日本史大戦略 Side-B 附 東国を歩く会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【私の日本書紀】初代神武天皇から21代雄略天皇までの流れを簡単に整理してみました【あくまでも仮説】

2018-09-19 18:13:09 | 歴史コラム:古代
 今年の2月14日のバレンタインデーに、街灯の無い夜の下り坂で滑って右足膝の靱帯を痛めました。

 積もった雪が氷となって残っていたのに気づかず、まったくもって不覚でした。

 なかなか治りが悪く、痛みをこらえつつ2泊3日の九州ツアーを4回もこなしたりした挙句、ブロック注射を打ってもらってようやく普通の暮らしができるようになったのですが、あれから半年以上経ち、また痛みがぶり返して、掃除の仕事をするのにも歩くのにもちょっと不自由になってきました。

 しかもそれに加えて、4日ほど前から首から肩にかけてが痛くなり、最初は寝違えたかなと思っていたのですが、痛みがだんだん酷くなってきたので、今日は掃除が休みだったため医者に行こうと思いました。

 ところがです。

 病院は今日から一週間の臨時休診となっていたのです。

 他の医者には行きたくないので、もう一週間我慢します・・・

 ところで、今週の月曜日(9月17日)は、クラツーにて武蔵国分寺跡および東山道武蔵路跡ツアーを催行しました。

 18名様のご参加、ありがとうございました!



 ※ツアー中はほとんど写真を撮っていないので、全然関係ない西武線の電車を掲載

 歩くのにはちょうど良いくらいの気候で、いつもの比較的慌ただしいツアーとは違ってゆっくりと歴史散歩を楽しんでいただくことができたと思います。

 とはいえ、お客様から「先生、歩くの早い!」と2回ほど注意され、反省しております。

 足が痛いのに、歩くのが早くなってしまうようです。

 さて、既述した通り今日はお休みのため、一日集中して歴史をすることができています。

 いつもは掃除に出勤する前の早朝や、掃除の仕事の昼休みや通勤電車の中などの隙間時間を使って歴史作業をしているのですが、こうやって1日時間があるとかなり仕事が捗りますね。

 今週末は奈良の纒向遺跡ほかのツアーに行きますし、来月からは日本書紀の連載講座をクラツーにて始めますので、それらの準備を兼ねて初期ヤマト王権について考察していました。

 日本書紀の講座は、神武天皇から始めて持統天皇までの記述を丹念に読み解きながら、実際の遺跡との整合を確認しつつ、日本の古代史を解明しようと目論む講座です。

 もちろん、私ごときが古代史の解明をすることなど不可能に近いと思いますが、講座を通じて古代史の楽しさを分かちあっていただければと思います。

 ⇒詳細はクラツーのこちらのページをご覧ください

 毎月、土曜日と平日に同じ内容のものをそれぞれ1回ずつやっていく予定ですが、日本書紀に関しては皆様関心が高いようで、発表してすぐに土曜日の回がソールドアウトになってしまいました。

 お申込みくださった皆さま、どうもありがとうございます!

 現在キャンセル待ちになっている日に関しては、もっと広い会場でできないか会社と相談してみます。

 私自身の日本書紀の考察はまだまだ浅いものと自覚していますが、今日は時間があったため自分の考えをまとめてみました。

 非常に雑な考察で、また私の考えとまったく相いれられない方も多いと思いますが、論争を始めると喧嘩になりかねませんので、このブログでは論争はしませんよ。

 したがいまして、コメントやメールをいただいても内容によってはお答えしない場合がありますので、あらかじめご了承ください。

 それと、今日は時間があったため、気づいたら長文になってしまったのでご注意ください。

*     *     *


 1.イントロダクション

 弥生時代末期、まだ鉄鉱石や砂鉄などの原料から鉄器を製造することのできなかった倭人たちは、朝鮮半島南東部から鉄鋌(てってい)という鉄の延べ棒を輸入して、それを加工して鉄製品を作っていました。

 農具でも武器でも鉄で作った物と木や石で造った物では性能に格段の差がありますので、倭人たちは競って鉄鋌の輸入に躍起になっていたと想像できます。

 私はよく、地方の豪族たちがヤマト王権のメンバーシップに加入した理由として、ヤマト王権が鉄の輸入総代理店のような立場にあり、ヤマトと仲間になることによって鉄の入手ができるようになったという説を話しています。

 これは列島各地の豪族がヤマトの影響下に入り、前方後円墳を造った際の説明として使っているのですが、もしこの説が当たっていたとしたら、どうして弥生末期に後進地域だった畿内が、先進地域で、おそらく武力も高かったであろう北部九州を抑えて「鉄鋌の輸入総代理店」になり得たかということが大きな謎となります。

 「鉄鋌の輸入総代理店」説は一つの説ですので、それが当たっているか外れているかは分かりません。

 一応、日本書紀を読むと、奈良盆地に興ったヤマト王権がメキメキと力を付けていき、やがて日本列島を支配するに至った話が書かれています。

 最近では、白石太一郎さんをはじめとして、ヤマト王権を単なる奈良盆地内だけの地方豪族と見るのではなく、瀬戸内東部(吉備や讃岐)から大阪平野、そして奈良盆地までの広域の政治連合と考える研究者が多く、私もこの説に賛同しています。

