教地を訪ねて】

① 政宗のキリシタン家臣後藤寿庵

東北の殉教地の1つ岩手県奥州市水沢は、政宗の家臣で熱心なキリシタンの後藤寿庵の知行地である。
寿庵の生涯について、不明なところが多いが、水沢を訪ねた際に立ち寄ったカトリック水沢教会の発行する「後藤寿庵のしおり」から、一部転載させてもらう。
寿庵は、400年以上も前に岩手の中部から南部に勢力を振った葛西という豪族の1人、現在の東磐井郡藤沢町の城主、岩淵近江守秀信の次男に生まれ、幼名を又五郎といった。日本を統一する秀吉が葛西氏を滅ぼした時に、岩淵氏も共に滅び、又五郎は諸国を流浪する。
長崎に着いた彼は、当時西洋の進歩した文化や学問を学び、土木の研究に精通、日々の生活の中でキリスト教を知るようになり、洗礼名ヨハネ(ジョアン)を受け、洗礼の地の長崎五島に因んで五島寿庵と改名した。
その後、再び東北に帰った寿庵は、仙台の大名伊達政宗の家臣となり、1612年に1200石を与えられ、見分の地(現在の水沢市福原)の領主となる。
当時の福原は、砂漠のようだと言われるほど水不足に苦しんでおり、彼は長崎でポルトガル人から学んだ土木技術を生かして胆沢川から水を引く、後に寿庵堰と呼ばれる堰を開き、胆沢の荒れた原野を岩手県一と呼ばれる豊かな穀倉地帯とする基礎を造った。
こうして人々の幸せを願っていた寿庵は「人はパンだけで生きるのではない」という聖書の教えを大切にし、当時の人々の荒れた心に平和を与えることを望み、キリストの約束された永遠の命に至る生きた水を人々の幸福の土台と考え、キリストの教えを広めるため福原にカルワリヨ神父を招き教会を建てた、と「しおり」にある。

寿庵は政宗の遣欧使節派遣にも大きく関わっていた。ソテロの後に仙台藩に入ったアンデリス神父がローマイエズス会本部に宛てた書簡に「ルイス・ソテロは、後藤寿庵の仲立ちで政宗と親交を結ぶと、メキシコに行く船の建造を勧めて、交易の利益に期待を政宗に抱かせ、船の準備が整うとスペイン国王とローマ教皇に使節を派遣すべきと進言、もし受け入れなければ自分は乗船しないと寿庵を困惑させ、やむなくソテロの言い分を政宗に伝えた。(中略)政宗が大使に任命したのは一人のあまり重要でない家来(支倉常長)であった」とある。
政宗は、メキシコとの直接交易を交渉する使節をスペインとローマまで派遣することにしたため、キリシタン禁制を敷く幕府の疑惑を避けるべく、適任と思われるキリシタン家臣の寿庵ではなく、キリシタンでない中級家臣ながら密命執行に忠実な常長を選んだのだろう。
常長が主命を果たせぬまま帰国した1620年に政宗は、領内のキリシタンの禁制と弾圧を始めるが、その翌年に寿庵を筆頭にした奥州のキリシタン代表者一七名がローマ教皇に宛てた連署状で「去歳上旬の此、伊達政宗、天下を恐れ、私の領内において迫害をおこし、数多くの殉教者御座候」と政宗の弾圧を伝えている。寿庵は東北のキリシタン王国の盟主を自負していたのかもしれない。

家光が三代将軍に就いてキリシタン禁制と迫害が更に厳しくなった1623年、政宗は有能な家臣たる寿庵を惜しみ、水沢城主石母田大膳宗頼を通じて、寿庵に棄教を勧めたが、寿庵は、信仰を捨てるわけにはいかないと福原の知行地も主君も家臣も捨てて逃亡してしまう。
前掲のパジェス著「日本切支丹宗門史」に「政宗は、若しヨハネ後藤が三箇條の約束をしてくれたら、その信仰の持続を許すことにした。僅か一時間でも宣教師を泊めないこと、人にキリシタンになったり、信仰を続けて行くことを勧めないこと、彼にそのまま許された権利を誰にも許さないこと、と言うのである。ヨハネは、かかる誓約は良心に戻り、信仰を守ることが許されない場合には、領主の友情、自身の財産や生命は、一切無価値であると答えた。政宗は耳と目とを閉じた」とある。
寿庵が逃げ去った水沢見分に取り残されたキリシタン家臣たちは、その後どうなったのだろうか。

②ローマまで歩いたペトロ岐部

2007年にローマ教皇により列福された「ペトロ岐部と187殉教者」のペトロ岐部とは、一体何者なのだろうか。そのペトロ岐部が潜伏して捕えられた場所が、寿庵が去って16年後の水沢であった。
ペトロ岐部は、自ら日本人司祭となるため、単身エルサレム経由でローマに赴き、叙階を受けて日本に帰ってきた「日本のマルコポーロ」といわれ、前掲のパジェス著「日本切支丹宗門史」の1629年の章に、帰国する岐部がペトロ・スカイの名で登場している。
「ペトロ・カスイ(粕井或は葛西)は、豊後の伊美の人で、1614年マニラに流されて、彼はエルサレムに旅行せんとして、印度、ペルシャを通って同地に赴いた。エルサレムからローマに行き、彼は、1620年11月20日、同所でイエズス会に入った。
次いで、彼はポルトガルに行き、モントリベトで修煉期を終り、誓願を立てた。1623年、彼は、祖国で伝道に従事せんと欲して、印度に帰った。然し道の困難を知って、シャムに来、そこで2年間、船子を職とし、かくて自分が身分を匿し、日本のジャンクに乗りたいと思っていた。彼は、その計画がうまく行かないので、更にマニラに来り、そこで更に2年間、同じことをして、遂に文字通り「奴隷の態」をして日本に入った」とある。
キリスト教作家遠藤周作が、ペトロ岐部を主人公に、その数奇な生き様を小説『銃と十字架』に描いている。
文庫本の裏表紙に「何のために苦しい旅をつづけるのか。いつかは掴まり殺されることも確実なのだ。しかし、いかに苦渋にみちても肩から人生の十字架を棄ててはならぬ。船をのりつぎ砂漠をよぎってローマに学び、キリシタン弾圧の荒れ狂う地獄の日本に立ち戻って使命に生きた一日本人の劇的生涯を描く記念碑的大作」とある。



ローマで日本人神父になったペトロ岐部が日本に帰国して殉教するまでの後半生を「銃と十字架」に見てみる。
岐部は、日本での迫害と残忍な拷問の情報に、日本に戻り捕らわれて受ける拷問の苦痛に耐えかねて転んでしまう恐怖に囚われたが、日本で迫害されているキリシタンに寄り添うべく、迫害の日本に戻る決意を固めた。
1630年にアユタヤからマニラに入り、再会したミゲル松田と日本行きの船を調達、難破しながら16年ぶりに薩摩の坊津に上陸した。長崎に潜伏するが、1633年の大検挙で長崎の秘密組織は崩壊しており、イエズス会管区長のフェレイラ神父は、傳馬町牢での穴吊るしの苛酷な拷問に耐え切れずに転んでいた。
マニラから共に日本に潜入したミゲル松田は、疲労と空腹で行き倒れとなり、残された岐部は、まだイエズス会の秘密組織が辛うじて残っている東北に向かった。
東北は、まだまだ未開の土地が多く、追手の目から逃れやすく、主君政宗の棄教の勧めを拒絶して追放された後藤寿庵の旧領地で、旧臣たちが密かに信仰を守り続けている水沢の福原に、1634年に入った岐部は、そこで潜伏して伝道する二人の宣教師に再会した。
1614年の国外追放令に逆らい日本に潜伏していた有馬神学校の恩師ポルロ神父と、岐部ら共にマカオに追放されたマルチノ式見神父である。彼らは、生き延びるために逃げていたのではなく、捕縛され拷問され処刑されるまでの間、1人の信徒でも力付け慰め勇気を与えて苦しみを分かち合うのが潜伏司祭の使命であると、密かに水沢で布教活動を続けていたのである。

1636年、キリシタンに寛容だった政宗が死去、翌年に九州で百姓を巻き込んだ島原の乱が勃発、十字架の旗を掲げる反乱軍を鎮圧した幕府は、禁教の切支丹勢力が反体制的な武装勢力化することを怖れたのであろう、日本全土に徹底したキリシタン弾圧を命じた。
政宗の後を継いだ忠宗は、幕府の強い意向に屈し、五人組連座制度を強化して藩内の徹底的捜査を決意、1639年、ついにペドロ岐部とマルチノ式見神父は密告されて捕縛、病気で衰弱していたポルロ神父も自首した。
三人は、仙台から江戸に護送され傳馬町牢に入れられ、評定所で訊問が始まり、そこに転びバテレンのフェレイラ神父が現れ、日本布教の無意味さを説き、これ以上多くの信徒を苦しめぬよう棄教を説得するが、逆に岐部に罵倒されてしまう。弟子たちにイエスを裏切ったユダの姿を見せるフェレイラの屈辱は如何ばかりだったろう。
将軍家光が、三人を老中酒井讃岐守の下屋敷に移して政治顧問の沢庵和尚と柳生宗矩の同席で、直々に「宗門の教え」を尋ねる取り調べが行なわれた。家光と岐部との間でどんなやり取りがあったのだろうか。
日本の為政者は、古来より共存し合う神道や仏教や儒教と相容れない排他的で異端な宗教と見做して、秀吉が長崎がイエズス会に要塞化され日本人が奴隷売買されているという讒言に1587年にバテレン追放令を、1596年に土佐に漂着したスペインの船員が巨額の財宝と積荷を接収された腹いせに宣教師を先兵にその地を教化して世界を武力征服すると大言壮語したことが契機となり禁教令を布告、江戸時代に入りキリシタン岡本大八の収賄事件で1612年に秀忠が禁教令を布告した。

