歴史と文化の路を訪ねて

季刊同人誌「まんじ」に投稿した歴史探訪紀行文を掲載しています。

私の本州マラソン歴史紀行(関東編②ー2《茨城県》)

2023-05-01 21:57:44 | 私の本州マラソン歴史紀行
【茨城県①:坂東市に平将門を訪ねて】

【新皇を称した平将門の乱】

2010年11月、関東全都県走破を目標に茨城県の大会を「坂東市いわい将門マラソン」にエントリーした。
大会冠名の「将門」について、昭和51年のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」で、藤原氏の権勢に抗して新たな国を作ろうと坂東で反乱を起こした加藤剛扮する平将門の雄姿が脳裏に残っており、昨年6月に定年退職した千代田区大手町の会社近くに「将門塚」があり、正月に周辺大企業の総務担当者がこぞって御神酒を供えて平穏無事を祈願していたこともあり、逆賊ながら神格化された将門の人物像に予てより関心を抱いていた。
昨年11月に帰省して郷里宮城を自主トレランした際に立ち寄った高蔵寺阿弥陀堂の住職にその名を教わった平永衡の祖先が将門ではないかと考え始めていたこと、永衡の盟友である藤原経清(平泉の奥州藤原氏初代清衡の父)の祖先の藤原秀郷が「平将門の乱」を鎮圧した主役だったこと、そして藤原清衡が奥州の平泉に朝廷から独立する政権を樹立した時より100年も前に、短い間ながら将門が新皇を称して坂東の地に朝廷に独立した王城を実現していたことから、機会があればぜひ坂東の地を訪ねてみたいと思っていた。
奇しくも東北新幹線の車内に備えられているJRトランヴェールの2007年1月号に『平将門を旅する』が特集されていた。その冒頭の記事を引用させてもらう。
「今から1065年余り昔の平安中期、坂東(ばんどう)八カ国を制覇した兵(つわもの)がいた。自らの比類なき武芸を誇った平将門(たいらのまさがど)、その人である。王朝国家による貴族政治のなかで、彼の武力による東国国家の存続期間は、2ケ月足らず。しかし、その、瞬きのようなわずかな時間は、暗闇のなかにおける閃光のような輝きとなって、東国における武士の発生と成立の道筋を、鮮やかに照らし出したのであった」

平将門は、桓武天皇の曾孫高望王の孫に当たり、父は高望王の三男、陸奥鎮守府将軍・平良将である。当時の坂東は、奥羽の蝦夷に対抗する兵站地として俘囚が多く移住させられていたが、不当な待遇への不満から俘囚の反乱が絶えず、群盗の蜂起もあり無法地帯に近い状態で、坂東の治安回復のため下向させられたのが、中央では出世の途を閉ざされていた高望王など軍事貴族だった。
高望王は平姓を下賜され息子3人を伴い坂東に下向、長男国香は常陸国、次男良兼は上総国に在住、共に前常陸大掾源護の娘を娶り、三男良将は下総国に在住し県犬養春枝の娘を娶り、土着して未墾地を開発して武士団を形成、勢力拡大を図り、後の桓武平氏の基盤を築いた。
父良将を早くに亡くした将門は、上洛して右大臣藤原忠平に仕えるが、望む官職が得られず、12年で東下する。預けていた父の遺領を返さない伯父良兼と争う将門は、国香と良兼の義父源護と土地を巡り抗争する平真樹を擁護してその娘を妻に娶り、将門と伯父達との対立は、源譲と平真樹を巻き込んだ武力抗争となり、やがて坂東一円を巻き込む「将門の乱」へと発展していった。

天慶3年(940年)反乱が鎮圧された四ヶ月後に成立したとされる「将門記」に顛末を概観してみる。
延長9年(931年)女論により良兼と対立、亡父良将の遺領のことでも良兼と争う。承平5年(935年)に源譲の子らに常陸で要撃された将門は、源譲の本拠を焼き討ち、譲の3人の子を討ち伯父国香を焼死させる。
翌6年に良兼は、弟良正と国香の子貞盛と合流し下野国境で将門と対戦するが、将門はこれを撃破し良兼を下野国府に追い詰めるが、囲みを解き良兼を逃れさせる。
源譲の朝廷への告訴で、将門は召喚され上洛、検非違使庁で裁かれるが、翌七年の朱雀帝元服の恩赦で罪を許され帰国する。良兼は兵を発し帰国早々の将門を攻めて将門は敗退、妻子は捕らわれて上総へ拉致される。
妻子を救出した将門は常陸に良兼を攻め、朝廷に良兼らを訴えて良兼ら追討の官符が下る。下総石井の営所に夜襲をかける良兼を撃退、将門の威勢は坂東に拡がった。
天慶2年(939年)武蔵権守興世王と武蔵介源経基が足立郡司武蔵武柴と対立する武蔵国庁の紛争を将門が調停和解させるが、武柴の兵が経基の陣営を包囲、京へ逃げた経基が、将門と興世王と武柴の謀反を密告する。
太政大臣藤原忠平からの事実を糺すべき御教書に対して、将門は常陸など5ヵ国の解文を添えて謀反は無実である旨を言上、宮中で将門の功課について議論される。
信濃千曲川での将門の追撃を逃れた貞盛が、上洛して将門の非行を訴え出て、6月に将門追補の官符を得て帰国するが、将門の勢力が強く一蹴されてしまう。

