歴史と文化の路を訪ねて

季刊同人誌「まんじ」に投稿した歴史探訪紀行文を掲載しています。

私の伊達政宗像を訪ねて(その5―② 最終章)

2021-08-01 21:40:00 | 私の伊達政宗像を訪ねて
【仙台城にかけた政宗の夢】

〈1〉武人政宗と文人政宗

 6年前(2015年)5月、仙台国際ハーフマラソンを走り終えた後、久方振りに仙台城に足を延ばした。青葉城と呼んで親しんだ仙台城を訪れること数知れないが、古稀を過ぎての仙台城散策は、視点も変わり格別な新鮮さを覚える。
 仙台駅から八木山経由の市内巡回バスで仙台城跡南に下車すると、外国人観光客が本丸跡に溢れていた。広場の中央に君臨する伊達政宗騎馬像に直行した。東側の急峻な断崖に立つと、眼下に東北最大の百万都市仙台の市街が広がり、遥かに太平洋が望めていた。
 政宗が仙台城の縄張りを始めたのは、慶長5年9月の関ヶ原の戦いの3ヶ月後、家康が三成に勝ったとはいえ大坂城に豊臣秀頼が健在で、翌春には家康の上杉討伐の再征が予定されている。家康から「百万石の御墨付」を与えられ、南の仙道に進攻して旧領地の奪還と会津の上杉景勝との決戦を前に、青葉山の千代城址に新城を築く政宗の思いは如何に、と想像を巡らせてみた。

 眼下の広瀬川も今は青葉城恋歌に歌われる瀬音ゆかしき清流だが、当時は氾濫を繰り返す広い瀬の川で、政宗の城下町建設は広瀬川の治水から始まったといわれる。 広瀬川に幾つもの堰を築き、城下に都市用水を引いて格子状に屋敷割した城下町を設計、岩出山から武士や商人町人を移住させ、領外からも積極的に商人を誘致して戸数1万8百、人口5万2千の仙台が誕生したという。
 さらに東に広がる原野に水田用水路を巡らせて新田開発を推し進め、波の荒い仙台湾に注ぐ名取川と阿武隈川を結ぶ貞山運河を開削して物資の輸送と交易に活用、さらに北上川を改修して石巻港を江戸廻米の拠点となし、殖産産業にも注力した積極的な領国経営で、実質百万石といわれた仙台藩の基礎を築いた。

 本丸跡に建つ青葉城資料展示館に入ると、束帯姿の政宗の電飾画像が迎えてくれた。「遅れてきた英雄」と添え書きがあり、遺言どおり両目が描かれ、左上余白に晩年に詠んだ五言絶句が書かれていた(下絵図)。
「馬上少年過 世平白髪多 残軀天所赦 不楽是如何」



 酔余口号の題で、酒に酔った勢いで詠んだといわれるが、馬に乗って戦場を駆け巡るうち、少年時代は過ぎ去り、世の中も平和になり白髪が目立つようになった、残る老後は天も赦してくれるだろう、これから楽しまなくてどうしょう、という意味らしいが、最後の句が、楽しくないのはどうしてかという意味にも取れるという。
 平和な今が物足りないと言っているように思わせてくれるところが、政宗の底知れぬ魅力である。
 政宗の電飾画像に向き合い「戦国の世にJIS規格導入」と題した伊達家家臣の甲冑四領が展示されていた。
 天守台の政宗騎馬像の鎧は、黒漆塗りの五枚の鉄板で構成されて「黒漆五枚胴具足」と呼ばれ、運搬も組立も容易な実用的な具足で、政宗は家臣に同じタイプの具足を作らせていたという。まさにJIS規格である。
 政宗は、文禄元年の朝鮮出兵の出陣式に、この黒甲冑集団で行進した。紺地に金の日丸の幟30本、幟持は黒漆具足で後前に金の星あり、鉄砲100挺、弓50張、槍100本の足軽も同じ黒漆具足に朱塗りの太刀に金色の尖笠、馬上30騎は黒母衣に金の半月、馬に虎豹熊の皮を飾り黄金の太刀を帯びて、豪華絢爛な武者行列に、洛中の視者が「伊達者」と喝采を送ったのも頷ける。
 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に、徳川方の主力として参陣、道明寺の戦いで豊臣方の後藤基次を打ち破り、更に真田幸村と激闘を繰り広げたが、大阪城天守閣蔵の「大坂夏の陣図屏風」に、黒甲冑の伊達軍と赤甲冑の真田軍との対決が描かれており、実際の戦闘もさぞ壮観だったに違いない。政宗最後の戦さである。

 館内に政宗が岩出山から仙台に移転した際に千代の文字を仙台に改めた動機を詠った短歌が掲示されていた。

 「入りそめて 国ゆたかなる みぎりとや 千代とかぎらじ せんだいのまつ」

 入りそめてとは初入国の意、仙台城と仙台の町が永遠に平和に栄えるようにとの政宗の祈りが窺える、と説明書きにあったが、政宗はなぜ仙台と名付けたのだろうか。
 国分氏が享徳元年(1432年)に居城を築城した青葉ケ崎に、奥州藤原氏が創建した大満寺があり、虚空蔵城、虚空蔵館と呼ばれていたが、境内に千躰仏を祀ることから、国分能登守が千躰城に改名したといわれる。
 後に千体から千代と呼ばれるようになり、慶長6年に政宗が千代城跡に築城する際、虚空蔵堂と大満寺を広瀬川対岸の経ケ峯へ移設して、前漢の文帝が国の繁栄を願って西方に仙人達が集う宮殿「仙遊観」を建てたという故事にちなんで、政宗が「仙人の住む高殿」の意味で、千代の旧地名を仙台に改めたのだという。
 仙台城と城下町を結ぶ広瀬川大橋の欄干の擬宝珠に政宗が師の虎哉和尚に作らせた銘文が刻まれていた

「仙臺橋 仙人橋下 河水千年 民安国泰 敦与堯天」

 仙人が住むというこの橋の下、広瀬川の流れが永遠であるように、仙台の繁栄が末永く続き、民が安らかで国が泰平な政治を実現したい、古代中国の聖王堯の政治といずれが優れるだろうか、という意味らしい。

 18歳で伊達氏十七代当主を相続、父輝宗を犠牲に蘆名氏の会津を奪うが、小田原陣への参陣前夜に母義姫に毒殺されかけ、その原因となった弟小次郎を自ら刺殺、小田原陣への遅参で会津と仙道の旧領を召上げられながら、秀吉との三度の危機を巧みに乗越え、数ケ月前まで奥羽で会津の上杉景勝と戦い、春には家康の再東征と対上杉決戦を控えているこの時期に、政宗が仙台築城に平和な理想郷を夢見ていたとは、俄かには信じられない。
 23才で南奥羽の覇者となり、後世に独眼竜と恐れられ、生まれてくるのが遅かったといわれる独裁者的な戦国武将のイメージ強い政宗とは全く違った、私の知らないもう一人の政宗が目の前に現れていた。