 その理由は、前方後円墳の原型となったと思われる前方後円型の墳丘墓がこの地域で発生した可能性が高いからであり、かつそれらの「古墳前史」を経て、墳丘墓の決定版とも呼ぶべき箸墓古墳が墳形や埴輪など各地域の要素を結集し、全長280mという異様な大きさをもって登場するからです。

 彼ら広域政治連合が結成された理由は、やはり北部九州の当時の最強勢力(私は邪馬台国連合の後進だと考えています)に対抗するためでしょう。

 弱い者が強い者に勝つためには弱い者同士がチームを結成して協力するのが一番です。

 そのチーム結成の理由が、鉄の入手をスムーズにしたいからというのが、「鉄鋌の輸入総代理店」説に繋がるのですが、その弱小勢力の集まりである「瀬戸内東部・畿内連合」が武力で北部九州連合を打倒したという事実はないと私は考えています。

 奈良盆地を中心とするヤマト王権が次第に領地を東西に拡げていき、北部九州の勢力を含めて列島各地の豪族を制圧して列島統一を成し遂げたという、まるで戦国時代の豊臣秀吉みたいな話が、もしかしたら多くの方々のなかでは自明なこととになっているかもしれません。

 その自明ともいえる歴史は果たして本当でしょうか。

 結論を先に言うと、私はヤマト王権が北部九州を制圧することは「最後までできなかった」と考えています。

 え、最後までできなかったって言うけど、日本は一つにまとまったじゃん!

 と怒り出す方もおられる方もいらっしゃるかもしれませんが、以降、私の考えを述べるのでお時間があればこのまま聴いてください。

 なお、邪馬台国東遷説を支持しているのかと思われるかもしれませんが、結果的には少し似ているところがあるかもしれません。

 では、ヤマト王権が北部九州を制圧して列島を統一したのではなく、違ういきさつで列島が統一されたという仮説を日本書紀をベースにして少しずつお話しします。

 2.欠史八代の歴史

 まずは初代天皇の神武天皇から解き明かしたいですが、神武をめぐる伝承はここでは省き、2代目綏靖(すいぜい)から9代目開化までの「欠史八代」の天皇について探ってみます。

 なお、ここでは便宜上「天皇」と呼びますが、天皇という称号は7世紀後半にできたという説が専らです。

 欠史八代の天皇に関しては初代神武を含めて、実在しなかった天皇だと考える方が多いです。

 そう言われる理由はたくさんありますが、例えば、事跡があまりにも貧弱だというのが一つの根拠で、住んだ宮殿と妃とお墓の名前しか書かれていない天皇がほとんどです。

 しかし私は、その3つが書いてあるのを貧弱だとは思いません。

 もし、欠史八代が架空だとしたら、日本書紀や古事記の作者はその3つを案出したことになりますが、まったくの嘘っぱちを書いたのでしょうか。

 日本書紀が書かれたのは7世紀末から8世紀初頭ですので、欠史八代が実在したとしたら500年とか700年くらい前の人物になり、しかも欠史八代の同時代の文字資料はなかったと思われるので、地域に残る伝承を記紀編纂のスタッフたちが自分たちの足を使って丹念に取材しまくった様子が想像できます。

 日本書紀編纂当時からしてもかなり昔の伝承を拾い集めたわけなので、とくに人の記憶ですぐに忘れられる固有名詞は怪しいかもしれません。

 そのため、宮殿などの固有名詞が書かれていることに不審がる研究者もいますが、世界各地で原始的な生活を今なお続けている民族が口伝で先祖の伝承を残しているケースはありますので、倭人の間でも各地の豪族の一族にそういったことを家業とする人がいたとしても不思議ではありません。

 編纂スタッフはそういった伝承を保持しているプロフェッショナルへのインタヴューも絶対にしているはずです。

 その結果、ようやく形にできたのが日本書紀や古事記でしょう。

 しかも、2代目の綏靖は神武との絡みがあるせいか少し詳しく書かれています。

 以上のことから、記紀に書かれている情報をもとに各天皇の宮殿をプロットしたのが以下の地図です。



 番号は通説上の代数です。

 これを見ると分かる通り、初代神武から8代孝元までは、奈良盆地西南部の葛木(かづらき)地方(現在の御所市周辺)を本拠地にしていたことが分かります。

 なお、当時の天皇は代が変わると宮殿の場所も変えることにしていました。

 そして、地図上にも書いてある通り、神武から4代目懿徳天皇までは妻を磯城(しき)の豪族に求めており、この時代の奈良盆地南部では、カヅラキとシキが二大勢力だったことが推測できます。

 5代目孝昭天皇は尾張連(おわりのむらじ)の祖興津余曾(おきつよそ)の妹を妻として迎え、6代目孝安は自らの姪を妻にしています。

 この尾張連が尾張(愛知県)の豪族かどうかは不詳で、『日本書紀』記載の他説では、磯城県主葉江の娘である渟名城津媛や倭國豊秋狭太媛の娘である大井媛が挙げられているので、尾張のような遠隔地の豪族の娘ではなく、奈良盆地内の豪族の娘を妻としたとここでは考えることにします。

 つづいて、7代目孝霊の妻は十市県主の祖にあたる大目(おおめ)という豪族の娘を迎えており、8代目孝元の妻は穂積臣等の祖内色許男(うつしこお)の妹・内色許売で、穂積臣は物部氏です。