パジェスが「日本切支丹宗門史」の1614年の章に「仏僧達は、若しも内府様がキリシタン宗の殲滅を延ばしたならば、大いに彼を懲し、国家の神々の天罰を受けようと通告した」「老いたる公方様の寵臣長谷川左兵衛並に後藤庄三郎が、ヨーロッパの宗教に改宗した日本人が、盲目的にその財産、名誉、否生命さへも異国の主のために犠牲にするのを敢て辞せないのは、明らかではないか、偉大な大坂の仏僧(石山本願寺)が信徒を率いて武器を執り、独立の大名を称せんと欲し、太閤様や信長を大いに苦しめたことを知ったならば、国家の制度に対して敬念もない異国人によって再びそういうことが起りはしないか、と彼に暗示した」「イギリス人とオランダ人は、ヰリアム・アダムス(家康の外交顧問)を介して、異国(ポルトガルとスペイン)の宣教師は、別に望みもせず又気にもかけていない人々に架空的の救済をもたらすため世界の果から来たというが、その土地の人大勢に洗礼を施した後、自国の軍旗を掲げ帝国を乗っ取ろうとする征服者の先鋒だと言うのであった」と書いている。

ローマから日本への帰途で、西洋人が東洋人を蔑視して邪教から救う口実で東洋を侵略している実態を見てきた岐部は、侵略される東洋人のキリスト者として、領土拡大という土台の上に立つキリスト教の布教がイエス自身の教えと背反している矛盾に苦悩したことだろう。
イエスの福音とイエスの愛の思想が、キリスト教布教の名目で宣教師を送り侵略の橋頭堡を作る西欧国家の領土的野心とは全く次元を異にしていることを証明して、禁教に強硬な家光の誤解を解くのは、西洋の侵略主義の手先と見られている外人宣教師ではなく、日本人神父としての自分の使命であると考えていたに違いない。
訊問の鬼と言われた井上筑後守の棄教勧告を拒絶した3人に、恐れていた穴吊りの刑が宣告された。
逆さに吊られ穴の中の汚物の臭いと逆流する血のため、激しい頭痛と意識の混濁の中、棄教への甘い誘いに少しでも肯けば苦痛から解放される、非情で残忍な拷問が始まった。ひとたび肯けば、信徒に敬愛される誇り、長い布教の功績、これまで迫害に耐えてきた自負、全てが失われ、転び者の汚名を受けるだけでなく、迫害に耐えている多くの信徒を裏切り、棄てることになる。3人は祈りを唱え互いに励まし合い、苦痛と苦悩と闘い続けた。

混濁する意識のなか苦痛から解放される死を望んでも安易な死を決して許さない苛酷な拷問に、マルチノ式見神父とポルロ神父はついに転んでしまう。60歳を越えた二人は力尽き耐えられなかったのだろう。
二人の転びは岐部には衝撃だった。師と先輩に裏切られた、見棄てられた、烈しい肉体的苦痛に加えて絶望の感覚が襲う。頭上から役人が、仲間も転んだ以上、無意味な苦しみを味わい続けるなとやさしく語りかける。岐部はその甘い誘惑に闘い続けた。岐部はこの時、死に赴いたイエスの苦しみを共に味わっていた。
穴から吊り上げて裸の上に置かれた小さな乾いた薪にゆっくり火がつけられ、やがてその腸が露出して・・、火あぶりの拷問の間も棄教を勧め続ける役人に「あなたに私のキリスト教は理解できぬ。だから何を言っても無駄だ」と答え、そして岐部は遂に、死んだ。
彼の信ずるイエスがゴルゴタの丘で十字架にかけられ「わが事、なり終れり」と叫び息を引き取ったように、主よ、すべてを御手に委ね奉る、岐部は自分の死をイエスの死に重ね合わせ、波瀾に満ちた劇は幕を閉じた。
棄教を口にしたポルロと式見は、穴吊りから下ろされるが、屋敷牢の中で厳しい訊問は続いた。棄教した絶望感に打ちのめされ、問われるまま自分たちの教え子や匿ってくれた信徒たちの名を白状してしまう。
二人の白状してしまった一人が捕えられると、彼が更に別の信者の名を口にする、こうして芋づる式に仙台藩のキリシタンは根こそぎに刈られていった。二人はユダのように自分の弟子たちを一人一人売ってしまった。
一人を売るたびに呵責は胸をえぐり、その心の苦しさは言いようのないものだったろう。その後の二人は、切支丹牢に放置され、身心共に弱り果てて数年後に死んだという。転んでからが本当の地獄だったに違いない。

遠藤周作は、最終章の中で「有馬神学校で触れた西洋の基督教はこの男(岐部)の魂をひきつけたが、その西洋の欠陥(波乱と冒険にみちた旅で見た基督教国の侵略的植民地主義)が同時に彼を苦しめつづけた。彼は誰にも頼らず、ほとんど独りでこの矛盾を解こうとして半生を費した。その殉教は彼の結論でもあった。彼は西欧の基督教のために血を流したのではない。イエスの教えと日本人とのために死んだのだ」と書いている。
あとがきに「十数年前にふと読んだチースリック教授の論文が私にペドロ岐部という、人々には知られていないが、あまりに劇的な生活を送った17世紀の一日本人の存在を教えた。以来、私は彼の足跡を訪ねるようになった。彼は今日まで私が書き続けた多くの弱い者ではなく強き人に属する人間である。そのような彼と自分との距離感を埋めるため長い歳月がかかった」と書いていた。
10数年前とは、師フェレイラ神父の棄教が信じられず師を救い出そうと禁教下の日本に潜入してすぐに捕らわれたロドリゴが、残酷な拷問に「神はなぜ黙っているのか、神はいないのか」と絶叫して転んでしまう、周作の代表作「沈黙」が書かれた時期である。神の存在を疑い拷問に屈し棄教してしまう人間の弱さを描きながら、神を信じキリストに殉じる強き者にようやく辿り着く、自身の信仰の軌跡を描いていたのかもしれない。

② 一関国際ハーフマラソン大会(9月27日①)

2015年9月26日、米沢と仙台の殉教地を巡る慌ただしい1日を終え、遅くに水沢駅前のホテルにチェックインした。翌朝一番の電車は、一関国際ハーフマラソンに参加するランナーと学生で貸切り状態だった。
一ノ関駅前から大会シャトルバスで10分ほど、総合体育館に到着すると参加者や家族で大賑わいである。
参加者総数3000人、内ハーフマラソンに2000人、内70歳以上が36人、同年代には負けられない。直射日光が強く爽やかな秋風は心地いいが、7月からの猛暑と長雨で走り込み不足の不安が付き纏っていた。
9時50分、スタート合図のピストルと打上げ花火に周囲から一斉に拍手が沸き上がった。賽は投げられた。周囲のペースが自分に合って順調な走り出しである。
東北新幹線の下を潜り、2キロ地点でタイムは11分37秒、キロ5分50秒はいつもより遅いが、キロ6分キープで前半を走ろう。何も遮る物がない広大な黄金の稲穂の絨毯の中、ようやく爽快な走りになってきた。

東北本線の高架陸橋の最初の高低差10メートルの緩やかなアップダウンを難なく走り切れた。一関市街地の北端の町並に入ると、道路案内に、直進が厳美渓、左が一関市街、右が平泉とあった。右折して東北本線に沿った県道260号を北上するコースに入った。
やがて平泉町に入った。町並みが切れ右手前方に束稲山が見えてきた。西行が束稲山の桜に、吉野山以外にこれほど見事な桜の山があったとは、と詠わせたというが、奥州藤原氏の京への対抗意識であろうか。こうして歴史を感じながら未知のロードを走るのも楽しいものだ。
最初の5キロが30分25秒、こんなもんかな、今日はこれで行こう。しかし6キロの平泉折返しからラップが徐々に落ちてきた。キロ6分30秒が3キロ続いた。
10キロの予想タイムを計算しようとするが、頭の中の計算機がうまく回らない。降り注ぐ直射日光がさすがに暑い。今日は給水を早め早めに取ることにしよう。
復路の東北本線の陸橋は、どうにか歩かずに走り切れたが、黄金色の稲穂の景観を楽しむ余裕は失せていた。ついに10キロのタイムが1時間4分24秒。なんとか2時間20分以内でのゴールだけは出来そうだ。