武蔵権守興世王が、赴任してきた武蔵国守百済貞連と不和となり、出奔して将門を頼り下総に寄宿する。
常陸の住人藤原玄明が、乱悪で追補を受けて将門に庇護を求め、常陸介藤原維幾からの引渡し要求を拒否した将門は、玄明の愁訴により維幾の子為憲の狼藉を糺そうと常陸に発向、貞盛・為憲の軍とやむなく交戦となり、常陸国府を焼いて介維幾を捕え、印鎰を奪ってしまう。
側近興世王の坂東虜掠の進言を受けて「将門刹帝の苗裔、三世の末葉なり。同じくば八国よりはじめて兼ねて王城を虜領せんと欲す。今すべからく先ず諸国の印鎰を奪い、一向受領の限り官堵に追い上ぐべし。然らば則ち且つは掌に八国を入れ、且は腰に万民を附けん」と下野国府と上野国府を攻略して印鎰を奪い長官を追放する。
一昌伎が「八幡大菩薩の使ぞと口り、朕の位を蔭子平将門に授け奉る」と告げるのを受けて、将門は新皇を自称、徐目を行い東国の国司を任命、王城を下総国亭南に建設を宣言、武蔵相模国を巡検して印鎰を領握「天位に預る可きの状」を朝廷に送る。将門の言動が朝廷への謀反として京に伝わり、京官大いに驚き、京中騒動する。
天慶3年(940年)西国で藤原純友の乱があり、京畿七道の諸神に東西の兵乱の鎮定を祈願、東海・東山両道に将門追補の官符が下され、参議藤原忠文が征東大将軍に任ぜられる。

同じ頃、将門が兵五千を率いて常陸国に出兵、貞盛と維幾の子為憲の所在を探索、貞盛の妻らを捕えるが、将門は放免して軍を解き、諸国の兵を帰らせる。
将門に残る手兵千人足らずを聞いた貞盛は、下野押領使藤原秀郷と兵四千を集めて将門を攻略、将門は防戦のため下野に出兵するが、副将藤原玄茂らの軽挙により敗北、追撃する貞盛・秀郷軍が下総国川口で将門軍と合戦となり、将門自ら陣頭に立ち奮戦するが、善戦及ばず敗退し、辛島郡広江に隠れる。
貞盛・秀郷らは兵を倍にして下総国境に進出、将門の本拠地石井に攻め寄せて館を焼き、将門は手勢四百を率いて辛島郡北山に陣して貞盛・氏郷軍と交戦、2月14日、激戦の末に神鏑に額を射られて討死する。
平将門は本心から時の朝廷に敵対して坂東に独立国家の建設を企てた謀反人だったのだろうか。
高潔で無骨な坂東武者だったが故に、一族の領地争いから否応なく国庁の権力争いに巻き込まれ、敵対者の訴追で安易に将門追討の官符を交付する朝廷に不信を募らせ、四面楚歌の窮地を自力で打開するが、善良さが仇となって権謀術策に長けた坂東豪族に翻弄され、不本意ながら常陸国衙を攻略して印鎰を奪って、後戻り出来なくなった将門は、側近興世王の甘言「一国を討つと雖も、公の責め軽からず、同じくは坂東を虜掠して暫らく気分を聞かん」に乗せられ、否応なく坂東を制し新皇を称し徐目までやってしまった裸の王様だったのかもしれない。

【将門伝説と大手町の将門塚】

平将門の存在は、瞬きのような一瞬の嵐にすぎなかったが、その鮮烈で深刻な衝撃は、やがて源頼朝による武家政権である鎌倉幕府への胎動となっていく。
そして非業の死を遂げた将門は怨霊となり民を苦しめる権力と戦った英雄として神格化され、帝位を称した大悪人として明治政府にその信仰を禁じられながら、庶民のなかに将門伝説として深く敬われていった。
将門の首塚伝説によれば、風向きの変わった突風に乗る矢を受けて倒れた将門の首が、藤原秀郷によって京都に送られ獄門に晒されていると「我に四肢を与えよ。もう一戦せん」と歯軋りして故郷の坂東に向かって飛んでいくが、途中で力尽きて落下、その地に建てられたのが神田明神で、神田という地名は、将門の首が体(からだ)を求めて飛んできたからといわれているらしい。

その首塚が千代田区大手町の「将門塚」で、案内板に「この地はかつて武蔵国芝崎村と呼ばれ住民は無念の気持ちのまま葬られた将門の怨念に長らく苦しめられた。鎌倉時代に遊行二世真教上人が、法号を追贈し供養して将門の霊を祀る「神田明神」を再建、江戸時代に家康が江戸城築城工事に際し神田明神を現在の湯島に移転、首塚は大名屋敷の敷地内にそのまま残された」とある。
更に「江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末、伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである」とあり、大正12年の関東大震災で首塚が倒壊、跡地に大蔵省仮社屋の工事が始まると、2年の間に早速大蔵大臣、矢橋営繕局工務部長など大蔵省関係者14人が急死、将門の祟りと噂が広がり鎮魂碑が建立された。
太平洋戦争末期に米軍機による空襲で焦土と化した大手町一帯がGHQの管理下に入り、塚の跡地に駐車場を作る工事でブルドーザーが横転、作業員が事故死して工事は中止された。現在は大手町・丸の内と内神田の町会有志有力会社が発起人となり、将門塚保存会を結成、線香の煙は絶えることがない。

