日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

埼玉古墳群は継体政権下における対上毛野諸勢力対策の一端を担うために戦略的に築造されたのか

2020-02-20 19:46:30 | 歴史コラム
 埼玉古墳群のうち、整備された公園内で現在見ることができる古墳は、武蔵国最大の前方後円墳である二子山(墳丘長132m)を含め前方後円墳が8基と国内最大級の円墳である丸墓山(径105m)の合計9基です。


 ※二子山古墳

 それらは大きい古墳ばかりですから、全国区に出しても恥ずかしくない国内有数の「大型古墳を多く有する古墳群」と言えます。

 このような埼玉古墳群には古代史の楽しみが凝縮されているのですが、古墳群周辺の歴史を紐解くと、古墳時代の始まりとともに濃尾の勢力が入ってきて集落を形成します。

 濃尾の人びとが大量にやってきて新たな土地を開拓するというのは、関東平野ではよくみられる現象ですが、ここでまず最初の謎が発生します。

 彼らはサキタマの地に古墳(たいていの場合は前方後方墳)を築造しなかったのです。

 詳細は不詳ですが、古墳群の西1㎞の地点にある高畑遺跡では、豪族居館跡らしきものも出ています。

 なぜ、サキタマには古墳時代前期の古墳がないのでしょうか?

 埋没しているのか破壊されてしまったのか・・・

 こういう謎を残したまま、古墳時代中期を過ぎ、そして後期に入るか入らないかという5世紀末に、突如として(現状では「突如」に見える)墳丘長120mを誇る稲荷山古墳が築造され、そこから大型古墳の築造ラッシュが始まるのです。


 ※稲荷山古墳(写真には写っていませんがこの前方部の直線上には富士山があります)
 
 いったい誰が稲荷山古墳を築造したのでしょうか。

 それまで200年以上、地元に住み続けた人びとがついに意を決して大型古墳を造ったのでしょうか。

 多くの考古学者は、前方後円墳は地元の人の意思や経済力だけでは造れないと考えています。

 前方後円墳の築造にはヤマト王権の許可が必要だと考えているのです。

 もしサキタマに元々いた人たち(濃尾の人たちの末裔)が築造したとしたら、それは彼らがヤマト王権に一定の評価をもらったか、あるいはこれから実施していく予定の王権の政策をサポートするために有力な勢力だと認定されたということになります。

 ここで注意すべきは、埼玉古墳群の位置です。

 埼玉古墳群は、荒川流域(現在の河道ではありません)勢力ですが、利根川(これも現在の河道ではありません)にも非常にアクセスしやすいのです。

 私はある程度大きな勢力は、複数の河川を掌握していると考えますが、この利根川の上流域には広大な上毛野の平野が広がっています。

 現在の群馬県域と栃木県の一部ですが、その地には伝統的に強力な勢力が跋扈し、日本書紀を読んでも古くからヤマト王権に協力的だった「ように」見えます。

 この上毛野地域は5世紀前半は一時的に太田天神山古墳の被葬者に権力が集中されたように見えるのですが、5世紀後半以降は複数の大きな勢力が並び立ち、古墳時代後期に大型古墳を大量に造るという全国的に見ても非常に珍しい特徴を有するのです。

 埼玉古墳群の勢力は、通常は荒川を交通路として使用し、荒川流域全体に影響力を行使した可能性がありますが、その一方で上毛野の諸勢力の中でもとくに大きな勢力が並び立っていた利根川流域を監視下に置いたと考えます。


 ※利根川と荒川の古墳時代の推定流路を書き込んだこの図は明後日のレジュメに掲載して参加者の方々に差し上げます

 古墳時代は国内は比較的平和だったといわれているのでまず起こらないと思いますし、そもそも古墳は城塞ではないのですが、万が一上毛野の勢力が大挙して関東平野を攻略するために侵攻してきた場合、それを迎え撃つには埼玉古墳群の場所は非常に戦略的に有効な位置です。

