歴史と文化の路を訪ねて

季刊同人誌「まんじ」に投稿した歴史探訪紀行文を掲載しています。

私の伊達政宗像を訪ねて(その4-④)

2020-05-01 14:04:10 | 私の伊達政宗像を訪ねて
:題 : 『私の伊達政宗像を訪ねて(その4-④)』

【慶長遣欧使節を訪ねて】

①仙台市博物館に常長持帰資料を訪ねて

2015年7月、東日本大震災の津波に襲われた被災地沿岸1000キロをリレーで走る復興支援イベントに参加した翌日、2年前にユネスコ世界記憶遺産に登録された慶長遣欧使節持ち帰り資料を見学すべく、青葉山麓の仙台城三の丸跡に建つ仙台市博物館を訪ねた。
正面玄関前のモニュメント「逓―昨日・今日・明日―」は、藤原吉志子の作、三人の郵便配達員が手紙を手に岩山を攀じ登って受け渡す巨大な彫刻で『今日は昨日を丸ごとしっかり受け止めること、そして明日へ宛てて便りすること、こうして21世紀へ、もっと未来へと遺言の配達は続いて行く』の意、博物館に相応しい造形である。
常設展の政宗所用黒漆塗五枚胴具足は、目玉展示物である。主君政宗に殉死した菅野重成が拝領した具足で、政宗の墓所・瑞鳳殿から出土したものと同形式だという。
兜銘に天文4年とあり、政宗が生まれる30年前に造られた兜に弦月形の前立を取り付けたのだろう。シンプルで斬新なデザインは、政宗の美的センスを伝えている。

慶長遣欧使節資料展示室で「仙台市史・特別編8」に全文が紹介されているアマーティ著「伊達政宗遣欧使節記(1615年イタリア語版)」を拝観した。
著者のアマーティは、ローマの歴史学者で、マドリードからローマまで常長一行の通訳として行動を共にしており、宣教師ソテロの日本での布教活動と政宗との出会いから使節派遣に至る経緯、使節団の出帆からスペイン国王やローマ教皇との謁見までが詳細に記されている。
アマーティは、使節団がローマ滞在中の1615年に教皇パウロ五世に「遣欧使節記」を献上して褒美に75ドウカートを拝領し、ボルゲーゼ枢機卿に「日本略記」を献呈してその功績でローマ市民権が授与されている。
ローマ教皇側が、スペイン国王に謁見してローマに向かう使節団の動向や日本の国内情勢を探る目的でアマーティを随行させ報告させたといわれており、ソテロはそんな事情を承知で、自分たち使節団にとって都合のいい情報をアマーティに提供して書かせていたようである。
「遣欧使節記」は、奥州王国の広大さ肥沃さ、奥州国王の家柄や歴史の古さ、政宗の有能さ卓越さ、ソテロ自身の日本での活躍と政宗との交誼の経緯、ソテロがいかに政宗にカトリック教理を説いたか、政宗がキリスト教を理解していかに領内への洗礼の触れを出したかなど、遣欧使節を派遣した政宗をしきりに持ち上げていたが、第九章「政宗が瑞巌寺の仏像を破壊させてキリスト教を支援した」の下りには、虚言を弄するソテロが見えてくる。

遣欧使節が持参した政宗書状の前に直行した。「セビリァ市宛て書状」には、ソテロの出身地であるセビリァと友好親善を図りたい、スペイン国王とローマ教皇のもとに使節を遣わすので力添えを願いたい、そして「ローマ教皇宛て書状」の和文(下の横型写真)とラテン語訳文(その下の縦型写真)の2通には、仙台領内の布教を許可するのでフランシスコ会宣教師を派遣して欲しい、そしてメキシコと交易したいのでスペイン国王への仲介の労をとって欲しい、と書かれてあるという。
これら3点の政宗書状は、いずれも長さ1メートル幅36センチの大きな料紙に、金銀箔が撒らされ、和文やラテン語が美しく墨書され、政宗の署名と花押と大型朱印が押捺された、格調高い高級美術工芸品である。
地球の裏側からやって来た日本の侍が持参する、金銀に煌めく豪華絢爛で高度な文化の香り高い大判の書状を受け取ったローマ教皇の感嘆は、如何ばかりだったろう。
相手の御肝を抜くのが得意なダテ男、政宗ならではのパフォーマンスではないだろうか。


 
黄変してなお煌びやかなローマ教皇宛て政宗書状を前に、政宗の署名と花押が一体でないことに疑問を抱いた。
博物館内の情報資料センターで購入した「伊達政宗文書(仙台市博物館収蔵資料図録9)」に掲載されている75点の政宗文書と見比べてみても、やはりおかしい。
セキレイで有名な花押が、政宗と書かれた署名の下ではなく、官位の伊達陸奥守の下に描かれていたことである。図録に収録されている政宗文書の花押は、41点の全てが政宗の署名のすぐ下に描かれている。
教皇宛て書状の署名の下には、花押でなく印章が捺されていた。印章が署名の下に捺された文書は、図録収録の慶長以降の9点中1点のみで、8点は日付の下である。しかも花押と印章の両方がある政宗文書は、図録に1枚もなく、花押と印章は使い分けされていたようである。
資料図録に収録されている「59伝馬黒印状」の解説に興味深い記事があった。「本資料に捺された印章は、慶長6年から寛永8年まで使用が認められ、その多くが伝馬状である。ただし、特異な例として慶長遣欧使節が携えた政宗の親書に朱印として用いられたことがある」
なんと宿駅に酒を運ぶための伝馬を出すように命じる伝馬状に捺された格の低い黒印が、南蛮国宛ての国書ともいうべき公式文書に捺されていたのである。
この伝馬状用印章は、59×55ミリの大判印章で、印文が「藤原氏」、朱印が使われたのは天正期だけで、以降の藩政文書は全て黒印だったというが、ここでは伝馬状用の黒印に朱肉を付けて、朱印に転用されていた。
長さ1メートルの大きな書状に、伊達氏ルーツの日本最高氏族藤原氏の名が刻印された伝馬状用の大型黒印を色鮮やかな朱印に転用して、さらに使用目的が違うはずの花押と印章を並べてしまう。破天荒で何でもありの無造作というか大胆さは、伊達政宗の面目躍如ではないか。

ローマ教皇宛てラテン語訳文の書状(下写真)も、花押の右余白が狭く全体の構図がアンバランスである。

左から署名・印章と年号と官位・花押の配列は、和文書状と同じだが、全体の位置が右に寄り過ぎている。政宗の花押が書かれた後に、和文書状と同じ大きさに揃えるため、料紙の右側を縦に裁断したようにみえる。
ラテン語本文が、縦型料紙の中央に収まっているのは、政宗の署名や花押など和文字が書かれて右側を裁断した後に、中央の白地部分に本文が書かれたからだろう。
更によく見ると、横文字のラテン語本文の最終行が、その下に縦書きされた年号の慶の頭と被っており、最後五行の行間が少し詰まっているようにみえる(下写真)。



どうみても本文の後に年号が書かれたとは思えない。
拙い仮説だが、署名朱印と年号と官位花押が、本文より先に書かれ、右端を詰めた後、二つ折りの下半分にラテン語の本文を書き込んでいったため、年号の慶の字と被り、行間が狭くなってしまったのではないだろうか。
政宗が後から書き込まれた本文内容を確認していなかった可能性は高い。政宗はソテロに全幅の信頼を寄せており、メキシコとの交易さえうまくいけばと、本文の書き込み内容は一任していたのかもしれない。
アマーティの「遣欧使節記」に「有名な寺院で坊主たちが偶像に対する敬意を捨てることを拒んだので、怒った政宗は坊主ごと地面に火を放てと命じた。この時、国王の命令を実行したのが今回の大使として来た支倉である」とあったが、信長の比叡山焼き討ちの話ではないか。
かかる虚言をアマーティに書かせたソテロである。政宗が内容を確認できる和文の書状には書かれていない、交渉を有利に進めるためだけでなく、ソテロ個人に有利になるような請願などを、ラテン語で捏造・改竄・加筆はなかったのだろうか。この書状をローマ教皇に手渡したのは常長だが、常長がソテロの書いたラテン語を読めるはずもなく、ソテロへの疑惑は広がるばかりである。
 
