日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

藤原宮跡および藤原京朱雀大路跡|奈良県橿原市 ~我が国初の「都城」~

2020-08-12 21:26:22 | 歴史探訪
 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


奈良県橿原市縄手町178-1 2階(橿原市藤原京資料室)



 

2.諸元                             



 

3.探訪レポート                         


2016年10月16日(木)


 ⇒1日目の記事はこちら

 初めての奈良探訪の2日目。

 本日はまずは藤原宮跡に行きたいと思います。

 やはりせっかく畿内に来たのですから、我が国初の都城の現在の様子を見てみたいです。

 宿を出て少し走り、藤原宮跡の近くに来たようです。

 周囲の風景を見てみましょう。

 西の方角を見ると、手前左側に畝傍山が見え、遠くの山並みの右側には二上山が見えます。



 北の方に見えるのは耳成山でしょう。



 ところで、遺跡はどこにあるんだろう?

 適当な場所に車を止めて周辺を歩いてみます。

 あ、なんか遺跡っぽい。



 ※後で知りましたが、藤原宮跡を訪れるときは上の地図にも表示されている橿原市藤原京資料室の北側の駐車場に止めるのがベストです(この日は「適当な場所」に駐めました)。

 説明板らしきものがあって、誰かが読んでいますよ。



 その向こうには朱色の柱列がありますね。

 あちらへ行ってみましょう。

 藤原宮跡の説明板でした!



 藤原「京」といった場合は、都の街全体を指し、藤原「宮」といった場合は天皇や貴族たちが政治を行う中心地のことを指し、説明板にも書いてありますが、今に例えていえば、皇居と国会議事堂と霞ヶ関の機能が合わさった場所が「宮」です。

 藤原京の構想は天武天皇がすでに抱いていましたが、実現することなく亡くなってしまったため、その遺志を受け継いだ妻である持統天皇が都づくりを推し進め、694年に遷都しました。

 そして、その次の天皇である持統の孫の文武天皇は、即位当初から藤原宮で活動した天皇となります。

 ところが、次の元明天皇のときの710年には奈良の平城京へ遷ってしまいますので、藤原京が日本の首都であったのは足掛け17年だけでした。

 ところで私は昔から何でこの都が「藤原京」と呼ばれているのが気になっています。

 同時代史料である日本書紀には「新益京(あらましのみやこ)」と記されており、どこにも藤原京なんて書いていないんですよね。

 本当に藤原京って呼んでいいのかな?

 藤原という地名が古代からここにあったという事実や、鎌足や不比等がこの地と縁があったということをご存じの方がいらっしゃったら教えてください。

 むしろ、不比等ともともと縁があったといわれている平城京の方が「藤原京」と呼ぶに相応しいと思うのですが・・・

 ※後日注:日本書紀の天武紀には藤原という地名が出てくるのでそのころから地名はあった証拠となります。

 それはそうと、こちらが周辺図です。



 主要部拡大。



 あらま、いきなり藤原宮の中心である大極殿に来ちゃったようですね。

 上の図を見ると、内裏と呼ばれている空間の南側に大極殿があります。

 大極殿の北側にも建物があったはずですが、醍醐池という溜池があり、そこはまだ発掘していないそうです。

 内裏は天皇が生活する空間で、大事なイヴェントの際には天皇は大極殿に出御し、玉座である高御座(たかみくら)に座ります。

 そして、大極殿の南側には朝堂院があり、さらにその南には朝集殿院があります。

 これらの施設と同等なものは藤原宮以前の宮にも見られますが、宮を遷すたびに少しずつ変化して行っています。

 ところで、これが大極殿の基壇ですね。



 東国からフラッとやってきた人間がこんなにすんなりと大極殿に来れるなんて、随分とセキュリティが甘いですね。

 ついでに基壇に登ってみましょう。



 礎石は見えないですねえ。

 ※後日再訪した際に礎石を確認しました。

 大極殿の南側にあるあの柱列が気になるので行ってみましょう。



 周囲は絶賛発掘中のようです。





 うわ、柱ふと!



 費用を抑えて往時の様子を再現するにはこの柱列表示がもっとも良いと私も思っています。

 日本各地にこういうのがあるのですが、さすが藤原宮、今まで見た柱の中で一番太いかも知れません。

 東国からやってきた私にとっては、天皇の権力の大きさをまざまざと見せつけられてしまった思いです。

 ところで、これは何を表示しているのでしょうか?

 大極殿院閣門(だいごくでんいんこうもん)といって、大極殿と朝堂院の間の門ですね。



 え、門の柱がこんなに太いの?

 マジですか。

 遠くを見渡すと、ほかにも朱色の柱列が建っている個所が見えます。



 しかし広いなあ。

 広大な敷地を将来のために確保しているようですが、いまはコスモスがやたらめったらに咲いており、三脚にカメラを設置して撮影している人が大勢いますよ。

 私も真似してお花を撮ってみようかしら。













 いやいや、私は花より遺跡だ。

 ここはどこでしょう?



 朝堂院東門跡でした。



 でも、お花も綺麗よ。







 いやいや、遺跡だ。



 つづいてあちらへ行ってみましょう。





 今度は朝堂院南門跡。



 朝堂院の東西の門はコンパクトですが、南門は大きいですね。



 そしてこちらが朝堂院西門跡。



 コンパクトと言っても格式の高い八脚門ですよ。





 結局、大極殿院閣門を含めて、朝堂院の東西南北の4ヶ所の門跡を見ました。

 これだけでも結構広いのですが、ここは藤原宮の一画に過ぎないんですよね。

 ところで、朝堂院には朝堂と呼ばれる建物が並んでおり、藤原宮の場合は12個の建物がありました。

 早朝になると天皇がそこで政務をみたり、国の重要な儀式を行う場所でもありました。

 さらに朝堂院の南にあった朝集殿院は、朝堂院で政治を行う貴族たちが待機する場所です。

 それでは、雷電號へ戻りましょう。

 次は橿原考古学研究所付属博物館へ行きたいので、ナヴィに場所をセットして出発。

 おや、何か説明板がある。

 確認してみましょう。

 おっと、ここも藤原京の遺跡だった!