 武人政宗に対比するように文人政宗の資料が展示される中、流麗な筆致の政宗自筆書状が掲示されていた。
 戦国大名の多くは右筆を抱えて代筆させているが、政宗書簡の約六割が自筆、その数は1000点を超えて筆まめ武将と評されている。次の書状の内容に惹かれた。
 「こちらへお越しになったということで、お目にかかることができれば、ご満足いただけるよう歓待いたします。今日わたしがお伺いすべきところですが(貴殿も到着したばかりですので)ご休息なさるのがよいと存じ、まずは日延べいたします。何様明日あたりわたしがお伺いして、賢意を得たいと思っております」
 セキレイ型公用花押の対外文書だが、署名に羽越前とあり、秀吉に羽柴姓を許された天正19年から家康に松平姓を許された慶長12年までの書状らしい。
 秀吉の奥州仕置で初上洛してから朝鮮の役、関ヶ原、そして大坂の陣の直前という激動の波乱な時代に、まだ30代の血気に逸る青年武将政宗が、細やかな心配りと思いやりに溢れた、人生を達観した好々爺を思わせる書状を認めていたとは驚きである。
 東北の地方区から全国区に登壇した政宗が、京と江戸を舞台に、筆まめ武将の本領を発揮して、交友関係を広げて新しい人脈作りに努めていたのであろう。
 後日、仙台在住の友人杉村氏から、亡父のコレクションにあったという政宗自筆書状の写を見せてもらった。
 京か大坂に住んでいた頃の茶人との交流を知る貴重な書状で、関白近衛信尹に仕えて後に政宗の家臣となる名村長吉宛てに「御帰宅の砌は、取り乱れ候事候て、残り多く候、今度は、さしたる御遊山もこれなく云々」と慌ただしく十分なもてなしもできず心残りですと書き送っていた。おもてなしの心こもった手紙を自筆で認め、関白の家臣まで自分の家臣にしてしまう、京の雅な茶人の間での政宗の人気ぶりが窺えてくる。

〈2〉本丸大広間の鳳凰絵図

 仙台城の本丸は、東西135間、南北147間、広さ約2万坪、四楼の門と四基の三重櫓を結ぶ多門長屋や木柵で囲まれ、郭内に大広間・大台所・書院などの殿舎が建てられ、天守閣はなく、中心的建物が大広間だった。
 柿葺き大屋根の大広間は、高さ約17M、縁側を含めると約430畳の広さで千畳敷と呼ばれ、桃山文化の粋を集めた聚楽邸方式の武家書院造り御殿であった。明治維新で大広間が破却され、残った城郭も昭和20年の米軍機の空襲により全て焼失してしまった。
 本丸大広間の礎石だけが並ぶ本丸跡の入口横に建つ仙台城見聞館に入ると、大広間の藩主が座する「上段の間」の床の間に描かれた鳳凰の絵図を、実寸大に復元した障壁画が、金銀彩色豊かに描かれていた(下図)。
 政宗に京から迎えられて仙台藩最初の御用絵師となった狩野左京(佐久間修理)の制作で、桃山期狩野派特有の濃絵は、華麗な政宗好みの世界なのだろう。
 明治に入り本丸大広間が取り壊された際に、上段の間の鳳凰の絵図は、つがいの鳳凰の部分だけが切り取られて、四曲一隻の屛風に仕立てられたという。
 見聞館の障壁画には、屏風に仕立てる際に剥がされて逸失していた周りの桐の大樹の部分も復元して、その枝の下に寄り添うツガイの鳳凰が復元されていた。

 鳳凰は古来中国で、麒麟・亀・龍と共に四瑞として尊ばれた想像上の瑞鳥で、その姿は種々の動物の特徴が組み合わされた姿に表され、五色絢爛で梧桐に宿り、竹の実をついばみ、醴泉を飲み、永遠の時を生き、聖徳の天子の兆しとして現れて、雌雄の対は愛情を現すという。



 中国画の伝統的画題の一つだが、古代中国の思想が日本に移入され、和様化されて、日本独自の鳳凰図が、吉祥の表現として定着するようになったのだという。
 鳳凰の障壁画を前にすると、京都二条城二の丸御殿の大広間に描かれていた巨大な老松が浮かんできた。後に将軍慶喜が諸侯を前に大政奉還する舞台となった、あの他を威圧するような襖絵とは、異次元の世界である。
 二条城二の丸御殿の完成は、寛永3年(1626年)で、既に幕府の威光が盤石な時代だが、仙台城の鳳凰絵図はそれより16年も前の慶長15年、未だ大坂城に豊臣秀頼が健在で、徳川幕府に抵抗する戦乱の炎燻る最中にあって、政宗が仙台の地に鳳凰の住む平和な世界を開こうとしていたとは意外だった。
 
 それにしてもこの鳳凰が霊鳥らしくないのはどうしてなのだろう。実在しない想像上の動物で、描く絵師によって違うのは当然だが、金閣寺や平等院の屋上に聳え立つ凛とした神聖な鳳凰とは違い、どこか仲睦まじく連れだって野原を散歩するつがいの温かさが伝わってくる。振り向いた牝は牡に何を囁き掛けているのだろうか。
 私には、幼く片目を失明して醜い容貌への劣等感に苛まれ、また父や母や弟そして妻と決して良好な家族関係だったとは言えなかった政宗の、屈折した複雑な心情の裏返しが投影されているように思えてならない。
 群雄割拠する四面楚歌の伊達家の命運を若くして託され、拉致された父輝宗を敵将もろとも銃撃させ、弟を溺愛する母義姫に疎まれて毒殺されかけ、無実の弟小次郎を自ら刺殺、実家田村家からの正室愛姫付き侍女たちを政宗暗殺の嫌疑で死罪にするなど、度重なる家族の悲劇を乗り越えて、22歳にして奥羽を制する大大名となり、戦国の乱世を暴れ回り独眼竜の異名を取った猛々しいイメージが、この大広間の空間には全くない。
 
 仙台城の資料展示館で出会った政宗は、未だ戦乱の渦中にある34歳ながら、新天地の千代を仙台に改名させ、仲睦まじいつがいの鳳凰を描かせた平和主義者であり、理想主義者であり、桃山文化に造詣深い教養人であり、文人、治世の人、である。
 政宗画像にあった酔余口号の「不楽是如何」は、平和な時代を迎えて花鳥風月を愛し狩猟を楽しみ余生をのんびり過ごしたいという思いを詠ったといわれるが、鳳凰の障壁画の前にしていると、仙台城を造営する頃に既に政宗は達観した老成の境地にあったようにみえてくる。

 屏風に仕立てられた「鳳凰図」の現物について、瑞巌寺に問い合わせると、宝物館に保管されており、常時公開はされていないとのことだったが、後日、東北歴史博物館に展示されるとメールで連絡をいただいた。
 この機会を逸する訳にはいかない。昨年10月、東北新幹線の仙台駅で乗換え、東北本線国府多賀城駅に下車、駅前の東北歴史博物館は、モダンで大規模な博物館である。旧石器から縄文、古墳時代、律令、中世、近世、近世へと、発掘資料から古文書資料、複製資料やパネル資料など東北の歴史が広範囲に網羅されて、興味は尽きなかったが、目的の「鳳凰図屏風」に直行した。