後日「仙台市史・特別編8」に掲載されているローマ教皇宛て政宗書状の和文とラテン語文を比較してみた。
教皇にスペイン国王との交易交渉の仲介を依頼する下りについて、和文書状に「某の国とのひすはんにや之あひた近国に而御座候条、向後ゑすはんやの大帝皇とんひりつへ様と可申談候、如其、其元被相調可被下候」とあり、東京大学史料編纂所の現代語訳に「私の国とメキシコの間はお互いに近い国ですので、この先、さらにスペインの国王フェリペ様とも対談するつもりでおります。そうすることができるように、あなた様が準備をととのえてください(金井圓・五野井隆史共訳)」とあった。
ラテン語書状は「スペイン国王の権能と支配下にある メキシコ諸国が我が領国から遠くないので、その王とキリスト教諸国との交わりを熱望し、その友誼関係を持つことを願望している。聖下の権威の介入があれば、このことが成功すると私は固く信じています。最高権威者である聖下が以上のことに着手して目的を達成させて下さるようへりくだって懇願いたします」と訳されていた。
和文書状の文面は、石母田家に現存している「南蛮への御案文」とほぼ同文であり、ラテン語文も和文とほぼ同一内容で、より丁寧な語調で綴られており、ソテロへの捏造と改竄の疑惑は、私の考え過ぎだったようだが、改めて政宗書状を読み直して新たな疑問が湧いてきた。
 
和文書状の冒頭に「パウロ様之御足を、奥州之屋形伊達政宗、謹而奉吸申上候」とあった。教皇の御足に接吻して申上げるとは、キリスト教界の書状の常套句なのだろうが、どうみても政宗が書かせた文章とは思えない。
いくら政宗がキリスト教に理解を示していたとはいえ天下に野望を抱いていた政宗である。しかも大坂の陣前夜の緊迫していた時に、御足に接吻してと、そこまでへり下った柔な文面を承知で署名するものだろうか。
セビリァ市とローマ教皇宛ての政宗書状だけでなく、メキシ副王宛書状と和平協定、聖フランシスコ会メキシコ宗務総取締宛、同修道会管区長宛、スペイン国王宛書状と協約案、インディアス宗務総長宛て政宗書状の出状日(作成日)は、すべて慶長18年9月4日である。
政宗はこの10通近い書状内容を、一日で吟味できたのだろうか。政宗は概要説明を受けて署名しただけで、後は信頼する家臣に任せていたのではないだろうか。
石母田家に政宗書状の案文が現存しており、キリシタンの良き理解者でもあった重臣石母田大膳がソテロと協議して本文を書き上げたのだろう。政宗の夢と野望を手玉に取ったソテロの力量に改めて畏敬の念を抱いた。

展示室内に展示されている常長持帰り資料のうち国宝「ローマ教皇パウロ五世像」は、短剣類と共に常長が政宗に直接献上した物として伊達家で大切に保管されてきたが、その他の「支倉常長像」「ロザリオの聖母像」「洗礼者聖ヨハネ像メダイ残欠」「ロザリオ」「十字架及びメダイ」「祭服」等は、いずれも政宗の死の四年後に、常長の嫡男常頼が家人にキリシタンが発覚したことで切腹となり、支倉家が断絶された際に、常頼の自宅から没収された物といわれている。
これら没収品は、政宗の命で渡欧して国禁の宣教師派遣を要請し、自ら洗礼を受けてキリシタンとなった常長の個人的な持ち帰り品ではあるが、政宗の幕府への反逆の証拠になりうる品でもある。なぜ仙台藩はこれら危険な没収品を速やかに破棄処分しなかったのだろうか。
江戸後期の仙台藩医大槻玄澤の著書「金城秘韞」に、常長の持ち帰り資料について「往事ハ、1年ニ1度ノ蟲干ノ外ハ、厳封シテアリシモノナリ」と、評定所内に大切に保管されていた様子が記されている。
常頼の切腹で断絶された支倉家が再興された1670年は、仙台藩二代藩主忠宗の13回忌の年である。もし回忌法要の恩赦で再興が許されたのだとしたら、幕府のキリシタン禁制下で、なお慶長遣欧使節派遣は、藩祖政宗の偉業として仙台藩の密かな誇りだったに違いない。
 
最後に展示室に隣接するミニシアターで「支倉常長―光と影」を視聴した。客もまばらで、貸切り同然だった。
キリシタン禁制令が発布される中、ヨーロッパに渡って、宣教師の派遣とメキシコとの交易を交渉する常長の苦悩と挫折が、20分の放映によく纏められていた。
マドリードに8ケ月半、ローマに2ケ月半、容易に進展しない交渉に明け暮れ、セルビァに戻りスペイン国王の政宗宛返書を待つこと1年2ケ月、虚しくスペインとメキシコを追われるようにマニラに渡った常長は、代船を得て帰国するまでさらに2年、帰国後はキリシタン弾圧の日本で幽閉の身となり、2年後に病死したという。
題名に「常長の光と影」とあったが、ソテロに踊らされた政宗の夢と野望に翻弄された常長の旅は「招かれざる客人の光と影」だったのかもしれない。


②石巻にサン・ファン・バウティスタ号を訪ねて

慶長遣欧使節団を乗せて太平洋を送迎したサン・ファン・バウティスタ号の復元船が、1993年に常長出帆380周年を記念して建造され、石巻市渡波に係留展示されており、仙台市博物館を訪ねたあと、仙台駅からJR仙石線で石巻に向かった。
松島湾沿岸は、東日本大震災の大津波の勢いが湾内の島々に減衰されて大きな被害はなかったが、日本三景の景観を隠すようにコンクリート防潮堤が続いていた。
昼過ぎに石巻駅に到着、レンタサイクルを四時間契約で借り、太平洋を見下ろす日和山に向かった。かなりの急勾配に途中から自転車を押してようやく登り切った。
石巻は、東北最大の北上川の河口に位置し、奥州藤原氏が平泉と京との交流・交易の起点にした良港で、源頼朝の奥州合戦で、御家人葛西清重が武功を挙げて奥州惣奉行に任ぜられると、石巻の日和山に本拠城を構えた。
秀吉の奥州仕置で葛西氏が廃絶され政宗の所領になると、米沢から移封された政宗は、大坂や江戸に倣って水運の拠点となる石巻を新城造営の候補地に考えたという。
日和山の山頂から一望する景観に呆然とした。石巻港から太平洋へ広がる石巻市街地が、大津波に全てが流されてまさに原野と化していた。押し寄せる大津波の映像で何度も見た大屋根のお寺が1軒、ポツンと残っていた。
海岸に下ると、枯れた松の巨木が数本、柱だけの廃家が1軒、廃車20数台が原っぱに取り残されたまま、被災から4年経って、この復旧の遅れはどうしたのか。
川幅の広い北上川を渡り6キロほど、石巻線の渡波駅前から牡鹿半島へ右折してサン・ファントンネルを潜るとモダンなサン・ファン館が現れ、眼下に太平洋が広がり復元船サン・ファン・バウティスタ号が覗いて見えた。
  
サン・ファン館からエスカレーターで高低差30メートルの海岸まで下りると、ドック棟に係留された復元船サン・ファン・バウティスタ号が、頭上に迫っていた。
全長55m、高さ48m、型幅11m、総トン数500トンの木造の大型洋式帆船である(下写真)。