 さて、ここまでは5代目孝昭の妻が奈良盆地内出身だとした場合、妻はすべて奈良盆地内の他の有力豪族か親戚の出身です。

 3.欠史八代の天皇の本名

 以上のような状況が変わるのがつぎの9代目の開化天皇ですが、その前に欠史八代までの天皇の本名を見てみましょう。

 ①神武 ・・・ カムヤマトイワレビコ

 ②綏靖 ・・・ カム「ヌナカワミミ」

 ③安寧 ・・・ シキツヒコ「タマテミ」

 ④懿徳 ・・・ オオヤマトヒコ「スキトモ」

 ⑤孝昭 ・・・ ミマツヒコ「カエシネ」

 ⑥孝安 ・・・ ヤマトタラシヒコ「クニオシヒト」

 ⑦孝霊 ・・・ オオヤマトネコヒコ「フトニ」

 ⑧孝元 ・・・ オオヤマトネコヒコ「クニクル」

 ⑨開化 ・・・ ワカヤマトネコヒコ「オオヒヒ」

 上記の内、「」で囲ったのが本名で、「~ヒコ」は称号のようなものです。

 欠史八代が実在ではないという根拠の一つとして、「オオヤマトヒコ」や「ヤマトタラシヒコ」が後世の称号で、同時代には使われたはずがないということを挙げることがありますが、その通り、同時代では使われていません。

 後世に付けられただけで、きちんと本名がありますから、それを言ったら後世に付けた漢風諡号はどうなるのでしょうか。

 上述のようにきちんと本名があるということが、私が実在だと考える理由の一つです。

 なお、神武だけ本名がないのですが、別名で「サヌ(ノ)」という名が伝わっており、それが本名だと思います。

 4.開化天皇は丹波から来た王か

 それでは話を戻します。

 上の地図を見てわかる通り、開化は同じ奈良盆地内でも北方の現代の奈良市内に宮殿を構えたと伝わっています。

 注目すべきは、開化の妃に丹波大県主由碁理の娘である丹波竹野媛(たにわのたかのひめ)がおり、本来であればその子彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)が跡継ぎであるのに、後から生まれた御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりびこいにえのみこと)が跡を継いでいることです(崇神天皇)。

 この頃はまだ長子相続の制度ができていないので特に不審がることではないと言ってしまえばそれまでですが、崇神の母は物部氏の正統といわれる穂積氏で、こちらも奈良盆地内の有力豪族ですので、仮説として以下のことが考えられます。

 ・開化は丹波出身の豪族で、地元の丹波の豪族から最初の妻を娶った

 ・開化率いる丹波の勢力が奈良盆地へ進出し、神武以来の系統の跡継ぎとなり、新たに奈良盆地を支配する必要から開化は皇后の座には奈良盆地の豪族の娘を据えた

 ・したがって、自動的に崇神が兄を差し置いて開化の跡を継いだ

 以上は、仮説ですので合っているか間違っているか分かりません。

 (もしかしたら、三輪において出雲の神が祀られているのは、このとき丹波の開化勢力を出雲が背後から支援した結果かとも思いましたが、まだ論理立てることはできていません。)

 崇神が本拠地としたのは、三輪山の西側で、今週末にクラツーにてご案内する纒向遺跡が展開している地域です。

 その地で、三輪山の神を信仰の対象として発展し、昔から言われているところのいわゆる「三輪王朝」と呼ぶべき政治体制ができたのでしょう。

 開化が奈良盆地に進出できたり崇神が三輪山麓に本拠地を構えることができたのは、物部氏の活躍(根回し)のお陰かもしれません。

 11代の垂仁と12代の景行の宮殿もこの周辺にあります。

 なお、神武天皇もヒムカからヤマトに入った際、ヒムカ時代の妻は皇后にせず、その子も跡継ぎにはならず、ヤマトに入って娶った妻が皇后になり、その子が2代目綏靖です。

 時代が下って、26代の継体天皇も北陸からやってきてヤマトに入ったときはヤマトの豪族と婚姻政策をもって仲良くなっていますので、上述の内容はこのような歴史的に見ても普遍的な事柄を援用したものです。

 5.北部九州勢力勢のヤマト進出

 この時点ではすでに、ヤマト王権の仲間に加入した証として列島各地の豪族は前方後円墳を造っていました。

 そしてその連合の力をもって、北部九州に勢力を張っている「旧邪馬台国連合」の揺さぶりに出たものと考えます。

 それが景行天皇の九州遠征の記録です。

 そのときの景行の行動ルートを見ると、ついに旧邪馬台国連合の勢力圏には入ることができず、撤退した様子がうかがえます。

 ただし、旧邪馬台国連合と戦いになったという考古学的な証拠はなく、この頃、朝鮮半島との交易で栄えた福岡県福岡市早良区の西新町遺跡からは列島各地の土器に混ざって奈良県の土器も出ていますから、基本的にはヤマトと旧邪馬台国連合は仲良くしていたものと考えます。

