歴史と文化の路を訪ねて

季刊同人誌「まんじ」に投稿した歴史探訪紀行文を掲載しています。

私の本州マラソン歴史紀行(関東編②ー1《群馬県》)

2023-05-01 21:48:58 | 私の本州マラソン歴史紀行
【群馬県①:日本産業革命の原点を訪ねて】

【富岡製糸場と女工哀史】

2007年3月の地元埼玉県深谷市の初マラソンを皮切りに、県内大会から近県大会に参戦、残る群馬県の大会を走れば、関東・東北・甲信越のJR東日本全県を走破することになる。走り始めて4年目を締め括る2010年12月の大会に、群馬県富岡市で開催される群馬サファリ富岡マラソン大会にエントリーした。
富岡市を選んだのは、現在、ユネスコ世界遺産登録を運動中の日本産業革命の原点といわれる富岡市の「富岡製糸場」をぜひ一度訪ねてみたかったからである。
黒船来航で徳川幕府の太平の時代は終焉を迎え、幕末から明治に激動の時代の中で、欧米列強の植民地主義の
脅威に対抗して近代国家に変貌する富国強兵策を支えたのが、生糸絹製品の輸出を中心とする殖産興業であり、富岡製糸場は、その製糸業の大規模な近代的製糸工場として建設された日本最初の官営工場である。
明治5年に操業開始した富岡製糸場は、フランス人技師の指導で器械製糸の技術を導入した官営模範工場で、生糸の大量生産と品質の安定化を実現、その製糸技術は全国に伝授され、生糸を輸出産業の花形として明治から昭和初めにかけて外貨の半分を得る産業に育て上げた。
アジアの小国日本が、世界の大国である中国とロシア相手に日清日露戦争を勝利した帝國海軍の外国製戦艦が生糸貿易で得た莫大な富のお陰と言って過言ではない。
しかし殖産興業の柱となった近代的製糸紡績工場の発展の裏に、大正14年に刊行された『女工哀史』で世に暴かれた暗黒の時代があったことを忘れてはなるまい。
1979年に山本茂美原作の『あゝ野麦峠』が、山本薩夫監督で映画化され、飛騨の寒村から生糸工場の信州岡谷へ雪深い野麦峠を行軍のように進む娘たちのシーンで始まり、貧農の娘達が人身売買同然に工場に集められて、虫けら同然の劣悪な職住環境の中で、過酷な労働の末にやがて病に侵され、兄に背負われて故郷飛騨に戻る山中で息を引き取るラストシーンは余りに悲しすぎる。
日本産業革命の原点と称えられながら、あゝ野麦峠の暗い時代が結び付いてしまう富岡製糸場を訪ねて、どんな感想を抱くのか、不安でもあり楽しみでもある。

【群馬サファリ富岡マラソン大会(2010年)】

11月に岩手の奥州前沢マラソンと茨城の坂東市将門マラソンのハーフを2週連続で走った自分へのご褒美に少し長めの休養を取ったことが災いしたのか、そろそろ群馬富岡マラソン10キロに向けてトレーニングを始めようとした矢先、ギックリ腰を再発させてしまった。
2週間程でようやく軽いジョッキングが出来るまでに快復したが、いつギクッと来るか分からず、爆弾を抱えたような起居の毎日である。昨日は、腰を庇いながら久方ぶりのテニスを楽しんで忘年昼食会に、夕刻には新しく参加した地元合唱団のクリスマス会に出席、酒気が抜けぬまま、朝早くに群馬サファリ富岡マラソンに向けて出立した。これで関東全都県のマラソン走破である。
夜明け前の薄青い中空に光1点の金星が煌いていた。金星探査機「あかつき」が姿勢制御不能で周回軌道投入に失敗、6年後に再接近する機会を待つとニュースで言っていたが、この宇宙のどこを浮游しているのだろう。
大宮で高崎線に乗り換え、1時間程で左手に上州の山並みが連なり、遥か前方に真っ白な浅間山の頂がモンブランのように見えてきた。高崎駅で下車すると多くの登山姿を見かけたが、妙義山や水上方面に向かうのだろうか。私のようなマラソン姿はどこにも見当たらない。
甘楽郡下仁田駅を終点にする上信電鉄の窓口で、富岡製糸場見学往復割引乗車券を購入、長椅子の座席にもたれながら、車窓に中腹まで雪に覆われた雄大な浅間山を眺めるうち、30分ほどで上州富岡駅に着いた。

降り立つ僅かな乗客の中にやはりマラソン姿はなく、富岡市商店街にマラソン大会の幟も見えず、気負っているのは自分だけのようで、流石に心細くなってきた。
大会会場の高瀬小学校までの途中にある富岡製糸場に立ち寄ってみた。巨大な煙突を頼りに住宅街の中を巡ると、長く連なる塀に囲まれたレンガ造りの巨大な建物群の屋根が見えてきた。写真によく見る繭倉庫であろうか。
小樽や横浜の赤レンガ倉庫を前にした時の異国情緒の感動が甦ってきた。こんな田舎になぜこれほどの大規模工場を建てたのだろうか。塀の外を迂回していると崖の下に鏑川が見えてきた。上州の山並みと変化に富んだ河川の美しい景観に思わずシャッターを切った。
暖かい陽射しと上州特有の刺すような空っ風を頬に受けながら、モダンな大橋を渡り切ると、道端の椅子に掛けて仲良く日向ぼっこしていた老夫婦からいきなり「おはよう!」と声を掛けられ、意表を突かれたが、心温まる今日一日を予見する出来事のようで嬉しくなった。
上州富岡駅から50分ほど歩いただろうか。マラソン会場から流れるアナウンスの声が風に乗ってきた。地元小学校の校庭が会場で、さながら学校の運動会の様相である。既に中学生の3キロレースが始まっていた。