 つまり私は、埼玉古墳群の勢力は、強力な上毛野の諸勢力を抑えるためにヤマト王権が戦略的に配置した勢力ではないかと考えるのです。

 ただし、允恭・雄略系の政権と懇意であった稲荷山古墳が築造された時点ではその意図はなく、その後、継体系の政権に切り替わった6世前半以降にそういったミッションを与えられたと考えます。

 6世紀前半というと有名な「武蔵国造の乱」が日本書紀の安閑紀に記されています。

 私は6世紀前半にはまだ東国には国造制は波及していないと考えていますが、そういう「国造」というラベルは置いておいて、そこに書かれている武蔵国内での主導権争いにヤマトと上毛野がお互いに敵対勢力として関わっているということが何らかの史実を伝えているのではないかと考えます。

 一見仲が良さそうなヤマト王権と上毛野の諸勢力の関係は、上毛野内に諸勢力が並び立った6世紀には一部悪化していたと考えられ、サキタマの勢力の中でも親ヤマトの一派と親上毛野(ヤマトと仲のよくない上毛野勢力)の一派に分かれて争いが起きた史実が安閑紀に「武蔵国造の乱」として挿入されたのではないでしょうか。

 サキタマ勢力内には上毛野からの調略の手も伸びていたと考えられ、そういうことを克服し、ようやくサキタマ勢力は親ヤマト勢力としてまとまったのでしょう。

 なお、上毛野内にも親ヤマトの勢力はいて、例えば藤岡市の七輿山古墳を築造した勢力は親継体勢力と考えます。

 継体はそういった上毛野内の親継体勢力を利用するとともに、俄然戦略的価値が高まったサキタマ勢力も上毛野内の反対勢力を潰すために起用したのではないでしょうか。


 ※将軍山古墳

 ところが、中央で蘇我氏が権力を握り始めた6世紀の後半から7世紀にかけては、中央から見て埼玉勢力は利用価値がなくなったのか、あるいはあまりにも力を付けすぎてしまい警戒されるようになったのか、蘇我氏からはそれほど重用されていません。

 サキタマ地方に仏教が入ってきた形跡がほとんど見当たらないことと(古代寺院跡が見つからない)、戸場口山古墳の築造はあったものの他の地域を圧倒する規模の方墳が築造されなかったことから私はそう考えます。

 サキタマ勢力は、それを打開するために伝統的にヤマト王権と仲の良い上総の勢力と手を結びました。

 房州石の埼玉古墳群への移入や、埼玉古墳群近傍の生出塚窯跡で製造した埴輪の上総への供給がそれを示しています。

 しかし、凋落したサキタマの力が復活することはありませんでした。

 7世紀後半の律令が整備されていく段階でサキタマ勢力は武蔵の国府を誘致をすることができず、多摩川流域勢力が武蔵国府の誘致に成功します。

 なお、私たちが普段何気なく使っている「武蔵」という令制国についても述べたいことは沢山あるのですが、注意しなければならないのは、律令国家により造られた武蔵国は、明治の廃藩置県と同様に非常に政治的な人工物であり、そもそも荒川流域と多摩川流域を同じ文化として語ることが間違っており、それらは歴史的にも文化的に別個の勢力です。

 ただし、既述したように私も便宜的に「二子山古墳は武蔵で一番大きな古墳」というようなことを言ったりはします。

【古墳時代前期および中期前半】遊牧騎馬民族「氐」の符氏の歴史【五胡十六国時代】

2018-12-22 14:55:11 | 歴史コラム
 前回の記事の続きです。

 気が付いたら長文になってしまったので、後半部分を分離して新たな記事に起こしました。

 ⇒前回の記事はこちら

*     *     *


 氐(てい)の符氏の歴史を調べるには本当はここで中国の正史を紐解くのが一番なのですが、おそらく五胡十六国時代の史料が手元にあるという方はあまりいないんじゃないでしょうか。