当時の図面が残っておらず「ボルゲーゼ宮の支倉常長像」の背景に描かれたガレオン船と「貞山公治家記録」に記された使節船の寸法から復元像を推定、木造船工法の船大工を招集して石巻市造船場で建造されたという。
大量の人員と物資を積み込む船倉と外洋の高波に耐える頑強な船体で、船首に阿吽の龍が付けられ、船尾に九曜紋が描かれ、高さ30mの三本マストを持つ勇壮な姿は、七つの海を制覇したスペイン無敵艦隊を彷彿させる。
船内の高い船尾楼甲板に腰高壁で仕切られたビスカイノと常長の部屋、グレートキャビンに船長ソテロの部屋が、遮浪甲板には大砲が積まれて海賊対応だったらしい。
上甲板は、乗組員の寝起き場所で、最下層の船艙に食料や貨物が積み込まれ、使節団180人が乗船するにはあまりに狭隘である。さぞ劣悪な居住環境だったろう。
1613年10月に石巻月ノ浦を出帆、翌1614年1月にメキシコのアカプルコに到着、スペインに向かう常長一行を下ろし、翌1615年8月に日本へ帰国した。
1616年9月に常長を迎えに浦賀を出帆、翌1617年3月にアカプルコ到着、翌1618年4月にスペインから戻った常長らを乗せてアカプルコを出航、同年8月にマニラに到着したが、翌1619年にスペイン艦隊に船体は売却され、その後の消息は不明だという。

サン・ファン・バウティスタ号の船名の由来はなんだったのだろうか。史料にその名が出てくるのは、1617年3月13日付で、メキシコ副王がスペイン国王フェリペ三世宛てに、常長一行を迎えに到着したサン・ファン・バウティスタ号への対応を問い合わせた書簡である。
サンファンは、聖ヨハネのスペイン語表記San Juanで、旧スペイン領国で地名や人名によく使われるという。 
では、バウティスタは、どこからきたのだろうか。長崎で殉教した日本二十六聖人にそれらしい名前があった。
秀吉が朝鮮出兵した文禄の役の前年1591年に秀吉がフィリピンに入貢を要求すると、翌年にマニラ総督が秀吉に使節を派遣、翌々年に派遣してきた第二次使節の代表が、スペイン人宣教師ペドロ・バウティスタである。
ペドロ・バウティスタは、肥前名護屋で秀吉に謁見、マニラ総督使節として京に住むことが許され、京都・大坂で修道院と病院を開設、1587年の秀吉の禁教令でザビエル以来日本布教の先駆けだったイエズス会が布教活動を自粛するなか、遅れて日本にやって来たフランシスコ会の中心人物として、禁教下の日本の国情を無視した布教活動を積極的に展開していたという。
1596年のサン・フェリペ号事件で、スペインがキリスト教を利用して日本征服を狙っていると秀吉に疑念を抱かせ、翌年に日本最初の大規模な殉教が行われた。その殉教の中心人物が、ペドロ・バウティスタだった。
京都と大坂でバウティスタら六人のフランシスコ会宣教師と日本人信徒20人が捕縛され、耳をそがれて素足で大坂から長崎まで引廻され、西坂の丘で十字架に架けられて、群衆が見守る中、槍で刺し抜かれて殉教した。
この凄惨な受難が、マニラからメキシコ、ヨーロッパに伝わると、禁教下の日本で信仰に命を捧げた殉教が美徳として熱狂的に迎えられ、メキシコ中部のクエルナバカ聖堂に二十六聖人の殉教壁画が描かれて、聖職者の間で異教地日本を目指す布教熱が大いに高まったという。
政宗は、メキシコとの交易交渉を有利に進めるため、使節団が乗船する船名に、当時殉教者として熱狂的に崇められていた日本二十六聖人の中心人物スペイン人バウティスタの名を利用したのではないだろうか。
  
青葉城資料展示館の主任学芸員大澤慶尋氏が、自身の個人的ブログで興味深い見解を述べられていた。
「常長一行に同行した日本キリシタン代表の伊丹、滝野、野間三人が持参したローマ教皇宛て連署状の中で、処刑された26人の列聖を請願しており、また常長が洗礼を受けた教会のデルカルサス・レアレス修道院の『聖遺物の間』に日本漆器の洋櫃が保管されていたことから、この洋櫃が常長一行の持参したもので、中に日本二十六聖人の聖遺骨、もしかしたらペドロ・バウティスタの聖遺骨が収められていたかもしれない」
この洋櫃は、桃山時代の花樹鳥獣蒔絵螺鈿細工の輸出用漆器で、確かに聖人の骨が収められていたという。
もしスペイン人の歓心を買ってメキシコとの交易交渉を有利に進めるため、使節船に殉教した日本二十六聖人の中心人物バウティスタの名を付け、更に殉教した彼の遺骨を祖国スペインに運ぶ聖者の船に仕組んだのだとしたら、政宗は稀代のエンターテイナーではないだろうか。
 
2011年3月11日、東日本大震災の大津波にドック棟に係留展示されていたサン・ファン・バウティスタ号も襲われた。大津波で海底が露わになる強い引き波と押し寄せる高さ6メートルの波に翻弄されて浮き沈みを繰り返す姿は、400年前に太平洋を横断する姿を彷彿させるものだったという。
津波で1階展示室が全滅し、流失を免れた船も、翌月の強風でマスト2本が折損、2年8ケ月後にようやく修復されたが、大津波に懸命に立ち向かうバウティスタ号のパネルが掲示され、復興のシンボルになっていた。
実は、遣欧使節出帆の2年前、1611年12月2日に太平洋沿岸が慶長三陸地震の大津波に襲われていた。マグニチュード8を超える規模で、津波の高さが10~20メートル、仙台平野の内陸2.5キロに達しており、伊達治家記録に領内で溺死者1783人、駿府記に溺死者5千人とあり、仙台藩は甚大な被害を受けていた。
政宗の海外貿易を目指した遣欧使節派遣は、この震災復興プロジェクトの面を持っていたといわれている。

青葉城資料展示館の大澤慶尋氏から、慶長三陸地震と慶長遣欧使節派遣の関連について貴重なお話を頂いた。
「三陸沿岸測量のためやってきたビスカイノに対し、仙台城で政宗は「スペインの船が自領にやってきてくれたらうれしい」とただ受け身で待つという「受動的な姿勢」で述べています。しかし、その後に三陸沿岸測量中の越喜来で津波に遭遇したビスカイノに、すぐ仙台へ戻ってくるよう呼び戻そうとし、「自ら船を作り、この船でスペイン国王とメキシコ総督に進物を贈り、領内でキリスト教を説く宣教師を求めたい」と言うように自ら求めて動く「能動的な姿勢に」一変しています。この姿勢の180度の突然の変化は、何に起因するのか?『慶長三陸津波』だと思います」
そして「政宗は1611年に発生した三陸地震・津波からの復興策の一環としての気持ちも込めて、かねてから希望していたメキシコと仙台領との太平洋貿易を一気に実現させようと、自ら船をつくり震災の1年11ヶ月後、支倉常長ら慶長遣欧使節を派遣しました。国の存亡の危機に直面した時、決して後ろ向きにならず、積極策を打ち出し、不屈の精神で乗り越えようとした政宗、支倉の思いは、現在東日本大震災から9年を迎えた現代の私たちに、大きな勇気と希望を能えてくれます」と。
2011年の東日本大震災が発生するまで、慶長遣欧使節の研究者の誰ひとり、400年前に起きた慶長三陸地震に着目することはなかったという。
政宗が仙台に入府して城郭と寺社を建立、城下町の建設と領内の整備を一段落させた時期である。三陸地震津波で甚大な被害を受け、海外との通商により領内の経済を活性させ復興の大きな柱にしようとしたのだろう。

昨年(2019年)2月、現在の復元船の老朽化に伴い、2021年以降に解体して新たな復元船を製作すると宮城県が発表した。大きさは4分の1の繊維強化プラスチック(FRP)になるという。
維持管理や費用を考慮したというが、4分の1の大きさでは本物感がない。海に浮かぶ復元船でなくていい、陸上に据え置く模型船でいい、原寸大の木造船であれば十分、政宗と常長の偉業を乗せた歴史の証人として在りし日の姿を後世に残して欲しいものである。


③スペイン旅行:支倉常長の足跡を訪ねて 

年号が平成から令和に変わった2019年5月の10連休明けに、支倉常長の足跡を訪ねてスペインを旅行してきた。数ある旅行業者とツアーコースの中から、ソテロの故郷であるセビリァがコースに入っているK社の「情熱のスペイン八日間」を選んだ。
 