 高さ一間、幅二間程の四曲一隻屏風である。明治維新に取り壊される仙台城本丸大広間の障壁画から、ツガイの鳳凰の部分だけを切り取り、屏風に仕立てあげたもので、金箔地は黄土色に色褪せていたが、むしろ光沢のない色合いが純正な本物感を現出していた。
 仙台城見聞館の煌めくような復元障壁画では感じなかった、鳳凰の鬼気迫る鋭い眼光に射竦められていた。 鷹のような眼光、七面鳥の首のたるみのようなグロテスクな頸、緑青色の背中と頑強な骨格の肩羽と雨覆は鱗のように鮮やかで、シダの葉のような尾羽10本余りを吹き流しのように靡かせる姿は、どこかアンバランスで天を飛翔する美麗な聖鳥らしさが感じられない。
 屏風の右上隅に描かれた葉は確かに桐の葉のようで、鳳凰は桐の木にのみ巣を作るといわれており、鳳凰には違いないのだろうが、定型化された神聖な鳳凰とは違う、生々しい野鳥のような鳳凰に出会えた錯覚に捉われた。
 「鳳凰図屏風」の左隣に並んで展示されていた瑞巌寺本堂障壁画の「松孔雀図」に描かれている孔雀は、鶴のような長い首に、色鮮やかな目玉模様の長い尾羽を束ねた凛とした優美な姿態で描かれており、不細工な鳳凰を描いた同じ狩野佐京の作品とはとても思えない。
 鳳凰の絵図は、孔雀の障壁画が完成した元和8年(1622年)の12年前である。未だ大坂の陣を控えた混沌とした乱世の最中にあって、仙台と改名して平和を希求する困惑と緊張感が政宗にあったのかもしれない。
 
 実は、東北歴史博物館まで足を運んで鳳凰図屏風の現物を鑑賞してどうしても確かめたいことがあった。ネットで鳳凰の絵図を検索して見つけた、日光東照宮拝殿の将軍着座の間の正面額羽目に寄木細工で彫刻された鳳凰が、仙台城大広間の鳳凰と酷似していたからである。
 将軍着座の間の鳳凰の写真を片手に、目の前の鳳凰の各部位を見比べると、確かによく似ていた。二つのトサカと目付きと嘴の形状、グロテスクな頸回りとがっしりした骨格の翼角と翼羽の形状、右上に桐の葉を配した構図は、まるで模写したようである。



 日光東照宮の絵画装飾を担当したのは、狩野派絵師集団だが、将軍着座の間の鳳凰は、日光東照宮の各所に狩野派絵師が描いている鳳凰の優美な姿とは、明らかに異質で無骨な作風で、霊鳥の鳳凰らしくもない。
 私の想像は広がっていた。将軍着座の間の鳳凰の作者はもしかしたら仙台城の鳳凰を描いた狩野佐京ではないだろうかと。日光東照宮の造替は寛永13年(1636年)で、仙台城大広間の完成から26年後、狩野左京の没年は1658年、狩野左京の可能性は十分有り得る。

 政宗は、仙台城本丸の大広間に描かせた鳳凰の絵図を若き将軍家光に事あるごとに自慢気に語っていたのではないだろうか。鳳凰が聖君の治政に現れる由来を語り、日光東照宮の造替を機に、拝殿の将軍着座の間に相応しい絵模様として鳳凰絵図を推奨していたかもしれない。
 政宗は、秀忠が家康の遺言に従い廟所を久能山から日光に遷して簡素な霊廟を造営した元和三年の翌年に南蛮鉄燈籠を奉納していた。ポルトガルから鉄を運んで鋳造させたといわれるが、火袋の窓に支倉常長の家紋である逆卍が明けられており、政宗は家康と始めた遣欧使節派遣の偉業を秀忠に誇らしげに語っていたに違いない。

 その政宗が、祖父家康を崇敬する家光が日光東照宮を大造替する際にも、秀忠の時の南蛮鉄燈籠のように、東照宮拝殿に鳳凰絵図を奉納すべく、自分のお抱え絵師の狩野左京を日光に派遣したのではないだろうか。はじめ佐久間修理を名乗っていたが、その功績で狩野派の絵師と認められ、狩野左京の名を許されたのかもしれない。
 日光東照宮の絵画装飾を企画構成していたのは、幕府御用絵師の狩野探幽だったが、伊達の親父殿と呼んで慕い崇敬していた家光は、政宗の推薦する絵師を断れなかったのかもしれない。

 政宗は、寛永13年にその制定に尽力した寛永武家諸法度で制度化された参勤交代を自ら率先垂範すべく、病身に鞭打って第1回参勤交代を強行したが、その途中に完成間もない日光東照宮へ立ち寄り、大神君家康に詣でて、将軍着座の間に完成された鳳凰の絵にどんな思いで向き合っていただろう。政宗はその1ケ月後、江戸藩邸で70歳の生涯を閉じた。

〈3〉奥州王の伊達政宗

 仙台城見聞館を退出、本丸跡に整然と並ぶ礎石に、大屋根の本丸御殿の在りし姿を思い浮かべながら、本丸東側の広瀬川に面した断崖に向かった。高さ90メートル程の断崖は、浸食崩壊で築造時より17メートル後退してしまったという。崖淵に懸造り書院跡の看板があり、京都の清水寺舞台を彷彿させる崖にせり出した数寄屋風書院が描かれていた。まさに雲上の楼閣である。
 
 伊達治家記録の慶長14年7月24日の条に「政宗、御城懸造りの御座敷へ御出、総御鉄砲組のつるへ仰付られ御覧あり」とあり、眼下の広瀬川対岸で2キロ半に亘って足軽が次々に鉄砲を撃ち放つ、つるべ撃ちの光景はさぞ壮観だったろう。懸造りは、仙台城に天守閣を建てなかった政宗の、この地を仙台と命名して仙人の集う理想郷を演出しようとした象徴だったに違いない。
 政宗の仙台城に描いた理想郷は、奥州藤原氏の平泉に築いた仏国土の世界に通じるものだったかもしれない。
 平安時代後期に、京の中央政権による収奪の支配から解放された独立国家の建設を目指し、多くの命を奪った血生臭い戦いを終焉させ、平泉に中尊寺を中心に仏教寺院を建立して平和な極楽浄土の再現を願った奥州藤原氏初代清衡に倣って、政宗は奥州の戦乱の終焉と平和の招来を、仙台城の建設に掛けていたのではないだろうか。

 奥州藤原三代の夢の跡の平泉が、秀吉の奥州仕置で政宗の所領になると、かつての平泉文化の遺構に触れた政宗は、寛永九年に中尊寺に客殿を建立、金色堂を修復させて、藤原三代の棺を開いたといわれる。
 伊達氏が、奥州藤原氏と同じ藤原氏北家の流れとする伝承が、15世紀半ば頃には広く認められており、伊達氏が平泉政権の奥州支配を継承する正統性を主張して、平安時代から500年の時空を超えて、戦乱から平和を希求した藤原清衡の再来を自任していたのかもしれない。