 ですので、前回紹介した小林さんの書物を参照します。



 まず、符洛という名前ですが、姓が「符」ですね。

 前回の記事で示した十六国の一覧を見ると、氐族が建国した前秦という国の創建者が苻健という人物だということが分かり、符洛は符健の甥にあたります。

 符氏が属する氐は、『後漢書』によれば昆明の東北に氐種に属する白馬国があるため、元々は雲南地方に住んでいた種族の可能性があります。

 彼らは紀元直後の王莽の乱以後に、隴から蜀地方の勢力に付随してその地方に移住し、牧畜や農耕を行っていたようなので、元々騎馬民族ではなかったのですね。

 上述の符健の父・洪は、今の陝西省の有力な家に生まれ、311年の永嘉の乱の際に経済力に物を言わせて人材を集めて挙兵し、やがて東晋に属して将軍として活躍しますが、350年に側近に暗殺されてしまいます。

 その跡を継いだのが三男の健です。

 健の兄二人はすでに殺害されていました。

 健は秦の国号を掲げて自立したため東晋に攻められますが、辛くもそれを退けた後、翌351年には亡くなってしまい、子の生が跡を継ぎます。

 ところが、片眼が不自由だった生は暴虐な性格であったため、357年には従弟の堅が泥酔状態だった生を殺害して王位に就きます。

 ここまでで一旦関係系図を挙げますので関係を整理してみてください。


 符洪 -+- 〇 -+- 青(洪二男の子の可能性もあり)
     |     |
     |     +- 洛(青とともに洪二男の子の可能性もあり)
     |
     +- 〇
     |
     |   
     |  ①
     +- 健 -+- 〇
     |     |
     |     |  ②
     |     +- 生(暴虐)
     |
     |        ③
     +- 雄 --- 堅

 ※数字は秦の即位順

 小林さんは、まだ符氏が東晋に属していた時代、堅は人びとに「東海の魚」と呼ばれていたらしいことを挙げて、堅が遼東半島か朝鮮半島方面に赴任していたのではないかと推測しています。

 つまりは倭国に近い場所ですね。

 つづいていよいよ、応神天皇になった人物かも知れない符洛が登場します。

 堅が涼州を平定したあとの376年、洛が北魏攻略を担当しました。

 洛は堅の従兄にあたります。

 洛は走っている牛を捕まえられるほど勇敢で、弓を射れば鉄を射通すほどの剛力と言われた男でしたが、その戦闘力は重宝するものの同時に危険人物でもあるので堅からは冷遇されていました。

 不平不満が絶頂に達した洛はついに謀反を企て、380年には東夷の国ぐにに激を飛ばし協力を要請します。

 使者が向かった先は、鮮卑、烏丸、高句麗、百済、薛羅(せつら)、休忍(きゅうにん)等の国ぐにで、小林さんは薛羅は新羅のことで、休忍というのは日本列島にあった勢力のことだと推測しています。

 確かに休忍という名前は私も聴いたことがなく、伽耶の勢力もしくは日本列島の勢力であった可能性は高いでしょう。

 ところが、洛が協力を要請した東夷の国ぐにはことごとくそれを拒絶します。

 洛もここに至っては引くに引けず、長安を攻めようとしますが、ついに堅との戦いに敗れて捕縛されてしまいました。

 でも死罪にはならずに涼州への流罪となったのです。

 つづいて、その堅も戦いに敗れ処刑され、いよいよ洛が日本列島へ逃れて応神天皇となる、という筋書きになるのですが、これ以上はネタバレになってしまうので気になった方は上述の本を読んでみてください。

 なお、五胡十六国時代は北魏が439年に華北を統一して終わったと既述しましたが、それでもまだ中華の完全統一には至らず、続いて南北朝時代になり、588年に隋の文帝による統一まで待たないとなりません。