受付でゼッケンカードと参加賞として、大会Tシャツに地元特産の下仁田ネギと生シイタケとコンニャク、そのうえ群馬サファリパーク招待券2枚が入っており、参加費2000円の割には得した気分である。
今日のウエアは、12月のクリスマスにあやかり浦和レッズの赤シャツと赤キャップにした。少し派手すぎたかもしれないが、誰も知る人はいないだろう。用心のため腰痛ベルトを腰に巻き、ゆっくりと学校の周囲を走ってみた。腰に震動もなく何とか行けそうである。
我々10キロは、大会最後のレースだった。総勢300人が校庭中央の出発地点に集合した。スタート時間が迫ってくると腰痛再発の不安が襲ってきた。軽く走る分には心配なさそうだが、いざ本番になるとつい頑張ってしまう自分をよく知っている。先月の茨城の将門ハーフ以来、この1ケ月に自主トレしたのは5キロを1回だけ、しかも帰路は腰が不安で歩いてしまった。
これまでこんな不安な心地でスタートに立ったことはなかったが、とにかくスターはしよう。もし駄目なら途中棄権すればいい。腰痛再発なら動けなくなるのだから頑張りようもない。諦めるしかない。無意識に手が腰にまわり、腰痛ベルトをきつく締め直した。

11時丁度にスタート、300人の集団はかなり速いペースで校庭を飛び出した。左右に広がる田園風景の中をひたすら西に向かって快調な滑り出しである。腰に震動が伝わらないよう、足裏全体で着地する裸足走法を意識しながら走ってみた。最初の1キロが5分17秒。これはまずい。速すぎる。追い抜かされるのを承知で少し自重しよう。なんとか走れそうだが、無理は禁物だ。
前方に奇怪な形の妙義山や荒船山の勇壮な姿が見えていた。上州の山地を走っている実感が湧いてきた。南に左折してやがて山道に入った。阿武隈川流域の羽出庭街道に似た風景が左右に広がってきた。安倍一族の末裔を訪ねて走った思い出が去来した。この土地にはどんな歴史があるのだろうか。1キロもない上り坂だが、走り込み不足が露呈して呼吸はさすがに苦しくなっていた。
ようやく平坦な国道に出て東に左折した。足もだいぶ慣れてきた。距離標識が見えず確かなラップは分からないが、いいペースで走れている。道標の「額部」という珍しい地名に、古代氏族の息吹を感じながら、4キロの標識で22分23秒。キロ5分30秒はいつもと変わらないペースで、腰の様子は心配なさそうだ。
この右手奥に大会冠名の群馬サファリパークがあるらしい。今日は走り終えたあと富岡製糸場を見学する予定でサファリパークには立ち寄れないが、いつか孫たちを連れて野生の猛獣と戯れたいものである。

まもなくコース唯一の給水所。余力もあり足を停める暇も惜しく給水をパスしたが、これが後になって苦しい走りの要因になった。5キロ地点で27分32秒。もしかしたら10キロ55分が切れるかもしれない。スタート時点では最後まで走れるか不安だらけだったが、今はタイムを考えているのだから現金なものである。
この辺から前方のターゲットを定めて追い掛ける意欲的なレースになってきた。やがて六キロ付近を北に左折すると、遮蔽物のない田園風景が広がり、ますます陽射しが暑くなり発汗も激しく、赤城下ろしであろうか、空っ風がまともに吹き付けて乾燥で喉がぜいぜいと苦しくなってきた。喉を湿らせたいが、給水所はさっきの一ケ所だけ。唾液を飲み込みながら喉を湿らせるしかない。
遥か前方に峻険な妙義山の山並みが見え、その右横に真白のモンブランのような頂を見せる浅間山の姿に心を癒しながら、7キロ地点で38分11秒と、キロ5分20秒で走れていた。8キロ付近で左折して、いよいよゴールまでの最後の頑張りである。しかしさすがにここにきてペースは落ちてきた。この1ケ月間の走りが5キロ1回だけという走り込み不足が露呈してきた。
 
沿道の子供達の声援に力をもらいながら、なんとかキロ6分を切るペースをキープ、先ほどから距離を詰めてきたターゲットにようやく追いつき、余力を残さず全力を出し切り思い残すことのない今年最後の走りをしようとゴールを目指した。会場から流れるアナウンスが徐々に大きくなり、大勢の声援に包まれた小学校の校庭に走り込み、数人の若者に追い抜かれながらついにゴール、腰痛の不安を払拭して、今年最後の大会を無事完走した安堵感に心の中でガッツポーズが出た。
タイムは55分13秒。記録証には、男子40歳以上で96位、3分の2の順位だから66歳としてはよく頑張った。差し出されたビタミンドリンクとお汁粉で乾き切った喉を癒して体育館に戻り、ぐっしょり汗にまみれた腰痛ベルトに感謝しながら着替えを始めた。隣で着替えていた見知らぬ年配ランナーに声掛けして互いに健闘を称え合い、いつになく雄弁になっていた。

【富岡製糸場を訪ねて】

マラソン会場を後にして、鏑川を渡った東屋で暖かい陽射しを受けながら軽い昼食をとり、いよいよ富岡製糸場である。正門を入ると、正面に明治五年に建設された木骨レンガ造りの巨大な繭倉庫が現れた(下の写真)。


長さ100mはあろう繭倉庫の前の広場に、個人参加の20人以上が集まるとガイド付き約1時間の場内案内が成立するということで、観光客の列に紛れ込んだ。
ここ富岡製糸工場の設置主任が、日本の近代経済の基礎を築いた渋沢栄一である。渋沢は埼玉県深谷の農家に生まれ尊皇攘夷思想の影響を受けて高崎城乗っ取りを計画、挫折して京に上がり、やがて一橋慶喜の家臣となり、将軍になった慶喜の弟昭武に随行して渡欧、パリ万博や欧州先進国を見聞する機会を得て、明治維新で帰国するや大蔵省官僚として諸改革の企画立案を担当、官営製糸工場の建設に当たり農家出身で養蚕・製糸に明るい渋沢栄一が選ばれたという。後に渋沢は、多くの業界の大企業設立に関わり、日本資本主義の父と言われた。
目の前に聳える木骨レンガ造りの工場は、明治大正のロマンの香りを漂わすが、当時はまだレンガ職人なるものが存在しない時代で、渋沢が自分の出身地である埼玉県深谷の瓦職人達を集めて赤レンガを焼かせたという。 倉庫の壁面を覆おうように積み重ねられた赤レンガの所々にずれを見つけたが、江戸時代が終焉したばかりで近代化の波から遠く離れた群馬県の片田舎で、見たこともない洋風なレンガ造りに取り組んでいる慣れない手付きの瓦職人達の息吹が伝わってくる。
日本初の官営製糸工場の立地要件には、江戸中期から養蚕が盛んで原料繭が大量に確保できて輸送手段未発達な時代に原料産地直結の利便が図れること、工場建設用の広大な土地が用意できること、製糸に必要な大量の水と燃料用石炭が近くに確保できること、などが求められており、これらの要件を満たす群馬県の富岡が工場建設地に選ばれたとガイドさんは解説していたが、大蔵民部省改正掛長の職権を使った渋沢栄一の地元利益誘導の誘致事業だったのかもしれない。