 さて、ここから日本書紀の記録の信ぴょう性が怪しくなります。

 というのも、景行以降、

 ・13代成務天皇

 ・14代仲哀天皇

 ・仲哀の皇后神功

 という、むしろ欠史八代よりも実在性の薄い天皇が現れるからです。

 ここで10代目崇神以降の本名を列挙します。

 ⑩崇神 ・・・ ミマキイリヒコ「イニエ」

 ⑪垂仁 ・・・ イクメイリヒコ「イサチ」

 ⑫景行 ・・・ オオタラシヒコ「オシロワケ」

 ⑬成務 ・・・ ワカタラシヒコ

 ⑭仲哀 ・・・ タラシナカツヒコ

 成務天皇と仲哀天皇の名前を見ると本当の名前が含まれていません。

 そのため、実在でない可能性が高いのですが、気になるのは成務天皇の宮殿が滋賀県大津市穴太(琵琶湖の西岸で比叡山の麓)にあったと記されていることです。

 これは後の天智天皇の近江遷都などからも類推できる通り、西からの脅威にさらされた場合、都は近江方面へ退避させることがあるので、成務(が実在しないにせよモデルになった天皇)が西からの脅威にさらされた可能性が高いです。

 では、西からの脅威とは何でしょう。

 仲哀の次の15代目応神天皇は、神功皇后が新羅を攻めるために九州に出征中に出産したという話を考えると、そもそも九州の豪族ではないでしょうか。

 先祖は伊都国の王かもしれませんし、研究者によっては朝鮮半島出身と考える人もいますが、応神の出自について現在のところ断定はできないものの、この時点で「西の脅威」と言ったら、応神の勢力しか思いつきません。

 もしかすると、応神の背後には百済が付いていたかもしれません。

 この応神が半島譲りの騎馬兵力を駆使しつつ東に進出し、成務の王権の後継者となった可能性はないでしょうか。

 北部九州の弥生時代の遺跡からは出て畿内からは出ない3点セットとしての勾玉、鏡、剣が「三種の神器」として天皇家に伝わっていることもこれと関連するかもしれません。

 こういうことを言うと、まるで昔の江上波夫さんの「騎馬民族征服王朝説」と近くなってしまい、「いまさらねえ」と言われそうですが、個人的な課題として、北部九州へ行くと、仲哀や神功皇后、それに武内宿禰の姿がチラチラと見え隠れしますので、彼らを含めてさらに考察を続けます。

 さて、応神は大阪平野に新たな宮殿を造り、そこを本拠地としたほか、奈良盆地にも宮殿を造り旧勢力を支配しました。

 15代応神以降は、超巨大前方後円墳の時代となり、倭国は朝鮮半島でも作戦行動を展開します。

 そして、仁徳、履中、反正、允恭と続き、まさに中国の歴史書に登場する「倭の五王」の時代が展開されるわけです。

 19代允恭の跡は、安康天皇のちょっとした混乱時期があり、ようやく「王の中の王」と呼ぶことのできる雄略天皇が即位し、ここに来て天皇家は他の豪族から隔絶した権力者となります。

 これが5世紀の半ばです。

 雄略の時点では、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣や熊本県和水町(なごみまち)の江田船山古墳出土の銀錯銘大刀に刻されている通り、ヤマト王権の影響は東国から九州にまで及びました。

 ところが、雄略の没後、相続争いなどでヤマト王権は不安定となります。

 中央が不安定になり地方の支配が弛緩してくると、地方の勢力は独立へ動き出します。

 その結果、6世紀前半には北部九州にて筑紫君磐井が台頭してきたと考えています。

 以上のような「ストーリー」が「私の日本書紀」なのですが、講座の開始までもう少し時間がありますので、さらに考察を進めて、分かりやすい講義にしたいと思います。



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【クラブツーリズム】北東北の縄文ツアーならびに群馬の古墳ツアーをご案内してきました

2018-09-15 02:17:31 | 歴史探訪
 急に秋っぽくなりましたね。

 気温の変化が激しいので体調を崩しそうです。

 今月の2日に休養を取った後は、ダスキンかクラツーの仕事を連続で続けており、明日のお掃除がおそらく今月で一番体力的にキツイと思いますが、それが終われば明後日は13日連続稼働のあとのお休みです。

 もう一日頑張ろう。

 その13日連続稼働のうち、クラツーの仕事は4日間やっています。

 先週の金・土・日(9月7日~9日)は、北東北の縄文ツアーをご案内してきました。







 探訪箇所は8月17日に出発したツアーと同じですが、回る順番が違っており、その関係でお昼ご飯を食べる箇所が違っています。

 3日目は小雨が降ってしまいましたが、ほぼずっと良いコンディションで歴史めぐりができました。

 31名の皆様、ご参加ありがとうございました!



 撮った写真はほとんど食べ物写真ばかりです。

 1日目の十和田プリンスホテルでのディナーはフレンチ。











 ここのフレンチは本当に美味しくて、お客様の評判もすごく良いです。

 お風呂は露天風呂。

 前回は星がきれいでしたが、今回は残念ながら小雨でした。

 でもとても気持ち良かったです。

 翌朝の朝食はバイキング形式。

 今回はおかずを集中して、ねぶた漬けをメインとしました。

 

 肉じゃがも美味しいですよ。

 十和田プリンスホテルの各部屋にはコーヒーミルが置いてあり、前回来たときは余裕がなくて飲めなかったのですが、この日の朝は時間に余裕があったので朝から美味しいコーヒーを3杯いただきました。



 2日目は多くのお客様が一番楽しみにしている三内丸山遺跡が入っています。



 お昼は三内丸山遺跡にてラーメンとおにぎりのセット。



 このホタテの入った醤油ラーメンがまた美味しいのですが、お客様は別メニューでもっと高価な料理を召し上がっていただいています。

 宿泊はホテルアップルランドで、こちらの夕飯は基本的な料理は出てきて、それ以外はバイキング形式で津軽の郷土料理などが食べられます。









 こちらも美味しくて好評です。

 日本酒もありますよ。





 そして面白いことに、アップルランドの客室の冷蔵庫にはリンゴが冷やしてあるのです!