 支倉常長の慶長遣欧使節が持参したスペイン国王宛て和文の政宗書簡に「奥州之屋形」とあり、スペインとローマ側の資料に「奥州(Boju Voxu)の王」とあるが、屋形と王は同意語で、政宗は、外国に対して奥州王を公言していたのである。
 慶長18年(1613年)に支倉常長を大使にした遣欧使節団の通訳と折衝役としてマドリードからローマまで随伴したイタリア人アマーティが著述した「伊達政宗遣欧使節記」に、奥州王に関わる記述がある。
 
 第一章「奥州国の広大さ」で「奥州王国は日本と称する本島の四分の一以上を占め、島の端、東北部にある」とあり、平安時代後期に奥州藤原氏が支配していた青森から白河までの広大な領域をイメージしている。
 第二章「奥州国王の家柄」で「公家最高位の近衛殿の一族の秀衡が、乱立していた奥州王国の領主となり、平和的に統治したが、二二年が過ぎた頃、謀反の首謀者を殺害した頼朝に内裏は皇帝の称号を与えたが、秀衡が自分の子らに牛若殿と好誼を保つよう言い残して亡くなると、二人の子が牛若殿を殺害して、頼朝は口実をもうけて彼らを殺害してしまう。頼朝が亡くなると、近衛殿が一族の山陰中将に奥州王国を引き継がせるが、中将の死で王国は分裂、300年を経てこの家系の領主が伊達氏を名乗り王国を回復させた」とあり、平泉政権、源平合戦、鎌倉幕府の成立、奥州合戦と平泉滅亡、藤原氏から伊達氏に続く歴史がほぼ正確に語られている。
 ローマ教皇に報告されることを意識してソテロがアマーティに語り聞かせたものだが、その内容はソテロが出国前に政宗からレクチャーされていたに違いない。
 伊達氏が、高貴で古い歴史ある公家最高位の藤原氏の家系であり、政宗が広大な東北六県を領する奥州王たる秀衡からの正統な継承者であると、政宗自身が口伝していたことを、我々はこの使節記で知ることが出来る。

〈4〉二つの伊達政宗像

 城郭がなく礎石だけの天守台に聳え立つ政宗騎馬像は、仙台城の唯一のシンボルである。
 私の子供の頃の政宗像は、白いコンクリート製の平服立像だった。戦前に政宗没後300年祭を記念して騎馬銅像が設置されたが、太平洋戦争下の金属類回収令で供出され、戦後の昭和28年に小野田セメントの協力で柳原義達制作の平服姿の政宗像が立てられた。
 柳原義達は、明治43年に神戸に生れ法隆寺の仏像に心打たれて日本画家から彫刻家に転向、東京美術学校を卒業した年に二・二六事件が勃発、日本が戦争に向かって突き進む中、放心的空間を彷徨っていたといわれる。
 学徒動員で出征した実弟が戦死、召集令状を受けて出発する日に終戦を迎えた義達は、戦争前後の体験によって、自嘲と空虚、割り切れぬ屈辱感、そして戦争の無意味さの自覚に生きて、戦争に対するアイロニーとレジスタンスの精神が、自己への芸術生活への支柱になっていったと語っている。政宗の平服立像には、義達の戦争への反省と平和への希求が込められていたに違いない。
 その後、高度経済成長期に市民から騎馬像復活の要望が上がり、槻木小学校の倉庫に残されていた石膏原型から騎馬銅像が復元され、昭和39年の東京オリンピック前日に除幕されて、平服立像は岩出山城址に移された。

 初代の騎馬像を製作した小室達は、明治32年に宮城県柴田郡槻木村に生まれ、旧制白石中学から東京美術学校彫刻科に進学、首席で卒業、帝展に出品して翌年には無鑑査となる。昭和8年に宮城県青年団から依頼を受けて仙台城に入城する政宗の騎馬姿を制作したという。
 仙台城本丸に建てられた昭和10年は、満州事変が勃発して中国大陸への進出に国論が燃えていた時代であり、勇猛な騎馬武者姿は軍国日本の戦意高揚に一役買っていたのだろう。そして戦後の復興期に制作された二代目政宗像は、平和日本の建設に向けた祈りが込められ、勇ましい騎馬姿ではなく平服姿が求められていたのだろう。
 政宗が仙台城築城に掛けた平和への希求を知ってみると、撤去されてしまった平服姿の立像の方こそ、ここに立つに相応しい政宗像だったのかもしれない。
 政宗は、戦後76年を迎える平和日本の現代に立つ自分の騎馬武者姿をどう思っているのだろうか。仙台城を訪れて政宗の勇壮な騎馬像にカメラを向ける観光客の中に、政宗が仙台開府に当たって平和を希求していたと知る観光客が如何ほどいるだろう。



【松島の瑞巌寺を訪ねて】

 平成30年9月、平成の大修理を終えた松島瑞巌寺を訪ねた。7年半前の東日本大震災では、押し寄せる大津波が松島湾内の島々による複雑な地形で減衰され、海岸沿いの商店街の津波被害は軽減されたが、内陸の瑞巌寺の山門の所で約1メートルの浸水があったという。
 鬱蒼と林立して厳かな雰囲気を作っていた約200メートルの参道の杉並木は、津波の塩害によって歴史を伝える太い幹が立ち枯れして約600本が伐採され、残る杉木立も枯枝おろしされて無残な姿を晒していたが、参道に新しく植えられた若木の緑が一際鮮やかである。

 瑞巌寺は、平安初期に慈覚大師の開創と伝えられ、鎌倉時代に臨済宗の禅寺として幕府の庇護の下に栄えたが、戦国時代に衰退した。江戸時代初めに伊達政宗の仙台開府に伴い、伊達家の菩提寺として慶長9年(1604年)から5年の歳月をかけて現在の大伽藍が完成した。

 政宗は、浄土の地といわれる紀州熊野から用材を求め、京都と根来から名工を招いて腕を競わせ、巨大な甍を連ねる本堂と庫裡の豪壮さと豪華絢爛な彫刻と彩色は、桃山建築と美術の精華であり、共に国宝に指定され、本堂を飾る161面の障壁画は、国重文に指定されている。
 10年かけた「平成の大修理」が完了して6月に落慶法要を迎えたばかりで、国宝の本堂が公開されていた。
 本堂廊下の欄間彫刻や室中への入口を画す唐戸は、創建当時のままで彩色が微かに残っていたが、本堂の襖群は、昭和60年からの復元模写制作事業により鮮やかな彩色で復元されていた。
 