【坂東市いわい将門マラソン大会(2010年)】

朝7時に埼玉の自宅を出立、国道16号線を車で1時間足らず、茨城県南西部に位置する坂東市岩井の八坂運動公園に到着した。早朝のためか意外に近かった。岩井は将門の本拠地で終焉の坂東石井である。
11月中旬ですっかり紅葉した公園内を、色とりどりのウエアで沢山のランナーがウオームアップしていた。 約六千人が参加する第20回記念大会とあって、体育館の内外は、地方都市挙げての熱気が伝わってきた。
薄曇りながら寒さが感じられず絶好のマラソン日和である。巨大な恐竜像や野球場を周回しながら紅葉の公園内を数周してスタート位置の商店街大通りに向かった。
「将門まつり」の幟が林立する綺麗に整備されたモダンな大通りは、3700余のハーフマラソンのランナーで埋まり、スタート地点の横断幕は遥か前方で、かなり後方に並んだ。
ゲストの有森裕子さんのトークがスピーカーから流れてきた。≪腕振りは縦に。横振りは力が逃げてしまう≫そして、なんと今日のスターター役は、重量挙げの金メダリスト三宅義信さんだった。亡き母の小学校の教え子である。ゴール後にお会い出来たらと声掛けしてみよう。懐かしい名前に鳥肌が立っていた。
我々の10分前に車いすの部がスタートすると周囲から一斉に大きな拍手が起きた。素晴らしいことだ。10時丁度にピストル音と打上げ花火が鳴り響き、リフト上に有森さんの笑顔を見上げながら、快調に走り出した。
 商店街の大通りを埋めた大声援を受け、将門大太鼓の勇壮なリズムに歩調を合わせ、1キロ余りのメインストリートを快調に走り、右折してゴルフ場の樹林を左手に見る頃から、右足くるぶし下に痛みを感じ始めた。一昨日からの不安がついに現実になってしまった。学生時代のスキーで捻挫した後遺症で、時折再発するも騙しながら走っていたが、今日はどうもいつもと違いそうだ。地面をキックするのが怖くなり、撫でる様な走りに変わっていた。初のリタイアを本当に考えてしまった。
後続ランナーにどんどん追い抜かれながら3キロ地点で17分35秒。キロ6分弱もやむを得ない。1キロほど続いた痛みが少し和らいできた。今日は完走を目的になんとか走り切れれば良しとしよう。
5キロ地点手前で介護施設だろうか、車椅子を並べ身を乗り出して声援するお年寄り達と視線が合った。有り難う。頑張ろうね。足首の違和感が遠のいでくれたようだ。5キロ地点で29分。キロ6分弱をキープしており予想外に頑張れていた。
 
曇り空に白い太陽が浮かんでいた。折り返してくる先頭グループに続くランナーを見ながら、自分の位置を推し量り、左右に広がる農村風景の中を、折返し点がまだかまだかと、我慢の走りになっていた。
10キロで58分。ようやく安定したペースに戻って来た。ここから約5キロの田園風景が目の前に広がってきた。遥か遠くに低い山並みが墨絵のように連なり、稲刈りの終わった田んぼは、落穂が発芽して草原のように美しい、まさに将門が夢見た東国の平和な王城なのかもしれない。
田園風景の中を真っ直ぐ伸びる道路端に、赤にピンクと白のコスモスが可愛らしく咲き誇っていた。レタス畑で収穫作業中の夫婦の姿が見えた。左手は利根川であろうか、綺麗に刈り上げられた土手が迫ってきた。
右折して広々した田んぼを横切り人里に入ると、元気闊達な応援集団が待ち受けていた。ありがとう。僅かな上り坂に歩き始めるランナーが出てきた。15キロ地点で1時間28分、2時間5分台のゴールも見えてきた。

折り返すと介護施設前の車椅子応援団はまだ頑張っていた。有り難い。お婆さんの熱い視線に力を貰う。ゴルフ場の樹林を右手に、ようやく市街地に戻ってきた。歩きたい悪魔の囁きに抗しながら、沿道の声援に支えられ最後の頑張りである。2ケ月前の三沢マラソンの歩きが悪夢のように脳裏をかすめた。今日は歩かない、走りきるぞ。
商店街大通りの声援に将門大太鼓が乱舞するなか、陸上競技場に入りゴールの横断幕に向かってラストラン、ゴールタイムは2時間4分48秒。3700人中2283位。足痛ながら今年初の4分台、我ながらよく走った。

【坂東市将門まつり(11月14日)】

ゴール後のトン汁に暖を取り、参加賞の新鮮なレタスを土産に、体育館で着替えも早々に、さっき走った商店街大通りで始まる「将門まつり」の見学に向かった。
大通りは、歩行者天国と変わり、赤白黄の平将門の旗棹が林立して大変な賑わいである。商店街の特設ステージに武者姿のお偉いさんが勢揃いして、ステージ前で繰り広げられるお祭りイベントを待っていた(下の写真)。


やがて烏帽子姿の殺陣による薙刀剣舞が始まり、続いて烏帽子に甲冑姿の地元中学生らによる弓道模範演武が披露された。観客から大きな拍手が送られ、将門の生きた平安時代の再現をしばし楽しませてもらった。
大通りの各所では、可愛い子供さんたちや綺麗なお姉さんたちのエネルギッシュなストリートダンスに大きな人だかりが出来て、縁日の露店が軒を並べたお祭り気分は最高潮に達していた。
まもなく神田囃子の山車や勇壮な武者と雅な姫たちの行列が大通りを練り歩くメインイベントが始まるが、常総線守谷駅行き臨時バスの最終便の時刻が迫っており、後ろ髪を引かれながらマラソン会場のバス乗り場に急いだ。
かくして足のアクシデントに見舞われながら好記録で完走できた上に、かねての将門の地でお祭りの一端ながら見物ができて素晴らしい一日は終わった。