 温泉に浸かった後、デザートでいただきました。



 翌朝のご飯。



 ホタテのおかゆも美味しい!

 ご飯の3杯目はネバネバ系を盛って丼にしてみました。



 とくにイカそうめんがグッドです。

 今回は前回よりも天気が悪かったのですが、なぜか岩木山はよく見えました。



 お昼は金木観光物産館です。





 道路を挟んだ向かいには太宰治の生家があり、食事のあと探訪しているお客様もいらっしゃいました。



 そしてすべての行程を終えて盛岡へ戻ってきたら、私は新幹線に乗る前に盛岡冷麺です。



 20分あったので食べることができましたよ。

 さて、このツアーは縄文時代がテーマなのですが、縄文時代とは関係ない探訪箇所が何箇所か含まれており、お客様のご意見を総合した結果、11月2日出発で私がご案内する回は、縄文に特化したツアーに変更されています。

 それにともない、宿泊場所も変更となっており、上述のホテルでの食事は食べられませんのでご了承ください。

 ただし、変更後のホテルも上述のホテルに負けないクオリティだと思いますので、次回参加したいと思っておられる方もご安心ください。

 さて、上述のツアーの次は、今週の水曜日(12日)に、群馬の古墳ツアーをご案内してきました。

 こちらは16名様のご参加をいただき、ありがとうございました!

 群馬へ向かっている途中、クラツーのラッピングバスに追い抜かれました。



 こちらのお昼ご飯はお弁当!



 このお弁当も美味しいですよ。

 ただし、オプションとなっています。
 
 関東の古墳ツアーはこれからもコースを造り、20コースくらいまでは増やそうと思っていますので今後ともよろしくお願いいたします。

 ところで、「歴史への旅」の最新号が出ました。

 今号にも私のツアーは6ページに渡って散在して掲載されていますが、あまり目立たないツアーをご紹介します。

 ひっそりと掲載されている山梨の古代史ツアーです。



 山梨の古代史も面白いですよ。

 それと、私としては初の海外ツアーが裏表紙に乗っています。



 韓国に行きます。

 このツアーの面白いところは、成田から釜山へ行き、そこからジェットフォイルで対馬へ渡り、韓国と対馬がどれだけ近いかを実体験していただき、いったん釜山へ戻ってから成田へ飛んで帰ってくるところです。

 美味しい料理も食べられそうですよ。

 そのほか、たくさんのツアーが掲載されていますので、ぜひ「歴史への旅」をご覧ください。

 お持ちでない方は、クラツーに電話してくだされば、パンフレットを郵送してくれると思います。

 なお、今月はあと、

 ・武蔵国分寺跡の現地集合ツアー
 ・奈良の纒向遺跡ほかのツアー(1泊2日)
 ・福岡の宗像大社みあれ祭のツアー(2泊3日)
 ・西新宿で座学講座

 があり、掃除の仕事の合間を縫ってお仕事しますよ。

 さて、明日も早いので寝るとするか。

青森縄文王国
新潮社
新潮社




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【対馬・壱岐探訪 1日目 その4】対馬も日本神話の故郷です【和多都美神社】

2018-09-02 16:23:56 | 歴史探訪
 先週の水曜日は1か月ぶりの休日でしたが、やはり1日休んだくらいでは疲れは取れないですね。

 周りの先輩方に、「無理がきかなくなってくる年齢なんだから仕事は程々にした方がいいよ」と言われますが、実際その通りでしょう。

 今日も歴史の仕事も掃除の仕事もない、完全なる休日でしたが、非常に珍しいことに11時近くに目が覚めました。

 今後の働き方を再考しようかしら。

 いや、でもまだまだ行けるな。

 起床してからは政所の整理整頓と清掃。

 仕事ばっかりしていると政所がカオス状態になってきて、必要な資料が必要な時に見つからなくなってきたりしますので、たまには整理整頓をしないといけませんね。

 つづいて素麺を食べた後は、幕府の敷地内の草むしりを簡単に済ませ、ERASUREやNEW ORDERを聴きながらこのようにブログの記事を書いているわけですが、アップしたら夕飯の買い物に行ってきます。

 ところで、昨日の土曜日(9月1日)は、クラブツーリズムにて講座を2本やらせていただきました。

 午前は、東北の古代史・中世史シリーズの第9回として、律令国家が初めて国家権力を動員して行った709年の征夷から、8世紀末のアテルイと紀古佐美との戦いまでをお話ししました。



 午後は、筑紫君磐井の乱についてお話しし、それぞれ22名様のご参加をいただきました。

 皆様、どうもありがとうございました!

 東北の古代史や磐井に関しては、比較的マイナーな部類に入ると思うのですが、それでもたくさんの方々が興味を抱いて来てくださることが大変嬉しいです。

 また、私としてはお客様から「90分では短い」と言われると尚更嬉しいですし、講座をDVD化して欲しいとの意見もいただいており、熱心に聴いてくださる方が多いことがとてもありがたいです。

 DVD化は難しいかもしれませんが、ネット配信ならできそうな気がしますので知恵を絞ってみようと思います。

 なお、同じ内容の講座は今月の27日(木)にもやりますので、興味のある方はぜひいらしてください。

 ⇒東北の古代史講座に関してはこちら

 ⇒筑紫君磐井の乱の講座に関してはこちら

 今週末は北東北の縄文ツアーをご案内し、再来週は奈良のツアー、その次の週は宗像大社のみあれ祭を見るツアーのため福岡へ行ってきますよ。

 日本各地へ行けて本当に楽しい!