スタート会場付近に戻り、ここから後半10キロは東北新幹線の東側に広がる田園コースである。給水所でドリンク補給だけでなくスポンジに水を含ませて頭や足を冷やした。給水タイムも一分近くなっていた。いつもはタイムロスを惜しんで給水をスルーしていたが、今日はそんなことは言っていられない。足のスタミナも切れそうだ。完走が出来なければ、意味がない。
周りがだいぶばらけてきた。先はまだまだ長い、あまり無理すると本当に走れなくなる、ちょっとだけ歩いてみよう、そしてまた走りだせばいい、誘惑との葛藤が始まった。給水タイムを含めてキロ8分台が2キロ続いた。北上川に架かる柵ノ瀬橋が壁のように迫ってきた。ついに歩いてしまった。まわりのランナーも歩いていた。
美しい三連のアーチ型鉄橋を渡りながら、雄大な大河北上川の景観に感動する思考に切替えてみた。
古代に日高見川と呼ばれ、八幡平を源流に、岩手県を北から南へ縦断して、太平洋の石巻湾に注ぐ東北最大の1級河川である。平安時代に北上川流域を闊歩した蝦夷の阿弖流為や安倍一族、平泉仏国土の奥州藤原氏に思いを馳せながら橋を渡り切ると、少し元気が沸いてきた。

15キロの第二折り返しで1時間42分。最終関門は辛うじて切り抜けた。折り返して対面通行になる後続ランナーに「最終関門、大丈夫だよ、ガンバレ」と声掛けする余裕が出来ていた。周りの顔ぶれは固定してきた。声を掛け合うことはないが、妙な戦友気分である。
蛙のぬいぐるみや映画泥棒のカメラの仮装ランナーさんが沿道のお年寄りや子供たちと交歓している。とても私にはそんな余力も気力もない。感心してしまう。
50才台のゼッケンナンバーを付けたランナーに追いついた。見るからにアスリート体形だが、どうして我々と一緒に走っているのだろう、何かトラブルでもあったのだろうか。プライドだけで必死に走る彼をペースメーカーに、お蔭でこの1キロがなんと7分を切っていた。
17キロの給水所で彼を見失ってしまい、支えが切れたようにペースはキロ8分20秒に落ちて、帰路の北上川の鉄橋は、下りさえも歩いてしまった。
18キロ地点で2時間6分、に愕然とした。残り3キロをキロ8分で走らねば、制限時間2時間30分をオーバーしてしまうではないか。キロ8分はとてもムリだ、ついに初のリタイアか。いや、諦めるな、今ここで頑張らないでいつ頑張るんだ。まさに自分との戦いである。
沿道から「苦しい時こそ笑顔だよ!」の声が掛かってきた。そうだ、笑顔だ、切り替えよう、苦しくとも楽しい気持ちで走らなきゃあ、悲鳴を上げながらも走れていたじゃないか、大丈夫だ、自信を持て、まだ頑張れる。

19キロでキロ8分4秒、20キロでキロ7分47秒、まさに引き算の世界である。ゴールまであと1キロを切ったところで、前方に歩いているランナーが見えた。 走るのを諦めてしまったようだ。追いついて並びながら声を掛けた。「まだ間に合うよ!頑張ろう!」彼は「まだ間に合うね」と、持ち直したようで並走してきた。意識したわけではなかったが、ふたり並んでゴールした。
電光掲示板は2時間29分30秒を指していた。制限時間まで30秒、まさに滑り込みセーフである。ゴールすると彼が手を差し伸べて「7キロでおかしくなった。お蔭で走れました」とお礼の言葉をかけてきた。彼の握手に力が込められていた。ふたりにそれ以上の言葉は必要なかった。完走記録証を持った手を振って、お互い名乗らず爽やかな男の別れ方をした。

③ 水沢の殉教地を訪ねて(9月27日②)

ハーフマラソンを辛うじて制限時間内に完走、総合体育館で着替えて、参加賞の芋っこ汁とお握りで腹ごしらえ、これから待望の水沢殉教地探訪である。
大会専用シャトルバスで一ノ関駅に戻り、東北本線で昨夜泊まった水沢駅に戻った。水沢駅内の観光案内所が無人IT化されて、5年前に胆沢城址の探訪時に利用したレンタサイクルは扱っていなかった。ハーフマラソンを走った後の歩きはキツイがやむを得ない。
パソコンで打ち出した簡単な地図を頼りに、駅前の商店街から住宅街の中を、途中から水路に沿って西南方向に約2キロ、道端に咲くコスモスや可愛いサフランにマラソンの疲れを癒されながら、途中道に迷ったが、40分程で寿庵の里「福原」に着いた。
 
寿庵がキリスト教の「福音」に因んで「福原」と名付けたといわれ、辻の案内板に「主家葛西氏が秀吉の小田原攻め不参により滅亡後、諸国を流浪し、その間に西洋文化や思想を学び、九州で洗礼を受けジョアンの霊名を受け寿庵と名のる。伊達政宗に依って1612年にこの地「見分」に1200石の領主に封ぜられ、藤沢時代の一族家従100余名と共に来たり。キリシタン信徒として福原全地域を信徒とし、教会堂を建て仙台に次ぐ聖地とし、1621年に信徒代表筆頭署名者としてローマ法王に奉答文を送る。特筆すべきは、私財を投じて胆沢川から導水し(寿庵堰)胆沢穀倉地帯の基礎を作った。1623年に幕府のキリシタン弾圧により主君政宗に難の及ぶ事を考え、10名ほどの従者と共に南部方面に逃れ、その後の足跡は容としてわからない」とあった。
寿庵は、追手から逃走したと言われているが、ここには、主君に難の及ぶ事を考えて自ら福原を去ったとあった。地元ならではの寿庵贔屓の伝承なのかもしれない。

福原の辻から東に10分程のカトリック水沢教会に向かった。見学時間が16時までとネットにあり、あと数分しかない。マラソンの疲れはまだ癒えていないが、教会に向けて走りに走った。住宅街の中に建つ白亜のモダンな壁面に白の十字架が、入口横に後藤寿庵の白い立像が立ち、正面扉は開錠されていたが無人だった。
正面扉に貼られていた伝言メモに従って神父さんに電話すると、カトリック教会は公教会ですからどうぞ自由にお入りくださいとのこと、お言葉に甘えて無人の聖堂内を30分ほど見学させてもらった。
堂内に掲示された「東北とその周辺のキリシタン殉教地」の地図に、水沢・クルス場76人、大籠・地蔵ノ辻218~300人、仙台・広瀬川86人、米沢・北山原74人、会津若松58人と殉教人数が書き込まれていた。

「水沢のキリシタン殉教者」の張り紙には、ペトロ岐部:水沢で宣教し捕えられ江戸で1639年殉教、カルバリオ神父外八人:水沢の西方の下嵐江銀山で捕えられ仙台広瀬川にて水責めで1624年殉教、ジョアキム津島と妻アンナ(庄内の人)他4人:水沢にて1620年11月6日に伊達藩最初の殉教(斬首)、水沢にて50人~60人:1621年に殉教(火刑)、1640年4月に前沢他で33人殉教、など水沢地方での殉教者名と殉教者数などが詳細に記されていた。

聖堂の正面に、大きな十字架のキリスト像が掲げられて、縦横1メートルはあろうか。岩手県出身の彫刻家舟越保武作の蒼黒いブロンズ像である。磔された両手を水平に広げて顔をしっかりもたげ、口を軽く開け、伏し目がちに、祈りを捧げる人々を見守っているようだ。
資料コーナーに「安らかな表情のキリスト」と題した同教会の司祭が語られた新聞切り抜きがあり「キリストは命をささげて人を愛す。その象徴が十字架のキリスト像。穏やかな表情が人々に安らぎを与える。心が癒されるし励まされたような気持ちにさえなる」とあった。
もう一つの「寿庵と政宗のやりとり」と題した資料に「政宗は、厚く信頼していた寿庵を失いたくはなかったので、寿庵に「自分はキリシタンの教えを守る許可を得ていることを、秘密にせよ」といわれた時、寿庵は「そのような誓いは断じて立てられない。殿の、ごひいき、財産、生命を失うとも、いとわぬ」と答えた。と1624年のイエズス会の年報に書かれている」そして「石母田大膳や岩谷堂、衣川、金ヶ崎の領主も棄教を勧めたが「潔く死ぬ覚悟をしている」と応えていた。こうして、寿庵の館は襲われ、略奪され、屋敷は焼き払われた。寿庵は動揺することなく、信仰のうちに喜び、従容として、北隣、南部領に退出した」とあった。
カルバリオ神父を囲んで10人の信徒がミサをあげる絵画が掲示されていた。説明文に「1623年クリスマス、カルワリオ神父を迎え、真夜中のミサに与かり神の力強い助により領民のために奉仕できた事を感謝した、これが寿庵にとって最後のミサとなった」とあり、このあと寿庵は南部に逃れるが、カルバリオ神父は逃亡先で捕縛され、仙台の広瀬川で水責めにより殉教した。
宣教師の国外追放令に反して国内に潜伏したキリシタンの多い中、マニラに渡った高山右近のように、寿庵が自分の信仰の場を求めて水沢を去ったとしたら、福原に残された信者たちはどうなると考えていたのだろうか。