 以上、簡単に説明した3世後半から6世紀末までの時代は、日本では古墳時代にあたり、ヤマト王権が発足してから聖徳太子の時代(蘇我王権時代)までにあたりますので、この時代の日本古代史を解明しようとする場合は、上にその一部をご紹介したように、中国大陸の動きをきちんと把握しておく必要があります。

 日本の古墳時代を考察する上では、まずは五胡十六国について基礎的な知識を備えておくといいので、その時代について書かれた本を読むことをお勧めします。

 小林さんの本はちょっと・・・、という方には古い本ですがこういった本がお勧めです。





 ところで、中国大陸で五胡十六国の戦いが繰り広げられていた時代のヨーロッパでは、黒海沿岸に居たゲルマン族の一派である東ゴート族が、東から遠征してきたフン族によって征服されます。

 このフン族は匈奴のことであるという説がありますが(そうだとすると既述した鮮卑の軻比能に圧迫されて西へ移動した可能性があります)、これによりドナウ川北岸に居た西ゴート族がドナウ川を渡ってヨーロッパになだれ込み、「ゲルマン民族の大移動」という現象が始まるわけです。

 そしてついに、410年には西ゴート族はローマを占領してしまいます。

 この東から西への民族大移動によってヨーロッパの国ぐにが相当な影響を被ったわけですが、フン族が匈奴である可能性を鑑み、上述した五胡十六国時代の中国での動乱との関連は無いはずは無いと思います。

 さらに朝鮮半島に目を転じると、建国してからおそらく半世紀くらいだった百済の近肖古王が南下を企てる高句麗に対して逆襲し、371年には高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させて、一時的に高句麗の力を削ぐことに成功しています。

 この頃の倭国と百済の通交を物的に証拠立てる物として「七支刀」がありますが、七支刀は369年に鍛造されたもので、百済の対高句麗政策の一環として、372年に近肖古王が倭国の王にプレゼントしたものです。

 これにより、百済は倭および中国の東晋と軍事同盟(東晋に対しては朝貢関係ですが)を結んで高句麗と対峙していくことになります。

 重ねて言いますが、こういったユーラシア大陸の各地で同時期に起きた現象は関連性があると考えられ、こういった現象が起きる原因の大きなものとしては気候の寒冷化が挙げられます。

 気候の寒冷化とそれに伴う歴史の動きに関してはまた機会があればお話ししたいと思います。

 ■おまけ

 私はたまにクラブツーリズムのツアーで福岡県宮若市の竹原古墳をご案内することがあり、装飾壁画について説明する際に中国の「四神思想」について触れます。

 そこでお客様からたまに「四神思想っていつ頃日本に入ってきたんですか?」と質問されることがあるのですが、それに関して参考資料の存在をお伝えします。

 中国の前漢時代末から後漢時代(紀元前1世紀~紀元2世紀)にかけて作られた銅鏡に方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)という鏡があります。

 その方格規矩鏡には四神思想が表現されていると言われていますが、佐賀県唐津市の桜馬場遺跡からも出土しており、桜馬場遺跡は魏志倭人伝に出てくる末廬国の範囲に入る遺跡ではないかと言われています。

 つまり、2世紀の日本人が鏡を見てその意味を理解したかは分かりませんが、すでにその頃には四神思想が日本人に伝わるきっかけは存在したということが言えるわけですね。


【古墳時代前期および中期前半】日本古代史の謎を解くために必要な中国大陸の知識【五胡十六国時代】

2018-12-22 14:11:31 | 歴史コラム
 小説や漫画、そしてゲームや映画などで日本人に馴染みの深い「三国志」には、日本の古代史での大人気ジャンルである「邪馬台国」についての記述があります。

 ただし、「三国志」といっても「エンタテインメント三国志」の基本になっているのは明代に書かれた「三国志演義」と呼ばれる物語であり、三国志演義は三国を統一した晋の史官である陳寿が3世紀末頃に編纂した正史としての「三国志」を元にしています。