 これもお客様やクラツーのお陰です。

 皆様、ありがとうございます。

 上述以外にも日帰りの古墳ツアーや街歩きもやりますが、それ以外はお掃除します。

 それでは、先日の対馬探訪の続きをごくごく簡単にお伝えします。

 ⇒前回の記事はこちら

*     *     *


 豊玉郷土館を見学した後は、同じ豊玉町内にある和多都美(わたづみ)神社へ向かいます。

 え、なんだあれ?



 山道で急に巨大な赤い鳥居が現れてビックリ。

 この道は神社の参道かな?

 いや、違うようです。



 この先の地域は「神話の里」というキャッチフレーズが付いているのですね。

 車を止めて観光案内を見ます。





 わずかに海も望めますよ。



 



 

 山を下っていき、和多都美神社に到着です。



 まずは、拝殿へ向かいましょう。



 おや、何でしょうか。







 祭神のヒコホホデミとトヨタマヒメは初代神武天皇のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんですが、こういった神々の名前を見ると、昔宮﨑に行ったときのことを思い出します。



 宮崎県も高千穂町だけでなく、各所に日本書紀や古事記に絡めた神話のゆかりの場所が点在していましたが、対馬もそういう雰囲気が濃厚ですね。





 和多都美神社の境内は海も含まれています。



 対馬では説明板にハングルでの説明を欠かせません。



 拝殿。



 ハングルで書かれた絵馬もたくさんありますよ。



 本殿と境内社。



 社殿に向かって右側には川が。



 社殿の左側に回ってみます。





 裏の方へ向かって散策路が伸びています。



 それでは、海の方へ行ってみます。



 おー、いいですねえ。



 海に向かって参道が伸びています。



 海の水もとてもきれい。



 ちっちゃい貝さんやヤドカリさんたちが蠢動しているので、しばし彼らとの対話を楽しみます。

 自称「高尾のムツゴロウ」の私はワンちゃんやネコちんと話ができるのですが(妄想)、その延長で海の生き物とも対話ができるように頑張ります。

 しかしこの神社、とてもいい雰囲気ですねー。



 他に参拝客は一人も訪れませんし、海を眺めながらゆっくりしたい気分になりますが、仕事で訪れていますので、程々にして次へ向かいます。



 この川がさきほど見た拝殿右手の川ですね。





 つづいて、峰町の歴史民俗資料館へ行ってみます。

 (つづく)

ヤマトとカラの狭間で (対馬国志 第1巻)
永留 久恵
交隣舎出版企画


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【対馬・壱岐】不可思議な古墳の数々と知られざる元寇遺跡【歴史好きには堪らない島】

2018-08-29 23:09:54 | 歴史探訪
 今日はお仕事がお休みでした。

 掃除も歴史もお休みで自宅に引きこもっていました。

 本当は、今週末の講座の資料作成をしたかったのですが、少しだけ作業が進んだものの、あとはほとんど寝ていました。

 私的には家で寝ているというのは珍しく、よっぽど身体が疲れていたんだなと思います。

 直近を振り返ってみると、2週間前の13日(月)が歴史も掃除もない日でしたが、朝から会社の健康診断に行って、その後、都心まで出かけているので、身体が休まったかどうかは微妙です。

 その前は7月29日で、その日は一日中自宅に引きこもっていました。

 しかしその日は1日中ブログの記事を書いていたのでそれはそれで疲れたかもしれません。

 このように、私は自分でも呆れるほど仕事ばかりしています。

 最近は、各方面から「稲用さんは働きすぎだ」と指摘されており、本音を言えば、週休2日で普通に暮らせたらどんなに楽だろうかと思います。

 ただ、現実はそう甘くはありませんね。

 ありがたいことに、9月と10月はクラツーの催行決定日がそれぞれ11日ずつあり(他の日は掃除をします)、クラツーの予定自体は来年1月までほぼパンパンになっています。

 これくらいやった結果、だいたい自分の能力の90%くらいまで来てしまったと判断したので、これ以上は仕事は増やさないつもりです。

 基本的に働くことは楽しいことなので普通であれば苦になることではありませんが、さすがに体力的にきつい状態が続くと、繰り返しますが週休2日で生活できたらいいなあと憧れます。

 さて、話を変えて、先週の対馬・壱岐歴史探訪ですが、まだレポートの途中でしたね。

 ブログの記事を書くのは私の中では一番の楽しみなのですが、その時間を確保することもできないため、ひとまずまだレポートしていない場所について簡単にお伝えしようと思います。

 やはり、歴史をやるうえでは現地に行くのが一番だといつも感じており、今回の対馬・壱岐ではとくにその思いを強くしました。

 というのも、対馬は国境の島ですから、現地に行ってみないと分からないことがたくさんあったからです。

 知られざる島の歴史をたくさん知り、大いに知的好奇心を刺激されてきました。

 両島とも海と緑の素晴らしい景色でしたので、歴史探訪以前に、景色を見るのもとても楽しく、都内ではせっかちな運転をする私が、両島では法定速度でのんびり運転しながら景色を楽しみ、スピードを出そうという気持ちにならなかったのです。