水沢教会から福原の交差点に戻り、天主堂の跡に建つ「毘沙門堂」に向かった。案内板に「奥羽地方における切支丹信仰の最重要拠点であり、最盛期にはアンゼルス・カルバリオ、ペトロ岐部らの神父を迎え、多くの信者が集まり祭や礼拝が行われた聖地である。将軍家光によるさらに厳重な禁令に、領主寿庵の他領への転出、全地域民の棄教となった。この際、地域民は、密かにマリア像を観音堂に隠して礼拝を続け、本地の天主堂は名を憚って毘沙門堂と改めた」とあった。
水沢地方は、朝廷に異民族と蔑まれた蝦夷の支配地であり、平安初期に蝦夷のリーダー阿弖流為を征討した坂上田村麻呂が毘沙門天の化身として祀られた伝承から毘沙門堂と呼びマリア観音を密かに祀ったのであろうか。

福原交差点から寿庵館跡に向かう通りは、見分村の領主になった寿庵が、居宅を建てて東西を結ぶ東西5町30間(約600m)の侍小路を作り、その両側に家臣の屋敷を区割りしたという。現在は、洋風なミニ公園や欧風な街路灯が配されて「福原小路」「寿庵の道」と銘打って美しい石レンガ道に整備されていた。
寿庵館跡に向かう福原小路の道沿いに、そのマリア像を隠したという小さな「観音堂」があった。外見は厨子のようだが、逃亡した寿庵に見捨てられた信者たちが、仏教徒を装った隠れキリシタンとなり、観音様にお参りしながら密かに信仰を守っていたのであろうか。
福原小路の西の突き当りの後藤寿庵の館跡に、コンクリート造りの重厚な「後藤寿庵廟」が建っていた。寿庵の水利事業と信仰活動の遺徳を顕彰した碑だという。
案内板に館のまわりに外堀をめぐらし堡塁や土塀で守られ小さな城郭のようだったとあり、農村公園になっていた。遊んでいた子供たちが私を見つけると、音声ガイダンスのスイッチを入れ、寿庵讃歌を聞かせてくれた。
 (1)聖愛の灯かかげ、教堂に鐘鳴り渡る、
    嗚呼、使徒寿庵元和の春
 (2)不毛の地、胆沢の荒野、堰を掘り堤を築く、
    嗚呼、民人の福音の水
 (3)弾圧の嵐はすさび、何処へか去り行く人に、
    嗚呼、里人の慟哭やまず
 (4)寿庵碑に立ちて望めば、ろばろと沃野は稔る、
    嗚呼、栄光の人、花を捧げん
弾圧の嵐は荒び、何処へか去り行く人に、里人の慟哭やまずとは、寿庵への敬慕であろうか。自分たちを見捨てて逃亡した寿庵への怨嗟の声ではないのか。死を恐れず最後まで信じる者に寄り添って自ら獄死したペトロ岐部とは違う道を選んだ寿庵の人間性を疑っていた。



日が落ち薄暗くなってきた。最後の探訪先の「クルス場」に急いだ。1620年に仙台藩最初の殉教が行われ、六人が斬首されたといわれる。寿庵廟の南側に広がる黄金色の稲田の農道を南に400mほど進むと、用水路に架かる小さな橋の欄干に「クルス場橋」とあった。
クルス場の殉教について、カトリック水沢教会に掲示されていた資料に「その時、高貴な人が脇に従い、厳かに行列をして進み、400人のキリシタン等が見守っていたという。遺体は寿庵の教会の祭壇の下に葬ったといわれる。(石母田文書)」とあった。
1620年は、支倉常長が遣欧使節から帰国した年であり、その直後に政宗は仙台領内にキリシタン禁令を公布した。仙台藩最初の殉教地になるクルス場に向かう行列の脇に従う高貴な人が、福原領主の後藤寿庵だとしたら、この殉教をどう思ったことだろう。彼はその3年後に逃亡するまで福原に留まって信教を守っていた。
1623年、仙台領に潜伏し布教をしていたアンデリス神父とガルベス神父が、江戸の芝口で公開処刑されると、さすがの政宗もついに水沢福原の寿庵屋敷を襲撃させ、寿庵は水沢から逃亡、共に逃亡したカルバリオ神父は捕らわれて仙台の広瀬川で水責めにより殉教した。
1639年には、単身エルサレムに渡りローマで司祭となり禁教下の日本に潜入して水沢で布教していたペテロ岐部が、水沢のクルス場橋付近で捕縛され、江戸に送られて苛酷な穴吊りの拷問を受け殉教した。

仙台藩最初の殉教地のクルス場橋周辺を散策していると、橋の南隣に時宗長光寺の墓園があり、墓地由来の説明板に「この墓地は昔からクルス場(バ)と呼ばれ、黒州婆の文字で表されることもある。クルスはポルトガル語で十字架の意味であり、後藤寿庵がこの地で活躍した時代のキリシタン信者の墓所があった所である。700余坪の面積があったといわれ、1623年に寿庵が福原から逃亡すると、残った家臣は改宗を余儀なくされ、留守家の配下に組み込まれ、足軽となり全住民が長光寺の檀家となった。仏教に帰依させられた人々は、厳禁された宗義を憚ってか黒州婆の文字を使用するようになったと伝えられている」とあった。
時宗は、浄土宗の一派だが、阿弥陀仏を信じていなくとも、南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも極楽浄土に行けると説いており、密かにアーメンを祈る隠れキリシタンの隠れ蓑には、恰好の宗派だったのかもしれない。
水沢市内の各所で寿庵の偉人としての評価を目にするにつけ、ペトロ岐部やカルバリオ神父の命を惜しまぬ献身的布教活動に比して、自分だけの信仰の場を求めて、多くのキリシタン家臣たちを残して南部に逃亡した身勝手な行動に、その人間性を疑い憤りさえ抱いていたが、クルス場の墓園にやって来て、寿庵が決して彼らを見捨てていたわけではなさそうだと少し安堵してきた。
討手の襲来を前に、福原の舘で最後のミサを上げ、残される家臣たちに留守氏の配下に入り時宗の檀家となり隠れキリシタンとしての信心を守っていく身の処し方を細部に亘り指示している寿庵の様子が浮かんできた。

ここで気になる人物がいた。政宗の指示で寿庵に棄教を勧めたという石母田大膳である。1621年の水沢殉教記録も石母田文書、昨日訪ねた仙台広瀬川の殉教碑に刻されたカルバリオ神父らの詮索覚書も石母田文書、支倉常長が持参したスペイン国王とローマ教皇宛て政宗書状案を現代に伝えているのも石母田家文書である。
常長帰国の三年後にマニラから薩摩に潜入して捕えられ長崎の獄中にいるソテロ神父に、幕府への復命の機会が実現できるよう年寄土井利勝へ取り次ぐ旨の書状を送ったのも石母田大膳で、奉行職として政宗の密命を帯びて禁制のキリシタン対応を一任されていたようである。
大膳は信長に滅ぼされた朝倉義景の一族で、小早川秀秋の客臣から後に政宗の小姓となり、1601年に石母田家の家督を相続して登米郡米谷城主、1616年に水沢城主となる。米谷城の東和町は享保年間に120名のキリシタンが処刑され、最後の殉教地といわれる。
長光寺の墓園由来に、残された家臣が留守氏の配下に入ったとあったが、留守宗利が水沢城に入るのは1629年、寿庵逃亡当時の水沢城主は石母田大膳である。
南部に逃亡する寿庵は、残した家臣団と福原のキリシタン社会を、キリシタンに理解があり盟友であり政宗の信任厚い水沢城主の大膳に託していたに違いない。

すっかり暗くなっていた。東の空に仲秋の名月が輝いて、街はずれのクルス場から水沢駅まで約三キロの夜道を月の光を頼りに歩いた。マラソンの疲れはあったが、寿庵が福原に残した信徒たちを決して見捨ててはいなかったことが知れて、心なしか足取りも軽くなっていた。