 従いまして、邪馬台国を研究する上では、正史の三国志が必携の史料となります。

 三国時代は最終的には三国のうちの魏でも蜀でも呉でもない、魏から正統性を受け継いだ晋の統一をもって終了します。

 それが280年で、日本ではもしかすると卑弥呼の跡を継いだ台与がまだ存命中かもしれず、10代崇神天皇の御代かもしれません。

 さて、三国の統一に成功した晋の初代皇帝武帝(司馬炎)は統一が完了した途端、気が緩んだためか遊びまくる「ダメ皇帝」と化してしまい、290年に晋の2代目を継いだ恵帝も暗愚だったため、晋は早くもグダグダになり始め、恵帝は趙王司馬倫により301年に廃され、晋の王族たちが相争う「八王の乱」が発生します。

 各地の王族は司馬倫打倒に動き、その年のうちに司馬倫は殺害され、恵帝が再び帝位に就きますが混乱は収まりません。

 このようにまともな政治が行われなかった時期に、隠者となった知識人たちの中から「竹林の七賢」と呼ばれる人びとが現れます。

 306年には恵帝の異母弟(初代武帝の第25子=武帝、随分頑張った!)の懐帝が継ぎ、八王の乱は終結。

 懐帝は学問に秀でた慎み深い人物であり、皇帝になる前の評判も良く、それがために皇帝に推されたわけですが、皇帝になってからもその人物の高さは変わらなかったものの、乱れた世の中を正すほどの器量は持ち合わせていませんでした。

 もちろん、本人の器量だけでなく、彼をサポートする人物に恵まれなかったことも原因かもしれません。

 懐帝が即位した当初は、「これで世の中は良くなる!」と期待した人も多かったようですが、ちょうどその頃、北方アジアでも大きな動きが発生し中華を脅かし始めていました。

 中国の王朝は代々、北方や西方にいる遊牧騎馬民族の脅威にさらされてきており、三国志に馴染んだ方はすぐに匈奴(きょうど)や烏桓(うがん)、そして鮮卑(せんぴ)などの名前を思い浮かべると思います。

 三国時代の魏の曹操は異民族を自らの戦力の一角に加えて戦いましたが、蜀の劉備や呉の孫権も同じことをしています。

 彼ら北方西方の遊牧騎馬民族たちは、三国時代から晋の時代に移り変わっても、相変わらず軍事力として徴用されたり、南下して中華の人と同じように農耕を始めたりしながら中国の王朝と関わっており、上述の「八王の乱」の際にも戦力として活躍しています。

 その彼らが中華の混乱状況を見て南下を企て始め、永嘉の乱という大動乱が惹起され、後の世に「五胡十六国時代」と呼ばれる時代に移り変わっていきます。

 五胡十六国時代の命名の元は、五胡と呼ばれる5つの異民族および漢族が16の国を相次いで建国したからであり、上述の八王の乱が終結した306年の2年前には、早くも匈奴の前趙や氐の成漢といった国ぐにが建国され始めるため、この頃を五胡十六国の開始期として、439年の北魏による華北統一によって終了とします。

 この時代の日本は、古墳時代の前期から中期前半にあたり、巨大な前方後円墳が列島の広範囲に築造された時代です。



 ※奈良県天理市の行燈山古墳(崇神天皇陵)

 この時代を『日本書紀』の記述をもとにどの天皇の時代か推測すると、初代神武や欠史八代についてはひとまず考えないとしても、10代目の崇神はすでに没したあとと考えられ、11代目の垂仁から20代目の安康の時代に該当すると考えます。

 ヤマト王権は崇神によって発足し、前方後円墳による地方への影響力を高めていき、垂仁を経て景行の代である4世紀前半までには東は福島県(もしかすると宮城県南部)、西は鹿児島県の一部を除くほぼ九州全土にまで影響を及ぼしていました。