ツアーコースは、常長一行が辿ったセビリァ→マドリード→バルセロナとは逆回りのバルセロナ→セビリァ→マドリードである。(下ツアー図)


  
成田からブリュッセル乗継でバルセロナまでの飛行時間延べ14時間は、75才の老体にはさすがに堪えた。
400年前の常長使節団は、太平洋を3ケ月、大西洋を2ケ月、荒れ狂う大海原を帆船で地球を半周する延べ5ケ月の航海は、さぞ艱難辛苦の連続だったろう。
バルセロナ空港に到着すると、空港ロビーの電飾看板に、世界のメッシ擁する欧州サッカー名門FCバルセロナの九蕃スアレスの雄姿が映し出され、胸にメインパートナーRakutenのロゴが描かれていた。
楽天の三木谷社長は、仙台のプロ野球球団「楽天イーグルス」のオーナーでもあり、400年前に常長が結んだ仙台とスペインの絆を今に繋いでいるようである。
バルセロナは、地中海に面したスペイン第二の都市である。常長一行は、首都マドリードでスペイン国王からメキシコとの交易について「かの地ですべてこの協定どおりになされるか見極めた後、認め得るような形で考えていく」と曖昧に回答され、国王諮問機関のインディアス顧問会議からは早期帰国を求められたが、国王の好意で辛うじてローマ行きが許され、バルセロナでローマへの船便を待ちながら、半月ほど滞在していた。先の見えない不安に、常長の心境は如何だったろう。
 
初日のバルセロナ観光は、おとぎの国のようなグエル公園の後、スペイン観光定番のサグラダ・ファミリアである。十九世紀の天才建築家アントニ・ガウディがその建築に情熱を注いで、その死後もなお建築が続いている壮大な未完の教会寺院である。
近世と現代の建築思想が混在する巨大な尖塔が建ち並ぶ迫力には圧倒された。東側の泥の尖塔四塔にキリストの生誕が、西側の白い尖塔四塔にキリストの受難が彫刻で装飾され、聖堂内部は、ヤシをモチーフにした白い柱が無数に天井高く林立し、四面に配した多彩色のステンドガラスから差し込む光のシャワーの中に、天蓋の十字架像が神々しくキリストの栄光を表していた。
スペインブランド店の並ぶグラシア通りを散策、地中海をイメージしたガウディ設計のカサ・ミラで、ツアー仲間33人と初めて乾杯、スペイン料理を堪能して、イベリア半島南西のバレンシアへ向かった。
バレンシアまで延べ365キロをひたすら走るバスの車窓に、石灰質の岩山の荒涼とした山野が迫ってきた。
ツアー添乗員さんが、この山岳地帯の裏側にキリスト教の聖地モンセラートがあると案内していた。常長一行が往路に騎馬で立ち寄っており、岩山の中腹にあるベネディクト修道院で、アラブ人の侵略から守り切ったとして有名な奇跡の黒聖母子像に巡礼者に倣って拝礼したという。常長一行の外交交渉の旅は、同時にキリスト教の聖地を巡礼する旅でもあったようだ。
モンセラートについて、マドリードから常長一行に同行していたアマーティが「伊達政宗遣欧使節記」の第九章に「国王(政宗)は日本の七大礼拝所の一つである松島を訪れたが、ここはカタルニアにあるモンセラートのような所で、神々の愛顧を得るため、また罪の許しを乞うために、無数の巡礼者が集まってくる」と書いていた。
常長は、松島瑞巌寺の古くから霊場として信仰を集めていた洞窟群に遠く思いを馳せながら、モンセラートの山岳に棲む修道士たちの聖なる生活に触れて、マドリードで洗礼を受けてきた常長も、改めてキリスト教への信仰を深めていったに違いない。

車窓に流れる荒涼とした世界に生まれたイスラム教とキリスト教の歴史を語る添乗員さんの話に眠気を催しながら、400年前にこの荒野を馬車と荷車を連ねて黙々と歩んで行く常長一行の姿が、平山郁夫の「シルクロードを行くキャラバン」の絵画のように浮かんできた。
マドリードでスペイン国王に謁見して国王臨席で洗礼まで受けながら、メキシコ交易交渉が進展せず、ローマでは教皇パウロ五世に謁見してローマ市民権証書まで授けられながら、スペイン国王への仲介の明確な回答が得られず、マドリードとバルセロナの荒野600キロを虚しく往復する常長の焦燥と落胆は如何ばかりだったろう。
 
2日目は、バレンシアから更にイベリア半島南部のアンダルシア地方へ487キロを走ること約7時間、薄茶色の岩山の裾野に、見渡す限りオリーブなど柑橘類が格子模様に植えられ、美しい景観が広がっていた。
オリーブは渇いた痩せた土地でも陽の光さえあれば育つらしく、ここ地中海沿岸が原産地、そのオイルはイスラム教やキリスト教の儀式の聖油に用いられるという。
突然前方に残雪を頂く山並みが現れた。みるみるその美しい山容が迫ってきた。積雪の山脈という意味の名がついたシエラ・ネバダ山脈は、三千メートル級の連峰である。地中海沿岸で雪山を見るとは、想定外の景色の展開に、目は釘づけになっていた。
シエラ・ネバダ山脈の北側山麓に位置するアンダルシアの県都グラナダは、雪解け水を源流にした肥沃な山麓に紀元前八世紀から拓かれた歴史ある都市である。八世紀に北アフリカから侵攻してイベリア半島を支配したイスラム勢力の最後のナスル王朝の首都となり、1492年にようやくキリスト教徒軍が奪還したのだという。
500キロ近いバス旅行で、ようやくグラナダに着いた。スペイン観光の目玉であるアルハンブラ宮殿に直行、広大な城塞と美しい庭園を2時間余り散策した。 
イスラム教徒軍との10年に亘るグラナダ攻防戦の末に無血開城されたアルハンブラ宮殿は、スペインにおけるイスラム建築の最高峰といわれ、後にモスクは教会に改築され、イスラム教とキリスト教の建築が融合する宮殿が、イスラム王朝八百年の栄枯盛衰を今に伝えている。
常長はこのアルハンブラ宮殿に寄ってはいないが、八世紀に亘るキリスト教徒の失地回復の宗教戦争の歴史を旅の間に幾たびか聞かされたに違いない。そして相入れない二つの宗教の文化が融合したスペイン独特の文化に触れてどんな感慨を抱いたことだろう。
土地を求めて国盗り合戦を繰り返す日本の戦国武将には到底考えられない、数世紀に亘って信仰のために戦い続けた宗教の力を思い知らされたにちがいない。
夕刻にライトアップされたアルハンブラ宮殿の美しい夜景を遠望、洞窟タブラオでスペイン本場の情熱的で哀愁漂うフラメンコの踊りにしばし酔い痴れた。

ツアー3日目は、グラナダから更に南西へ175キロ、メルヘンチックで白壁に花の鉢植えが飾られた白い村ミハスを散策、可愛い洋服やアクセサリーの土産屋でショッピングを楽しみ、親しくなったM夫妻と幌付馬車に相乗りで市内遊覧、遥かに地中海の青い海が望めていた。
ミハスから北へ240キロ、ひまわり畑が広がり、まもなくアンダルシアの州都でスペイン第四の都市セビリァに入った。スペインに行くならぜひセビリァに行ってみたいと、K社のこのツアーを選んだセビリァである。