繭倉庫から乾燥場・繰糸場へ工場内を移動しながら、ジョークと質問を交えるガイドさんの解説が実に楽しく久方ぶりに研究授業を受ける生徒に戻った気分である。
養蚕地から搬入された大量の繭を乾燥させ、繭の中の蛹を殺して繭から生糸を繰る機械作業の工程の説明を聞いていると、私の田舎にも大屋根の二階で蚕を飼っている親戚があり、≪お蚕さん≫と呼んで起居を共にするその家に親戚挨拶回りで父によく連れて行かれたが、蚕特有の異臭が嫌いでその家が近づくと尻込みをしていた子供の頃が思い出されてきた。
敷地内には工場倉庫の他に、フランス人の技師や女性教師の住居用の建物があり、高床式で回廊風のベランダを持つ木骨レンガ造りのロマネスク調の洋館は、全国から集められた工女たちの教育の場にもなった。
富岡製糸場は、官営模範工場として工女に新しい製糸技術を習得させ、国内に増設する製糸場の指導者を養成する役目も担っており、当初集められた400人の工女には士族や良家の子女も含まれていたという。
当初は「フランス人が工女の生き血を採って飲む」という噂が流れるなどで工女募集が難航、初代場長で渋沢の従兄尾高淳忠が娘の勇を製糸伝習工女第1号として入場させ、労働時間を定め、月給制とし、食費と医療費を国の負担にする進歩的な労働環境を構築していった。

松代藩士の娘が書き残した回想録に≪富岡御製糸場の御門前に参りました時は、実に夢かと思ひます程驚きました≫と記されており、彼女達は、閉鎖的な封建社会から開放された≪働く女性≫の先駆けだったのだろう。
西洋造りで窓や障子がギヤマンの別天地で、髪を束髪に花楊枝を差し、紫袴を着揃え縮緬たすきを掛け揃えて夢と希望に胸膨らませた娘さん達の姿が浮かんでくる。
女工哀史は、富岡製糸場に続いて建設された各地の製糸場が競争激化に伴い職住劣悪の時代を迎えた後日の話で、富岡製糸場は明治黎明期のまだ良き時代であった。
一時間の見学はあっという間に終わってしまったが、ガイドさんの最後の話が心に残った。全国各地から集まった工女の中で、病死して郷里に引き取られなかった遺体が駅近くのお寺に埋葬されているというのである。
製糸場の見学を終え、上州富岡駅に向かう途中に「富岡製紙場工女等の墓」の看板を見かけ、龍光寺に立ち寄った。一般墓地の中に、苔むす小さな墓と連名の合葬墓など30基の墓石があり、菊の花が供えられていた。
製糸所工女取締の前田増が中心となり同僚の工女たちが金を出し合って墓碑を建てたといわれ、先程のガイドさんは、殆どが中国や九州の出身で、遠方すぎて遺体の引取りが出来なかったのだろうと言っていた。
案内板に記された全員に苗字が付いており、明治新政府の廃藩置県と家禄廃止によって失業した士族の子女たちであろうか。家族の生計と国の繁栄のため、西国から遠く東国の田舎にやって来ながら、華やかな時代の陰で夢半ばにして病魔に襲われ、異郷の地で空しく若い命を落とし、親の赤貧もあり故郷に帰ることの出来なかった彼女達の望郷の思いと無念さは如何ばかりだったろう。
まさに明治維新の輝かしい歴史の陰に隠された工女の哀史である。彼女らの安寧を祈り合掌した。

帰りの車窓に遠ざかる浅間山の真白の頂を眺めながら、腰痛再発の不安に慄きながら今年のラストランを無事に走り切った安堵感と、東日本の全都県をついに走破したという達成感と充実感に浸り、そして明治維新の直後に日本の近代化の原点となった富岡製糸場が残した光と影にしばし思いを馳せていた。



【群馬県②:高崎市に重層な歴史を訪ねて】

【音楽のある町:群馬県高崎市】

東日本から西日本へマラソン行脚を延ばし、今年(2012年)は奈良の斑鳩、滋賀のびわ湖、愛知の名古屋を走ってきたが、6月は少し近場でのんびり走ろうと「群馬の森さわやかマラソン」という新緑の気候に相応しいネーミングに誘われてエントリーした。
開催地の高崎市は、上信越自動車道が開通する前に軽井沢へのドライブで市中を通過するだけだったが、高崎だるま市や高崎観音像、群響の名で有名な音楽の街でもあり、この機会に高崎市内の散策が楽しみである。
群響こと群馬交響楽団は、前身の高崎市民オーケストラが地方市民オーケストラの草分け的存在で、戦後のすさんだ心に音楽で希望の光を灯したという話は、東北宮城の片田舎でブラスバンドに関わり、社会人になってからも郷土の町を音楽の町にしたいという夢を抱いていた私たちのところにも届いていた。
昭和20年の発足当初は楽員8人のアマチュア楽団で指揮者に山本直純の父直忠を迎え、やがて練習場を消防団二階から喫茶店≪音楽の家≫に移すと高崎の新しい文化活動の拠点となり「群響」と改称、音楽の普及と資金確保のため県内小中学校を訪問する移動音楽教室を始め当時大学生の小沢征爾がしばしば指揮を執ったという。
この群響の苦悩と情熱の活動に直目した映画「ここに泉あり」が製作され、音楽は団伊玖磨、出演は岸恵子と小林桂樹が手弁当で参加、昭和30年に封切られるや全国で300万人を超える観客に感動を与え、昭和34年に小学6年の国語教科書に「旅する楽団」と紹介されて高崎は「音楽のある町」として一躍全国区になった。