 本堂の中心の室中「孔雀の間」は、法要が営まれる部屋で、襖絵には、金箔地に松と楓の下に羽根を拡げる雄と連れ添う雌の孔雀が描かれ、仙台城大広間の鳳凰を彷彿させてくれる。孔雀は、古来、害虫や毒虫を食べる喩えから、身辺の災いを駆逐して、心の迷いを食べ尽すともいわれ、欄間に彫刻された雲に舞う天人と共に、この部屋が此の世の浄土であることを表しているという。
 正面左右の襖絵に冬・春・秋の世界が描かれ、絵師は仙台藩お抱えの佐久間修理(狩野左京)である。当時主流だった狩野派の美術を京都で学んで伊達家大坂屋敷の絵仕事をしていたが、政宗の仙台開府にともなう絵画担当に登用されて来仙、仙台城本丸、大崎八幡宮、瑞巌寺など主要な襖絵を描いたといわれる。
 奥の仏間に政宗以下歴代藩主の位牌が安置されていた。仏間の政宗公位牌の戒名「瑞巌寺殿前黄門貞山利公大居士神儀」は、周知されている「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」と少し違っており、不思議に思っていた。
 後日、瑞巌寺のHPに問い合わせすると、宝物課主任学芸員堀野真澄師よりご丁寧なメールをいただいた。
 「違いが生じたのは、尊敬する人物の法諱(僧侶の実名)の上の字を落として呼ぶという禅宗の慣習によるもので、「貞山禅利」の「禅」字を落とすと「貞山利」となるが、大名ですので呼び捨てにするわけにはいかず「公」という尊称をつけて奉ったものと推察されます。 貞山禅利も貞山利公も同じです。
 位牌には生前の官位が刻されることが多くあり、禅宗では生前の官職を中国様式に改めて刻するという習わしがあります。政宗公は従三位にあり、これは中納言、黄門の位に該当することから「前黄門」と刻されています。
 政宗公御霊屋の仙台瑞鳳寺に祀られている位牌に「瑞鳳寺殿前黄門貞山利公大居士神儀」と刻されているが、位牌を祀る菩提寺と、遺体を祀る御霊屋が別な場合は、各々の寺院が戒名に刻されることもあります」という。
 三年前に伏見の伊達上屋敷跡に建つ海宝寺で拝ませて頂いた政宗公の位牌に「當山前地主仙臺太守瑞鳳寺殿故中納言貞山禅利大居士神位」とあったが納得である。

 隣の「文王の間」は、正面に中国歴史上理想の国家社会とされた周の建国者文王が造営した周都洛陽城の姿が金雲の間に覗かせ、右側の襖に従者達を引き連れた文王と太公望呂尚が描かれていた。
「文王の間」は伊達家一門の詰めの間で、結束して宗家をよく補佐して伊達家統治下の世が平和で繁栄したものになるよう知らしめる願いが込められているという。
 金箔が一面に貼られた襖に、鮮やかな多彩色で文王や従者たちの、それぞれの表情や仕草や衣服の文様が精妙な筆使いで描かれており、故事に詳しい長谷川等胤が招請され担当したという。等胤は、京都の智積院で拝観した国宝「楓図」を描いた長谷川等伯の高弟である。
 
 描かれる呂尚は、初め殷王朝の紂王に仕えていたが、堕落した無道な暴君に反発して出奔、いつか紂王を倒すため誰かが自分を求めてくるものと、釣り糸を垂れて待っていたという。釣り人の呂尚を見つけ出した文王は、呂尚を軍使に迎え、殷の紂王を滅ぼして周王朝を開いた。
 呂尚の兵書「六韜」に、天下を帰服させるには天下を君主一人の物とせずこれを万民と分かち合うこと、君主が愚かであれば政治は乱れて国を危うくする、国を治めるに最も大切なのは民を愛することに尽きる、とあり、文王は、呂尚の語る仁と徳と義と道に則った政治を行ったという。千代を仙台と改名させ、大広間に鳳凰を描かせた政宗は、文王の仁政に憧れていたのだろう。

「文王の間」の奥隣の「上段の間」は、藩主の部屋で特徴的な火頭窓の床の間と違い棚を備えた書院である。
 床の間に描かれた群青の池と老梅の絵図は、文王の間と同じ長谷川等胤が描いたといわれているが、翌十一月に京都に臨済宗妙心寺派大本山の妙心寺と雲居禅師の幡桃院を訪ねた際に立ち寄った特別展示中の聖護院門跡で、離れの書院の「お梅の間」に、この瑞巌寺上段の間の絵図によく似た構図の障壁画が描かれていた。
 聖護院の書院は、御水尾天皇(在位1611~29年)が女院のために建てた御殿で、延宝3年(1675年)に聖護院が京都の大火で焼失、翌年に烏丸上立売から当地へ移転再建された際に、御所から移築されたという。
 女院とは、皇后や内親王に宣下された称号、御水尾天皇の皇后になった秀忠の娘徳川和子(東福門院)の書院だったとすると、政宗が和子の入内に先立ち、元和5年(1619年)に上洛しており、和子用に建築中の女院御殿で絵作業する長谷川等胤を見染めて、松島に造営中の瑞巌寺の絵師に引抜いたのかもしれない。聖護院では狩野派絵師の作と言っていたが、瑞巌寺本堂の障壁画の完成は元和6年から8年、時期が符合している。

 上段の間の左側の一段高い「上々段の間」は、帝鑑の間と呼ばれ、天皇や皇族の御座所として、仙台城の大広間と同じく設営されたという。明治9年6月に明治天皇が東北巡幸の途次一夜をここで過ごされており、泉下の政宗も念願が叶って喜ばれていることだろう。 
 明治天皇東北巡幸の9年前に起きた戊辰戦争で、仙台藩は朝敵と見做された会津藩と庄内藩の赦免を嘆願する目的で結成した奥羽越列藩同盟の盟主となり、薩長中心の新政府に会津庄内両藩の恭順嘆願が拒絶されると、やむなく軍事同盟化して新政府軍と戦ったが、朝敵となった伊達家の菩提寺である瑞巌寺の一室で、夜を明かした若き明治天皇の心境は如何ばかりだったろう。

 本堂内の襖絵を一回りしながら、一昨年秋に訪ねた京都二条城で鑑賞してきた襖絵との違いに思い馳せていた。
 関ヶ原の戦いで勝利した家康が、将軍の上洛時の宿泊のために建てた二条城の二の丸御殿は、寛永3年(1626年)に完成されたが、虎と豹が描かれた襖絵に囲まれた遠侍の間、何枚もの襖に跨って描かれた巨大な松に囲まれた大広間は、将軍家の権威と繁栄を威丈高に叫び諸侯を平伏させて威圧する場として造営されていた。
 しかしその17年も前の、未だ戦乱収まらない慶長14年に竣工した政宗の瑞巌寺に描かれた世界は、諸侯や部下を威圧する世界ではなく、枯山水の幽玄な世界でも死後の極楽浄土の世界でもない、聖人君主の治世の実現を希求した政宗自身の現世の平和な世界であった。
 明治維新で破却されて今は礎石だけを残す仙台城の本丸に鳳凰を描かせた政宗の壮大な夢を、瑞巌寺の障壁画に見ることができることは幸いである。