 朱雀大路というのは、説明板にも書いてある通り、藤原京のメインストリートで、さきほど歩いた藤原宮から南の方へ向かって伸びていた道です。



 ※後日、甘樫丘から藤原宮を見ることができましたよ。

 朱雀大路が伸びていた南の方を見ます。



 もう一つ説明板。



 これが側溝跡ですね。





 「天子南面」している大極殿方向を見ます。



 先ほど歩いた朝堂院の南門の柱列表示が見え、その後ろには朝堂院閣門の柱列とこんもりとした森は大極殿の基壇跡、そしてさらに後ろのには耳成山が見えます。

 偶然の発見でしたが、やはりこれも「引き寄せられの法則」ですね。



 では、改めて橿原考古学研究所附属博物館へ向かいましょう。

 (つづく)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・『日本古代の国家と都城』 狩野久/著 1990年
・『なるほど!「藤原京」100のなぞ』 橿原市ほか/編 2012年




*** ツアーおよび講座のお知らせ ***

本ブログの管理人は、2016年よりクラブツーリズムにてツアーのガイドや講座の講師をやっています。

ツアーに関しては、古墳や縄文遺跡など古代遺跡を中心に、関東の日帰りツアーや列島各地の宿泊ツアーを案内。

講座に関しては、日本書紀や続日本紀、それに東北や関東の古代史、中国大陸の古代史などをやっています。

そういった情報に関しては、このブログ内のこちらのページにまとめてあります。





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皇子山古墳(1号墳および2号墳)|滋賀県大津市 ~近江で最古級・大津市内で唯一の前方後方墳~

2020-08-10 19:44:52 | 歴史探訪
 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


滋賀県大津市錦織1-18



現況


公園

史跡指定


国指定史跡

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


前方後円墳集成編年:2期

墳丘


形状:前方後方墳
墳丘長:60m
段築:前方部1段・後方部2段か
葺石:あり
埴輪:なし(『改訂増補 前方後方墳』)

主体部


後方部に4基、前方部に1基(現地説明板)
後方部の中心墓壙の大きさは10m×7m(『彦根市文化財調査報告書第2集 荒神山古墳』)

出土遺物


二重口縁壺、直口壺、長頸壺(『改訂増補 前方後方墳』)

周濠


不詳

 

3.探訪レポート                         


2017年11月22日(水)


 ⇒前回の記事はこちら

 せっかく大津宮跡を見つけたのに落ち着いて見学することができませんでした。

 つづいて当初の予定通り、皇子山古墳を探してみます。

 住宅街の中を走り、丘沿いの道に入ると、説明板を見つけました。



 でも、説明板のうしろの山を見上げても古墳のようには見えませんね。



 まあ、階段がついているわけですから、ひとまず登ってみましょう。

 登りだすと小さいお子さんたちを連れた若いママが先行して登っているのが見えました。

 「こんにちはー。息が切れますねー」と言いながら追い越しますが、本当に息が切れる急な階段です。

 この階段が登れるあの子たちはすごいな。

 登っていくと、葺石を葺かれた墳丘らしきものが見えてきました。

 登りきると説明板もあります。

 やっぱりここで良かったんだ。



 ※この探訪以降、前方後方墳を積極的に訪れていますが、皇子山1号墳のように山の上に築かれているケースがよくあり、「クマに注意」の看板が出ていた古墳もありました。

 では、説明板を読んでみましょう。



 単に「皇子山古墳」と言っていましたが、正確にはこれは1号墳なんですね。

 墳丘長60mの前方後方墳で、南北の軸で後方部を北側として構築されており、琵琶湖側からの景観を意識して築造しているようです。

 葺石も葺かれており、琵琶湖側の方をとくに丁寧に葺いているというのは面白いですね(説明板に書かれている通り、現在見られる葺石は整備時に葺かれた物です)。

 東側には琵琶湖が。



 大津の市街地。



 西側の道路は国道161号線です。



 周囲の景色を確認しつつ墳頂を歩きます。









 さきほどの親子連れも登り切りました。

 墳頂ではしゃいでいるおじさんの姿を子供に見せるのは教育上よくないので立ち去りましょう。

 前方部側に降りて、後方部を見ます。



 国道建設の際に西側が少し削られてしまいましたが、ほとんど破壊されずに残ったので良かった。

 前方部側から東側へまわります。



 前方部の先端部分は墳丘と地山の境が明瞭でなく、なんとなく終わっているような感じです。



 では、下に降りましょう。



 おや、ここにも説明板がありますよ。



 墳丘裾からは弥生土器が出ており、古墳に関係するものであれば、この古墳は弥生終末期の築造と考えられるとあります。

 終末期というのは微妙な表現ですが、もしかすると古墳ではなくて弥生墳丘墓かもしれませんよ。

 こちらがその2号墳です。



 もし、弥生末期の築造だったら面白いですねえ。

 琵琶湖の景色を見つつ降ります。



 近江の国で面白い古墳が見れましたよ。

 つづいて、近江国分寺跡へ行ってみましょう。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             


2020年8月10日


 皇子山古墳の発掘調査報告は出ているようですが、読むことができておらず、『彦根市文化財調査報告書第2集 荒神山古墳』に皇子山古墳について少し書かれているのでここにメモ書きしておきます。

 主体部ですが、後方部の中心墓壙の大きさは、10m×7mです。

 皇子山1号墳の近辺では、これに後続すると考えられる首長墓が構築されていません。

 興味深いのは、皇子山古墳の北側の独立丘上に、ほぼ同期と考えられる円墳・壺笠山古墳があり、直径48mという大きさも注目されますが、300点を数える特殊器台形埴輪の破片が採集されていることは特筆されます。

 該書が記された2010年の時点で、特殊器台形埴輪が出土した遺跡は全国で24遺跡ありますが、吉備地方が11遺跡、大和地方が8遺跡で、近江では壺笠山古墳の1例のみです。
 