【高崎城の徳川忠長幽閉事件】

「音楽のある町」としてしか承知していなかった高崎市の歴史を調べてみると、昨年のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の主人公「江」が溺愛した徳川忠長が幽閉されて非業の最後を遂げた城があることを知った。
忠長は、徳川二代将軍秀忠の三男(長男は夭逝した長丸)で、次男家光は生後まもなく世継ぎとして乳母「お福(後の春日の局)」に預けられるが、弟忠長は生母「江(於江与)」の手元で育てられ、兄弟の間に乳母と生母の権力争いが影を落としていったという。
生まれつき聡明な弟忠長は、母於江与と父秀忠に溺愛されて育てられるが、母の愛を受けることのなかった家光は次第に性格が歪み、母と父に疎んじられていく。
弟忠長が兄家光を凌いで次の将軍世子になるという風聞が広まると、家光の乳母お福が駿府城の家康に直訴して長幼の順から家光の三代将軍が確定する。
家康の家光擁立の裏に、於江与の秀忠への再嫁が秀吉の政略結婚で、於江与の伯父になる信長に家康の長子秀康と正室築山御前を殺害された恨みが、於江与の溺愛する忠長への冷たい態度に繋がったのであろうか。
将軍となった家光は弟忠長を駿河大納言55万石の大名に処遇するが、兄弟の確執は深まるばかり、やがて忠長の後ろ盾になっていた母於江与が死去すると、忠長は不行跡があったとして甲府へ蟄居を命ぜられ、父秀忠の危篤にも江戸入りが認められず、秀忠の死後には甲府から高崎城に幽閉されてしまう。

忠長が高崎城に預けられて1年経ったある日、老中阿部重次が高崎城を訪ねて「大納言様にはその後もご改心なく良からぬ噂が世に漏れている。この上はご自害あそばされるようお勧めして欲しい」と口上を告げた。
高崎城主の安藤重長は「そのような仰せを被ることは不幸の極みでございます。さりながら、仰せに背く訳にも参りません。御教書を拝見出来ますか」と問い、老中阿部重次の「上様(家光)が口頭で某に命ぜられた。この重次の使いをお疑いか」に、重長は「否、ご老中をお疑いしているのでも、上様の仰せを軽んじているのでもございませぬ。そもそも大納言様は先君(秀忠)の御子、上様の御弟なれば、罪ありといえどもわれわれ人臣と同じには扱えないはず」と命令文書の交付を要求した。
まさに正論である。重次は江戸に引き返し、家光に言上のうえ御教書を携えて再び高崎に出向き重長に渡した。しかし重長とて、とても忠長に自害を伝えられるものではなく、思案のすえ忠長の幽閉されている住まいから少し離れた所に見えるように鹿垣(刑死場の囲い)を結わせると、これをみた忠長は、己の運命を悟り29歳の若さでついに自ら命を絶ったといわれる。
兄家光が弟忠長を自害させた悲劇は、母於江与の弟への溺愛が要因といわれる。信長が弟信行を謀殺したのも、性格の歪んだ信長を嫌い品行方正な信行を溺愛した母土田御前の偏愛が原因といわれ、政宗が弟小次郎を殺害したのも、片目で容姿劣る政宗を嫌い聡明な小次郎を溺愛した母義姫の偏愛が原因とされている。母の次子への偏愛が兄弟の確執を生み、家督争いの末に兄が弟を殺す悲劇は、戦国の世の常だったのだろう。

徳川幕府創成期の家康、秀忠、家光の三代は、二元政治による内部抗争の歴史でもあった。家康は秀忠に将軍職を譲った後も駿府城にあって本多正信、正純を側近に大御所政治を行い秀忠を牽制、家康の死によって秀忠は正純を追放し二元政治は解消され、側近の酒井忠世、土井利勝を幕政の中心に据えて将軍権力を掌握、弟忠輝を狂暴を理由に改易した。秀忠が家光に将軍職を譲った後も西の丸に移り家康同様に土井利勝、井上正就らを西丸老職として大御所政治を行ったが、秀忠の死で西丸老職は解散され二元政治は解消、家光は側近松平信綱ら新参譜代を幕閣の中枢に据えた幕藩体制を確立させたが、家光に残された最大の懸念は、父秀忠と母於江与に寵愛されたライバルの弟忠長の存在であった。

忠長の人柄について逸話がある。父秀忠が正室於江与の目を盗んで側室お静に生ませた保科正之(後に会津若松藩主となる)を、父秀忠に面会させてやろうと駿府に呼び付けた際、忠長は訪ねてくる正之の名を家臣達に伏せて出迎えも一切禁じたという。信州高遠藩の田舎育ちの正之がもしも作法を知らず恥をかかせてはと配慮してのことらしい。実際の正之は作法をわきまえて威風堂々としていたため、帰りの際には急遽家臣一同で見送らせた。このような気配りのある心優しく聡明な忠長が兄家光にどうして二心持つものだろうか。しかし家光はその忠長を改易自害させてしまう。忠長を庇護していた父母がこの世を去り、もはや死に体も同然の弟忠長を、高崎城に改易幽閉しておくだけでは、家光は安心できなかったのだろうか。この世から抹殺しなければならない何か特別な事情が家光にあったのだろうか。