 壱岐は山ばかりの島というイメージがあると思いますが、深江田原(ふかえたばる)平野は長崎県で2番目に広い平野です。



 その深江田原平野の辺縁部のやや高い位置にある原の辻遺跡を遠望します。



 壱岐の5時45分。



 九州は東京よりも日の出が遅いです。

 壱岐の7時50分。



 対馬も壱岐も古墳王国で、とくに壱岐には長崎県内の古墳の6割が集まっており、現在確認できる数は280基と言われています。

 対馬の矢立山1号墳。



 対馬の在地豪族の墓ですが、こういった積石塚(のような塚)がもし関東地方で見つかったら、間違いなく渡来人の墓だと言われると思います。

 また、壱岐の壱岐古墳群に属する双六(そうろく)古墳は墳丘長91メートルを誇る長崎県最大の前方後円墳ですが、他では見たことのない異様なデザインの前方後円墳です。



 丘陵の上に立地。



 ヤマトを中心とした、いわゆる「前方後円墳体制」から見た場合、いったいこの形状の前方後円墳はどう判断すればいいのでしょうか。

 脳が刺激されっぱなしで、イッちゃいそうです。

 壱岐も対馬も古墳好きにはたまらない不思議ワールドですよ。

 つづいて、両島には元寇関連の遺跡も多いです。

 対馬の小茂田神社。

 
 
 この近くで元寇の合戦が行われました。





 元寇というと、教科書で習った印象では博多湾での戦いが頭に浮かびますが、当然ながら博多に侵攻する途中、対馬と壱岐を通過しているわけで、そこで戦いがなかったわけがないんですね。

 でも意外とそこまで考えをめぐらせる人は少ないかもしれません。

 壱岐にも古戦場跡があります。







 少弐公園も古戦場跡です。









 少弐公園からは宗像の大島が見えました。



 そして何と、沖ノ島も見えましたよ!



 壱岐には「千人塚」と呼ばれるものがあり、元寇で殺害された島民を葬ったとされています。





 元寇の際に、対馬と壱岐の人びとが大変な目に会ったということを私たち他の地域の人びとも知っておく必要があると思います。

 ただし、その反対のことを象徴する遺跡として、秀吉の朝鮮出兵の際に築城された勝本城跡もあります。







 こういった過去の歴史を正しく理解しつつ、お互い未来に向けて仲良くする必要があると思います。

 一方的にどちらかが悪いということはないですよね。

 国と国との戦いでも個人の喧嘩でも両者に原因があるはずなので、お互い、反省すべき点は反省し、謝罪すべきところは謝罪しましょう。

 近代の戦争遺跡もあります。

 壱岐の黒崎砲台に据え付けられた大砲は、戦艦土佐の40㎝砲でした。





 両島とも、素敵な神社も数多くありますよ。

 干潮のわずかな時間しか参拝できない壱岐の小島神社。



 以上、駆け足で代表的な遺跡を巡ってきたわけですが、実際に現地に行って再確認したのは、日本の古代人は船をかなり自由自在に使っていたことです。

 それはおそらく、縄文時代から現代までずっとそうで、対馬と壱岐の島の真ん中には国道382号線が縦断しているのですが、対馬ではその道ができる40年前までは、車を使っての移動がとても不便で、スクールバスならぬ「スクールボート」があり、島民は日常は船に乗って各地を行き来していたそうです。

 その風景は、丸木舟とモーターボートとの違いはあるかもしれませんが、古代も今も一緒ではないかと思うのです。

 もう一度、農耕民族や騎馬民族の視点からだけでなく、海洋民族としての日本人をよくよく検討しようという思いを強くしました。

 このように景色も素晴らしく、歴史の見どころも沢山あり、美味しい料理も食べられてのんびりと過ごせる場所が対馬と壱岐です。

 なにも海外まで行かずとも、福岡空港か長崎空港から至近で、博多港からジェットフォイルを使ってもすぐに行ける距離に素晴らしい場所がありますよ。

*     *     *


 壱岐の歴史スポットは、クラブツーリズムのツアーでもご案内しています。

 コース番号:C2041

 ⇒探訪箇所など、詳しくはクラブツーリズムの公式ホームページをご覧ください

 10月6日出発分は、私がご案内します!

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【対馬・壱岐探訪 1日目 その3】対馬の歴史探訪スタート!【万関瀬戸・西漕手・阿麻弖留神社・豊玉町郷土館】

2018-08-26 06:04:30 | 歴史探訪
 壱岐の朝。

 5時に起床しましたが、こちらはまだ真っ暗です。

 よく、感覚的には東京よりも1時間、日の出と日の入りが遅いといわれます。

 この記事を書いているうちに徐々に明るくなってきて、5時40分現在、こんなかんじです。



 それでは、対馬・壱岐探訪の続きをごくごく簡単にお届けしますよ。

 ⇒前回の記事はこちら

*     *     *


 生まれて初めてのプロペラ機は楽しかったー。



 そしてまた、長崎県に来るのも初めてですが、その初めてが対馬なので、古代史マニアとしては誇れることではないかと思います。

 台風の余波でまだ風は強いですが、天気は程よく晴れています。

 空港から周辺の景色を見渡してもほぼすべて緑の山。

 素晴らしい・・・

 それでは、さっそくレンタカーを借りて探訪を開始しましょう。

 空港の近くには「対馬の石屋根」があります。



 なんか、お馬さんも置いてある。





 南北82㎞、東西18㎞の対馬は、北から上対馬町・上県(かみあがた)町・峰町・豊玉町・美津島町・厳原(いずはら)町の6つに分かれ、2004年まではそれぞれ別個の自治体でしたが、現在は対馬市としてまとまっており、市役所は南側の厳原に置かれています。