 皇子山古墳のすぐ近くの古墳で、円筒埴輪が出現するより前の時代の特殊器台形埴輪が出ているというのはかなり重要で、仮説としては、古墳時代に入るか入らないかの3世紀半ばの時期に、壺笠山古墳と、上の「3.探訪レポート」で触れた皇子山2号墳が築造され、その次代に皇子山1号墳が築造され、琵琶湖南西側において大きな勢力を誇りましたが、それにつづく権力者は出現しなかったと考えておきます。

 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『改訂増補 前方後方墳』 茂木雅博/著 1984年
・『彦根市文化財調査報告書第2集 荒神山古墳』 彦根市教育委員会/編 2010年




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大津市歴史博物館/近江大津宮錦織遺跡|滋賀県大津市 ~天智晩年から弘文までの5年日本の都となった場所~

2020-08-10 17:43:58 | 歴史探訪
 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


滋賀県大津市御陵町2-2(大津市歴史博物館)



 

2.諸元                             



 

3.探訪レポート                         


2017年11月22日(水)


 来月、クラツーにて奈良の古代遺跡ツアーの案内をすることになったため、今日から1泊2日で現地の下見に行ってきます。

 でももちろん、案内する場所だけ見てくるのはもったいないので、周囲の遺跡もできる限り見てきますよ。

 極力畿内での滞在時間を長くするため、3時20分に起床し、高尾駅4時28分発の始発電車に乗り込みます。



 昨夜は3時間しか睡眠時間を確保できなかったので眠いというよりか、気持ち悪い。

 早起きは得意ですが、さすがに睡眠不足が続いていると起きるのがつらくなりますね。

 東京駅からは5~6年振りの東海道新幹線に乗車。

 始発の「のぞみ」1号にも乗れないことはなかったのですが、乗り換え時間に余裕を持って3号にしておきました。

 6時16分発の博多行きです。



 16両編成の最後尾ですよ!



 新幹線の掃除をする人たちは12分間という限られた時間で車内を綺麗にします。

 最近、ダスキンの研修でこの方々の仕事ぶりを勉強させていただきました。

 素早く綺麗にするのは大変なことですよ。

 新幹線の車内では神武號(ノートPC)を広げてギリギリまで予備調査です。

 あー、今日は富士山は雲に隠れてるなあ。

 おや、虹だ!



 朝から虹というのは瑞兆なんでしょうか。

 途中、新幹線が高速道路と並走するところがあって、120㎞/hくらいで走っている車とは比較にならない速度で新幹線が走っていることを自覚して、なんだか笑みがこぼれてきました。

 新幹線って本当に速いなあと。

 このスピードで電車が走るなんて尋常じゃないですよね。

 第一次世界大戦の戦闘機よりも速いですからね。

 そうこうしているうちに、8時30には京都に着いてしまいました。



 京都駅に来たのは大人になってからでは初めてです。



 まずはレンタカーを借りに行きましょう。

 当初は奈良方面を重点的に回って、できれば京都の市街地も見たいなあと思っていたのですが、一昨日あたりに気が変わりました。

 近江へ行くのだ!

 私の霊感では、滋賀県方面に面白スポットが数多くあるような気がするのです。

 メジャーすぎる場所へ行っても面白くありません。

 私がこうやって地方(おっと京都は「都」でした)に来るときは、ターゲットとする自治体(市町村)を決めて、その自治体にあるスポットを集中的に回ることが多いです。

 もちろん、1回来ただけで当該自治体のすべての史跡をめぐることは難しいのですが、なるべくそうします。

 というわけで、最初のターゲット自治体は、滋賀県大津市に決定。

 そして手法のもう一つとしては、自治体を決めたらまず初めにその自治体にある歴史系の博物館や郷土資料館を訪れ、その自治体の歴史の概要を理解し、資料を入手します。

 資料は「市内史跡マップ」みたいなのがあると非常に助かるんですよね。

 そうすると、出発前にノーマークだった面白スポットの存在が明るみになったりして、結果的に予定通りに回ることができなくなるのですが、それはそれでOKでしょう。

 面白ければいいんです。

 あまりプランをガチガチにするのは良くないですよ(と、若いころの自分に言いたい)。

 というわけで、まずは大津市歴史博物館へ行きますよ。

 同業者さん。



 というか、東京のどこかのお寺で「お掃除小僧」とかいってこれとそっくりなのを見ましたよ。

 おおつ、路面電車に追い抜かれた!



 路面電車と一緒に走るのって生まれて初めてだ!



 路面電車に対するルールは教習所で習ったと思いますが忘れました。

 ほどなくして大津市歴史博物館に到着です。



 琵琶湖を望む高台にあります。



 では、見学しますよ。



 入館料は320円ですが、JAF会員は250円です。

 70円引きは大きい。

 ここは館内の写真撮影はNGだそうですが、エントランス部分は大丈夫だそうです。



 周辺の地図がありますね。



 うわー、やばい。

 気になる場所だらけだ。



 2階のベランダに出られるようです。

 琵琶湖だー。



 前回滋賀に来たのは、2年前です。

 あのときは、「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」の城郭学習会で安土城跡と観音寺城跡を見学しました。

 まだクラツーの仕事をする前でしたが、クラツーの仕事をするようになってからすっかり古代史方向に寄っているため、今回は城跡は見ないでしょう。

 本当は見たいんですけどね。



 あれは何だろう?



 さて、展示は6つのテーマに分かれています。

 1.堅田と比叡山麓の村々
 2.比叡とその山麓
 3.大津百町
 4.近江八景
 5.膳所六万石
 6.大津京

 これらの展示でとくに俊逸なのはジオラマです。

 それぞれのジオラマが良くできていて、ジオラマ好きには堪らないと思いますよ。

 私的には一番関心があるのは大津京関連ですが、写真がNGなのは痛いですね。

 それと、通史的な展示もあります。

 それでは、資料も入手したので、市内の気になるスポットを回ろうと思いますが、南隣にある三井寺(園城寺)が気になる・・・

 でも今日は我慢です。

 三井寺に参拝していたら時間が足りなくなるでしょう。

 まずは、皇子山古墳へ向かおうと思います。

 皇子山古墳は私の大好きな前方後方墳ですから、これは確認しておかないと気が済みません。

 しかも大津市内には前方後方墳はこれ1基しかないのです。

 博物館敷地内の案内図。



 新羅三郎義光の墓も気になりますが、皇子山古墳ヘ向けて出発!