【家光と忠長の乳母と正室】

家光と忠長の乳母と正室を比してみると、家光の乳母に逆賊明智光秀の宿老斉藤利三の娘で小早川秀秋を関ケ原で家康方に寝返らせた稲葉正成の妻のお福を、正室に公卿の鷹司家から迎えているが、弟忠長の乳母は、秀忠の側近筆頭土井利勝の妹、正室に信長の嫡流信雄の孫娘で母於江与の血縁者を迎えており、兄家光を凌ぐ弟忠長への両親の深い思い入れに、秀忠の家臣の誰もが忠長こそ次期将軍と擦り寄っていったのも当然だったろう。
乳母になったお福は、乳母を公募する高札に応募して任じられたといわれるが、将来の将軍職を約束されている後嗣家光の乳母を一般から公募するものだろうか。
秀忠の正室於江与が、我が子家光の乳母に、母お市の兄で伯父に当たる織田信長を本能寺で殺した逆臣明智光秀の重臣斉藤利三の娘お福を、果たして受け入れられるだろうか。様々な疑問が浮かんでくる。

【家光の生母は春日局だった】

家光の出自について興味深い史料がある。江戸城の紅葉山文庫の「松のさかへ」の冒頭に収録された東照宮様御文の末尾に「秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也 同御二男 国松君 御腹 御臺所 駿河大納言忠長公也」と付記が書かれており、家光の生母は春日局(お福)だというのである。
「松のさかへ」は、江戸後期に国学者塙保己一一門が編纂した「群書類従」に収録されたもので、東照宮様(家康)が、秀忠の御台所(於江与)に宛てた手紙の中で、国松(後の忠長)の教育について自分の経験や世の習わし、自分を教育してくれた老臣の言などを引用して丁寧に諭しているが、将軍となる竹千代(後の家光)の教育について触れていないのは、家光の生母が春日局だからだと、編纂者が付記して説明していたという。
家光の生母が春日局だとしたら、於江与が、自分の生んだ子ではない、お福の生んだ家光を疎んじ、実子の忠長を溺愛するのは当然であり、夫秀忠が、正室の子を自分の後継将軍に就けようとしたのも至極当然であろう。
乳母のお福が生母だと知った家光は、弟とはいえ、正室の子である忠長は、祖父家康の後見で就けた三代将軍を守るため、秀忠と於江与が亡くなってなお、その命を奪わねば安心出来ない存在だったに違いない。
春日局の母は、西美濃三人衆の稲葉一鉄の娘安で、実家の稲葉本家である豊後国臼杵藩が幕末の文政年間に作成した「御家系典」に「福が秀忠の正室の侍女となり、秀忠のお手付きで家光が生まれた」と明記されている。
稲葉一鉄の長男重通の養女となり林正成に嫁し、後に離別、幼い正勝と正利を連れて一鉄の次男貞通を頼って臼杵に来た春日局が「慶長八年卯年ノ春、二子ヲ抱エ以テ武城西丸ニ至リ、将軍秀忠公ノ御簾中崇源尊夫人ノ侍女トナル。時ニ容色美麗ニシテ将軍ノ胤ヲ宿ス。同九年七月一七日竹千代君御誕生。然レドモ利三反党ノ由緒ヲ忌ミ嫌ツテ御簾中御出産ノ御披露有リ、スナワチ三代将軍家光公是ナリ」とあり、春日局の父斉藤利三が信長を本能寺で殺した逆臣明智光秀の宿老だったことを憚り、局の子とせず、御台所於江与の子としたのだという。しかし家臣が主君を弑逆するのは下剋上の常で、決して憚ることではない。信長の姪で姉さん女房の於江与に頭が上がらず、側室に生ませた保科正之に一度も会うことが出来なかった恐妻家の秀忠に、正室の侍女に生ませた子を正室の子に据える甲斐性があったとも思えない。

徳川実紀の動静記録から、家光が生まれた慶長9年7月17日の10ヶ月前の慶長8年9月中旬頃の当事者のアリバイを調べてみると、秀忠は江戸城に、家康は伏見城に常駐、於江与は身重の身ながら7月28日に豊臣秀頼の許へ入輿する長女千姫に寄り添うため上洛、7月9日に伏見で初姫を出産した後、2ヶ月の産褥期間を経て2週間の旅程で伏見から秀忠の待つ江戸に帰ったのが9月下旬だとしたら、家光の生母にはなれない。お福が京の作法に明るいとして採用されたとしたら、於江与の侍女として伏見に同行していたであろうから、お福にも秀忠の子を身籠る可能性はない。

それでは家光の実父は一体誰なのだろうか。祖父の家康が伏見から江戸に向け発ったのは慶長8年10月18日、於江与とお福が伏見を発つ9月上旬に、産褥期間中の於江与は生理的に無理だが、家康が正室の侍女のお福と伏見で関係を持った可能性はあったかもしれない。
家康が秀忠と於江与の反対を押し退けて長兄の家光を後嗣将軍に指名したのは、わが子だったからではないだろうか。10人の側室に16人の子沢山に恵まれた家康の末子が慶長12年1月生まれの五女市姫、慶長9年生まれの家光が家康とお福の子だった可能性は否定できないだろう。

家光に家康の家が、忠長に父秀忠の忠と母の伯父信長の長が付いたとしたら、家光の光は誰であろうか。
徳川実紀に「福は稲葉正成の妻、明智光秀の妹の子斉藤利三が女」とあり、信長に正室築山殿と嫡男信康を殺害された家康が、本能寺で信長を討った逆臣光秀に対して、妻と子の仇を討っただけでなく天下人への道を開いてくれた恩義を抱いていたであろうから、嫡孫竹千代に実母福の伯父光秀の光を命名することは十分に有り得た話である。
明智氏の出自は、清和源氏源頼光の七代孫光衡が平安時代末期に美濃国土岐郡内に住した土岐氏の支流で、頼光の四代光国から光信、光長、光衡、光行、光定と光を代々通字にしており、出自不詳な三河松平氏を新田源氏の末裔と自称して徳川に改称した家康にとって、由緒正しい美濃源氏の血統とその象徴である光の諱を徳川氏に取り込みたかったのかもしれない。家光は、やはり家康とお福の子だったから、将軍と正室の子忠長を抹殺せざるをえなかったのだろう。