セビリァは、宣教師ルイス・ソテロの故郷、スペインの代名詞といえるフラメンコと闘牛士の本場で、オペラ「カルメン」「セビリアの理髪師」の舞台でもある。
イベリア半島の南端に位置し、ジブラルタル海峡を挟んだ対岸が北アフリカのモロッコ、地中海航路と大西洋航路の中継地として繁栄し、大航海時代にはスペイン最大の貿易拠点として新大陸との貿易を独占、慶長遣欧使節団のヨーロッパ最初の訪問都市でもある。
ルイス・ソテロは、このセビリァに生まれ、貴族の身分と安穏な生活を捨て、東洋伝道のいばらの道を志してマニラから日本に入り、家康と秀忠に謁見して、江戸で布教と医療活動を精力的に活動していた。
縁あって政宗に出会い、海外への夢を抱かせて、遣欧使節団を率いて故郷セビリァに凱旋帰郷したが、ローマ教皇に謁見して日本での司教就任を願い出るも果たせず、国外追放同然にスペインを追われ、禁教の日本へ密入国するも捕えられ、火炙りの刑で波乱の生涯を閉じた。
セビリァ市街に入ると、薄紫の花を満開に咲かせた街路樹ジャカランダが迎えてくれた。世界三大花木といわれ、満開の桜並木を彷彿させる見事な紫色の世界に、誰もがバスの車窓に張り付いてシャッターを切っていた。
バスを下車してスペイン広場に向かった。1929年の万博会場に造られたアンダルシア特有の建築様式で、壮大な宮殿の前面に柱廊が半円形に延び、回廊の壁面に歴史的出来事を描いたタイル絵は素晴らしい。アラビアのロレンスやスターウオーズのロケ地になったという。
気温35度は、さすがに陽射しが強い。セビリァはスペインのフライパンと呼ばれると添乗員さんも悲鳴をあげていた。ジブラルタル海峡を挟んで対岸のサハラ砂漠からの熱風がシエラネバタ山脈に遮られ、53度の日もあったらしい。まさに情熱の国スペインの暑さである。
 
セビリァ市街の中心にある大聖堂カテドラルは、ゴシック様式とルネサンス様式が混合するスペイン最大の大聖堂で、ローマのサンピエトロ大聖堂、ロンドンのセントポール寺院に次ぐ規模といわれている。


大聖堂内は見学コースになかったが、四人のスペイン王が棺を担ぐコロンブスの墓があり、探険家コロンブスの晩年の不遇な人生と墓の流転の話は面白かった。
常長一行は、セビリァに約一ケ月滞在したが、この大聖堂で音楽と舞踏の大歓迎を受け、大司教が東方三博士の再来と評したという。いかに歓待されたかが知れる。
大聖堂に付設する高さ94メートルのヒラルダの塔はセビリァのシンボルで、正気の沙汰ではないと思うほど美しいという。イスラム教のモスクの尖塔にキリスト教の鐘楼が増築され、塔の先端にヒラルダ(風見)のブロンズ女神像が見えていた(上写真)。
常長も塔の階段を上ったというが、展望台からの眺望の感慨は如何ばかりだったろう。日本の木造家屋の町並みとは異次元の石造りの色鮮やかな街並みに、はるばるヨーロッパにやって来た実感を味わったことだろう。
大聖堂に隣接するアルカサル宮殿は、キリスト教と混在するといいながらイスラム様式が強く感じられる城郭で、常長一行の宿泊場所に当てられ、国賓級の待遇だったという。セビリァの名家出身のソテロにとって、東洋の果ての日本から使節団を引き連れての凱旋帰郷でもあり、これからのマドリードでのスペイン国王との交渉に手応えを感じて、得意絶頂だったにちがいない。
 
アルカサル宮殿に隣接するインディアス古文書館の前で、添乗員さんが「ここですよ」と目配せしてきた。家康と秀忠の宰相レルマ公宛て書状が保管されており、私が支倉常長の足跡を訪ねる目的でこのツアーに参加していることを、覚えてくれていた。
ここに保管されている家康と秀忠の書状は、メキシコとの通商を認めて交渉開始を伝える朱印状で、房総沖に漂着したフィリピン前総督ビベロを幕府船でメキシコに送り届けた際にスペイン側にもたらされたものである。
スペイン国王の返書がキリスト教の容認を求めたため禁教策を採る家康はメキシコ交易を断念、政宗が交渉を引き継いで常長派遣に至った経緯に思いを馳せていた。
家康と秀忠のレルマ公宛て書状の外、常長とソテロのスペイン国王宛て書状や使節団への対応の会議記録などが保管されており、これら書状94件が日本側のローマ教皇と常長の肖像画とローマ市公民権証書の三件と合わせて、慶長遣欧使節関係資料として日本スペイン共同推薦で、2013年に世界記憶遺産に登録されている。我々の見学コースには入っておらず残念だが致し方ない。
セビリァ観光の最後は、夕暮れのグアダルキビール川沿いに建つ黄金の塔である。正12角形四階建の城塞で13世紀に川に沿って街を囲った城壁の守りとして建てられ、かつては外壁のタイルが黄金色に塗られ、大西洋に繋がる出入口の検問や防衛の役を担っていたという。
月の浦を出帆して1年後の1614年10月にメキシコ経由で大西洋を横断してスペインに到着した常長一行を、この黄金の塔はどんな思いで迎えたのだろう。
そしてその3年後の1617年7月に政宗の夢実現を果たせぬまま、国外追放同然にスペインを発つ傷心の常長の船出を、どんな思いで見送ったことだろう。歴史の証人たる黄金の塔は、黙して語らず。
 
ツアー4日目は、セビリァを後に北へ140キロ、古都コルドバに向かった。広大な緩やかな丘陵地帯に小麦畑が果てしなく続いている。大歓迎を受けたセビリァに約1ヶ月滞在した常長一行は、今後のスペイン国王との通商交渉に大きな手応えと自信を抱いて、セビリァからコルドバ経由で首都マドリードに向かったに違いない。
コルドバは、8世紀にイスラムに征服され、後ウマイヤ朝の首都として世界最大の人口だったという。スペインに現存する唯一の巨大モスクのメスキータは、イスラムの祈りの空間として、赤白縞模様の馬蹄形アーチを支える円柱が約850本立ち並び、2万5千人の信者を収容した。13世紀にキリスト教勢力に奪還されたが、幻想的なイスラム教とキリスト教が融合する聖堂内に立つと同じ砂漠に生まれた同じ宗教のように思えてくる。
セビリァからマドリードに向かう常長一行もコルドバで大歓迎を受けて、数日の滞在を求められたというが、イスラム教の巨大モスクとキリスト教の大聖堂が融合する世界に常長は何を思っただろう。

コルドバから更に北へ395キロ、ラ・マンチャ地方に向かった。マンチャは、アラブ語で乾いた土地の意味、文字通り赤土の平原である。小高い丘に白い円筒状の風車が並ぶ美しい風景をバックに、ドン・キホーテのおじさんとツーショット、爽やかな風の中をしばし散策した。
スペインの文豪セルバンテスが小説「ドン・キホーテ」を出版したのは1605年、たちまちベストラーとなり常長一行がマドリードに入った頃には海賊版が出回っていたという。常長も滑稽な文学に触れて、騎士道精神とスペイン人気質を学び、風車を巨人と思い戦いを挑んだドン・キホーテに自分を重ね合わせていたかもしれない。
いよいよスペイン旅行最後の都市マドリードである。イベリア半島の中央部に位置して、ヨーロッパの首都の中で最も高地にあり、寒暖の差が大きく、また感情の起伏も激しく、マドリード人はイベリア半島南部のセビリァ人と気性が合わないと添乗員さんが話していた。
イスラムから奪還したスペイン王国の首都の住民としての誇りと保守的な気質が、イスラムと共存する海洋国家的な南国の自由な気質のセビリァ人とは、自然環境だけでなく歴史的成り立ちも違っていたのだろう。
常長一行を引率するソテロはセビリァ人、国王側近のマドリード人との気質の違いが、後々国王側との交渉が難航する要因の一つになったのかもしれない。
 
ツアー最終日のマドリード観光は、王宮広場で始まった。日の沈まぬ帝国を自称したハプスブルグ家の居城で18世紀に焼失再建された壮麗な白亜の殿堂である。
マドリードは、古都トレドの要塞だったが、常長が訪れる53年前に、前帝フェリペ二世がトレドから王宮を遷して首都に定めたという。国土の中央に位置して水が豊富で気候が温暖だったからといわれている。
常長一行がマドリードに着いたのは、12月5日頃だったが、クリスマスのミサに参加もできず、国王に謁見するまで55日も待たされたという。宿泊場所もセビリァではアルカサル宮殿だったが、マドリードでは聖フランシスコ修道院、宿泊の待遇まで格下げされ、セビリァのようには歓迎されなかった。なぜマドリードでは厳しい対応になったのだろうか。