 と、勇んで走り出したものの、すんなりとたどり着けません。

 だいたいこの辺のはずなんですが・・・

 この辺りの住宅街は道は狭いし坂も多いし車で走るのは大変です。

 あれ、古墳よりも先に近江大津宮錦織遺跡の説明板と標柱を発見してしまいました。

 ところが、路駐できるスペースがないですね。

 いいや、ちょっとだけ路駐して、写真を撮っちゃいましょう。

 ここは第9地点か。
 


 こちらは第7地点。



 あー、対向車来ちゃった。

 もっとじっくり観察したいですが仕方がない。

 逃げます。

 ※帰宅後調べてみたら、他にも何地点か説明板などもあるようなので、いずれ再訪して今度は周囲をくまなく歩いてみようと考えています。

 百済が滅亡した翌年の661年、斉明天皇が崩御すると、その子・中大兄皇子は即位せずに「称制」で政治を行っていました。

 663年には白村江の戦で倭国軍は唐・新羅軍に負けてしまったのですが、考えてみればこのとき日本には天皇がいなかったんですね。

 「天皇代理」のような中大兄皇子がトップだったのです。

 しかしその中大兄皇子も、667年には後飛鳥岡本宮からここ大津へ都を移し、翌年この地でようやく即位します(天智天皇)。

 天智は671年には崩ずるため、天智がこの大津で政治を執ったのは足掛け5年だけでした。

 そして天智の跡を継いだ弘文天皇も672年の壬申の乱によって、出自不明(私は九州から来たと考えていますが)な天武によって滅ぼされてしまいます。

 この短期間しか存在しなかった都ですから、どのくらい整備が進んでいたのか興味深いところですが、現在に至るまで発掘調査の範囲がとても狭いため、あまり多くのことは分かっていないようです。

 『大津の都と白鳳寺院』(大津市歴史博物館/編)によると、検出された建物跡は、南門、回廊、内裏正殿などで、中心部分の平面プランはおおよそ想定されており、ここに遷る前の飛鳥の後岡本宮の内郭との共通性が指摘されており、後岡本宮をやや小さくした宮殿ではなかったかと推測されています。

 では、改めて皇子山古墳を探しますよ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『大津の都と白鳳寺院』 大津市歴史博物館/編 2017年




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平城宮跡|奈良県奈良市 ~史跡整備が進んでいる奈良時代の日本の中枢部~

2020-08-10 14:37:28 | 歴史探訪
 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


奈良県奈良市二条大路南3-5-1(平城宮跡管理センター)



 

2.諸元                             



 

3.探訪レポート                         


2017年11月23日(木)


 国内最大の円墳に昇格した富雄丸山古墳を見た後は、今回の最終探訪地である平城宮へ行ってみます。

 しかし、平城宮といっても広いので、どこへ行けばいいんでしょうね?

 適当に行ってみましょう。

 暫く走ると、周囲は普通の地方都市のような風景になってきました。

 チラッと万葉チックな大きな建物が見えたので、この辺に車を止めて歩いて行ってみようと思います。

 おー、あったー!



 朱雀門のやや南の朱雀大路跡に来たみたいです。

 朱雀大路は絶賛整備中でした。





 しかし、宮殿も重機を使って作る時代になったんですね。



 律令国家の技術も進んだものです。



 では、朱雀門の向こう側、すなわち平城宮内へ行ってみますよ。

 平城「京」と平城「宮」ってややこしいですが、都全体を「京」と呼び、天皇が君臨する大極殿とその周辺の官庁街などのコアゾーンのことを「宮」といいます。





 あ、電車!



 こんなところに電車が走っているなんて。





 平城宮の中を近鉄が横断しているんですね。

 周囲を見渡すと、遺構の展示のようなものがあります。







 どこから行ってみようかな?

 ここは何だろう?

 式部省跡でした!





 律令国家というのは、律令と呼ばれる法律をもとに統治した国家のことで、中国が本家本元なんですが、日本では、おおよそ7世紀末から10世紀前半くらいまでが当てはまります。

 時代名称でいうと、飛鳥時代末から奈良時代、そして平安時代の前半ということになります。

 日本の場合は、天皇の下には二官八省という組織が最上位にあって、太政官と神祇官の2つの官と以下に示す8つの省がありました。

 ・宮内省
 ・式部省
 ・兵部省
 ・大蔵省
 ・民部省
 ・刑部省
 ・治部省
 ・中務省

 もちろん中央省庁はこれだけではないのですが、中心になるのが二官八省です。

 明治の大日本帝国や現代の日本国にも律令時代の役所の名前は少し残っていて、今は「庁」になっていますが、宮内省の名残はあり、少し前までは大蔵省がありましたね。

 ちなみに、式部省は奈良時代に藤原仲麻呂が権力を握っていたほんの一時期ですが、文部省という名前になったことがあります。

 文部省はその後、現代になって復活しましたが、今は文部科学省になっていますね。

 説明板には、「文官の人事や勤務評定を担当した」と書いてありますが、それ以外にも教育関連も担当していたので、文部省という名前は合っていると思います。

 それと、上の一覧を見て戦国武将の名前を思い出した人もいると思います。

 例えば、石田三成は「治部少輔」ですし、大谷吉継は「刑部」という通称で有名ですね。

 省のトップは「卿(かみ)」で、その下が「輔(すけ)」なのですが、輔は「大」と「少」に分かれており、つまり三成は律令制でいえば、治部省で3番目に偉い人になるのです。

 陸奥守や武蔵守などの受領名を名乗る武将も多いですが、戦国時代になっても律令国家の影響は残っており、支配者層の人びとは実権はないものの令制の官名を名乗りたかったのです。

 今でも肩書を非常に気にする人っていますが、今も昔も変わりません。

 日本各地の戦国武将を都に集合させて政治を執らせてみたらどういう国家になるのか想像するのも楽しいです。

 ところで、線路を越えて北側にも遺跡は広がっていますね。



 遠くにチラッと見えるのが大極殿だと思いますが、広すぎるので今日は時間的に考えるとこの周辺だけしか見れないでしょう。

 もうすぐ日も沈んでしまう・・・



 しかし、電車がひっきりなしに通りますね。







 行ったと思ったら反対方向からまた来た。

 今度は真横から!