【経ケ峯にホトトギスを求めて】

 仙台国際マラソン大会を走り、仙台城の天守台を散策した後、高さ17mの北壁石垣を見上げながら登城路を一気に駆け下り、大手門前でタクシーを拾い、仙台城の東側を蛇行する広瀬川河岸に半島状に突き出た対岸の経ケ峯の頂に造営された政宗の霊廟瑞鳳殿に直行した。 

 政宗が七〇歳の天命を全うする前年の寛永12年(1635年)7月、江戸から帰国した政宗は、母義姫の十三回忌に当り菩提を弔うため、覚範寺清岳宗拙和尚を開山に迎えて臨済宗少林山保春院を創建、翌13年4月18日に保春院の落慶式を終えたあと、ホトトギスの初音を聞きたいと経ケ峯に立ち寄り「死後この辺りに墓所を定めるように」と国老の奥山大学常良に命じたという。
 隻眼の政宗は、片目の万海上人の生れ替りといわれ、万海上人の墓がある経ケ峯に、政宗に生まれ替わった万海上人が、再び自分の墓に入る、と言ったのだろう。
 政宗は体調を崩していたが、その2日後に江戸へ出立、江戸に着いた翌5月の14日に江戸上屋敷で死去した。死因は食道癌と癌性腹膜炎といわれる。
 遺命によりご遺体は、束帯姿で木柩に納めて駕籠に乗せられ、生前そのままの大名行列で仙台に戻り、葬儀は覚範寺で清岳宗拙和尚導師のもと挙行された。
 政宗公のご遺体は、遺言に従い、経ケ峰に駕籠に乗った状態で墓室に埋葬され、翌14年に二代藩主忠宗が霊廟を造営して瑞鳳殿と命名、香華寺として瑞鳳寺が創建され、清岳和尚が開山として住職を務められた。
 
 瑞鳳寺前でタクシーを降り、経ケ峯に向けた参道を上ったが、両側の杉並木は、霊廟造営時に植えられ、樹高が25mに達して経ケ峰全体で47本、荘厳な霊域を醸し出していた。仙台藩の石高と同じ数だという62段の石段を踏み締めながら、シンとした静寂の中に嬉々と飛び交う小鳥の囀りに耳を澄ませ、特徴的なホトトギスの鳴き声を求めてみた。

 政宗は卯月に聞けるというホトトギスの初音を求めて経ケ峯にやって来たが、初音は聞けなかったという。翌日「鳴かずとも何か恨みん郭公時も未来の夕暮れの空」と詠んでその翌日、江戸に向けて旅発った。残り少ない命を知ったかのような淋しい意味深な歌である。
 ホトトギスの漢字は、時鳥・霍公鳥・郭公と数多くあり、大伴家持が万葉集に「あしひきの山も近きを霍公鳥月立つまでに何か来鳴かぬ」と詠んで、毎年同じ時期に渡来して鳴くことから時を告げる鳥といわれ、卯月(旧暦四月)に夏の始まりを告げる朝一番の初音を聞くことが風流なこととされていたという。
 花鳥風月を愛する風雅の人として政宗はホトトギスの初音が聞きたかっただけなのだろうか。病躯を押してまで聴きに来た特別な思いがあったのではないだろうか。

 佐々木信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に「卯の花の匂う垣根に時鳥早も来鳴きて忍び音漏らす夏は来ぬ」と歌われ、ホトトギスが夏を迎えて初めて鳴く声「初音」を声を潜めて鳴くことから「忍び音」ともいわれたという。
 和泉式部日記に「時鳥世に隠れたる忍び音をいつかは聞かん今日も過ぎなば」と、忍ぶ恋の相手を時鳥に見立て、今日(4月30日)が過ぎてしまうと貴方の人目を忍ぶ姿が見られなくなる、明日に公然と会えても意味はない、今宵のうちに会いに来て欲しい、と詠っている。
 母義姫の十三回忌法要と菩提寺保春院の落慶を無事に終え、経ケ峯に時鳥の初音を聴きにきた政宗は、かつて確執のあった母をホトトギスに見立て、2日後には江戸に発つ、老いて病んでいる自分はもう二度と仙台には帰れない、今日いま、あなた(母)の忍び音をぜひ聴きたい、和泉式部の歌心で呼び掛けていたのかもしれない。

 天正18年(1590年)4月5日、小田原参陣の前夜に母による政宗毒殺未遂があった。弟を擁立して自分を毒殺しようとした母に手を下すわけにはいかない、お前の存在が悪いと、政宗は弟小次郎を自らの手で刺殺したという。居たたまれなくなった母義姫は、実家の山形最上家に出奔したが、30年後に最上家が内紛で改易されると、行き場の無くなった母を政宗は仙台に引き取った。その翌年に仙台で死去、76歳だった。
 自分を憎み殺そうとしたといわれる母を、なお思慕し続ける政宗の苦悩と心の優しさが見えてくる。政宗が仙台に下向するたびに経ケ峯に聴きに来ていたのは、亡き母の「忍び音」だったのではないだろうか。
 ホトトギスは、自分では子育てせず、ウグイスの巣に托卵する習性があり、やむなく託卵して孵化した我が子を求めて鳴くホトトギスと、捨てた我が子に懺悔する母を重ね合わせていたのだろうか。
 ホトトギスは魂迎鳥の別名を持ち、冥土を往き来する鳥ともいわれる。病魔に侵されて死期を感じていた政宗が、哀れな亡き母を思慕する思いを魂迎鳥のホトトギスに託そうとしていたのかもしれない。



【政宗の霊廟:瑞鳳殿を訪ねて】

 ホトトギスの鳴き声を求めながら、杉並木の参道の石段を上り詰めると、瑞鳳殿を囲う豪華な飾り彫刻の涅槃門が森の中に現れた。涅槃門の横からかなり急な石段を登ると、両側に家臣が一周忌に奉納した九基の石燈籠が並んでいた。当初15基あったが、瑞鳳殿が焼失した昭和20年の空襲で6基が破壊紛失したという。
 黒漆塗りの唐風造り拝殿を潜ると、黒と赤を基調に金と漆を多用した本殿が、薄暗い森の中に眩いばかりである。正面中央の棧唐戸に伊達家家紋の竹に雀と九曜文が金細工の透かし彫りで、正面左右の花頭窓に平和を告げるツガイの鳳凰が、周囲に桐が彫刻されていた。
 宝形造の軒下に極彩色の彫刻が施され、四面の欄間に向かい蝶のデザイン模様が帯状に描かれ、その下に楽器を奏でる12人の天女が瑞雲に飛翔していた。
 瑞鳳殿は、桃山様式の建築で、昭和6年に国宝に指定されたが、昭和20年7月の仙台空襲で焼失した。昭和49年に瑞鳳殿跡の発掘調査が行われ、政宗の遺骨や副葬品が出土、昭和54年に焼失以前の瑞鳳殿を範に色褪せた古色仕上げで再建された。
 平成13年に仙台開府400年を記念して大改修工事が行われ、柱に彫刻獅子頭を、屋根に竜頭瓦を復元、極彩色も再現して創建当時の姿が蘇ったという。
 瑞鳳殿本殿の扉は閉ざされ、衣冠束帯の政宗公の木造座像を安置する宮殿形の豪華絢爛な装飾の厨子を拝することは出来なかったが、観光客が誰一人いない静けさの中で瑞鳳殿に眠る政宗に合掌した。



