*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
奈良県高市郡明日香村大字奥山601
2.諸元
3.探訪レポート
2016年10月16日(日) 初めての奈良古代史探訪 2日目
この日の探訪箇所
藤原宮跡 → 藤原京朱雀大路跡 → 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 → 橿原市藤原京資料室 → 奈良文化財研究所飛鳥資料館 → 飛鳥京跡苑池 → 伝飛鳥板蓋宮跡
⇒前回の記事はこちら
見どころ満載だった橿原考古学研究所附属博物館を見学し、藤原京資料室に立ち寄った後は、明日香村へ向かいます。
今回は初の奈良探訪ですから、自動的に初の飛鳥探訪となります。
初めての土地に来たらまずは地元の博物館や資料館へ行かないとですね。
ということで、奈良文化財研究所(通称・奈文研)の飛鳥資料館へやってきました。
駐車場に車を止めて行ってみますよ。
※帰宅後に気づいたのですが、空中に変な物体が写っています!
※初のUFO撮影に成功か!と思ったのですが、気球のような形状をしていますね。
※これがUFOだったら性能悪そうです。
敷地全体図を見ると、飛鳥の各所にある石造物の復元が敷地内に散らばって置かれているようです。
では、入館しますよ。
なんだこれは!
蘇我氏はペルシャ人だったと主張する人がいますが、蘇我氏が渡来人(主として東漢<やまとのあや>氏)を配下に収めていたのは確かです。
でも石造物の顔立ちは西の方の人の雰囲気が濃厚ですね。
飛鳥の遺跡地図。
うわー、たくさんあるなあ。
主要部をアップします。
今日は初見ということで、ここの見学と資料収集を主目的としよう。
立派な鴟尾(しび)がある。
鴟尾というのは屋根のてっぺんの両端に1個ずつ付けられる飾りで、これは7世紀後半の和田寺のものです。
では、展示室に入りますよ。
飛鳥時代の武人。
挂甲という種類の甲ですが、先ほど訪れた橿原考古学研究所附属博物館にも復元品が展示してありましたね。
戦国時代などの中世の武士の武装もカッコいいですが、この時代はまだ何となく「三国志」チックでこれまたカッコいいです。
飛鳥寺の塔の埋納物が並べられています。
え、蛇行状鉄器が埋納されていたの?
左上に参考資料として馬形埴輪の写真が掲示されていますが、埼玉県行田市の酒巻14号墳出土の埴輪で、東国の人間としては関東の埴輪の写真がここにこうやって掲示されていることが嬉しいです。
雷丘東方遺跡から出土した「小治田宮」(小墾田宮)の墨書土器。
これが出土したことにより、小墾田宮があった場所は、少なくとも8世紀末~9世紀初の時点では、通説で言われている古宮土壇のある古宮遺跡ではなく、雷丘東方遺跡であるといわれるようになりました。
飛鳥の語源など。
奈良盆地と河内平野の豪族分布図。
現在の奈良県と大阪府を地形図上で見るとこの図に書かれている通り、生駒山や葛城山などの山並みによって大きく東西に区切られて見えますが、大和川水系の一体化した地域という見方をしたほうがよいと考えます。
ヤマト王権は確かに纏向遺跡が根本的な本拠地だとしても、この図の範囲内がひとつの政治範囲で、その範囲内で古市・百舌鳥古墳群を含めて、大王家の古墳造営地が移動したと考えており、大雑把に言って4世紀までは奈良盆地に王の陵が造られていたのが5世紀になって河内平野に遷ったとしても、特段驚くことではありません。
あ、今日は古墳の話じゃなかったですね。
豪族の盛衰。
蘇我入鹿のときに蘇我氏の権力が肥大化したことを図示しています。
つづいて、飛鳥の地に造営された各時代の宮の説明です。
飛鳥の地で最初に造営られた宮は、小墾田宮で、先ほど見た墨書土器に関連しますね。
伝飛鳥板蓋宮跡。
ここに書かれている通り、現在「伝飛鳥板蓋宮跡」と呼ばれている遺跡は、重層的になっており、各時代の宮が置かれたことが分かっています。
一番新しいのが、天武・持統期の飛鳥浄御原宮です。
飛鳥はあちこち宮だらけ。
これは礎石かな?
川原寺が建てられる前にあった川原宮で扉に使われていたものなんですね。
しかしよくこういうものが見つかるなあ・・・
再び遺跡地図。
飛鳥水落遺跡のジオラマがあります。
こちらは水落遺跡の水時計(漏刻)の復元です。
日本初の時計ですよ!
ここで働いているスタッフの動きはクオーツ並であったと、そう思いたい。
凄まじい精度で鐘を叩く・・・
またまた石造物。
石神遺跡で出土した須弥山石。
周辺遺跡の位置関係。
つづいて、キトラ&高松塚古墳のコーナーです。
小さな円墳の模型がありますよ。
あら、キトラ古墳の復元模型ですって。
キトラ古墳は径13.8mの2段築成の円墳ですが、規模だけを見たら小円墳ですね。
その内部にまさか立派な壁画が残っているなんて、見つけた人はさぞかしビックリしたことでしょう。
古い本を読むと、「亀虎古墳」と書いてあるときがあり、漢字で書くとまたイメージが違いますね。
こちらは高松塚から出土した遺物。
高松塚も2段築成の円墳ですが、径は23mとキトラ古墳より大きいです。
築造時期はキトラ古墳が7世紀後半から8世紀初頭で、高松塚はキトラ古墳よりやや後ですが、それでも8世紀初頭に収まると考えられています。
有名な壁画のレプリカが展示してありますよ。
西面・北面・東面の壁画が展示してあり、南面がありませんが、盗掘者によって破壊されてしまったため残っていませんでした。
日本人は元々、古墳に墓誌を入れる習慣がなかったのですが、古墳時代の終末期になると墓誌を入れる古墳が見られるようになります。
これはレプリカで本物は国宝です。
小野毛人(おののえみし)は、遣隋使として有名な小野妹子の子で、677年に亡くなっていますが、何で8世紀なんだろう?