「仙台市史」に、常長一行が日本を出帆する25日前にイエズス会日本司教がマドリードのイエズス会総会長へ政宗の使節について報告した書簡が掲載されていた。
「彼(ソテロ)は、日本国王(家康)に臣従しているものの、広大な領土の所有者である政宗と称する日本の異教徒の領主の使節の使命を帯びているとのことです。それは同修道士(ソテロ)によって仕組まれたことで、スペイン国王陛下と教皇聖下に対して、彼の領内に福音を宣べ伝える修道士の派遣を依頼していますが、実は領内の港にスペイン船を来航させることによって得られる世俗的な利益を求めているだけです」
「天下の君主とその子である太子(秀忠)は修道士たちが関東に教会を持つことを望んでいない」
「もしこの使節の成果によって修道士たちが来ることが確かに懸念されることですので、彼らと政宗に対して国王(家康)は憤慨するであろうということです」
「彼(家康)は合図一つで領土と共に政宗の命をも奪うことができる」
遣欧使節団の目的について、ソテロの属するフランシスコ会に対立するイエズス会から、悪意の込められた報告書が既にスペイン国王側に届けられていたのである。
もう一つ、常長一行に同行してメキシコに帰国した答礼使ビスカイノがスペイン国王に宛てた書簡がある。出状日は、常長一行がスペインに向けてメキシコシティを出発した12日後の1614年5月20日である。
「彼(政宗)は有力な日本人で一修道士(ソテロ)の依頼で船を造り、教皇と国王の御許へ真実であるかのように使節を派遣するとの口実で渡来させましたが、その実は商品の利益のためです」「新しい教えと慣習の採用は、皇帝と太子(家康と秀忠)の最も忌み嫌うところで、私たちの信仰とキリスト教界は(日本には)少しも根づいていない」「宣教師たちを実際に連れてくることになれば、その国は許容しようとしないことは確実で、その国に残っている少数の宣教師たちとキリスト教徒たちの上に何らかの大きな災難と最悪の結果が待ち受けている」
「(修道士派遣の請願は)修道士の謀で黄金色に色づけされたものであり、すべては虚偽にすぎないことは時の経過とともに明らかになりましょう」
答礼使として来日していたビスカイノは、破損したサン・フランシスコ号の修繕を妨害され、答礼使の栄誉を奪われ、常長一行の使節船を操船して帰国せざるを得なくされたソテロへの憎悪が伝わってくる。

ツアー添乗員さんが、マドリード人はセビリァ人に対抗意識を持っていると話していたが、日本の使節団を引き連れて故郷のセビリァに錦を飾って得意満面だったソテロも、マドリードではスタンドプレーの傲慢で鼻持ちならないセビリァ人と蔑まれていたのではないだろうか。
そこには特権意識のお高いマドリード人の、商魂逞しいセビリァ人に対する反感があったのかもしれない。
マドリードに入ったソテロは、日本国内の情勢やイエズス会の妨害や自分への讒言もあり、自分がセビリァ人ゆえの、今後の交渉の限界を感じたのかもしれない。
そして、東洋の果てから大海原を渡って遥々やってきた日本人侍の支倉常長を前面に押し出して正面突破を図るしかないと悟ったに違いない。ここで政宗家臣常長を使節団の主役に据えて国王との謁見に臨み、更に国王臨席での常長の受洗を申し出て、交渉の行き詰まりの打開を図ろうとしたのではないだろうか。

それまでの遣欧使節団の主役は、ソテロだった。政宗のメキシコ副王宛て書状に「曾天呂を使僧ニ相頼、同侍三人相添差越候、此内一人ハ奥国迄指遣候」とあり、セビリァ市宛て政宗書状に「ハか(我が)分国、御宗門可申ために、此度ふらいそてろを頼、支倉六右衛門与申侍一人指添、相渡申候」とあった。
メキシコからセビリァまで、ソテロは政宗の遣わした使節団の正使として外交手腕を振るい、同道する常長は大使とはいえ同行する客人でありゲストだったのだろう。
ソテロは、マドリードから常長を前面に押し立てた。 急遽正使の大役を任された常長は、フェリペ三世の前で主君名代としての役割を堂々と演じきったのである。
王宮の内部見学はなかったが、壮麗な白亜の殿堂を背景に写真を撮り合いながら、国王の前に起立して大使口上を朗々と上申、膝をついて国王の御足に接吻して政宗からの書状を恭しく頭上に掲げて国王に直々に呈する、サムライ支倉常長の毅然とした姿を思い浮かべていた。

王宮前からバスで郊外のプラド美術館に向かった。ヨーロッパ三大美術館の一つで、所蔵品は大英やルーブルのような略奪品ではなく、スペイン王家が収集したコレクションです、と現地ガイドが誇らしげに語っていた。
開館200周年の看板が立ち、二グループに分けられ、プラド三大巨匠のヴェラスケスの宮廷の侍女たち、エル・グレコの聖三位一体、ゴヤの裸のマハ、名画を急ぎ足で回ったが、その中にフェリペ三世の肖像画を見付けた。
フェリペ三世は、政治に無関心で怠惰王・斜陽王といわれたという。父フェリペ二世は、スペイン帝国の最盛期に君臨した偉大な王で、イベリア半島を統一してポルトガル国王も兼ねて「太陽の沈まない国」と呼ばれたが、息子三世は、幼少時から病弱で、宰相のレルマ公爵が実権を握っており、遣欧使節団が訪問した頃には、財政も逼迫してスペイン帝国の威光も陰り始めていたという。
日本国内の禁教と迫害が伝わり、政宗が奥州王に過ぎないとして、インディアス顧問会議が、使節団に速やかにセビリァに戻り帰国するよう求めていたが、フェリペ三世は、常長一行のローマ行きを認めてくれた。
フェリペ三世がローマ駐在のスペイン大使宛てに「当地で拒否された幾つかの件を、教皇の全権をもってそれらが許されれば、多大な不都合が生じかねない。慎重な方法で阻止するように、そなたを信頼して任せる」としながら「かくも遠い地方から来た異邦人として彼らを保護し援助すること、このために、また当地で我らの聖なる信仰に帰依し洗礼を受けたことによって余は彼らを尊重し恩恵を施したものである」と、常長が洗礼を受けたことによりローマ行きを裁可したことを伝えている。
自ら受洗した常長の敬虔で善良な人となりが、国王の優しさに訴えて、ローマへの道を開いたのかもしれない。
 
プラド美術館から南に約90キロ、古都トレドに向かった。展望台からタホ川の対岸に広がるトレド旧市街の美しい景観は、中世にタイムスリップしたようである。
紀元前のローマ帝国の支配から西ゴード王国の都となり、八世紀にイスラム教徒に支配され、11世紀にレコンキスタでキリスト教徒が奪還、16世紀にスペイン帝国の都となった。イスラム教徒はユダヤ教徒とキリスト教徒に寛大で自分らの宗教を守りながら共存したという。
トレド大聖堂は、ゴシック様式の塔が聳えるスペインカトリック教会の総本山である。常長一行がセビリァからマドリードに入る前にトレドに立ち寄っているが、事前に連絡をしていなかったにもかかわらず、トレド大聖堂で枢機卿でもある大司教に接見して使節団の任務を報告すると、大司教が非常に喜んで客人になってくれと懇請してきたという。この枢機卿の好意と大歓待が、このあと常長がマドリードで国王に直接自身の洗礼を申し出た勇気に繋がったのかもしれない。
 
トレド観光からマドリード市街に戻り、免税店のショッピング自由時間を利用して、現地ガイドさんに、常長が洗礼を受けたデスカルサス・レアレス修道院付属教会までの道案内を個人的にお願いすると快諾してくれた。
ツアー仲間のM氏と3人、雑踏の中を縫うように急ぎ足で10分程、閑静な裏通りに出ると、灰色の石造りで装飾感のない建物を「あれですよ」と指差した。
小さな窓の並ぶ堅牢な倉庫のような外観に、現地ガイドさんがいなければ、気付かずに通り過ぎていただろう。荘厳な教会を期待していただけに、少し拍子抜けした。
デスカルサス・レアレス修道院の日本語名・王立跣足会女子修道院の跣足とは、素足のこと、使徒の生活に倣い清貧の実践修業のため世俗を意味する靴を履くことを避けるという意味で、教会の建物も文字通り質素である。
堅牢な石造りの修道院に連なる建物の屋根に十字架が掲げられ、正面壁面のスペイン王室紋章レリーフが辛うじて王立教会であることを教えていた。