【茨城県②:水戸市に水戸学を訪ねて】

2007年にマラソンを走り始め、2015年12月に本州三十四都府県のマラソン大会を走り終えたが、最後の大会になった山口県萩城下町マラソン大会で、明治維新の里を訪ねながら、維新の先駆者といわれる吉田松陰・久坂玄瑞・宮部鼎蔵らが、水戸を訪れて水戸学から多大な影響を受けたことを改めて知り、維新の原点となった水戸学とはいかなるものなのか、いつか水戸市を訪ねて水戸学に直に触れてみたいと思っていたところ、その機会が翌年8月にやって来た。
本州全県走破の達成を機にマラソン大会への参加はやめたが、東日本大震災復興支援のイベントである『未来への道1000㎞縦断リレー』だけは、被災地宮城県の出身者として引き続き参加していきたいと、併せて水戸学が探訪出来る茨城県内のリレー区間が走れれば、と抽選申込んだところ、幸運にも応募多数の中から希望した茨城県内が走れる日程で抽選に当選した。
リレー当日の集合場所は福島県いわき市だが、水戸市内ホテルに前泊すれば水戸学の探訪は十分可能である。大震災の被災から五年を過ぎてなお復興は道半ば、被災地宮城の出身者として、被災地を走りながらあの惨禍を風化させないメッセージを発信して、併せて宿願の水戸学を訪ねる強行スケジュールをプランニングした。

【水戸弘道館に徳川斉昭を訪ねて】

第4回1000㎞縦断リレーの前日(8月3日)に水戸駅に下車、駅前の電動レンタサイクルで水戸学探訪の旅に向かった。駅の北口から深緑の水戸城址を回り水戸弘道館に着くや否や、突然の土砂降り雨に襲われて2時間あまり閉じ込められてしまったが、そのお蔭でじっくり腰を落ち着かせて弘道館内を見学することができた。
弘道館は、水戸藩九代藩主徳川斉昭が天保12年(1841年)に創設した日本最大級の藩校である。数ある水戸藩史跡の中で弘道館に直行したのは、二代藩主光圀が編纂を始めた「大日本史」の現物と幕末の志士吉田松陰の自筆漢詩が展示されていたからである。
なぜ光圀は大日本史を編纂したのだろうか、展示されている大日本史の現物をぜひ見てみたい。200年後の明治維新の原点となった水戸学とどう関わりがあるのだろうか。そして脱藩して東北遊学する吉田松陰は、水戸に来て何を学んだのだろうか。松陰が詠んだという漢詩の中に手懸りがあるかもしれない。
受付で傘を借り、土砂降りの中を白塀に囲まれた正門を潜ると、広い中庭の正面に本瓦葺き大屋根の重厚な正庁が居座り、明治維新前夜にタイムスリップした錯覚に鳥肌が立っていた。165年前にこの同じ場所に立ち竦む青年吉田松陰の姿と自分を重ね合わせていた。
正庁の玄関奥の床の間に「尊攘」の書が掲げられていた。安政3年に斉昭の命で書かれたというから、松陰が来館した時はまだ無かったことになる。松陰は正面玄関に何と書かれた言葉を目にしただろうか。もしかしたらその言葉が松陰の運命を決定付けたかもしれない。
正庁内に質素な畳部屋が続き、講堂としても使われたという。ここで多くの藩士やその子弟が学問と武芸を学んだというが、萩を脱藩した松陰は、この座敷に座れただろうか。どのような処遇を受けたのだろうか。


廊下に掲げられた扁額「游於藝」は、斉昭の書で、藝とは、礼・楽・射・御・書・数の六芸をさし、文武にこりかたまらず悠々と芸を究めるという意味だという。斉昭の多彩で自由な生き様が伺えてくる。
藩主が臨席して試験や儀式が行われた正座の間には、弘道館の建学精神と教育方針を記した石碑の拓本が掲げられ、斉昭の命で水戸学の藤田東湖が草案を作成、神儒一致・忠孝一致・文武一致・学問事業一致・治教一致の五項目が示されており、混迷の時局に立ち向かうバランス感覚優れた斉昭の施政意欲が伝わってくる。
10間廊下の奥にある「至善堂」は、斉昭の七男で最後の将軍となった徳川慶喜が幼少期を過ごし、大政奉還後はここで謹慎生活を送ったという。徳川幕府の幕を自らの手で閉じた慶喜の感慨は如何ばかりだったろう。
斉昭書の扁額「至善」は、大学が完全無欠な善を拠り所として行うの意味、御座の間の斉昭詠の歌碑拓本は「行く末も踏みなたかへそあきつ島、大和の道ぞ要なりける」と読み、日本人としての進むべき道が示されているという。正庁内を少し歩いただけで、斉昭の熱い思いと水戸学の精神が朧気ながら見えてきた気がした。