【群馬の森さわやかマラソン(2012年)】

6時前だが既に陽は高く、昨日梅雨入り宣言のあった雨も上り、爽やかな朝を迎えた。大宮から上越新幹線を25分程で高崎に到着、2両編成の八高線に乗り換え、無人駅の北藤岡に降り立ったのは4人だけ、内3人がマラソン参加者という心細い旅路である。
閑散とした町並みを抜けて車の多い県道を10分程で首都圏の水道水ホルムアルデヒド汚染源として有名になってしまった烏川を渡ると、両岸の草叢から小鳥の囀ずりが響き渡り、遥か前方に墨絵のような赤城山が遠望できた。マラソン会場の群馬の森が近づくと、臨時駐車場の方角から大勢の人並みが押し寄せていた。地元中心の参加者が車で集まっているようだ。
常緑の巨木が鬱蒼と林立して美しい芝生が広がる「群馬の森」に、既に数千のランナー仲間が集っていた。
臨時休館になった歴史博物館前に陣取り、今日のマラソンコースを調べていると、着替えを終えた隣の青年が両手を床に付ける体操を始めた。「身体が柔らかいですね」と声を掛けたが、今日が初マラソンだろうか。準備運動に余念のない意気込みに圧倒されてしまった。
今日のウエアは、さわやかマラソンという大会のネーミングに合わせて、軽井沢マラソン2009の黄緑色Tシャツと同色キャップにした。公園内の常緑樹林の中を試走してみると、マイナスイオン一杯の文字通り爽やかランが心地良い。8時30分スタートの5キロ組のゴールを待って、我々10キロ組1400人が9時15分にスタートした。合図はホイッスルだったが、周りから一斉に拍手が沸き起こった。スタート直後の公園ロータリー付近は大渋滞だったが、すぐにペースは上った。

公園芝生に集まる沿道の声援を受けながら、松や杉や欅の巨木が作る常緑トンネルを走る爽快感に酔い痴れていた。常緑樹林の公園を西から東に縦走し園外を北上すると、折り返したトップグループとすれ違った。さすがに走りっぷりが違う。公園の北入口を折り返して後続ランナーとすれ違いながら、真ん中辺の位置を確認した。
再び公園に戻り園内を一周すると、スタート周辺に陣取る応援団が熱い声援を送ってくれた。3キロの表示を見過ごしたが、かなりのハイペースである。群馬の森を抜けて一般道路から烏川の堤防に出た5キロ地点で26分36秒。キロ5分20秒はまずは順調な走りである。
昨日の雨で濁流と化した烏川の狭い堤防を走っていると、すぐ後ろに車の気配を感じたが、大会関係車両かと思っていると、並走していた女性が「車が来てますよ」と声を掛けてくれた。なんと一般車両ではないか。左に寄るとそばを車が走り抜けて行った。この狭いマラソンコースの堤防を一般車両が走るとは、交通規制はどうなっているのだろう。考えてみれば、ロードは一般道路であってマラソン専用道路ではない、一般市民の理解と協力と犠牲があって初めて公道を我が物顔で走れている、我々の方こそ運転手さんに感謝しなければならない。
後ろの車を避けている間に、さっき注意してくれた赤シャツの女性は10mほど先を走っていた。御礼を言おうと追走するが、なかなか距離は縮まらない。やがて堤防を下りると両側に黄金色の麦畑が広がってきた。
常緑の樹林トンネル、のどかな烏川の堤防、そして広大な麦畑の田園風景、変化に富んだ素晴らしい景観を味わいながら、しかし天候の方はむしろ暑いくらいで、強い日差しを遮るものもない。

7キロ地点でキロ5分30秒と少しペースダウンしてきた。インターバル走法を取り入れてメリハリを付けながら、赤シャツをひたすら追い続け、あと数メートルに迫ったところで、赤シャツは給水所に立ち寄った。しめた、先にゴールして迎えてやろうじゃないか。
烏川の支流井野川を眺めながら、このあと訪ねる予定の観音山古墳の巨石を、筏を組んで運んだという光景を思い浮かべていた。北入口から群馬の森に戻ったところで、視野の左隅に赤いシャツが入ってきた。追い付いてきたようだ。負けられない。先にゴールするため給水を取らなかったが、相手の方が上手だった。
私を追い抜くとその差は広がるばかり。必死に追い縋りながら、薄暗い樹林のメインロードを熱い声援を受けながら、ゴールに駆け込んだ。ラスト1キロを5分13秒で、ゴールタイムは53分27秒。初夏の暑い中をよく最後まで頑張ったと自分を褒めてやりたい。
ドリンクコーナーにいる赤シャツに車両接近注意のお礼を言うと「この大会はコースに一般車両が入ってくるんですよ。軽井沢を走られたんですか。私も軽井沢を走ったんですよ」と、着ている同じ軽井沢マラソン大会絵柄の赤シャツを見せながら嬉しそうにはしゃいでいた。
完走証を受け取り歴史博物館前で着替えていると、隣の青年が戻ってきた。「どうでしたか」と声掛けすると「練習不足を思い知らされました」「これからの予定はあるんですか」「8月に白樺湖を走るんです」「私も5年前に走りましたが、ゲストランナーの山田敬三さんと並んでゴールした思い出があります」と2人の会話は弾んだ。いつもただ参加するだけだが、今日は若いラン友とマラソン談義が出来てご機嫌な自分になっていた。

【観音山古墳の被葬者は誰か(幻の百済王族)】

会場の「群馬の森公園」近くに全長100mの前方後円墳の観音山古墳があり、6世紀後半の築造で被葬者は上毛野国豪族の中心的人物といわれ、昭和57年に副葬品と埴輪など出土品が国重要文化財に指定されている。
群馬県には4世紀中頃から8世紀中頃の古墳が約8500基あり東日本最大の古墳県といわれ、前橋市の天神山古墳から三角縁神獣鏡が発掘され、上毛野国は当時既に近畿のヤマト王権と強く結びついていたようである。
ヤマト王権から分与された神獣鏡は、地方豪族にとってヤマト王権との連携の証であり、政治的社会的な優位性を誇示する権威の象徴だったのだろう。
ところが、ここ観音山古墳から発掘された銅鏡は、朝鮮百済の武寧王陵に出土した獣帯鏡と同笵のもので日本に2つしか発見されておらず、ヤマト王権との連携の象徴という従来の神獣鏡とは全く異なる意味合いの銅鏡だというのである。この獣帯鏡を通して朝鮮百済王朝の歴史を調べるうち、朝鮮半島の情勢と深く結びついた観音山古墳の被葬者の影が浮かび上がってきた。