教会をバックに記念撮影していると、黒い鉄扉が開いて人の出入りが見えた。同行していたM氏が「入ってみましよう」と躊躇する私の背を押してくれた。
開いたままの鉄扉からそっと教会内に入ると、倉庫のような外観からは想像できない、バロック風の白を基調にした豪華で荘厳な教会ではないか。清貧で質素を旨とする跣足会と言いながら、やはり王侯子女の教会である。


 
天井を覆うフレスコ画は、ドイツのヴィース巡礼教会で見たキリストの復活を思わせる美しい色彩である。中央祭壇は、両側に濃緑の蛇紋大理石の柱を配し、厨子に聖母子の絵が収められ、その上に掲げられた大理石のレリーフは、キリストの昇天と聖母の被昇天図だろうか。
格調高い祭壇にしばし対峙していると、400年前に国王フェリペ三世やルイ十三世王妃になる長女ら王侯貴族が隣席するなか、宰相レルマ公爵が代父となり、常長に国王と宰相の名を頂くドン・フェリペ・フランシスコ・ハセクラの霊名を授けた荘厳な洗礼式が浮かんできた。
両側の壁面に据えられたパイプオルガンの黒パイプがラッパのように水平に張り出して、今にも荘厳な宗教音楽が奏でられそうである。当時はイタリアオペラが誕生した初期バロック音楽の時代、合唱席から聖歌隊の讃美歌が、オルガンに合わせて厳かに響き渡ったに違いない。
受洗した常長を祝福するスペイン国王との心の繋がりが、ローマ行きと教皇謁見への道を開いたのだろう。
「常長さん、あなたの故郷の宮城県から、洗礼を受けた教会を探し出して来ましたよ」心の中で十字を切った。
セビリァ探訪がコースに入ったツアーを選んではいたが、常長が洗礼を受けた教会に立ち寄る予定がなく諦めていただけに、まさに大いなるサプライズだった。私の個人的希望を叶えてくれた現地ガイドさんと付き合ってくれたツアー仲間のM氏に心から感謝したい。


④スペイン旅行の残影(常長の洗礼)

期せずして待望のデスカルサス・レアレス修道院付属教会を、それも内部まで見学することが出来たが、常長が何故この教会で洗礼を受けたのか、メキシコで使節団の42名が集団洗礼を受けていたが、なぜその時に受けなかったのか、なぜここだったのか。外交交渉を有利に進めるためとも言われているが・・・・、ツアー仲間が待つ免税店に急ぎ足で戻りながら、その問答が頭の中を駆け巡っていた。
スペイン旅行から帰り、観光資料や写真類を整理しながら、改めて常長の洗礼について考えてみた。
メキシコで使節団から42名の集団洗礼があった理由について、アマーティが著書「遣欧使節記」第17章に「大使がメキシコ市に到着したのは、キリスト教の実例を教示するのに非常に好都合な時期だった。聖週間の神聖なお勤めが行われる時で、行列や聖体安置所を見学し、受洗したいという願望を募らせたのに便利がよかった」と書いていたが、ローマ教皇に使節団の信仰心を訴えたいソテロの思惑がアマーティにそう書かせたのだろう。
同郷で同級生の青森中央学院大学・大学院の教授大泉光一氏が著書「伊達政宗の密使」の中で「日本人随行員が集団受洗したのは、禁教の日本へ帰国するつもりがなかったとか、現地で商談を有利に進めるための方便などではなかった。1542年に発布されたメキシコの『インディアス法』によって「信仰は能力を制限する原則の一つであり(カトリック教以外の)異端の信仰を有する者は法的能力を有せず、栄誉およびその財産を剥奪される」と厳しく規定されており、異教徒であった日本人随行員は、この不利な条件を取り除くため、自らの意思に反してでもカトリック教の洗礼を受けざるを得なかったのである」と書いていた。インディアス法とは、いかなる法なのだろうか。

コロンブスが発見した新世界は無主物であり、教皇アレクサンデル六世の贈与大勅書により、スペインが新世界の支配権を取得し、スペインに新世界における布教を義務付けたが、スペインの侵略者たちは、先住民が野蛮な人種であり、信仰より武力で服従させるのが先決だとして先住民を犠牲に新世界の開拓を遂行したという。
カトリック司祭ラス・カサスは、新世界での略奪や暴虐の実態に、武力でなく布教の力で平和的に先住民の権利を保障しながら先住民を教会と王室の支配下に置く運動を訴えて成立させたのが、インディアス法である。
幕府の迫害から逃れて同行してきた日本キリシタンたちが、真のキリスト者となり平穏な信仰の世界を求めるため、そして異教徒の日本人商人たちがインディアス法制下のメキシコで交易商売をするため、法的能力が認められる洗礼を我先に受けていったのであろう。

メキシコ先住民「チマルバインの日記」の4月9日条に「特派大使(常長)は当地で洗礼を受けることを欲しなかった。伝えられるところによると、彼はスペインにおいて洗礼を受けるであろう」と記されている。
マドリードから同行したアマーティも「遣欧使節記」に「(メキシコで)大使もキリスト教徒になる決心をしたが、大司教と総管区長から思い止まるよう説得されて、この聖なる秘跡を受けるのをスペインまで延期した」と書いているが、これはソテロの思惑だったのだろう。常長自身は、洗礼についてどう考えていたのだろうか。
常長がメキシコで洗礼を受けなかったのは、キリシタンや商売人のようには、メキシコでの自身の洗礼の必要性に迫られていなかったからではないだろうか。
自分は、政宗に外交交渉の全権を託された仙台藩の大使であり、相手国と対等に交渉する立場にあって、スペイン側に有利な「八ヶ条の申合条々」で和平通商条約の妥結に自信を持っており、洗礼を受けてまで相手にへつらう必要はないと考えていたに違いない。
戦国大名が武力で国盗り合戦する世界しか知らない常長にとって、ローマ教皇が精神界と世俗界の主権者たるキリストの代理人であり、教皇の下にスペイン国王の権威があるキリスト教国の在り方や、キリスト教が征服地を統治していく法整備は、全くの未知の世界だったのだろう。
そしてメキシコでインディアス法の存在と政治に優先するキリスト教の信仰と教会の力を目の当たりにした常長は、異教徒に法的能力を認めない世界での政宗の使命を果たす困難と限界を薄々感じていたに違いない。
外交交渉の正念場となるスペインでは、自分も洗礼を受けて法的能力を有するキリスト教徒にならなければ、国王側と対等の外交交渉はできない、ローマ教皇に会うことさえ出来ない、と覚悟していたのではないだろうか。

マドリードに入った使節団は、日本皇帝(将軍)と奥州王(政宗)に派遣されたと装っていたが、日本国内の禁教と迫害が伝わり、政宗が一領国の王に過ぎないことを知ったスペイン側が、幕府の禁教政策に反する「八ケ条の申合条々」の実効性に懐疑的になるのも当然である。
政宗がスペイン国王宛て書状で、自身の洗礼は事情で受けられないが、キリスト教の領内布教を認めて家臣にも洗礼を受けさせるので、メキシコとの交易を認めて欲しいと主張していたが、この逃げ腰で見え透いた言い分が、スペイン側に通用するはずもなかった。
政宗が領内の家臣に洗礼を受けさせると云いながら、使節の常長が洗礼を受けていないのでは、政宗の申し分が説得力のない詭弁で、信用されないのも当然である。
ここに至って常長は、政宗の申し出の正当性を、身をもって立証しなければならなかった。かくして自らの受洗を決断した。単なる交渉のための受洗ではなく、主君政宗のための受洗だったのではないだろうか。 
政宗と事前にそこまでの打ち合せはしていなかったろう。キリスト教国に足を踏み入れて知ったキリスト教の大きな壁と政宗が洗礼を受けていないハンディを乗越えるべく帰国後の断罪覚悟の苦渋の決断だったに違いない。
 