【岩手県:一関市大籠の殉教地を訪ねて】

水沢市の東南隣の一関市藤沢町は、寿庵が水沢に入る50年程前に、大籠地区の鉱山に製鉄技術を買われて備中からやって来た千松兄弟がキリスト教を初めて伝えたといわれ、政宗の死後に309人の大殉教があった。強行日程になるが、水沢までやって来て藤沢大籠に行かないわけにはいかない。一ノ関駅前のホテルに連泊した。
今日の行程は、一ノ関駅から千厩駅までJR大船渡線、千厩から大籠まで路線バス、大籠キリシタン殉教地公園周辺を散策して埼玉に帰るフルコースである。ホテルにリュックを預け、軽装の秋の行楽気分で出立した。
JR大船渡線は、一ノ関からまず東へ10キロ、北上川を渡ると砂鉄川に沿って北へ10キロ、猊鼻渓付近から東へ10キロ、摺沢で南へ10キロ、千厩から東へ20キロで終点気仙沼、何とも奇怪な凸形の路線である。
直線計画が凸形路線になった理由は、大正時代の総選挙で摺沢を推す立憲政友会と千厩を推す憲政会の我田引水ならぬ引鉄合戦があったらしい。お蔭で、東北の山村風景や朝靄の北上山系そして猊鼻渓の渓谷美が満喫出来るのだから、利益誘導の誘致合戦もいいものである。
二両編成のローカル電車は、北上山地の山深い中をひたすら走り、車窓から手を伸ばせばススキや木立に触れんばかりの近さである。一時間程で千厩駅に着いた。
ホームの「大夫黒顕彰碑」の案内板に、源平合戦で源義経が、ひよどり越えで急斜面を駆けおりた名馬「大夫黒」が平泉の藤原秀衡が贈った千厩産だったとあった。
前九年の役で源義家が安部貞任を討つため奥州に来た際、岩窟に千頭の馬を繋いだ伝承が千厩の語源だともいわれ、当地は平安時代から南部馬の名産地だったようだ。
千厩駅前から大籠線千松行きの路線バスは、平日6往復、土曜は2往復、日曜は運休というローカル路線で、朝8時43分の乗客は、老夫婦と私の3人だけだった。
老夫婦は気仙沼からの津波被災者で故郷の千厩で仮設住宅住まいだという。雪の舞う寒い避難所に新聞紙一枚敷いて過ごした四年前のあの日のこと、先の見えない仮設住宅の苦労話など、ただ聞いてあげるしかなかった。
私の来訪目的に、ご主人は、この路線が気仙沼に産出する金を平泉へ運ぶ黄金街道と呼ばれ、景勝地の猊鼻渓を流れる川の名が砂鉄川で、その上流は砂鉄の産地だったなど、ご自分の故里を懐かしそうに話してくれた。地元の古老でなければ得られない情報に感謝である。老夫婦が藤沢病院前で下車、私一人の貸切りバスになった。

山間の僅かな平地に黄金色の棚田が連なる風景は、絵画のように美しい。沿道に点在する農家の庭先にコスモスが咲き誇っていた。私一人乗せた路線バスは、宮城県との県境に跨る北上山地の秘境へと分け入って行った。
千厩駅から奥深い山道を20キロ余り、ひたすら走ること50分程、ようやく大籠農協前バス停に下車した。 澄みきった青空が広がり、爽やかな秋風が心地よく、小鳥のさえずりが響き渡り、こんな平和な山村でかつて309人の凄惨な大殉教があったとは信じられない。

降り立ったバス停のすぐ横に立つ「地蔵の辻」と書かれた十字架形案内板に「一名無情の辻と云う、打首十字架等に依り集団大処刑が行われてその鮮血が刑場下の二俣川を血に染めた無残なこと筆紙に尽し難きものがあった」とあり、寛永16年(1639年)に84人、翌年に94人がここで殉教したという。
いきなり三七六年前の阿修羅の如き凄惨な殉教現場に突き落とされた思いである。周りに殉教者の家族が菩提のために建てたのだろう墓石や地蔵仏が散在していた。



バス道路の向い側の大きな石の案内板に「首実検石」とあり「所成敗を受ける信徒の模様を伊達藩の検視役が腰を下して首実検した」とあった。所成敗とは、捕えたその場で即処刑することである。なぜ所成敗だったのだろうか、という疑問が沸いてきた。
キリシタン禁令の目的は、キリシタンを無くす(消す)ことで、亡くす(殺す)ことではなかったはずである。拷問による苦痛を与え、引き回しと公開処刑による死の恐怖を見せしめに、棄教させるのが目的で、命を奪う処刑は、あくまで最後の手段ではないか。信者を見つけ次第、棄教する機会すら与えずその場で処刑してしまうとは、これでは単なる虐殺である。どうもこれまで訪ねてきた米沢や水沢の殉教地とは別世界のようだ。
バス道路から分かれた山道を「大籠キリシタン殉教公園」に向かった。道端をコスモスやサルビアが彩り、大屋根の茅葺き農家が、古き山村風景を描いていた。まもなくキリシタン殉教公園の「歴史の庭」に着いた。
広場の中央に母子像の立つ聖なる泉が造形され、資料館は休館だった。その先の杉林に、クルス館のある「歴史の丘」に通じる、殉教者数に合わせた309段の急な山道「歴史の道」が真っ直ぐ伸びていた。
鬱蒼とした暗がりに太陽の日差しが僅かに差し込む中を、一段一段を数えながら登ったが、殉教者の数の多さを改めて思い知らされた。マラソンランナーを自負しながら、幾たび立ち止まり息を整えたことだろう。

309段の階段を登り切ると、目の前が開けてピラミッド形に組まれたカリヨン塔がゲートのように頭上に現れ、正面にモダンな三角形の建物が迎えてくれた。尖塔に十字架をいだく「大籠殉教記念クルス館」は、岩手県出身の彫刻家舟越保武の設計である。



ついにやって来た。東北の殉教地巡りを思い立った時、秘境のこの地まで来られるとは思ってもいなかった。
「歴史の丘」に建つクルス館に対峙して十字を切った。 クルス館の前庭の中央に据えられた巨岩の姥石に、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世の殉教者に寄せたメッセージの顕彰碑が嵌め込まれていた。
クルス館は月曜の休館日だったが、予め資料館事務所に電話をしていたので扉は開錠されてあった。恐る恐るクルス館の扉を開くと、薄暗い奥の正面に高さ3メートルはあろう十字架に磔けられた等身大のキリスト像が、明り窓から差し込む光を背に聳え立っていた。
荘厳な空間に立ち、大籠の地で殉教した309人の安寧を祈り十字を切った。左右の聖女の胸像と共に舟越保武の作品だが、同じ作者なのに昨日カトリック水沢教会で対面したキリストとは、雰囲気がだいぶ違っていた。


勿論、色も違う、こちらは茶のブロンズだ。どこが違うのだろう。水沢教会のキリストは、両手を水平に広げて頭をしっかりもたげ、薄目を開けて祈る信者を見下ろす凛とした強さを感じたが、クルス館のキリストは、体の重みに腕がしなり、眼を閉じて心持ち頭を垂れ、薄く口を開け今にも息絶えそうな弱々しささえ感じられる。
水沢教会のキリストは、聖堂に集まる信者の信仰を優しく見守るキリストであり、クルス館のキリストは、ゴルゴタの丘で皆の罪を背負い十字架に磔にされ皆と共に苦しむキリストの姿そのもののように見えた。

十字架像の傍に舟越保武直筆のメッセージがあった。「みちのくの暗い空の下、ひそやかにくらす切支丹の里、藤沢の大籠は、現世のわれらに、痛ましい歴史を留めて、手をさしのべて、尊き心をここに、継ぎとめる」そして「主よ、われらを憐れみたまえ、われらに平安を与えたまえ」と祈りの言葉が添えられていた。
クルス館内の階段を昇り、二階のテラスに出ると、カリヨンが足元に、遥かな山並みは宮城県側であろうか。
螺旋階段の最上段に昇ると、尖塔の鐘の紐がすぐ手元まで垂れていた。恐る恐る紐を引いてみると、静けさを打ち破る鐘の音が耳元で鳴り響いた。県境の山並みにコダマしたことだろう。376年前の殉難者の安寧を祈り私がここにやって来た証が残せた感慨にしばし耽った。
クルス館からの下山は、直登した309九段の階段ではなく、迂回路の「十字架の道行」を下った。道端に、イエズスが死の宣告を受け、十字架を荷われ、十字架の重さで三度倒れられ、十字架に釘付けられ、十字架の上で亡くなられ、墓におさめられるまでの、受難一四場面を線刻した石碑が麓まで順に並べられていた。

「十字架の道行」の途中に、遠藤周作の「切支丹最後の地として」と題した碑があった。「わたしは夕暮れ近く大籠の街道を歩いたのだが、点々と残っている首塚や処刑場の跡に寒けさえおぼえたのだった。九州の切支丹遺跡を訪ねてもこんな陰惨な感じをあたえる場所はなかった。ここは文字どおり東北切支丹の最後の聖地であろうと思えた」そして「こういう公園ができて本当に良かった。多くの人々の目にふれて、殉教という史実は現代人に何を感じさせるだろう。平成7年10月、ポウル フランソワ遠藤周作」と結ばれていた。
遠藤周作が言っていた、九州の切支丹遺跡にはない陰惨な感じ、を私もこの後の散策で実感した。