正庁内を一回りして、反対側の資料展示室に入ると「水戸学」についての説明資料が掲示されていた。
「17世紀の二代藩主徳川光圀時代の前期水戸学は、朱子学の歴史思想に基づいて過去の日本歴史を理解しようとしたが、19世紀の後期水戸学は、現実に直面する藩財政の窮乏と農村の疲弊の内政問題と、欧米列強の圧力が増大する対外問題との内外から迫りくる幕藩体制の危機を深刻に受け止め、その打開策として民心を統合し国内政治の改革を断行して国家の統一強化をはかる必要性を説き、その頂点に天皇を位置し政治秩序を確立しようとする大義名分論を特色とするとあり、嘉永6年のペルー来航後、対外関係の緊迫化した幕末期に高揚した尊王攘夷運動の指導理念となり、諸藩の志士たちに多大な感化を与えていった」とあった。
光圀の大日本史編纂に流れた前期水戸学と明治維新の原点となった幕末の後期水戸学とは別物なのだろうか。その底流に流れているものがあるとしたら、それはなんだろうか。好奇心がますます掻き立てられた。
 
弘道館の創設者徳川斉昭の年表に、波乱な人生が解説されていた。斉昭は30歳で藩主に就任、藩政改革に取り組み、倹約の徹底や軍制の改革、弘道館と偕楽園の造成、定府制の廃止など天保の改革を推進したが、その行き過ぎた改革に幕府の命で致仕謹慎となる。
5年後に藩政関与を許され、4年後の嘉永6年(1853年)ペリー来航を機に海防参与として幕政に参加するが、安政5年(1858年)に将軍継嗣問題(水戸藩主斉昭の七男慶喜と徳川紀伊藩主慶福の争い)と日米修正条約をめぐって幕府の処分を受け、14代将軍家茂(紀伊藩主慶福)擁立と日米修正条約調印を断行する大老井伊直弼に反対した斉昭や尊攘派の志士たちは安政の大獄で弾圧処分され、斉昭は水戸に永蟄居となる。
万延元年(1860年)桜田門の変で井伊直弼が水戸浪士たちに暗殺され、その5か月後に謹慎中の斉昭は水戸城内で急逝、享年61才。もし急逝していなければ、その後の明治維新への道は変わっていたに違いない。

【吉田松陰の水戸遊学】

吉田松陰が水戸を訪れたのは嘉永4年(1851年)12月、約1ケ月ほど水戸に滞在し会沢正志斎や豊田天功に教えを受けたという。斉昭が謹慎を解かれ水戸藩政に復帰して弘道館が活気を取り戻していた時期である。
外国船が出没する東北地方の海防状況を見聞すべく遊学中の松陰は、萩藩を脱藩した身で、まだ21才の無名な青年、水戸藩士とその子弟を対象にする藩校弘道館には迎え入れられなかったようである。正志斎を訪れた際に「水府の風、他邦の人に接するに歓待甚だ渥く、歓然として欣びを交へ、心胸を吐露して隠匿する所なし」と書いており、江戸で佐久間象山の紹介状をもらい正志斎や天功の私宅に押し掛けていたのかもしれない。
資料展示館のパネルに弘道館の歴代教授頭取が紹介されており、青山延于は、大日本史編纂の彰考館総裁として編纂に注力しその皇国史略が幕末維新期に広く読まれたとあり、同じく総裁の豊田天功は、彰考館にあって大日本史の修史事業に専念したがペリー来航後に多くの攘夷海防論の書を出し、弘道館初代教授頭取の会沢正志斎は、尊皇と国防を説いて著書「新論」が幕末勤皇志士たちの間で愛読されベストセラーになっていたという。
松陰は東日本遊学に出立する前、正志斎の新論を読んでその攘夷思想に大いに影響されたといわれ、長州から遙々と水戸にやって来て、その著者本人に歓待され直接薫陶を受ける松陰の昂揚感は如何ばかりだったろう。

弘道館に展示されていた松陰の自筆漢詩は、1か月の滞在を終えて水戸を去る際に、滞在先の水戸藩士永井政介の息子芳之介に贈ったという惜別の詩である。
「四海皆兄弟 天涯如比隣」で始まり文中に「大義至今猶赫々」とあり、年齢が近く意気投合した芳之介に、同志としての絆を誓い合い、外国の脅威からの憂国と攘夷を激昂する松陰の姿は見えてきたが、後に明治維新の原点となる尊皇攘夷者の松陰の尊皇は、その自筆漢詩の中には見当たらなかった。
松陰が滞在先にした永井政介は、27年前に日本近海で捕鯨漁中に常陸国大津海岸に上陸した英国船員を斬殺しようとした水戸藩の剣客で、翌年に幕府の異国船打払令の一因となった事件だが、そんな剣客宅を滞在先に選んだ松陰は、まだ一介の兵学家であり外国人斬殺を狙う過激な攘夷論者に過ぎなかったようである。
松陰が正志斎との六度の面会で触れたであろう、西欧諸国のアジア侵略の危機に対応するため人心統合の思想として国体を忠とする尊皇思想はどうしたのだろうか。
東北遊学から萩に戻った松陰は、脱藩の待罪の身となり、部屋に閉じこもり日本書記など国史の世界に没入、水戸の遊学中に正志斎から植え付けられた皇国そして尊皇思想の種子が育まれ、やがて明治維新の起爆剤となる尊王攘夷論者に成長していったのであろう。