 隣接する瑞鳳殿資料館に入ると、空襲で焼失した霊屋が再建される際に行われた発掘調査の模様がビデオ放映されていた。約340年を経て開かれた政宗の墓室から完全な遺骨と数多くの副葬品が発見され、調査終了後に遺骨と副葬品は再び墓室に収められたという。
 墓室は、凝灰岩の切石32個で造られた石室に、政宗の遺体を容れた小判形座棺を載せた葬式用素木の駕籠が収められ、棺桶には防腐剤として牡蠣灰の石灰が詰められて、遺骨の保存は良好だったようである。
 
 資料館には頭骨や副葬品のレプリカが展示され、鉄黒漆五枚胴具足や金梨子地桐葵紋蒔絵糸巻太刀のほか文人政宗を彷彿させる筆や墨や硯の文房具、生前愛用していた黒漆絵箱類や蒔絵香合、継げば70㎝になる煙管、携帯用の日時計兼磁石に政宗の息遣いが伝わってくる。
 特にヨーロッパからの伝来品と思われる金製ブローチ、銀製服飾品、鉛筆、筆入のガラス板は、来仙したスペイン大使ビスカイノの贈り物であろうか、遣欧使節支倉常長の土産品であろうか。政宗が70歳に達してなおヨーロッパ文化に愛着を示していたとは感動ものである。
 金製ブローチが禁制のキリシタンと誤解されるロザリオだとしたら、キリシタンといわれる長女五郎八姫の愛用品で、遣欧使節派遣という父政宗の遠大な夢の証として、旅立つ父の柩に納めてあげたのかもしれない。

 発掘された政宗の頭骨を元に復元された政宗の容貌像が展示されていたが、長頭型で面長、鼻筋が高く現代的な凛々しく臨場感がある。若くして伊達家当主となり、南奥羽を制圧した波瀾の人生を送った政宗に黙礼した。
 幼少時に疱瘡で片眼を失明して映画やテレビに見る政宗は、刀鍔眼帯姿の勇ましい独眼竜政宗だが、頭骨から復元された容貌像には両眼が入れられていた。
 瑞鳳殿に安置されている政宗公の木造坐像も、天守台に建つ騎馬像も松島瑞巌寺の甲冑像も仙台市博物館所蔵の肖像画も、両眼が入れられており、政宗は後年、自分の肖像を描かせる時には、必ず両眼を入れさせるよう遺言までしたといわれている。
 片眼の醜い顔立ちが母義姫に忌み嫌われた理由であろうか、母の溺愛する弟小次郎を殺害してしまう政宗には終生コンプレックスだったのだろう。そのコンプレックスがあったればこそ、文武両道に秀でた政宗に自分を成長させて行けたのかもしれない。

 政宗の頭蓋骨の複製を前に、つい眼窩に視線が行ってしまう。失明した右眼窩は綺麗な円形だが、外傷らしき痕跡はなく、左眼窩の方が気持ち縦長に大きくみえた。
 幼く隻眼となった政宗が左眼を大きく見開いて、成長と共に左眼窩が大きくなったのだろうか。対面していると睨み付けられているような威圧感を抱いてしまう。
 政宗の失明は、5歳の時の疱瘡によるといわれているが、政宗が木の枝で眼玉をえぐり掌の上にのせて母に申し出たとか、失明した醜い眼玉を小姓の片倉小十郎に短刀でえぐらせたという逸話があるが、いずれも後世のカリスマ独眼竜政宗誕生の寓話なのだろう。

 瑞鳳殿資料館を出て、更に森の奥に進むと、二代藩主忠宗の感仙殿、その左隣に三代藩主綱宗の善応殿が並んでいた。いずれも仙台空襲で焼失、瑞鳳殿の再建に続いて昭和60年に豪華絢爛な霊廟が再建された。
 感仙殿の右隣は、霊廟ではなく墓石だけである。当初は霊廟三棟を予定していたが、四代藩主綱村が豪華絢爛な霊廟建築を廃して墓碑だけの薄葬を命じたという。
 周りがすっかり薄暗くなり、時計は17時を回っていた。職員さんから急かされるように墓域を退出した。
 
 仙台城と瑞鳳殿の探訪を終えて、仙台駅に戻り駅のロビーに入ると、聞き覚えのある音楽が流れてきた。
 仙台フィルハーモニー管弦楽団の「杜の都コンサート」で、グリーグのペールギュント「オーゼの死」を演奏していた。椅子を片付けていた係員が、次回のリハーサル中ですと言っていた。ペールの母オーゼが死にゆく場面で奏でられる名曲である。瑞鳳殿に政宗の死を訪ねてきた直後だけに美しく悲しいメロディーが心に響いた。
 政宗を訪ねる旅の終わりに相応しい追慕の音楽が、新幹線の座席に着いてからも耳元で奏でられていた。

 後日、仙台市教育委員会発行(昭和55年3月)の「経ケ峯―総合調査報告書―」に掲載された「瑞鳳殿発掘調査概報」の中に、興味深い報告があった。
 「棺中に納められた政宗の遺体は東向き、すなわち参道のある西の方から詣でる参詣人に背を向ける姿態で発見された。普通ならば参詣者の方に向かって西向きに埋められるのが当然である。これはまだ瑞鳳殿の建たない埋葬時にはこの方が自然であったのかもしれない。
 政宗が寛永13年4月にこの地に立って、ここを自分の墓地にしたいと言ったのは、東に仙台の街を一望の下に眺め得るため地の眺望を愛したためであろう。現在の瑞鳳殿は杉の下老に囲まれて眺望がきかないが、当時は灌木林であったから、東方遥かに太平洋まで見えたはずである。東向きに遺体を安置したのは政宗の心にそったものというべきであろう」 
 龍のように蛇行する川で作られる半島状の場所に祖先の墓を造ると、その国を守る神になるといわれている。
 死期を迎えた政宗は、蛇行する広瀬川に突き出た経ケ峯の頂に立ち、自ら開府した仙台城下を眼下に、太平洋の彼方に遣欧使節を送ったヨーロッパへ思いを馳せ、仙台の守護神たらんと己の墓をこの地に定めたのだろう。