 伝説的にはヤマトタケルの東西への遠征もあり、ヤマトの影響力は広範囲に広がっており、4世紀には15代目の応神天皇が出現します。

 『日本書紀』によると、応神は母の神功皇后が新羅を討伐するために出征中の大本営であった福岡県で生まれた天皇で、ヤマトに入部して王位を継ぎました。

 この神功皇后が新羅を討伐した話をそのまま史実として受け入れるのは難しいですが、日本書紀にも九州出身と記されている応神天皇の出自には多くの古代史マニアが関心を向けていることでしょう。

 そして、この謎を解くにはどうしても当時の中国大陸の動きを知っておく必要があり、それが五胡十六国時代に当たるわけです。

 今回は、五胡十六国時代を理解するための基礎的なことをまとめてみますので参考にしてください。

 ■五胡のプロフィール

 五胡とは匈奴・鮮卑・羯(けつ/かつ)・氐(てい)・羌(きょう)の5つの「胡(えびす)」を指します。

 つまり、中国から見た異民族なわけで、現代人からすると差別的表現が含まれているように見えますが、今となっては歴史用語ですので気にしない方がいいかもしれません。

 まずはこれら五胡の出自について簡単にまとめます。

 ※「Wikipedia」は五胡十六国について簡潔にまとめてあるのでそれを利用させていただくとともに、『三国志』などの史料を参照しました。

 遊牧騎馬民族である匈奴は、『史記』によると紀元前4世紀にはすでに一つの勢力となっており、中華の国ぐにと戦っています。

 スキタイは匈奴の分派であるとも言われています。

 その匈奴は代表者(王)のことを単于(ぜんう)と呼んでおり、紀元前3世紀の頭曼(とうまん)単于の子に冒頓(ぼくとつ)がいました。

 冒頓は紀元前209年に父や父の後継者とされていた異母弟らに謀反を企て、彼らを殺害して単于に就きます。

 冒頓はライバルの東胡(匈奴と同じく遊牧騎馬民族)を滅ぼし、東胡の生き残りが烏桓(うがん)山と鮮卑山に逃れ、それぞれが烏桓(烏丸と表記されることもある)もしくは鮮卑と自らを呼ぶようになり、当初鮮卑は匈奴の支配下にありましたが、匈奴の力が衰えるのに乗じ独立します。

 鮮卑ではその後、檀石槐(だんせきかい)や軻比能(かひのう)といった英主が現れ、軻比能は魏の曹操・曹丕・曹叡の3代と戦いを繰り返し、最後は暗殺されます。

 なお、軻比能が活躍した時代には匈奴の力はかなり衰えており、軻比能はかつての匈奴の領域を丸々手に入れたと言われています。

 については詳しいことは分かっていませんが、匈奴の流れと考えられています。

 は西方の青海湖(現在の青海省)周辺を生活圏にしており、チベット系と言われています。

 氐もいつくかのグループに分かれており、興国氐王の阿貴と白項氐王の千万は、211年に馬超に協力して魏の曹操と戦いますが(潼関の戦い)、その後、阿貴は魏の夏侯淵に攻め滅ぼされ、千万は西南の蜀へ逃れます。

 217年には蜀の劉備が漢中に進撃し、それに対し魏は陰平郡の氐の酋長・強端に協力を依頼し、強端は蜀の呉蘭と雷銅を討ち取ります(呉蘭や雷銅の名前を見ただけで興奮する人は三国志マニア!)。

 ところで、中国では中華の四周にいる異民族のことを北狄(ほくてき)・東夷(とうい)・南蛮(なんばん)・西戎(せいじゅう)と政治的に呼び、その中の西の異民族である戎族の無弋爰剣(むよくえんけん)という人物が紀元前5世紀に現れ、彼によって族が形成されたと言われています。