観音山古墳と同笵の獣帯鏡が出土した朝鮮百済王朝の25代武寧王は、百済中興の祖といわれ、538年に日本へ仏教を伝来させた聖明王の父である。その聖明王は、554年に朝鮮新羅との戦いで敗死するが、そのとき欽明天皇が古代豪族の佐伯連を百済救援に送っている。
復興をなした百済が、660年に唐・新羅の連合軍に攻められ滅亡、662年に天智斉明天皇が百済再興軍を派遣するが、663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ、百済再興軍は百済遺民とともに帰国した。
665年に百済百姓男女四百余人を近江国神前郡に、666年に百済男女2千余人を東国に、669年に百済遺臣等男女7百余人を近江国蒲生郡に移住させたと、日本書紀にあり、667年に天智天皇が遷都した近江大津宮の建設と東国の経営に彼らを活用したに違いない。
663年の白村江の戦いの百済再興軍団の征新羅将軍は、安倍比羅夫、巨勢神前臣譯語、上毛野君稚子の3人である。巨勢神前臣の神前の名は、奇しくも665年に百済遺民の移住した近江国神前郡と同名であり、巨勢神前臣が自国の近江神前(滋賀県神崎郡)に連れ帰ったのだとしたら、666年に百済遺民を移住させた東国は、もう一人の将軍上毛野君稚子稚子が連れ帰った自国の上毛野国(群馬県)だったかもしれない。

群馬県高崎市の観音山古墳で発見された百済武寧王陵と同笵の獣帯鏡のもう一面が発掘された三上山下古墳のある滋賀県野洲市は、669年に百済遺臣を移住させた近江国蒲生郡の西隣で、665年に百済遺民を住まわせた近江国神前郡(神埼郡)の南西隣である。
国内に2面しかない百済武寧王陵と同笵の獣帯鏡が、白村江の戦いの敗戦で救済された百済遺民が、移住先の近江蒲生(滋賀県野洲市)と上毛野(群馬県高崎市)に持ち込んだ物だとしたら、近江国の三上山下古墳と上毛野国の観音山古墳の被葬者は、白村江の戦いに敗れた百済再興軍が連れ帰った百済遺民の指導者かもしれない。
朝鮮の歴史書「三国史記」の百済本記に、百済の始祖温祚王の父親は高句麗の始祖東明聖王(朱蒙)だとあり、朱蒙の生誕について、扶余王金蛙が太白山の南の河から拾ってきた女の子が窓から太陽が当って子を孕んで産んだ卵から生まれたという日光感精伝説がある。
韓国ドラマ「朱蒙」の第72話に、高句麗の建国を宣する朱蒙が、古朝鮮の大王を象徴する神器として、タムル弓と鉄製冑と青銅鏡を神前に推戴する場面があった。
 天皇家の皇位継承の伝受品とされる三種の神器(八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉)の1つである天照大神を象徴する八咫鏡と同じく、百済武寧王陵同笵獣帯鏡も太陽神による王権神授の神器だったとしたら、観音山古墳と三上山下古墳の被葬者は、征新羅将軍が連れ帰って上毛野国と近江国に移住させた百済王族だったかもしれない。

しかし観音山古墳の築造時期は6世紀後半といわれており、666年に連れ帰った百済王族を埋葬するために築造された古墳だとすると時間軸が合わなくなる。
6世紀後半に築造されていた観音山古墳に、7世紀に百済王族が追葬されたのだろうか。それとも、554年に聖明王が新羅に敗死した時に欽明天皇が百済救援軍を送り、562年に日本任那が陥落しており、その時の百済遺民の古墳なのだろうか。

【観音山古墳を訪ねて(国宝の埴輪と副葬品)】

昭和43年の発掘調査で、墳頂部から家形や武具や円筒の埴輪が、中段の基壇面から人物や馬形の埴輪が大量に出土、横穴式石室から、巨大な天井岩がズレ落ちて入口を塞ぎ盗掘されることなく埋葬当時の状態が保たれて大量の副葬品が出土、令和2年に国宝に指定された。
未盗掘だった横穴式石室の玄室に石棺がなかったことから、木棺や乾漆棺が腐食した痕跡が残っていなければ、単独葬だったか複数葬だったか確定はできないが、私が推測する追葬の可能性は否定できないだろう。
大化の改新(645年)の翌年の薄葬令で地方豪族の権力の象徴とも言える大規模古墳の造営が禁止されており、6世紀後半に築造されて上毛野国の支配者が埋葬された観音山古墳に、7世紀後半に百済王族が追葬された可能性をこの目でぜひ確かめてみたいと楽しみである。
歴史博物館が臨時休館で、残念ながら観音山古墳の副葬品や出土品を直に目にすることはできなかった。
木陰で汗まみれの身体を少し休め、群馬の森の近くにある観音山古墳に向かった。住宅街を抜けると、20分程で目の前に全長98m、高さ9.5mの巨大な前方後円墳が姿を現した。墳丘が二段重ねになっており、周濠には綺麗な小石が敷き詰められ、想定以上の大きさと美しい佇まいを前に胸がときめいていた。
後円部中腹の横穴式石室に錠前が掛けられて、格子扉の中は真っ暗で何も見えない。案内立て看板に埴輪群の写真と発掘当時の配列の解説があった。(下の写真)