 カッコいい!

 いやいや、電車より遺跡だ。

 これは朱雀門と接続されていた築地塀跡ですね。



 すなわち、平城宮の南側を画していた壁です。

 門跡らしきものもあります。



 うわ、また電車。



 近鉄は車体のデザインやカラーリングが豊富で楽しいですね。

 しかも、違うカラーの車両と平気で編成を組んでしまうのが堪りません。



 関東ではまず見られませんね。



 子供の頃にNゲージで遊んでいるときに、持っている車両が少ないため、ディーゼルカーと通勤電車に貨物を繋げたりしていましたが、そういうのを思い出して楽しい。

 いやいや、だから電車じゃなくて遺跡だって。

 今立っている場所は、壬生門跡でした。



 ※先ほどの写真をもう一度お見せしますが、説明板の絵と見比べてみると、左側から築地塀があり、溝があり、そして二条大路があったのが分かると思います。



 平城京や平安京の場合、東西方向に走る道のことを「条」とよんでいました。

 それと、説明板に書いてあるとおり、奈良時代後半には壬生門が実質的に平城宮の正門となります。

 少し離れて壬生門跡を見ます。



 周辺図がありましたよ。



 「第一次」とか「第二次」という文字が見えますが、大極殿は位置を変えて建て替えられています。

 大極殿の南側には朝堂院があり、朝堂院は官人たちが集まる場所ですが、第二次の場合は朝集殿院がプラスされていますね。

 ところで、「朝廷」という文字もそうですが、なんで「朝」なのかというと、当時は早朝から政務を行っていたためです。

 平城京は710年に正式オープンしましたが、その前に日本の中心だったのは694年に正式オープンした藤原京で、藤原京が我が国初の都城です。

 その藤原宮で政務を開始した当初は、官人たちは日の出前に出勤していたんですよ。

 そしてまずは皆で旭日を拝んで、それから仕事を開始し、お昼にはお仕事が終わり、残業がなければ、「ちょっと飲みに行こうか?」という流れになったわけです。

 あ、「魚民」とかは無いので、家飲みでしょうね。

 あちらの遺構展示はなんでしょう?



 兵部省だ!



 さきほどの式部省の説明板に兵部省と対称の位置をなして建物配置もほぼ同じと書いてありましたね。

 でも、兵部省も式部省も現在遺構展示がしている場所は、奈良時代後半の位置です。

 戦国武将で兵部を探すと、大内義隆がそうでしたね。

 しかも兵部卿ですから、兵部省で一番偉い人です。



 兵部省から朱雀門を見ます。



 朱雀門へ行ってみます。







 説明板がありました。



 これは前期の図ですが、宮部分は真四角ではないですね。



 南東をわざと欠いていますが、それでも無理くり合計12の門を造っているのは、中国の長安の都と同じにしたかったからです。

 藤原京は実際にある中国の都を真似せず、中国の「周礼」に記載されている理想上の都の形を具現化したといわれていますが、平城京は長安がモデルなのです。

 でも向こうとこちらでは地形等の前提条件が違いますから、完コピは無理だったものの、なるべく寄せたかったのですね。

 大極殿と朱雀門の説明。





 今日は大極殿まで行けないので、また後日を期したいです。



 朱雀門から朱雀大路を見てみましょう。



 最初に見た通り、現在鋭意整備中。







 大極殿を望みます。



 電車も走ります。





 もうすぐ16時半になります。



 そろそろタイムリミット。



 名残惜しいですが、ここで終わりにしましょう。



 ※後日注:現在平城宮を横断している近鉄奈良線の線路は、将来変更になる予定です。

 さて、最後の探訪地である平城宮からは京都駅へ向かいます。

 今回のレンタカーは京都駅で借りていたため、京都に着いて車を返却したら新幹線に乗る前に夕飯を食べたいです。

 京都駅のガード下に位置するモール内には食べ物屋さんがたくさんありますが、お腹は空いているものの今一どれもあまり食べたくない。

 凄く混んでるし。

 あ、吉野家発見!



 こういったお店は、列島内どこへ行っても安心して食べられていいですね。



 昨晩のココイチに引き続き、安定の味です。

 というわけで、京都発19時35分の新幹線に乗りますよ。

 新幹線の中ではこちら。



 この純米大吟醸は伏見にある山本本家というところのお酒で、とてもバランスの良い美味しいお酒です。

 また、「世界の山ちゃん」の「てばさきいか」も甘辛い味がよく染みていて美味いですよ。

 (了)

 

2019年1月3日(木)その1


 ⇒前回の記事はこちら

 長屋王邸跡からさらに西へ向かいます。

 最近整備された平城宮の朱雀大路に来ました。



 うわー、道広い!



 前回来た時は工事中でゴチャゴチャしていたのであんまり良く分かりませんでしたが、こうして綺麗になると広さが実感できますね。

 道幅は75m、ここから朱雀門までは260mあります。



 呪力ズーム!