【日比谷公園に政宗終焉の地を訪ねて】

 2015年6月に宮城県出身者の団体「みやぎ夢フォーラム」のイベント「皇居ウオーキング会」で、日比谷公園内にある政宗終焉の地を訪ねた。
 日比谷公園の有楽門から入った心字池の傍に、仙台市が立てた「仙台藩祖伊達政宗終焉の地」の案内がある。
 案内には「ここは、仙台藩祖伊達政宗から三代綱宗の時代、仙台藩の外桜田上屋敷があったところである。 慶長6年(1601年)、政宗は徳川家康より江戸屋敷を与えられ、外桜田の屋敷は寛文元年(1661年)まで上屋敷として使用された。その敷地は、東西は心字池西岸から庭球場東端まで、南北は日比谷堀沿いの道路から小音楽堂付近まで広がっていたものと推定される。 政宗の時代は、徳川家康が三度、二代将軍秀忠と三代将軍家光はそれぞれ各四度ここを訪れ、もてなしを受けたことが記録に残っている。政宗は江戸参勤の折、寛永13年5月、ここで70年の生涯を閉じた」とあった。 

 案内に従って公園内のテニス場から小音楽堂を回ってみたが、後日地図で測ってみると、東西160m、南北200m、約一万坪はあろう広大な敷地である。
 『正保元年(1645年)御江戸繪図』(下図)を見ると、江戸城東側の内濠と外堀通りの間の大名小路郭(丸の内と大手町)に老中や若年寄など幕閣の譜代大名の武家屋敷が配置され、江戸城南側の内濠と外堀通りの間の外桜田(日比谷と霞ヶ関)に主要な外様大名の上屋敷が配置され、外桜田から大名小路郭に入る日比谷口を守護する位置に、松平奥州(伊達氏仙台藩邸)があった。
 御江戸繪図(下図)の「松平奥州」の西隣に「松平長門(毛利氏萩藩邸)」と「上杉弾正(上杉氏米沢藩邸)」の屋敷が日比谷濠に沿って並んでいた。
 関ヶ原の戦いで家康に敗れて中国八国から周防と長門の二国に減封された西軍総大将の毛利輝元の屋敷と、石田三成の挙兵に呼応して家康に敵対して東北の関ヶ原で政宗と戦い、会津から米沢に移封された上杉景勝の江戸屋敷が、政宗の屋敷と並んでいたとは驚きである。
 この絵図の作成された正保元年は、江戸市街の大半が焼失した明暦大火(1657年)の12年前である。慶長6年に家康によって屋敷割りされた状態のままだとすると、昨日まで家康に敵対していた西軍主役の二人の屋敷を、政宗の屋敷の隣に配置させた家康の狙いは何だったのだろうか。粋な差配とでも云うのだろうか。
 関ヶ原直後の未だ大坂城に豊臣秀頼が健在な時期であり、豊臣恩顧の外様大名の妻子を人質同然に住わせる外桜田上屋敷の目付役として、政宗を配していたのだとしたら、家康が政宗をいかに信頼していたかが見える。



 政宗は、寛永12年(1635年)7月に母保春院の十三回忌法要のためいったん仙台に帰国、翌13年4月に母の菩提寺保春院の落慶式を済ませて仙台を出立、途中日光の東照宮に参詣して江戸に着いたのが4月28日、5月1日に江戸城へ登城して将軍家光に謁見した。
 外桜田の江戸上屋敷で家光の見舞いを受けた3日後の5月24日、参勤して1か月足らずで外桜田の江戸上屋敷で、政宗は七〇歳の波瀾の人生を閉じた。
 仙台に帰国する前年から政宗は体調を崩していたといわれ、病状を悪化させて死期を早めるリスクを冒してまで、片道360キロの仙台往復を強行していた。
 小田原参陣直前に起きた母による政宗毒殺未遂事件と弟小次郎刺殺事件で、母義姫との間に長く確執があったといわれるが、乱世の時流に流された哀れな母を悼む想いが、政宗に強行日程を強いたのかもしれない。
 病躯を押してまで江戸に戻り、江戸で終焉を迎えた政宗の強い思いとは、一体なんだったのだろうか。母の十三回忌で仙台に戻ったまま、残された時間を静かに送ろうとはしなかったのだろうか。
 
 政宗の死去する前年の寛永12年、将軍家光が武家諸法度を改訂していた。家光が諸大名の前で参勤交代制を含む武士諸法度寛永令を発布して「今後は諸大名を家臣として遇す」と述べると、政宗がいち早く進み出て「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出たため、誰も反対できなかったという。そして家光は、下城する政宗に護身用に十挺の火縄銃を与えた、という逸話が伝わっている。
 家康の時代の参勤交代は、天下を掌握した徳川将軍家に対して、妻子を人質として江戸に住まわせ、参勤して将軍に参府の挨拶をする自主的なもので、その後、秀忠の武家諸法度(元和令)で、従者の人数を制限する程度の改訂はあったが、強制的な参勤制度ではなかった。
 しかし家光は、寛永12年6月21日に更なる大名統制強化のため、武家諸法度(寛永令)を発令して第二条に「大名小名在江戸交替所相定也、毎歳夏四月中、可致参勤」と定め、東西大名の入れ替わり隔年参勤交代を制度として明文化、義務付けたのである。
 参勤交代は、従前の将軍に忠節を尽くす意味から、将軍に対する服属を意味するものに変質、主君に対する家来としての奉公の一つと定められ、家康から三代続いた大名を統制する武断政治の総仕上げでもあった。
 
 これまで政宗と共に戦国の乱世を生きてきた戦国大名は、家康、秀忠、上杉景勝、毛利輝元、加藤清正、福島正則、島津義久、池田輝政、最上義光、ことごとくが幽明境を異にして、残るは政宗ただ一人となっていた。
 戦国大名から近世大名に変貌してなお徳川幕政の御意見番として厳然たる存在感を呈していた政宗は、家光の定めた参勤交代の完全遂行こそ、幕府の威光を盤石なものに、戦さなき永遠の平和構築のため、自分だけに出来る最後の使命と覚悟していたに違いない。
 自ら病躯を押して老骨に鞭打ち、寛永令発布最初の参勤を率先垂範、将軍家への絶対服従の範を示せば、譜代も外様も皆これに従い、天下泰平もゆるぎないものになると、命を賭した最後の御奉公を完遂したのであろう。

 家光は、崇敬する祖父家康が後事を託した政宗を「伊達の親父殿」と慕っていたといわれるが、弟忠長を溺愛する母お江に疎まれた自分を、弟小次郎を偏愛する母義姫に嫌われた政宗と重ね合わせていたかもしれない。
 そして父秀忠と確執があったともいわれており、父に求め得なかった父と子の情を、家光は政宗に求めていたのかもしれない。
 寛永令で定めた参勤を率先決行した政宗の決意と思いが家光に伝わったのだろう。薨った政宗を送った家光は江戸で七日、京都で三日、服喪するように命じた。
 御三家以外では異例なことだったという。家光にとって政宗の死は、大きな喪失だったに違いない。

 政宗の辞世の句である。
「曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照らしてぞ行く」

 何も見えない闇の中を月の光を頼りに進むように戦国の先の見えない世をひたすらに歩んだ一生だったと回顧しながら心穏やかに旅立つ政宗の姿が浮かんでくる。             


太平洋戦争で徴用された初代騎馬像の上半身部分が幸いにも残されており仙台市博物館の裏庭に飾られている。


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