川原寺の模型。
カッコいい伽藍配置だ。
しかし、こういうジオラマは見ていて飽きないですね。
代表的な古代寺院の伽藍配置図。
朝鮮半島の寺院の伽藍配置も展示してあっていいですね。
我が国最初の伽藍を備えた本格的寺院である飛鳥寺(法興寺)の伽藍配置は、当初は四天王寺式と考えられていたのですが、1956年から翌年にかけての発掘により、見たことがない伽藍配置であることが分かりました。
国内には類例がなかったため、半島の寺院を調べてみたら、なんと高句麗の清岩里廃寺に似ていたのです。
当時は一般的には日本は百済と仲良かったとされているのですが、日本最初の本格的寺院の伽藍配置は百済ではなく高句麗の影響下で設計されたんですね。
でも、日本書紀を読むと当時は高句麗の僧も日本で活躍していますし、日本の仏教文化は朝鮮半島各国の要素を取り入れて成立したと考えていいでしょう。
周辺の古代寺院の分布図。
寺だらけ。
この地層剥ぎ取りのようなものは何でしょうか。
お、良い図がある!
英語で併記されていて面白い。
最初の方に出てきた鴟尾ってどこの部分かこれで分かりますね?
古代寺院の瓦シリーズ、まずは飛鳥寺。
つぎに大官大寺。
つづいて桧隈(ひのくま)寺。
さらに川原寺。
そして奥山久米寺。
おっとー、聴いたことのない地光寺。
地光寺は、葛城市脇田・笛吹にあった古代寺院で葛城一族の忍海氏の氏寺の可能性が高いそうです。
では、展示室から出ます。
廊下にも石造物が・・・
聖徳太子生誕地の伝承がある橘寺の二面石です。
表裏にそれぞれ顔が造られています。
今度は山田寺コーナーです。
山田寺の東回廊の礎石。
お、凄いのがありますよ!
色で現物と復元の違いが分かると思いますが、現物はこれが発掘現場で出てきたんですね。
驚くほかないです。
そしてまた何とも言えない石造物が現れました。
これらは「猿石」と呼ばれているものです。
右の2体はポーズが似ていますね。
私的には一番左のキャラクターデザインが好きです。
冒頭で蘇我氏はペルシャ人だと言っている人がいるという説をチラッと話しましたが、日本書紀を読むと、その配下にはペルシャ人らしき名前をした技術者がいて、こういった日本人離れしたデザインの石造物はペルシャ人が造った可能性が十分あると考えます。
でも、一番左のは昭和のアニメキャラの雰囲気があるので、もしかしたら日本人がデザインしたのかななんて思います。
おっとー、飛鳥のジオラマだーっ!
うわー、ヤバい・・・
中央にかなりの面積を確保している木造建築っぽい色合いの建物群が飛鳥浄御原宮で、この中のどこかで天武と持統が仲良く夕飯を食べているはずです。
飛鳥浄御原宮の北側(画面上側)には甘樫丘と飛鳥寺が見えます。
下の写真では、飛鳥浄御原宮の上(西側)にあるねずみ色の瓦ぶきのお寺が川原寺で、それと道を挟んだ南側にあるのが橘寺です。
おや、あの生まれて間もない赤子は厩戸皇子(聖徳太子)でしょうか?
こちらは飛鳥浄御原宮の北側で、甘樫丘とその麓には飛鳥寺があり、寺の西側の槻木の広場ではちょうど中大兄皇子たちが蹴鞠をしており、それを中臣鎌足が木陰に隠れて見ていますね。
だんだんと妄想が甚だしくなってきましたが、私はそういう病気なので気にしないでください。
今度は北側から見ますが、飛鳥寺の北側の木造建築群の中に石神遺跡があります。
おっと、今度は雷丘東方遺跡ということは、豊浦宮の可能性が高く、炊屋姫(推古天皇)が何かしています。
何かって何でしょう?
そしてまた全体像。
こうしてみると、狭い飛鳥の地に宮と寺がひしめいていたのが良く分かりますね。
離れる決心を付けないとここから離れられません。
名残惜しいですが、次へ行きましょう。
また奇妙なものがありますよ。
なんでしょうね、もう。
以上、飛鳥資料館をザっと見学しました。
何しろ初めての飛鳥ですから見るものすべてが新鮮で、とくになんで飛鳥には不思議な石造物が集まっているんでしょうね。
おそらく蘇我氏の趣味、といったら変ですが、領域づくりに対する独自のコンセプトがあったのでしょう。
それでは、この後は可能な限り実際の遺跡を見てみたいと思います。
※後日注:この見学時にはあまりよく理解できなかったのですが、こうして写真をたくさん撮っておいたので、それが後々になって効いてきています。
⇒この続きはこちら
4.補足
5.参考資料
・現地説明板