【後期水戸学と幕末の志士たち】

明治・大正・昭和の三時代に大きな影響を与えた思想家で言論人の徳富蘇峰は、維新回天の歴史における水戸藩の役割を「水戸は播種者となり、薩長は取獲者となり、其の仕事の順序は一ならざるも、各々其の貢献したる事実は、其の揆を一にするものと云わねばならぬ」と表現していた。後期水戸学の多様な思想が歴史の舞台に登って幕末の志士たちに様々な影響を与えて、時代を大きく変換させていったのである。
後期水戸学は、江戸時代末期のナショナリズムであり、藩政改革と幕政改革を目指して幕末の各藩士に受け入れられ、尊皇攘夷の理論的な根拠となっていく。
後期水戸学の思想を類型化すると、欧米列強の艦船が近海に出没による脅威からの攘夷論・富国強兵論、日本を守る精神的支柱として皇統一系の尊王論・国体論、王道仁政思想による文武一致論・治教一致論、に分けられるというが、激変する時代の中で、松代藩士佐久間象山は攘夷から開国論に、久留米藩士真木保臣は尊王敬慕から尊王討幕に、肥後藩士横井小楠は王道思想徹底のため攘夷から開国論に政治路線を転換していった。
幕末の志士たちは、後期水戸学の多様な思想の中から自らの思想や個人的利害や社会的立場に合った思想を意識的、無意識的に選び取り、柔軟に変遷させて政治行動に身を投じて自らの行動を正当化していったのである。

【徳川光圀の「大日本史」】

弘道館の資料展示室奥の平型ガラス書架内に展示された「大日本史」の現物に対面した。光圀が編纂を始めた前期水戸学の原典であり、250年の年月を掛けて明治時代にようやく完成した本紀(初代神武天皇から後小松天皇まで天皇の伝記)73巻と列伝(后妃・皇子・皇女・群臣などの伝記)170巻の計243巻100冊が10冊ずつを積み上げ並べられていた。(下段の写真)


当時の将軍家光が、儒者林羅山に編纂を命じた「本朝通鑑」は、神代の神武から直近の後陽成天皇の1611年までを編年体で編纂されて、南北朝時代は北朝と南朝を並立して年号は北朝としていたが、光圀の大日本史は、司馬遷の「史記」に倣って歴代天皇に分類・配列する紀伝体で編纂され、初代神武から南北朝が合一した後小松天皇が崩御する1433年で終わっている。
光圀は、林羅山の編纂した本朝通鑑の冒頭に、日本の国祖を呉の泰伯であると書いてあるのを、駁正して削除させたといわれ、日本の歴史は、日本本位であらねばならず、皇室は天祖天照大神より萬世一系で、三種の神器の存在を以て天皇の正従を定めてきた、として南北合一して三種の神器が北朝に伝わるまでは南朝が正統であると主張、南北朝時代を南朝の天皇紀で編纂させている。
南北朝合一以降の天皇は、足利幕府が擁立した北朝皇統の傀儡天皇であり、武の覇道ではなく徳の王道を尊んで鎌倉幕府の武家政権を倒し建武の天皇親政を成し遂げた南朝の後醍醐天皇を崇敬する光圀は、日本の歴史を天皇の世紀として大日本史に編纂したかったに違いない。
大日本史編纂に携わった学者たちは、後に水戸学派と呼ばれ、南朝を正統とする尊皇思想となり、薩長の討幕思想へ大きな影響を与え、皇室の威厳を尊ぶ忠臣烈士の赤誠を顕彰する思想へと過激化していった。

平型ガラス書架の中に積まれた大日本史の山の一つの一番上にある皇子列伝の巻四八の表紙に、後小松天皇の名と左下に小さく附北朝皇子とあるのを見つけた。
南朝を正統としながら、北朝の皇子について、附とはいえ記述していたことは意外だった。それでは、本紀ではどうなのだろうか。本紀最後の巻73は積み重ねられた中にあって、ガラス書架は施錠されている。一度気になり始めると堪えられなくなる。勇気を奮って弘道館の受付事務所に戻り、本紀の巻七三の表紙だけでも見せてもらえないかと尋ねてみた。
大日本史の編纂目的といわれる南朝正統論に関わることなのでと語る私の疑問の意味が分かってくれたのか、学芸員らしき職員が鍵を持って展示室に来てくれた。
ガラス書架が開かれ、書架の中に積まれた大日本史100冊の中から、巻72と巻73を探し出して私の手に持たせてくれた。表紙には当然ながら後醍醐天皇から南朝最後の後亀山天皇までと南北朝合一の後小松天皇の名が並記されていたが、附北朝天皇という表記はなかった。

隣に立ち私の様子を窺っている職員さんに横目で了解を求めて、ページをめくってみると、版木で綺麗に刷られた漢文体の文字が埋め尽くされ、浅学の私に読めるはずもないが、本紀の巻72が、南朝の後亀山天皇が三神器を以て吉野行宮を発す、で終わり、巻73が、北朝の後小松天皇が三神器を土御門殿に於て受くで始まり、後小松の崩御で終わっていた。南北朝時代は南朝の天皇単位に編纂されて、北朝5人の天皇については、南朝天皇紀の本文中に北朝天皇の名と動静が随所に触れられ、北朝天皇が全く無視されていたわけではなかった。
私のような疑問を抱く見学者は珍しいだろうし、たぶんいないだろう。お陰で光圀の編纂した大日本史の現物に直に触れることができた。素人の思い付きに付き合ってくれた職員さんのご好意に感謝して弘道館を後にした。
先ほどまでの豪雨は上がり青空が覗いてきた。次の目的地は、水戸に来たらやはり偕楽園である。自転車を走らせながら、大日本史の現物に直に触れた指先の感触に胸はときめきっぱなしだった。