 朱雀門とか朱雀大路とかの朱雀(すざく)は、中国の四神思想において、南側を表す伝説上の動物です。

 つまり、南方向に開いている門や道路なので朱雀と命名されたわけですね。

 ですから私はいま真北を向いており、この先には大極殿があって、そこには天皇がおり、「天子南面」していたのです。

 なお、ここから南側(私の背中方向)へ行けば羅城門のあった場所にたどり着き、そこから南は京外となります。

 ついでなので、ここでもっと巨視的に見てみましょう。


※『唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録11 道の考古学』(唐古・鍵考古学ミュージアム/編)より転載

 字が小さくなって読みづらいと思いますが、右上に四角形でくくられているのが平城京で、奈良盆地には南北の直線道が3本走っています。

 西から下ツ道、中ツ道、上ツ道で、もう1本東には山の辺の道というのが現在は遊歩道として整備されていますが、現在の山の辺の道と古代の道は重ならないといわれています。

 下ツ道、中ツ道、上ツ道は平城京や藤原京ができる前からあった道で、古代において奈良盆地に何かを造る場合は縦のラインに関してはこの3本の道が基軸とされ、朱雀大路は下ツ道のライン上に位置します。

 下ツ道は、平城京から南下すると、藤原京の西二坊大路と重なり、さらに南下すると現在の近鉄「橿原神宮前駅」のすぐ近くを通り、上図で「軽衢(かるのちまた)」と書かれている場所にたどり着き、その近くで奈良県最大の前方後円墳で欽明陵とも蘇我稲目の墓とも言われている五条野丸山古墳(墳丘長310m)の前方部にぶつかります。


※五条野丸山古墳

 ちなみに、上ツ道のライン上には箸墓古墳がありますが、箸墓の後円部のために道を造ったときにちょっとだけ曲げており、また、これらの幹線道は壬申の乱の際でも軍隊の移動に利用され、上ツ道の箸墓の前では戦いが繰り広げられています。


※上ツ道と箸墓古墳

 平城京の平面プラン。


※『なるほど!「藤原京」100のなぞ』(橿原市ほか/編)より転載

 こういった都城では京域を大きく東西に2つの分け、右京・左京と呼びますが、地図で見ると左京が「右」で、右京が「左」ですよ。

 というのは、天皇は南に向かって座るため、天皇から見て右と左なのです。

 右大臣・左大臣などの呼び名も同様で、宮中で官人が集まった際、天皇から見て右にいるのが右大臣で左にいるのが左大臣で、日本の場合は伝統的に「左」の方が格上です。

 ちなみに、私は路線バスに乗るときは、進行方向に向かって左の一番前に座るのが好きなのですが、そこに座ることができると「気分は左大臣」と独り言をつぶやいています。

 なお、上図の右京に前方後円墳が描かれていますが、これから訪れる予定の宝莱山古墳(現・垂仁天皇陵)です。

 平城京を造ったときには破壊された古墳が多かったのですが(その証拠に、町のいたるところで埴輪片が出るそうです)、生き残った古墳のなかの一基ということになりますね。

 折角なので、平城京より前に造られた藤原京の平面プランも見てみましょう。


※『なるほど!「藤原京」100のなぞ』(橿原市ほか/編)より転載



 平城京と藤原京の縦のラインを合わせてみるとこうなっていますよ。


※『日本古代の国家と都城』(狩野久/著)より転載



 道というのは当たり前のことですがとても大事で、地方で国府などを造るときもそうなのですが、すべてはそれ以前にあった道を基準に造り、もっというと、まずは道を造ってから町を造るといってもよいでしょう。

 ただし、この図を見るには注意が必要で、よく見るとこちらの藤原京の図と、『なるほど!「藤原京」100のなぞ』の図では条や坊の数が違うのです。

 実は平城京では現在の番地表示と同じように、条と坊を機械的な数字で示していたためその名残もあって分かりやすいのですが、藤原京では機械的な数字で呼んでおらず、普通に小字のようなもので呼んでいたのです。

 しかも、藤原京から平城京へ遷都したあと、藤原京は田園へと戻っていく中で実際の道の形跡もどんどん消えていきましたし、『古代の都市と条里』所収「五畿七道の条里 畿内 大和」(山本崇/著)によると、天平勝宝末年から神護景雲初年の間(神護景雲元年は西暦767年)に大和国の条里プランが成立した「らしい」とし、そのプランによって藤原京跡の地割は上書きされてしまいました。

 そのため、実際に当時どういうふうに条や坊が張り巡らされていたのかはっきりせず(範囲さえはっきりしません)、『日本古代の国家と都城』の図が長らく定説となっていたものの、近年では、『なるほど!「藤原京」100のなぞ』の図が有力になっているというわけです。

 ところで、694年にリリースされた藤原京と710年にリリースされた平城京の平面プランは異なる点が多いですが、もっとも大きいのは宮殿の場所(天皇の玉座があるので日本国の中心の中の中心)が、藤原京では京域の中央、平城京では京域の北端にあることです。

 藤原京を建設していた時代、日本人はすでに唐の都・長安を見ており、長安の場合、宮殿は京域の北端にあることを知っていたはずですがそうなっていません。

 これは、古代中国の「周礼」という書物に描かれた理想的な都の図を元にして中央にした可能性が高いといわれており、また日本独自のオリジナリティを出そうとした可能性もあります。

 つづいて平城京を造ったときは長安をモデルにしたことは明らかでしょう。

 なお、日本と中国の都城も違いはたくさんあり、興味深いのは、中国は京域全体、つまり街全体を堅固な城壁で完全に囲むのですが、日本はそうしないことですね。

 中国と違って、日本の場合は最も大事な天皇の住処を列島内にいる勢力に攻撃される可能性はないと考えていたことの表れだと思いますが、考古学的にはそれがあだとなって、壁がないために京域の確定が困難で、それが判明したのは最近のことです。

 平城宮跡にはたくさんの見学施設があるのですが、今日はまだ営業していません。



 おや、説明板がありますよ。



 「西一坊坊間東小路」とあります。

 なるほど、道が分かるようになっていますね。





 奈良に来ても古墳ばっかり見ているので、平城宮跡もいつかゆっくり見学したいです。

 おや、この仏様は随分とサディスティックな環境下にいらっしゃいますね。



 車がビュンビュン走るすぐ近くに何の覆いに守られることもなく佇んでいます。

 まるで荒行をしているかのようですが、表情はクールで素敵。



 この表情、大好き。

 身体が結合されていますので、破壊されてしまった過去もあったようです。

 車にひかれちゃったのかな?