 今回の旅では時間の都合上、上対馬町と上県町へは行けず、本日は峰町・豊玉町・美津島町の3町の史跡をめぐります。

 車を走らせてすぐ、赤い鉄橋が見えましたよ。

 万関瀬戸でしょう。

 駐車場があるので停めてみてみましょう。





 え?

 島左近の墓?



 気になる・・・



 万関瀬戸に架かる橋は万関橋です。





 万関橋の眼下は明治34年に旧日本海軍が開削した運河になっています。



 今日の車はトヨタのアクアですよ。



 次に西漕手(にしのこいで)。



 へー、初めての場所に来ると知らないことを知る喜びを味わえて楽しいですね。



 この地峡は最小時は160mほどしかない時期があったそうで、説明板にある通り、遣唐使はここで船を乗り換え、小さな船なら陸を曳いて東西を行き来したそうです。

 それに、応永の外寇って何だろう?

 ※李氏朝鮮からすると対馬は倭寇の巣窟になっているということで、応永26年(1419)年に倭寇掃討の軍勢が差し向けられてきたということです。

 この先に何があるんでしょうか。



 古い説明板。



 潮の匂いが湿った空気に混ざって漂っていますよ。



 何でしょうか、この板状の岩は。



 お、水が見えてきました。



 ほー、ここまで浅茅湾が入り込んでいるんですね。



 しかし、風が強くて長居できない・・・



 あなた誰ですか?





 あそこにも居る!



 しかし岩が気になる・・・



 つづいて、すぐ近くに阿麻弖留神社があるので行ってみましょう。









 先の戦の名残でしょうか。



 石段を上がりますよ。

 あ、海だ。











 この近くには日本最古の寺院と称する梅林寺があるので寄ってみます。

 こちらですね。



 現在は曹洞宗の寺院です。

 道路端には説明板があります。



 では、北上して豊玉町に行きます。

 まずは豊玉町郷土館へ行って情報収集をしましょう。

 高台に登り駐車場までやってきました。



 観音像のようなものが見えますよ。



 でもちょっと趣が違うかな。



 ここが郷土館でしょうか。



 不思議なデザインの立派な建物ですね。





 おや、ドアに鍵が閉まっていますよ。

 どうやら別の場所に行って開けてもらうように伝えないといけないようです。

 全然人の気配がしませんが、窓口のようなところに行くと、職員の方がいらっしゃいました。

 郷土館の鍵を開けていただき、見学開始です。

 ここは写真撮影が禁止ですね。

 外見も立派な建物ですが中も立派で、バブリーな雰囲気があります。

 1階は考古展示で2階には朝鮮通信使関連が展示してあります。

 豊玉町にはとくに弥生時代の遺跡が他の地域と比べて多いです。

 なお、魏志倭人伝に登場する対馬国の具体的な王都の遺跡についてはまだ確定していません。

 20分ほどかけて見学し、再度さきほどの窓口に行って今度は閉めてもらうように頼みます。

 しかし、思っていたほど歴史関連のパンフレット類が置いてないなあ。

 さきほど、この郷土館のリーフレットと「対馬の自然と文化」という小冊子をいただきましたが、それ以外に「対馬 歴史の散歩道」というリーフレットが3種あるだけです。

 あんまり歴史に力を入れていないのかなあという印象を持ちましたが、厳原に博物館を建設中ですので、今後に期待したいです。

 唯一、『豊玉町の文化財』という書籍が有料販売していたので、窓口に戻るとそれを買おうとしました。

 ところが、郷土館では現金のやり取りができないので、役場の方で支払いをして欲しいと言われました。

 実はこういうことってたまにあるんですよ。

 なので、面倒くさいのは事実ですが、その場所のやり方には従わないといけませんね。

 さきほど郷土館がある丘へ登るときに、麓に市役所の支所がありましたが、そこで支払いするようです。

 車に乗って丘を下り、支所へやってきました。



 ここで無事、1000円を支払いましたが、つまり、支所が休みの土日はこの本は購入できないということですね。

 今日はたまたま金曜日で良かったですが、今後ツアーで来るときなどは注意が必要ですね。

 お、目の前にスーパーがある!



 対馬に渡る前の11時ごろに軽いお弁当を食べましたが、時刻は14時半をまわり、ちょうどお腹が空いてきたのであそこで何か購いましょう。

 初めて入るスーパーって楽しいですよね。

 お弁当コーナーに行くと美味しそうなお弁当がたくさん並んでいますが、カレーも数種類あります。

 よし、野菜のキーマカレーにしよう!



 「キーマン」と書いてありますが、細かいことは別にいいのです。



 ほどよい辛さのトマト味で美味しい。

 一息ついたので、後半の探訪に出発しますよ!

 ⇒この続きはこちら

ヤマトとカラの狭間で (対馬国志 第1巻)
永留 久恵
交隣舎出版企画






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