【水戸偕楽園に徳川斉昭を訪ねて】

青々と水の張った美しい千波湖が広がり、周囲三キロの湖畔遊歩道に桜が植栽されて、春には市民の憩いの公園になるのだろう。湖面を撫でる爽やかな風を切りながら、サイクリング気分で千波湖を半周した。
偕楽園は梅の名所として有名だが、徳川斉昭が弘道館を創設した翌天保13年(1842年)に開園、創園の由来は「礼記」にある孔子の言葉「一張一弛」(厳しいだけでなく時には緩めて楽しませることも大切であるという教え)で、文武修業の場である弘道館に対する修業の余暇に心身を休める場として偕楽園を開いたという。
また偕楽園の名称は孟子の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」の一節から取ったといわれ、斉昭は藩主や藩士だけでなく庶民にも開放し共に楽しもうとしたという。名君斉昭が今なお親しまれる所以である。
湖畔の仙波公園から北側の偕楽園に入り「好文亭」に向かった。徳川斉昭の命で建てられ、晋の武帝の故事「文を好めば即ち梅開き、学を廃すれば即ち梅開かず」により梅の異名「好文木」から命名された別邸である。
奥御殿の各部屋の襖絵には四季折々の絵柄が描かれ、急な階段を登ると、三階の楽寿楼から仙波湖、見晴広場、梅林、水戸市街地の素晴らしい眺望が広がっていた。

【徳川ミュージアムに徳川光圀を訪ねて】

偕楽園の好文亭から千波湖の西側を迂回して「徳川ミュージアム」に自転車を走らせた。水戸徳川十三代圀順が、伝来の大名道具や古文書を寄贈して設立、家康、水戸藩初代頼房、二代光圀の遺品や彰考館所蔵の大日本史関連資料が展示されているという。
私の関心事は、光圀が大日本史を編纂するようになった理由である。展示資料に、水戸に生まれ6才で世子に選ばれ、江戸小石川邸で後継ぎの教育を受けるが、15~16才の頃は、自分の境遇に反発して奔放な生活を送り、その行状に歌舞伎ものと風評が立ったとあった。
光圀18才の時、中国の歴史書「史記」の「伯夷伝」で、伯夷・叔斉兄弟が互いに相続を譲り合って国を出たため国が滅んだ故事に感銘して以来、その行いを厳しく律して学問に専念するようになり、特に史記に習って我国の修史編纂事業を開始すべく、1657年に江戸別邸駒込に史局として彰考館を創設、史臣を集めて我国の史記ともいうべき大日本史編纂に取りかかったという。
光圀が常陸太田市の西山荘に隠居すると、1698年に江戸にあった彰考館の一部を水戸城内に移し、天皇紀を中心とする神国日本の歴史研究による勤皇思想が、水戸彰考館を中心に全国に広まり、やがて明治維新の原動力となっていった。

展示場の光圀の年表で、光圀が伯夷伝の故事に大きくリアクションした裏に、光圀自身の出生と生い立ちがあったことを知った。寛永5年(1628年)光圀が水戸徳川初代頼房の三男として生まれ、同年に次兄亀丸が4才で死去、1630年に長兄頼重が京都天龍寺に預けられ、1633年に三男光圀が水戸藩の世子となる。
1636年に元服して将軍家光からの偏諱を与えられ光国と改名、1639年に兄頼重が常陸下館5万石、1642年に讃岐高松藩12万石藩主となる。この年、光圀15才、光圀の行状が乱れてきた年である。
弟の自分が同母兄を差し置いて、幼いうちに水戸藩世子に定められて江戸で英才教育を受け、世子とならなかった兄は、常陸の下館そして四国の讃岐高松藩に出されてしまった、このことが、少年光圀の優しい心を傷つけ、自己嫌悪に苛まれた光圀は、かかる決定をした父親に反抗して放蕩な生活態度に逃避していったに違いない。
光圀が生前に造った自分の墓「梅里先生墓」の碑文「壽蔵碑」に、兄頼重を差し置いて自分が水戸藩主となったことを長年悔いてきたが、兄の子にその座を譲ることが出来て大変満足している、と書いていた。
兄の子に家督を譲るため、光圀は子を作らないと決意し、唯一の子頼常が出生する時には流産を命じており、正室に迎えた近衛尋子との間に子をもうけなかった。
1661年に父の逝去で水戸藩二代藩主になると、翌々年に兄頼重の子綱方を世子に迎え、光圀の庶子頼常を頼重の養子に、兄の子と我が子を交換したのである。1670年に養子にした綱方が23才で死去すると、翌年に綱方の弟綱條を世子にした。

光圀はなぜ世子になれたのだろうか。父頼房は、生涯正室を持たず10人近い側室に26人の子女をもうけており、長男頼重は、まだ正式に側室にもなっていない久子が身籠り、堕胎を命じられたが密かに出産して家臣に養育され、19才の頼房に望まれた出生ではなかった。
二男亀丸の生母円理院は、奥の内に権勢を張って諸妾懐孕には必ず堕胎させていたといわれ、病弱な亀丸に見切りをつけた頼房が、側室円理院への配慮から、養母の英勝院を利用して将軍家光に光圀の世子決定を働きかけたといわれるが、自分の出生にも堕胎を命ぜられていたことを知った光圀の心情はいかばかりだったろう。
光圀が着手した大日本史は、編年体ではなく歴代天皇に分類配列する紀伝体で、天皇中心に編纂されている。
当時の幕府と天皇・朝廷の関係は、家康が禁中並公家諸法度を定めて、秀吉と蜜月関係だった皇室と公家の統制を強化するが、二代将軍秀忠は、五女の和子を後水尾天皇に入内させて朝幕の関係改善を図っていく。
しかし朝廷の収入源である高僧への紫衣授受を規制した幕府制定の公家諸法度に反して後水尾天皇が幕府に無断で紫衣着用の勅許を与える紫衣事件が勃発して、朝幕関係は最大の危機を迎えた。幕府の法度が天皇の勅許に優先するとして、朝廷と寺社に圧力と統制を強化、反発する後水尾天皇が突然譲位して、和子の娘一宮が明正天皇に即位、秀忠は天皇の外戚となった。
五年後の秀忠の死による大赦令で紫衣事件の連座者が許され、和子の兄三代将軍家光が上洛して後水尾上皇の院政を認め、朝幕関係を再建して国内政治の安定を図っていく。その翌々年に8才の光圀が元服している。