 覆屋などで保護することはできないのかなと思いますが、こういう姿を晒して衆生に何かを示そうとしているのかもしれません。

 ⇒この続きはこちら
 

2019年1月3日(木)その2



 制作中。

 (つづく)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・『日本古代の国家と都城』 狩野久/著 1990年
・『唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録11 道の考古学』 唐古・鍵考古学ミュージアム/編 2010年
・『平城京100の疑問』 橿原考古学研究所/編 2010年
・『なるほど!「藤原京」100のなぞ』 橿原市ほか/編 2012年
・『古代の都市と条里』 条里制・古代都市研究会/編 2015年




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本ブログの管理人は、2016年よりクラブツーリズムにてツアーのガイドや講座の講師をやっています。

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豊浦寺跡(向原寺)|奈良県明日香村 ~稲目の向原の家・推古の豊浦宮・我が国初の尼寺豊浦寺~

2020-08-09 16:47:48 | 歴史探訪
 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


奈良県高市郡明日香村大字豊浦630



 

2.諸元                             



 

3.探訪レポート                         


2019年3月8日(金) その1


 ⇒前回の記事はこちら

 古宮遺跡の次は、豊浦(とゆら)寺跡の向原寺(こうげんじ)へ向かいます。

 ※このページで紹介する場所は、9月5日開催予定の歴史歩きの際に歩きますので、参加予定の方でネタバレが嫌な方は読むことをお勧めしません。なお、その歴史歩きに関しては、こちらに詳細および申込フォームがあります。

 案内標識に従って路地の中を歩いていくとありました。



 向原寺は太子山と号する浄土真宗本願寺派の寺院です。

 説明板がありますよ。



 ここに書いてある通り、もともと推古天皇は豊浦宮にいて、603年に小墾田宮を造り移転し、その跡地に豊浦寺を建立したのですが、実際に発掘の結果、寺院に先行する遺構が見つかっています。

リアル日本書紀!

 『日本書紀』の欽明天皇13年(552)10月条によると、欽明は百済の聖明王から金銅製の釈迦仏や幡蓋、それに経典をプレゼントされました。

 百済の使者から説明を受けた欽明は喜んだものの、どうしてよいか判断できず群臣に諮ったところ、物部尾輿や中臣鎌子は、外国の神を祭ると元々の日本の神が怒ると言って祀ることに反対したのですが、結果的に仏像を蘇我稲目に試しに祀らせてみることにしたのです。

 そこで稲目はまず小墾田の家に安置し、つづいて向原(むくはら)の家を浄めて寺としました。

 ところがその後、国に疫病が流行したため、さきに仏像を祀ることに反対した物部尾輿や中臣鎌子が稲目の仏像を廃棄すべきだと欽明に訴え、欽明がそれを許可したため、彼らは向原の寺に押し寄せて、仏像を難波の堀江に流し、寺に放火しました。

 以上が、日本書紀が伝えるところの仏教公伝と、その後のできごとですが、『蘇我氏を掘る』によると、稲目の向原の家はここ向原寺にあり、それを改築した寺が放火された後は推古天皇の豊浦宮となり、推古が小墾田宮に移った後、わが国初の尼寺である豊浦寺になったとしています。

 ややこしいですね。


 豊浦寺は、伽藍を整えた寺院としては日本最古の寺である飛鳥寺の「妹寺」と呼ばれ、なぜ「妹寺」なのかというと、豊浦寺は尼寺だからですね。

 日本書紀によると、推古天皇は592年に豊浦宮において即位し、推古11年(603)に小墾田宮へ遷っています。

 遷った理由は、『日本書紀』には書かれていないのですが、600年に最初の遣隋使が遣わされており、その報告を聴いて今までのしょぼい宮殿から最新のカッコイイ宮殿に変えようと思ったのに違いありません。

 そうしないと、隋からの使者が来た時に大恥をかきます。

 600年の遣隋使の派遣は倭国にとっては非常に大きな転機なりましたが、『日本書紀』にはその記念すべき第1回の遣隋使派遣について何も書いていないんですよね。

 ※なお、今は推古天皇が実在の天皇であるとした場合の話をしましたが、この辺りの歴史はもっと複雑ですので、気になる方は、下記の「4.補足」をお読みください。

 こちらの説明板はちょっと読みづらいですね。



 お寺に頼めば遺構が見られるようですよ。



 とりあえず、本日は先を急ぐことにします。

 境内の様子。



 本堂。



 薬師堂。



 境内を出ます。

 ここにも説明板が。



 日本書紀に記されている物部尾輿らが稲目の仏像を取り上げて捨てたという難波の堀江はこの池のことだということですね。



 というか、その捨てられた仏が長野の善光寺で祀られたという話も興味深いです。

 それでは甘樫丘へ登りますよ。

 ⇒この続きはこちら

 

2019年3月8日(金) その2


 明日香村埋蔵文化財展示室の見学を終え、橿原神宮前駅へ戻ります。

 またまた道標が。



 あとは地図を見ずに適当に歩きます。

 方向さえ合っていればたどり着くでしょう。

 あれ、この景色は朝見たような・・・

 またもや豊浦寺跡に来ちゃいました!

 そういえば、今朝訪れた時に、飛鳥時代の遺構が見られるって張り紙してありましたね。

 せっかくなのでお願いしてみます。

 庫裡のチャイムを押すとお寺の方が出てきてくださいました。

 飛鳥時代の遺構の拝観は200円です。

 こちらですね。



 正面の壁面を見て欲しいのですが、最上部の石が積んであるところの下には石のない厚い層があります。



 その部分は版築されている豊浦寺の伽藍の基壇で、段々と色あせてきてしまっているそうですが、よく見ると層によって色味が違うのが分かります。

 日本書紀には豊浦寺を造る前には、推古天皇の豊浦宮があったと記されていますが、このように、寺の遺構よりも下に柱の跡が出てきました。



 ということは、この柱の跡は、豊浦宮の柱跡である可能性が高いということになりますね。



 楽しい・・・

 でも、『蘇我氏を掘る』では、豊浦宮よりも前に稲目の向原の家があったとしていますが、その形跡は見つからなかったんでしょうかね。

 礎石もあります。



 と思ったら、「文様石」と書いてありますね。



 人工的に文様を刻したのでしょうか。

 こちらは礎石だ。



 今まで私が列島各地で見てきた主として国分寺跡の礎石は、もろ自然石のようだったり、丸い形のものばかりだったのですが、飛鳥ではきっちりと四角く仕上げたものがあって面白いです。

 こっちは丸いの。



 ※帰宅後知ったのですが、『飛鳥の宮と寺』によると、現在の向原寺境内に残る4つの礎石は鎌倉時代の仏堂に伴うものでした。

 現在みられる豊浦寺の伽藍配置は中世以降のもので、古代は現在の本堂の場所が講堂で、道路の向かいの公民館が金堂、そしてそのさらに向こうに塔があったそうです。

 お寺の方にいろいろと教えていただき楽しかった。

 裏に行くと塔跡が見られるそうなので、つづいて塔跡を見に行ってみましょう。

 甘樫坐(あまかしにいます)神社。



 うわ、盟神探湯(くがたち)の説明だ。



 子供の頃に、初めて盟神探湯の話を聞いたときは恐怖しました。

 熱湯の中に手を入れるなんて、随分と恐ろしいことを考えたものですね。

 あ、ありました!