キリシタン殉教公園からバス通りに下り、カトリック大籠教会に向かって、バス停を1つ戻ったところにお地蔵さんが見えてきた。額に白毫があり、赤ちゃんを横抱きして慈母観音のようだが、ベールを被り胸に十字架のようなものが見え、大籠で殉教した多くのキリシタンを見守るマリア観音であろうか。
傍らに石の十字架と蓮華座に座る首のとれた石像が並び「上野刑場」とあった。案内板の墨書が掠れて「通称オシャナギ様と称する処で、信徒処刑場であり殉教地で寛永一七年宗徒九四名が所成敗となった。此処には八基地蔵尊が建っており、古老の話によれば、信徒処刑後より夜な夜な男女の泣き叫ぶ声がして殺気迫るものがあり、付近住民の中には離散した者もあって、何れの処刑場に於ても処刑された遺体の処理は厳禁、約60年後に入ってから許されて、此処では遺体を元禄一六年集め、供養碑が建てられた」と辛うじて読み取れた。秋晴れの平和な山村で行われた凄惨な殺戮が未だに信じられない。

バス道路から左にカトリック大籠教会へ迂回する道を下り、20頭ばかりの牛小屋の臭いに閉口しながら、薄暗い樹林の中に「祭畑刑場」と書かれた案内板を見付けた。「上野刑場より西へ200m、此処にも地蔵尊が2・3基立っている。殉教者の血を流した処で処刑中逃げた者を捕え、川向いの約3、40m離れた芝生の松の枝に鉄砲を乗せ狙い撃ったところである」とあった。
こうなるともはや殉教ではない、虐殺ではないか。辺りが薄暗いだけに鳥肌が立ってくる。祭畑刑場の看板の傍らに「隠れ穴」と書かれた看板が倒れていた。それには「上野・祭畑刑場で処刑される幾人かが、処刑をおそれてこの穴に隠れたが発見され、祭畑刑場で銃殺された當時の隠れ穴である」とあった。藪の中に踏み込んで探してみたが、それらしい穴は見当たらなかった。
踏み絵を使い信者を見付け出して所成敗するだけでなく、死の恐怖に逃げ回り隠れた穴から見つけ出された信者を手当たり次第に射殺していたとは、ベトナム戦争でベトコンゲリラでもない無辜な一般住民まで皆殺しにしたアメリカ軍と一緒ではないか。
 
ここ大籠は、米沢が天国だとしたら、まさに地獄であった。彼らはなぜ逃げようとしたのだろうか。なぜ殉教を怖がったのだろうか。殉教は神の許に行けるのだからと喜んで死んでいくはずだったのではないのか。
米沢では家族が否定しても、自分は信者であり棄教はしないと申し出て喜んで処刑されていった。仙台では水責めという苛酷な拷問にも負けず、信仰を守りきり、命を絶っていた。水沢では寿庵の逃亡で残された信者たちが、棄教を装って隠れキリシタンの道を歩んだ。しかしここ大籠では、様相が違っていた。刑死を目の前に、死の恐怖に取り乱して逃げ回るだけだった。
祝福されるべき殉教の本当の意味が、彼らには十分には理解されていなかったのかもしれない。
会津、米沢、仙台、水沢では、為政者が率先して布教を支援するだけでなく、宣教師を呼んでキリスト教を信者に学ばせており、彼らは拷問や刑死に打ち勝つ強い意志と殉教の喜びを心得ていたが、この山奥の大籠では、殉教の恐怖に打ち勝てるだけの真のキリスト教が伝道されていなかったのではないだろうか。遠藤周作が抱いた陰惨な感じの意味が分かったような気がしてきた。

いよいよ最後の訪問先の「カトリック大籠教会」である。陰惨な樹林に囲まれて、白い壁にエンジ色の屋根ととんがり帽子の塔が可愛らしいチャペルが見えてきた。
真っ白な聖母子像の傍らに立つ案内板に、1952年にスイスのベトレヘム外国宣教会が大籠の殉教者を顕彰するため建立された教会だとあった。



こんな山奥に何故こんなに沢山のキリシタンがいたのか、なぜ痛ましい殉教が行われたのか、悶々としていた疑問に答えてくれる内容が詳細に記されていた。
「大籠キリシタン小史」と題して「言い伝えによると、永禄年間(1558~1569年)に千松大八郎・小八郎兄弟がこの大籠の地に来て、鉄の精錬に従事しながら、キリスト教を伝道したと伝えられる。この大籠を中心に狼河原(宮城県米川・馬籠)で恫屋八人衆の下、南蛮流製鉄で良質の鉄を増産したが、そこで多数の信徒が働いていた。伊達正宗のキリシタン禁止は比較的柔軟であったが、元和6年(1620年)禁教令を出し弾圧に乗り出した。フランシスコ・バラヤス(孫右衛門)神父は、この頃から潜入して布教し、信徒数は日に増加して隆盛を極め、当時あった3つの寺が廃寺となり今日に至っている。正宗が没した後、島原の乱が起るとバラヤス神父は捕縛され江戸で殉教した。大籠では(中略)合計300名以上の殉教があった」とあった。

教会前の広場に藤沢町むらおこし実行委員会が設置した説明板に「大籠キリシタン史の概要」と題して「天文年間(430余年前)まで大籠等において製鉄が営まれていたが、永禄元年(1558年)千葉土佐が備中国中山に赴いて新しい製鉄技術を学び、帰国後制作したが、容易でなかったので、技術者として布留兄弟(のち千松に住む)を招き(中略)大籠は仙台領きっての製鉄産地になり日産1千貫もの鉄がつくり出された。
(中略)千松兄弟は、キリシタン大名宇喜多秀家の領地備中国出身で熱心なキリシタン信者であった。兄弟は烔屋工として生産を興隆し、一方においてデウス仏を安置してキリストの教を説いた。又慶長から元和にかけ後藤寿庵やバラヤス神父の布教が大籠を中心に近郊に波及し信者は約3万人に及んだのである。云々」とあった。

大籠キリシタン小史の冒頭に、言い伝えによると、と断り文句は付いていたが、永禄年間に千松兄弟がこの大籠の地にキリスト教を持ち込んだとすると、東北にキリスト教が初めて入ったのが、秀吉の奥州仕置でキリシタン大名レオ蒲生氏郷が会津若松に入った1590年といわれ、それより20年以上も前に大籠地区で密かにキリスト教が広まっていたことになるが、俄かには信じられない。千松伝承の真偽は、帰宅してからの宿題である。

大籠の殉教遺跡は、この近辺にまだまだ多く、斬られた首を晒した後に埋めたという「架場首塚」、処刑され放置された遺体を60年経ってようやく供養したという「元禄の碑」、晒された首を親族が盗んで袖の下に隠して持ち帰り埋めた「上の袖首塚」、そして伝道した「千松兄弟の墓」やゼウス仏を「山の神」と称して祀った場所や集落の入口で踏み絵させて信徒を捕えた「台転場」は、ここから更に東へ二キロ先の山奥にあり、西に県境を越えた宮城県登米市東和町は、享保年間に120名のキリシタンが処刑され、最後の殉教地といわれている。
 
バスの来る時間まで、道端の綺麗に整備された花壇にカメラを向けていると、正午の時を知らせる鐘の音が山にこだましてきた。殉教公園のカリヨンであろうか。
帰りのバスも私一人だった。バス停ごとに乗降客がいないのに駅名を告げる自動音声の車内アナウンスに「この路線は市の補助金をいただいています、利用客が少なくなると補助金が打ち切られます、皆さまのご利用をお願いします」のメッセージが機械的に流れていた。
この様子では数年後にはバスの運行もなくなるかもしれない。そしてこの山奥に300人以上の悲惨な殉教があったことも忘れ去られていくのだろうか。


①大籠のキリスト教について(私的考察)

殉教地の会津若松、米沢、仙台、水沢の為政者、蒲生氏郷、上杉景勝、伊達政宗、後藤寿庵は、キリスト教のよき理解者となり、宣教師を招き城下町という行政組織の中で武士を中心とした特権階級にキリスト教を広め、幕府の禁教圧力に対しては己の名声と権勢で抗してきた。 
幕府の圧力の楯となった為政者が死去すると、若き後嗣が幕府の威圧に屈せざるをえなくなるのは当然だが、キリシタンたちが、宣教師によって培われた教義と強い信仰と神による選民意識を支えに、殉教の恐怖に凛として正面から向き合っていった。
しかし北上山地の山奥にある大籠では、事情が大きく違っていた。理解ある為政者の保護による組織されたキリシタン社会でもなく、鉱山の鉱夫や農民などの下層民が烏合の衆となり、幕府の禁教令の迫害の前に、死の恐怖に逃げ惑い、無残に殺戮されていくだけだった。
とても殉教とは言えない虐殺の根底に、宣教師でも神父でもない一介の鉱山技師が備中国から持ち込んだキリスト教に信仰上の構造的欠陥でもあったのだろうか。
当時の鉱山は、藩の財政を支える重要資源として、鉱山経営に一種の治外法権が認められ、犯罪者として追われる流れ者や禁教令による迫害から逃れるキリシタンにとって人里離れた鉱山は恰好の隠れ場所になっていた。
社会的弱者や異端教徒たちが集まる秘境の大籠地区に千松兄弟が持ち込んだキリスト教は、逃避行の彼等の荒んだ心の拠り所として容易に浸透していけたのだろう。
信心して念仏を唱えれば救われると戦乱の世に蔓延して既成権力に抵抗した一向宗に似た宗教感で、聖母マリア像やキリスト十字架像に祈りを捧げれば神の国に行ける、という素朴な教えだったとしたら、豊かな城下町から遠く隔絶された山奥で過酷な労働環境にあって虐げられていた下層民や鉱夫たちや周辺の農民になんの疑念も抱くことなく素直に受け入れられていったに違いない。