明正天皇の母和子と光圀は従姉弟の関係、明正天皇は光圀の従姪になる。光圀は、父頼房の侍講で京都出身の儒者人見卜幽軒を通じて公卿で歌人の冷泉為景らと交流を結び、京の文化に憧れを抱いており、これまでの朝廷と幕府の在り様を嘆いていたに違いない。
光圀26才の時に、前関白で後水尾上皇の弟近衛信尋の娘尋子を正室に迎えて、その3年後に大日本史の編纂に着手している。正室尋子は、和歌に優れ学識が高く容姿も天姿婉順で光圀との仲も睦まじく、光圀が朝廷や皇室との人的な交流を深める中で、天皇中心の大日本史編纂を志すトリガーになったのかもしれない。

光圀の編纂させた大日本史が、220年前の南朝の終焉で終わらせた光圀の思いは何だったのだろうか。
鎌倉時代後半に88代後嵯峨天皇が譲位、89代後深草天皇と90代亀山天皇の兄弟の確執から、持明院統と大覚寺統が交互に皇位につく両統迭立に移行する。
大覚寺統の96代後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政を敷くと、天皇新政に反対する足利尊氏が持明院統の光明天皇を擁立、後醍醐天皇は京都を脱出して吉野行宮に遷り、二つの朝廷が並存する南北朝時代となり、国内は、南朝方と北朝方に二分して内戦状態となる。
南朝方武将北畠顕家、新田義貞、楠正成らの敗死と足利義満の幕府中央集権化により南朝方は衰微、和平派の南朝四代後亀山天皇が、北朝六代後小松天皇に三種の神器を渡して譲位する形で南北朝は合一、かくして天皇の権威は失墜、室町幕府の武家単独支配体制が確立する。
光圀は、鎌倉幕府の武家政治を倒して建武の新政を敷いて天皇親政を目指した南朝の後醍醐天皇を崇敬しており、武家政治の再興を図る足利尊氏に敗れた南朝の忠臣楠木正成を顕彰している。逆賊であろうと主君に忠誠を捧げた人間の鏡であり全ての武士は正成の精神を見習うべしと「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立、正成は後世の水戸学者らによって、死を賭して天皇を守った理想の勤皇家として崇敬されていく。
光圀の大日本史に流れる天皇中心の神国思想が、やがてアヘン戦争の清国敗北による西欧帝国主義の脅威に対抗する日本の主体性の支柱となり、その勤皇思想が外国の脅威を武力で排除しようとする攘夷思想と結びつき、幕末の尊皇攘夷思想が形成されていった。

【1000㎞縦断リレーで茨城日立の地を走る】

水戸を探訪した次の「未来への道1000㎞縦断リレー」は、東日本大震災から2年経った平成25年に、スポーツのチカラによって震災復興の機運を醸成し被災地と全国の絆を深めることを目的に、青森から東京まで1000㎞を14日間かけてランニングと自転車でタスキを繋ぐイベントとして、東京オリンピック2020招致活動を兼ねて始まった国家的プロジェクトである。
被災地宮城の出身者として参加を続け、第1回大会に宮城県山元町、第2回に千葉市と東京江東区とお台場ゴールを、昨年の第3回は宮城県東松島市を走り、今年の第4回は12日目の茨城県日立市を走ることになった。
集合場所はいわき市だったが、前日の水戸探訪に丸一日をかけてしまい、水戸駅前のホテルに前泊、朝一番の常磐線でいわきに向かった。いわき駅からスタート会場の小名浜アクアマリンパークまで専用シャトルバスで移動、恒例のスタートセレモニーでは、元Jリーガー北澤豪さん、EXILEのTETSUYAさん、ミス日本グランプリの松野未佳さんがゲストランナーとして参加されて盛大に行われた。
今回走る茨城四区は、日立市滑川交流センターから日立市役所までの2.4キロ、今日走る区間の中で最長区間である。スタート会場から中継所に大会の専用バスで移動、車内で参加者が自己紹介し合い、大会参加の動機や被災地復興への思いを語り合って親交を深めた。
滑川交流センターで茨城三区のランナー7人を横一列になって迎え、握手を交わしタスキを受け取り、中継所に集まった地元の声援を受けてスタートした。国道六号のダラダラ坂が連続して猛暑の中で過酷な走りとなったが、クルー7人が路肩を縦一列に励まし合い、途中で冷たい水の補給を頂いてタスキを無事繋ぐことができた。
2年前のイタリア旅行で懇意になった日立市在住の小野ご夫妻がリレー中継所まで応援に来てくれた。某私立高校理事長で全国行政相談委員連合協議会会長をされており、我々スタートを見送ると次の中継所の日立市役所まで車で先回りして迎えてくれた。海外旅行から帰ってからも親しくお付き合いいただくご厚情に感謝である。
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