 こちらが豊浦宮の塔心礎と石碑ですね。



 というか、ここは普通のお宅の敷地内の玄関前じゃないですか・・・

 今日は最後の最後まで充実の歴史歩きになりました。

 では、再び駅へ向かいますよ。

 (つづく)

 

4.補足                             


豊浦寺の建立と推古天皇 2020年8月9日


 豊浦寺がいつ建てられたかですが、『元興寺縁起』では、乙巳年(585)に止由良佐岐(とゆらさき)に刹柱(塔の心柱)を建て、癸丑年(593)に等由良の宮を寺として等由良寺と称したとあります。

 日本書紀によると推古天皇は592年に豊浦宮で即位していますから、それと合わせると、推古が即位したときには、その宮と同じ場所で豊浦寺の建立が進んでおり、翌年には宮として引き続き機能させながら、同時に寺としても機能し始めたことになります。

 宮が同時に寺であるということがあるのでしょうか。

 日本書紀によると推古は603年に小墾田宮へ移りますから、『元興寺縁起』がいうように593年に豊浦寺ができたとすると、それから603年までの10年ほどの間は、豊浦寺は「豊浦宮と言われている場所」の一画を間借りして運営していたのではないかと考えます。

 そして、推古が「小墾田宮と言われている場所」へ遷ったのを契機に、寺として正式オープンしたのではないでしょうか(わざと「」を付けて呼んだ意味は後述します)。

 その間の豊浦寺の責任者についは、590年に百済から帰国した善信尼が候補として挙げられますが、さらに上位の人物として、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ=推古天皇)が、叔父である蘇我馬子の命で君臨していたのではないかと考えます。

 ちなみに、豊浦寺と同時期に建立されたと伝わっている飛鳥寺(法興寺)の建立の様子を『日本書紀』で追いかけていくと、用明2年(587)に馬子が建立を発願したものの、大きなプロジェクトだったことも影響してか準備に時間がかかり、崇峻5年(592)になってようやく起工され、推古4年(596)に堂宇の一応の完成をみたようです。

 ただしその時点ではまだ本尊(飛鳥大仏)は安置されていませんでした。

 以上を簡単な年表にまとめてみます。

 ・552年 稲目が向原の家を寺に改造し仏像を祀る
 ・同年 稲目の寺が破却される
 ・554年 推古生誕
 ・590年 善信尼が百済から帰国し桜井道場に住す
 ・592年 推古が豊浦宮において即位
 ・同年 飛鳥寺起工
 ・596年 飛鳥寺堂宇完成
 ・603年 推古が小墾田宮へ遷り、豊浦寺が正式に発足

 実はこの6世紀後半から7世紀に至る時代は、日本の正確な歴史ははっきりしないのです。

 一番頼りになるであろう日本書紀の記述ですら、既述したように600年の遣隋使派遣は無視していますし、中国の史書『隋書』によれば、600年に倭国からやってきた使者は、自分たちの王は男性だと述べていますが、日本書紀によれば600年の時点で天皇だったのは女帝・推古天皇です。

 600年時点ではまだ「天皇」というものは存在しないため、正確には「大王」の方が適切だと思いますが、私はこの時点での大王は蘇我馬子だったと考えています。

 以前から私は、大山誠一氏の説と同様に、用明・崇峻・推古の3名を天皇(大王)として考えていません。

 つまり、炊屋姫は炊屋姫のままで推古天皇にはなっておらず、叔父・馬子の王権下で尼僧政策に携わった重要人物であったというのが今の私の考えです。

 上記でわざと「」を付けて呼んだ意味ですが、「豊浦宮と言われている場所」は、炊屋姫は天皇になっていないので宮とは呼べず、炊屋姫が育った実家のことを示します。

 炊屋姫は母方の祖父である稲目の家で育ったと考えます。

 婚姻後、引っ越した可能性がありますが、その場合でも馬子によって尼僧政策を任された後は、実家へ戻りそこを尼寺(豊浦寺)として善信尼らとともに活動したのでしょう。

 日本の大王家が列島各地の有力者と比べて隔絶した権力を得たのは5世紀半ばだと考えており、その時代からはまだ1.5世紀ほどしか経っていません。

 大王家が権力を維持できていた理由の一つは、弥生時代に始まり古墳時代に古墳の築造によって体系が完成された日本古来の信仰観念を上手に利用していたことで、そういった観念のもと支配者として君臨していたのです。

 ところがそこに仏教という外国の宗教が入ってきた時に、それが単なる興味本位の文化であればまだよかったのですが、その信仰・思想が支配者層に広がっていった場合、大王の立ち位置は危うくなります。

 新興勢力である蘇我氏(蘇我稲目が中心)は、その仏教を武器に、旧来の大王による支配体制に切り込んでいき、大王とそれに付き従っている古豪たちの力をそぎ、蘇我氏による覇権の獲得に成功したと考えます。

 

5.参考資料                           


・『新装版 日本古典文学大系 日本書紀(上)』 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋/校注 1993年
・『新装版 日本古典文学大系 日本書紀(下)』 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋/校注 1993年
・『飛鳥の宮と寺』 黒崎直/著 2007年
・『蘇我氏を掘る』 橿原考古学研究所附属博物館/編 2016年




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