1615年1月30日、マドリード王宮での国王謁見の場で、大使口上に続いて自身の受洗を申し出た。
「かようにして幾多の困難を乗り越えてのち光を求めてきている者は、光に出合って歓びの極みにあります」と始まり、聖職者の派遣と国王の庇護を請願し、最後に「国王の御手により私がキリスト教徒となることを許してくださいますように請願申し上げます」と結んだ。
国王は「かくも遠方より我らが国まで教えを求めてこられたことを高く評価する」「彼が請願していることはかくも正当なことで我らが応じるにふさわしい事柄である。協定に関しては折を見計らい検討の機会を与えよう。キリスト教徒になりたいとの願いは我らを大いに喜ばせるもので、我らの立ち合いで願いどおりの手配をしてすぐにでも最も適切な指示を下すつもり」と即答した。
かくして請願交渉に進展は見られなかったが、常長の受洗申し出は受け入れられ、国王側の態度も軟化して、インディアス顧問会議が反対していたローマ行きが国王の決断で承認され、その費用の拠出まで認められた。常長一世一代の駆け引きに勝ったのである。
さすが政宗の常長を使節に抜擢した目は確かだった。もし伊達家の重臣だったら、禁制の受洗という駆け引きはとても出来なかったろう。幾多の修羅場を潜り抜け、先見性と洞察力と交渉力と決断力に秀でた中級家臣の常長だったから出来た決断だったのではないだろうか。
常長は、政宗家臣として洗礼を受け、主君政宗の逃げ腰で見え透いた言い分の疑惑を払拭しただけでなく、帰国したら必ず主君政宗に受洗させて、奥州にキリシタン王国を立国させるので、ぜひメキシコとの交易の承認を、と国王に訴え続けたに違いない。


⑤スペイン旅行の残影(キリスト者の常長)

スペイン旅行から帰って新たな疑問が頭を駆け巡っていた。ローマからスペインに戻った常長は、国外追放同然に扱われながら、1年余りセビリァに居座り続け、マニラに渡って更に2年余り、報われることのない交渉をし続けられたのは何故なのだろう、という疑問である。
自らの受洗でローマへの道を開き、入市式で盛大な歓迎を受け、ローマ教皇に謁見してローマ市の公民権まで贈られながら、請願事項の具体的な進展はなかった。
フェリペ三世がローマ駐在スペイン大使に常長一行のローマ行き裁可を伝える書簡の前段で「当地で拒否された幾つかの件を、教皇の全権をもってそれらが許されれば、多大な不都合が生じかねない。慎重な方法で阻止するように」と指示しており、ローマ行きは認められたが、常長の請願事項が、逃げ腰のスペイン国王に受け入れられる素地は初めからなかったのである。
 
1616年1月7日にローマを発った常長一行に対して、インディアス顧問会議は、マドリードに入らずに、セビリァへ直行するよう命じ、同年6月に出航予定のメキシコ艦隊に同乗するよう求めてきた。
ローマからの帰途に、イタリアのジェノヴァで常長が三日熱にかかり現地療養、セビリァに入る前にソテロが脚を骨折、セビリァに着くと二人とも病に倒れたが、落胆と苦難の旅に心身とも疲労困憊していたのだろう。
随行員15人が乗船して帰国するなか、二人は国王からの返書を得るまで帰国できないと退去命令に抵抗して残留したが、乗船しないための仮病だったのだろうか。
5人の随員とセビリァに居残って3カ月後に届いた政宗宛てフェリペ三世の書簡は「常長とソテロが参内して、貴国において我らが主、イエス・キリストの神聖にして真実の教えを選び、これを信奉しようとする称えるべき意向についての報告があり、心から歓待して、スペイン滞在中、ローマ教皇庁への往復を支援した。余は貴諸国に住む人々の霊魂の救いを望むものであり、貴地に居る宣教師たちとキリスト教徒が厚遇されるように願う」と述べて、政宗の請願事項に具体的な言及はなかった。
常長は国王の書簡に納得せず、体調を崩して下血したこともあり、セビリァ近郊のロレート修道院に居座り、イエズス会の執拗な妨害に抗しながら、ひたすら宣教師の派遣と司教の任命を国王と教皇に請願し続けていた。

1617年3月22日付け、ローマのボルゲーゼ枢機卿がマドリード駐在教皇大使宛てた書簡で「使節の請願に関する決定は、スペインの政府の意見に任せることにした。出来るだけ速やかにこの問題を処理して教皇聖下の肩より重荷を除くよう努めることを教皇聖下はお望みである」そして「使節の指導者でもあるソテロ神父に対して教皇聖下の好意を悟らせるように」と追記、もはや常長一行は迷惑な招かざる客になっていたのである。
しかし常長は、同年4月24日付けフェリペ三世宛て書状で「去る五月に到着した日本からの書簡によると、我が主君は誠意と献身をもってキリスト教界を庇護し、領内にあった教会とキリスト教徒たちを護ったのみならず、何の恐れもなく堅く信仰を守るように助言し、彼のもとに逃れてきた者たちを保護しております」「その善き意図を実行に移すための修道士たちと高位聖職者と共に、この使節に関する良き通信を待ち望んでいます」と政宗の真意を訴えて国王の慈悲にすがり続けていた。

常長は、なぜかくも絶望的な交渉を続けられたのだろうか。主君政宗への忠誠心なのか、使命感なのか。それともキリスト者としての信仰心からだったのだろうか。
帰国後に政宗の説得で棄教したともいわれるが、常長の死後に、嫡男常頼が家人のキリシタン容疑で処刑されて家名断絶となり、自宅から典礼用祭服など宗教器具が多数押収されていたことから、帰国して棄教する仲間がいるなか、常長は真のキリスト者となって、帰国後も家族と共に信仰を守り続けていたことは明らかである。
太平洋から大西洋をスペインへ向けた延べ7カ月もの間、日夜、神に祈りを捧げる神父ルイス・ソテロ、荒れ狂う大海原に神に救いを求めて祈るスペイン人船員たち、禁教下で迫害されるキリシタンの救済をローマ教皇に請願する日本キリシタン代表の3人、そして信仰の自由を求めて日本を脱出したキリシタンたちと寝食を共にしてキリスト教の信仰について自問自答したに違いない。
初めて異国の地を踏んだメキシコは、僅か百年前にスペイン人探検家に先住民のアステカ帝国が征服され略奪されてスペイン帝国の植民地になった国である。メキシコ全土に教会が建てられ、先住民に神の救いを授けんとキリスト教が広められていく現実は、外国から侵略される危機に直面することのなかった日本列島に安住してきた常長にとって異次元の世界だったのだろう。
大西洋へ向けてメキシコの嶮しい山岳地帯と広大な砂漠の中を横断しながら、豊かな緑と水と美しい四季に恵まれた日本では想像出来ない過酷な大自然の中に育まれるキリスト教の逞しさに畏敬の念さえ抱いたに違いない。

スペインに渡った常長は、そこでイスラム教国との八百年に亘る戦いの末に、イベリア半島を奪還したレコンキスタの歴史と宗教の力を、改めて学んだことだろう。
そしてセビリァ、マドリード、ローマで3年近く、キリスト教の気高い精神と重厚な教会での荘厳な祈りと讃美歌の世界に生活して、世界帝国の覇王とキリスト教国の教皇に謁見するなか、常長はキリストの愛に教化され信仰を深め、真のキリスト者になっていったに違いない。
そして宣教師が国外追放された日本で、主の導きから路頭に迷う多くのキリシタンを救いたい使命感が支えとなって、新たな宣教師の派遣を懇願し続けたのだろう。
政宗の抱いたキリシタン王国の夢と野望は、常長の崇高な夢に昇華、政宗からの使命ではなく、神からの主命として救世使たらんとしていったのではないだろうか。
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