 なお、馬超の父馬騰の母は羌族の人なので、馬超も血の4分の1は異民族ということになります。

 以上の5つの異民族が4世紀初頭の晋の乱れに乗じて積極的に南下を企て、中国大陸はさらなる混乱状態になるわけですね。

 ちなみに私たち日本人は中国からすると東夷にあたります。

 では次に、十六国について簡単にまとめてみましょう。

 ■十六国のプロフィール

 十六国の国名を羅列しますと以下の通りになります(括弧内は創設者の名前です)。

 ①匈奴が建てた国ぐに

  前趙(劉淵)304~329

  夏(赫連勃勃)407~431

  北涼(沮渠蒙遜)397~439

 ②鮮卑が建てた国ぐに

  前燕(慕容皝)337~370

  後燕(慕容垂)384~409

  南燕(慕容徳)400~410

  南涼(禿髪烏孤)397~414

  西秦(乞伏国仁)385~431

 ③羯が建てた国

  後趙(石勒)319~351

 ④氐が建てた国ぐに

  成漢(李特)304~347

  前秦(苻健)351~394

  後涼(呂光)389~403

 ⑤羌が建てた国

  後秦(姚萇)384~417

 これだけだと13国なわけですが、「胡」、すなわち中国人が差別的に「えびす」と呼んでいる異民族以外にも、漢族が建てた国ぐにがあります。

  前涼(張軌)301~376 

  西涼(李暠)400~421

  北燕(馮跋)409~436

 さらに、350年から352年までの足掛け3年しか続かなかった冉魏(ぜんぎ)という漢族の国もありましたが、これは短命のために五胡十六国には含まれません。

 ということで、以上、16の国ぐにになります。

 と言われても・・・

 と思う方も多いと思います。

 単に国の名前を羅列しただけではまったく意味が分からないですよね。

 細かい国名とか建国年などよりも重要なのは、中華の北部を異民族が席捲した時代が長く続いたという認識と、上述の五胡十六国の国ぐにの王たちが場合によっては日本の古墳時代の歴史にも大きく関わってくる可能性があるということです。

 遊牧騎馬民族は現代人の私たちからは想像できないような長距離を移動することを厭いませんし、船によって海を渡ることは苦手なように思えますが、船を自在に操る人びとを支配下にするか、もしくは協力者として関係を結べば、海を渡ることも可能です。

 そのような遊牧騎馬民族と倭国との関連については、戦後間もない頃に江上波夫さんが「騎馬民族征服王朝説」を開陳し、一世を風靡したことが知られています。

 現在ではこの説をそのまま信じる人は少ないようですが、例えば小林惠子(やすこ)さんは、日本の古代天皇のほとんどを大陸の出身として考えています。

 そのため、おそらくアカデミズムのほとんどの方からは、小林さん説は「トンデモ」として扱われていると思いますが、私は小林さんの説に非常に興味があるのです。

 今のところは小林さん説を否定するにも肯定するにも、私自身その前提の知識があまりにも貧弱なので、小林さん説を一つの素材として、日本の古墳時代と同時代の中国大陸の情勢を追いかけてみるのも楽しいことではないかと思っています。

 小林さんは『海翔ける白鳥・ヤマトタケルの景行朝』の中で、中国の五胡十六国の氐で活躍した符洛(ふらく)という武将が日本列島に渡ってきて応神天皇になったと述べています。



 これを聴いた途端、「そんな話、あるわけないだろう!」と怒り狂う人もいるかもしれませんが、私たち歴史マニアにとって必要なのは、この話を聴いたときに、「その符洛という人はいったいどんな人なんだろう?」と興味を示す好奇心だと思います。

 好奇心を持って調べ始めると、自然と古代史の知識も深まります。

 結果的に肯定するか否定するかは別として、最初から否定して相手にしない場合と好奇心を持って調べてみる場合の違いによって、古代史の楽しみの幅に違いが出てくると私は考えています。

 というわけで、好奇心を持った方々に向けて符洛という人物のプロフィールをご紹介します。

 ⇒記事が長くなってしまったので分離して別記事にしました

 最後に今日も関係ないYouTubeをいくつか。

 Computer Love/Kraftwerk



 Sports Men/細野晴臣



 Lose Your Sight/Sadesper Record