石室の入口近くから出土した埴輪群は、正座して祭具を捧げる巫女と胡坐を組み合掌する男覡が向かい合い、真横に弦を摘まんで鳴らし邪気を払う三人童女が連座して葬祭儀式のようだとあったが、私には手に何か持っているようには見えない。両肘を高く水平に両手を顔の前で組む三人童女は、韓国ドラマでよく見る拝礼の姿である。被葬者はやはり朝鮮半島由来に違いないと確信した。
墳頂に立つと榛名山、谷川岳、赤城山の眺望が素晴らしい。山並みにカメラを向けていると話し声が聞こえて古墳の管理人らしき人が見学者を1人連れていた。

「石室を開けるのでご一緒にどうぞ」と誘われ、錠前が開けられて羨道を屈むように玄室に入ると、人間が立って歩き回れる広さである。奥行8.2m、幅3.5m、高さ2.3mの玄室は、群馬県下最大の広さ、天井を塞ぐ巨石が六個、最大の石は重さ22トンあるという。玄室の内壁は四角に切石加工された安山岩が綺麗に組み上げられ、床面に河原石が一面に敷き詰められていた。
見学者の男性が「遺体はどこにありました? 真ん中ですか? 壁側ですか?」といきなり核心に迫る質問をした。そして、こんな広い石室は一人用ではない、代々葬るため広く造ったのではないか、と畳みかけてきた。
今日のマラソンに参加した者ですが、と2人の会話に加わり、6世紀の榛名山噴火で火山灰に埋もれた遺跡発掘の秘話など、石室の前で1時間程立ちっ放しで語り合ったが、私の関心事の百済王族追葬の話は、古墳専門家同士の会話に水を差すようでついに切り出せなかった。
帰り道に観音山古墳から西へ2キロ程の柴崎蟹沢古墳に向かったが、周辺が住宅地と化して余り時間もなく探し当てられなかった。魏志倭人伝に魏が卑弥呼に百枚送った銅鏡とみられる正始元年銘の三角縁神獣鏡が出土した四世紀古墳らしいが、次の機会に訪ねることにした。

最寄りの倉賀野駅に向かいながら、先ほど管理人さんから貰った観音山古墳の案内チラシを広げ、石室の多彩な副葬品に、被葬者への拘りは益々強くなっていた。
玄室の奥側に人骨片あり、被葬者は頭を東に横たえられ、頭部付近に獣帯鏡、装飾太刀、銀製刀子、金銅鈴付大帯、銅水瓶、足元に小札冑、突起付甲、金銅馬具が出土、埋葬部に直径2.5㎝の金銅半球形飾金具125点が出土、布に縫い付けて遺体に掛けられていたらしい。
石室側壁の上部に鉄製の鈎が数箇所差し込まれてあり、古代中国の葬送方式に似た、埋葬部を仕切る布幕が吊り下げられていたという。また銅水瓶は日本の古墳で唯一の出土例で、6世紀の中国南北朝時代の北斉の貴族の墓に類例があるという。確かに北斉の作風といわれる法隆寺の百済観音が左手にぶら下げる水瓶に酷似している。
金銅大帯、装飾太刀、馬具類も、奈良藤ノ木古墳の副葬品と共通点が多く、武寧王陵同笵獣帯鏡だけでなく古代中国や法隆寺の宝物や皇族の古墳の副葬品に酷似する遺物を持ち込んだ被葬者は一体何者なのだろうか。

【群響ホールと高崎城と大信寺を訪ねて】

倉賀野駅から高崎駅に戻ると、駅頭で若いストリートミュージシャンのライブが迎えてくれた。さすが「音楽のある町」である。メインストリートを市役所に向かうと、右手に高崎城跡の公園が広がってきた。
公園の入口に建つモダンな「シンフォニーホール」の扉を開けると、係人がやってきて無人のホールを点灯してくれた。ステージのない体育館のような板張りのフロアが群馬交響楽団の練習場になっているという。
正面壁面の十字の文様にカメラを向けていると、オーボエがリードするオーケストラの音合わせが聞こえてくるようである。傍らに立つ係人に、東北の田舎の出身者ですが、地方市民オーケストラの草分け的存在として若い頃からいつか訪れたいと思っていたんです、念願が叶いました、と話す自分の声が上ずっていた。
隣接する波形屋根のガラス張りの部屋の中でピアノを弾く若い女性が見えていた。漏れてくる聴き慣れたショパンの美しいメロディーだが、曲名が思い出せない。しばし佇んで聞き惚れていた。
奥の樹林の中に、白壁の高崎城乾櫓が見えてきた。高崎城は、家康が関東入部の際に徳川四天王の1人井伊直政が和田城跡に築いた近世城郭で、直政は関が原の後、佐和山城に移り、以降入れ替わり譜代大名が入った。
将軍家光による弟忠長への自刃命令という悲壮なドラマがあったとは思えない平和な佇まいである。白壁の櫓にカメラを向けると、背後に近代建築の巨匠アントニン・レーモンド氏が設計した群馬音楽センターが入っていた。忠長の自刃から378年の時を超えてレクイエムの荘厳なメロディーが聴こえてきた気がした。

今日最後の訪問先の徳川忠長の墓がある「大信寺」に向かった。ご住職の了解を得て本堂裏手の墓地内に回ると、石柱で囲われた墓石の五輪塔が建っていた。「鎖のお霊屋」と呼ばれ、周りが鎖で繋がれていたらしいが、弟忠長を自害させてなお鎖を巻きつけるとは、さほどまでに弟忠長の怨念を怖れていたのだろうか。
忠長の墓石に合掌して「あなたが悪いわけではないのですよ。安らかにお眠りください」と祈った。
義経が兄頼朝の怒りに許しを請う腰越状を認めたように、忠長も兄家光に将軍後嗣の野望がない旨の文を認めていたかもしれない。幽閉されていた住まい近くに設置された刑場の囲いを見た時、兄の冷酷な仕打ちに何を思っただろうか。自ら命を絶つことが反逆の罪を認めたことになりはしないか、葛藤に苦悶しながら自刃した忠長の姿が浮かんできた。
かくして群馬の森を走り、古代から現代そして近代の歴史舞台を駆け巡る慌ただしい1日は終わった。
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