千松兄弟が大籠にもたらしたキリスト教が、後に禁教の時代を迎え、殉教という恐怖の試練に直面すると、殉教を神の恵みと受け入れられず、死への恐怖に逃げ惑い多くの犠牲者を生んでしまったのは何故なのだろうか。
千松兄弟のキリスト教は、イエスの使徒たちが、まだ聖書の成立していない、口述で広めていった紀元1世紀の頃の原始キリスト教のように、エキスだけのシンプルで脆弱なものだったからではないだろうか。
神学を十分に理解しない千松兄弟のようなセミプロに影響されて疑似キリスト者になっただけにすぎず、後に殉教の恐怖に打ち勝つ真の信仰の強さを持ち得ないまま死の恐怖に翻弄されてしまった、彼らこそ一番の被害者であり犠牲者だったといえるのかもしれない。
1612年に水沢の見分を領した後藤寿庵は、秀吉に滅ばされた藤沢城の城主岩淵秀信の次男で、大籠地区はその藤沢城下にあった。後に大坂の陣で鉄砲隊長として活躍するキリシタン寿庵が、水沢から南東に四五キロある、鉄の産地であり東北のキリシタンの聖地とされる大籠に赴いていたことは、当然にあり得ただろう。
大籠地区に宣教師が入るのは、メキシコから帰国途上にあるソテロから政宗宛て書翰と贈物を持参して1618年に来仙したフランシスコ・ガルベス神父、政宗が師を大いに優遇し城下で説教することを許したとパジェス著「日本切支丹宗門史」にあり、大籠入りに遣欧使節の派遣に関わっていた寿庵の計らいもあったに違いない。
ガルベス神父が2年間大籠村左沢の九郎右衛門屋敷に留まり磐井地方で布教活動を、その後最上に去った後任に、バラハス神父が大籠を拠点に仙台領内を巡回、1629年に奥州布教長となり1639年まで活躍した。

寿庵やガルベスやバラハスによって本来のキリスト教が伝道されるようになったとしても、600年前に千松兄弟によって広められていた脆弱なキリスト教を確固とした信仰に昇華させるまでには至らなかったのだろう。
キリシタン迫害が大籠を襲った時、殉教を神の恵みと捉える強い信仰を持てないまま、死の恐怖に堪え切れず逃げ惑い所成敗の犠牲になっていったのは悲劇である。

②大籠の千松兄弟は何者なのか(私的考察)

備中から大籠に初めてキリスト教を持ち込んだという千松兄弟について、幾つかの疑念が湧いていた。
1549年に来日したザビエルが、薩摩から肥前・周防・堺・京都、山口に戻り豊後で布教を行い1551年にインドへ離日、後を託されたトーレス神父が、山口や九州各地で布教を行い1570年に天草で死去、ヴィレラ神父が、京都と畿内で布教を行い高山右近らに洗礼を授け1570年にインドへ離日、千松兄弟が居た永禄年間(1558年~1569年)の備中(岡山県中部)にキリスト教はまだ伝道されてはいなかった。
大籠教会の案内板に千松兄弟が宇喜多秀家の領地備中国出身とあったが、秀家の領地は東隣の備前国で、しかも秀家は永禄年間にまだ生まれてもいない。秀家と千松兄弟の接点は時空的にありえないが、永禄が34年後の文禄の誤字だったとすると、文禄は朝鮮出兵で秀家が出征軍20万の総大将になったまさに秀家の時代である。
その宇喜多秀家と大籠地区が、全く関係がないのかというと、どうもそうでもなさそうである。秀家の妹を正室にするキリシタン武将明石掃部全登の子内記が、1615年の大坂の夏の陣に、父と共に大坂方として戦って敗れ、幕府の落ち武者狩りから逃れて、大籠地区から北東30キロにある気仙郡の玉山金山に隠棲していた。
内記の父明石全登は、熱心なキリシタンで領内に3000千人のキリシタンを擁したといわれ、関ヶ原の戦いで西軍の主力宇喜多秀家軍の半分を率いて東軍の先鋒福島正則軍と戦い、大坂の陣ではキリシタンを保護するという豊臣方にキリシタン家臣団を引き連れて参陣、後藤基次、真田信繁、長曾我部元親、毛利勝永と共に大坂方五人衆として、夏の陣では花十字の旗を掲げて道明寺の戦いで伊達政宗軍と戦い、家康の本陣へ突入を図るが、大坂方壊滅の報に戦場を離脱、その後行方をくらました。

備前の明石氏は、播磨国守護大名赤松氏の末裔、備前保木城主で、勢力圏の備前東部の吉井川周辺は銅山開発が盛んで、一族は、銅山経営者、技術集団の統率者であり、宣教師から南蛮技術を取り入れていたのだろう。
大坂の陣に敗れた明石内記が、幕府の明石刈りと称される追及から逃れて隠棲した陸奥国の玉山金山は、日本で初めて発見された金山で、マルコポーロの東方見聞録にあるジパング金山といわれ、東大寺大仏造営に黄金が献納され、平泉の黄金文化を支えた金山である。
政宗は仙台藩の財源を支える玉山金山の採掘技術集団として、落ち武者の明石一党を密かに受け入れたのではないだろうか。政宗は大坂の陣の敗将真田幸村や長曾我部盛親の子女を密かに仙台領に匿っており、キリシタンの明石内記の隠棲も政宗の指示があったに違いない。
全登の家臣澤原孫右衛門が、大坂の陣で徳川方に捕らわれ駿府で全登父子の踪跡を糺訊された際、もし勝敗が違えば主君の行方を白状するのかと尋問者に反駁する忠臣振りに家康に放還されたというが、澤原孫右衛門の名が、バラハス神父の日本名と同じなのは偶然だろうか。
1620年頃に大籠に入り19年間布教活動をしていたバラハス神父が、大籠近くの玉山金山に隠棲するキリシタン明石内記と交流があったろうから、家康の尋問から放免されて主君内記の許に逃れてきた澤原孫右衛門と親交を持ちその日本名を借名していたかもしれない。
カトリック大籠教会の案内板にあった永禄が、文禄の誤りだったとすると、宇喜多秀家、明石全登・内記、銅山経営、玉山金山、大籠、澤原孫右衛門、バラハス神父、これらの点と点が、綾糸のように繋がってくる。
備中から大籠に招かれたという千松兄弟は、実在の人物ではなく、様々な伝承が結びついて後世に創り出された伝道者だったとしたら、備前の鉱山技能集団でキリシタン武将の明石一族こそ実像だったかもしれない。
後にバラハス神父の潜伏先を白状したという同宿(宣教師に同行してキリスト教教理を解説し説教した修道士)の名が孫左衛門である。兄弟のような名前のバラハス孫右衛門と同宿の孫左衛門が、備前銅山の明石一党と重なって千松兄弟の伝承を生んだのかもしれない。


【番外:江戸の殉教遺跡を訪ねて】

東北の殉教地を訪ねて、福島県会津若松市、山形県米沢市、宮城県仙台市、岩手県水沢市・大籠を巡ってきたが、東北で捕らわれた宣教師たちが江戸に送られたその後を訪ねなければ、私の殉教地巡りは終わらない。
令和4年5月14日、小雨の降るなか、東京の傳馬町牢屋敷跡と芝口札之辻処刑場跡を訪ねた。

①傳馬町牢屋敷跡を訪ねて

上野駅から地下鉄日比谷線の小伝馬町駅に下車した。小伝馬町駅から日本橋方向に徒歩4分程のところに、初任地の仙台から東京に転勤してきた最初の支店である堀留支店があり、小伝馬町交差点に立つと、宮城の田舎から上京して来た54年前にしばしタイムスリップした。
交差点を岩本町方面に渡ると、角の大安楽寺境内に傳馬町牢屋敷処刑場跡を供養する延命地蔵尊が祀られていた。明治8年に市ヶ谷に移転した牢屋敷の跡が不浄の地として荒廃しており、不動院の住職山科俊海が慰霊の寺建立を発願、大倉喜八郎と安田善次郎の援助で大安楽寺を建立、高野山から弘法大師を勧進したという。
死刑場の跡に立つ延命地蔵尊に、傳馬町牢で拷問を受けて刑死した多くの禁制キリシタンや吉田松陰を始めとした幕末の勤皇志士の安寧を祈り合掌した。
大安楽寺の北向いの十思公園の案内板に「伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治8年市ヶ谷囚獄が出来るまで約270年間存続、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺、十思公園を含む一帯が伝馬町牢屋敷跡で、敷地面積1618坪、四囲に土手を築き土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった」とあった。
慶長8年(1603年)家康が江戸開府して江戸城の拡張に着手、慶長11年からの江戸城の大増改築と江戸城下町の大改造に伴い、江戸城近くの常盤橋袂にあった牢獄を、奥州へ通じる街道口に移したのだという。
公園の西側に建つ十思スクエア内にある小伝馬町牢屋敷展示館に入ると、精緻に再現された牢屋敷の模型が展示されていた。獄舎は、揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢と身分によって区分けされ、穿鑿所、拷問蔵、首斬場の部屋割りには、凄惨な臨場感が伝わってくる。

慶長17年(1612年)に家康が初めてキリシタン禁止の布告、翌18年に江戸市中でキリシタン狩りが始まり、1700人中1500人が小伝馬町牢に収容された。キリシタンの殆どは拷問に耐えきれず転宗したが、転ばなかった27人が浅草鳥越刑場で斬首され、その時に収容された宣教師に、政宗の周旋で釈放されて後に支倉常長と共に遣欧使節になったルイス・ソテロがいた。
元和9年(1623年)に猪苗代で修道院を設立、仙台、秋田、蝦夷で布教活動をしていたアンデリス神父が自分を匿っていた宿主が拷問されることを救うため江戸で自首、仙台領の大籠で布教活動をしていたガルベス神父が逃亡先の鎌倉で捕縛され小伝馬町牢に送られた。
寛永16六年(1639年)に、仙台藩内で捕らわれたペトロ岐部とマルチノ式見神父、ポルロ神父の3人が江戸に送られ、小伝馬町牢で苛酷な穴吊りの拷問により式見とポルロは棄教、岐部は最後まで棄教せず牢死した。
同宿の白状でガルベスの後任として大籠を拠点に布教活動していた奥州布教長のバラハス神父が仙台で、式見とポルロの自白で庄内・最上地方で活躍していたオゾリオ神父が寒河江で捕縛され、小伝馬町牢に送られ、1640年に芝口札之辻処刑場で殉教した。

宗門改役の大目付井上筑後守は、全国から潜伏キリシタンを小伝馬町牢に送らせ、逆さ吊りの拷問で棄教を迫った。元キリシタンだった井上筑後守は、火炙りや磔刑の公開処刑では、殉教者として崇められ信者の士気を鼓舞するだけで、殉教者を出さず背教者を作ることでなければ、キリシタンは根絶できないことを知っていた。
牢屋敷模型の拷問蔵を前に、遠藤周作原作の映画「沈黙」で、逆さ吊りにされたキリシタンの苦しむ声を聞かせてロドリゴ神父に棄教を迫るシーンが浮かんできた。

②江戸芝口札之辻処刑場跡を訪ねて

小伝馬町から、元和九年に大殉教が行われた芝口札之辻処刑場跡に向かった。山手線田町駅に下車、西口から第一京浜を品川方面に5分程で札の辻交差点に出た。
京都から日本橋に通じる東海道(現第1京浜国道)が江戸城桜田門に通じる桜田通り(現三田通り)と分岐する三叉路で、江戸の南入口に当たり交通量多く、布告法令等を掲示する高札場が設けられ札の辻と呼ばれた。
札の辻交差点のすぐ南の43階建て高層ビルの裏手に綺麗に整備された園庭が広がり、幅広の石段61段を上がると「都史跡元和キリシタン遺跡 智福寺境内」の石碑と三メートルはあろう巨石が置かれていた。
元和9年(1623年)10月13日、伝馬町牢に収容されていたキリシタンのうち、20年近く日本での伝道に努め東北各地を使徒として活躍したアンデリス神父とガルベス神父を含む成人男子50人が市中引き回しのうえ、南に7キロ先の芝口札之辻で処刑された。



前掲のパジェス著「日本切支丹宗門史」に「刑場は、最初、江戸城に続く目抜きの広場の筈であったが、これを一層物々しくするために、江戸から京都への街道にある丘が選ばれた。広い原と諸方の丘には、どこも大勢の人がつめかけていた。家光の新将軍就任のために、召集されて来ていた諸侯全部が顔を出していた」とある。
そして「老中の報告に新将軍は『老中達は、昨年の殉教の後は、どこにも伴天連は残っていないと言ったではないか。我が首府に二人現れたのは、不届至極である。厳罰にせよ』と激怒して叫んだ」とあり、秀忠の後を継いだばかりで生まれながら天下人であると虚勢を張る19才の若き家光の、新将軍の面子を懸けた諸侯への示威工作の舞台に札之辻の公開処刑を利用したに違いない。

処刑場に居並ぶ諸侯の中に政宗はいたのだろうか。仙台藩の正史である伊達治家記録には、家光の将軍就任に供奉した上洛から江戸に戻った9月20日に「御父子江戸御屋形ニ御着」とあるが、次の記録が10月24日の「公武州府中御鷹場へ御出」で、それまでの1ヶ月間の記録がなく、10月13日の芝口札之辻処刑場に政宗がいたのかどうかは明らかではない。
治家記録には月に3、4件の動静記録があり、10月だけ一件というのは不自然で、しかも鷹狩の記録に「御暇仰出サルノ日、幷ニ御帰府ノ日等不知」とある添書は政宗の動静をわざわざ曖昧にする意図さえ見えてくる。
処刑された50人の中心人物である二人は、仙台藩を拠点に布教活動をして捕縛された神父で、家光の狙いが禁教に寛容な政宗への見せしめで威嚇だったとしたら、正史に記録がないことこそ、10月13日の処刑場に政宗が立ち合わされていた証しではないだろうか。
アンデリス神父は、大坂の陣で会った後藤寿庵に誘われ、仙台と水沢そして蝦夷で布教活動を、ガルベス神父は、マニラに着いたソテロから政宗宛て書状と贈物を政宗に届け、そのあと磐井で布教活動をしていたが、二人は江戸での布教に呼び戻され、まもなく捕縛された。
二人の仙台領での布教活動を黙認してきた政宗は、二人の火炙りの惨劇を目の当たりに、家光の執念とも言える禁教への不退転の覚悟を思い知ったに違いない。
翌月3日に、小伝馬町牢に残っていた妻子たちであろう婦女子24人とキリシタンを匿ったとされる13人が同じ札の辻の処刑場で殉教した。
同日の11月3日付で仙台藩の江戸詰奉行片倉・大条が、国許の石母田ら四奉行宛てに「上様(家光)之御法度、殊外きつく御座候」と領内の切支丹取締の強化を命じる書状を出状、その年の暮れ、ついに仙台藩はキリシタンの聖地水沢福原の後藤寿庵邸を襲撃、逃亡したカルバリオ神父らが捕えられ広瀬川畔で処刑された。かくて政宗の海外へ向けた夢とキリシタン教国の夢は潰えた。

凄惨な処刑場となった芝口札之辻の小高い丘は、長く不浄の地とされていたが、明和8年(1771年)に一空上人が罪人を慰霊するため、丘の中腹に智福寺を桜田元町から移してきた。その智福寺も数度の崖崩れで損壊し、昭和20年5月の東京空襲で全焼した。
芝桜の園庭の展望用エレベーターで背後の丘に上がり、眼下で繰り広げられた凄惨な殉教に思いを馳せ合掌した。

いったん田町駅に戻り品川駅から品川プリンスホテル脇の柘榴坂を5分程のカトリック高輪教会に向かった。
当教会は、江戸の殉教地に近い事から「殉教者の元后聖マリア」と名付けられ、毎年11月下旬に「江戸の殉教者記念祭」が開催され、来年が400年祭だという。
教会資料室に札之辻の殉教の模様をイエズス会総会長に宛てたイエズス会士の手紙の内容が紹介されていた。 
「47人の信者は、柱に縛られ火がつけられた。2人の神父と原主水は馬に乗せられえたまま、信者たちの苦難と死を見守らなければならなかった。火が消え、それと供に47人の命も絶えたとき、3人は馬からおろされてそれぞれ柱に縛りつけられた。柱の周りに置かれた薪の束に火がつけられると、キリストの勇敢な闘志たちは互いに言葉を交わし励ましあった。(中略)
アンジェリス神父は、江戸の街の方角に向かって短い祈りを捧げ、不動の姿勢を崩さずにそこに集まっている民衆に最後の言葉を投げかけようとした。人々に熱心に説き勧めていたが、ついにくず折れるように倒れ、ひざまずいてその魂を神の御手にかえした。最後に生き残ったガルベス神父は、その苦しみにもおののくことなく柱に寄り掛かりまっすぐに立ったまま息を引き取った」
教会地下のクリプト入口に100号はあろう江副隆愛氏の「江戸の大殉教図」が掲げられ、イエズス会士の手紙が伝える殉教の様子が生々しく再現された臨場感溢れる油彩画を前に十字を切り黙祷した。左の写真は、後日再訪して係員の了解を得てカメラに収めた。 



 (完)




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