日本史大戦略 Side-B 附 東国を歩く会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【安芸・備後古代史探訪 その1】安芸国総社跡【広島県府中町】

2018-10-16 03:00:29 | 歴史探訪
 クラブツーリズムにて、10月12日(金)から2泊3日で北部九州の古代史ツアーをご案内してきました。



 ※宗像大社神宝館にて開催中の藤原新也展の展示写真を撮影(藤原新也展は11月30日まで開催)

 2日目の夜は久留米にて自由夕食でしたが、今回もお勧めした「麺志」に多くのお客様が食べに行ってくださいました。



 自分がお勧めしたラーメンが「美味しい」と言われると嬉しいですね。

 ツアー自体は3日間すべて快晴で、とてもスムーズに行ったのですが、最後の最後に滅多に発生することのないハプニングが発生してしまいました。

 どんなハプニングだったのかは、このブログですでにお知らせしています。

 参加してくださいました18名の皆様、ご参加ありがとうございました。

 最後はとんでもない目に会いましたが、また興味のあるツアーの時はどうぞご参加ください。

 ところで、私は帰宅してから仮眠を取ろうと思い、17時くらいにベッドに転がったのですが、気が付いたら0時半でした。

 普通に7時間半も眠ってしまった・・・

 実は自分は随分と疲れていたんだなあと気づきました。

 もう少ししたら再度寝ると思いますが、起きている間に先日10月1日から3泊4日で行ってきた中国地方の古代史探訪の第2日目の様子をお伝えします。

 ⇒第1日目「備前・備中探訪」の様子はこちら

*     *     *


 中国地方古代史探訪の2日目の朝は、広島駅近くのホテルで目覚めました。

 7時半、ホテルを出発。

 朝の広島駅。



 生まれて初めて広島に来ましたが、普通の観光はせずに、マニアックな歴史探訪をしますよ。

 原爆ドームすら見ていない・・・

 時間があれば見学したいのですが、今回は無理です。

 それでは、レンタカーを借りて探訪開始。

 最初に向かうのは広島県府中町です。

 初めての場所に行くときは、最初に地元の郷土資料館などに立ち寄って、資料収集及び情報収集を行うのがいいので、まずは府中町歴史民俗資料館へ行きたいところなのですが、まだオープン前の時刻なので、最初に民俗資料館近辺の史跡を少し見てみようと思います。

 というわけで、安芸国の総社跡へ行ってみましょう。

 現在はコミュニティセンター総社会館が建っているようなので、カーナヴィで見つけるのは容易いです。

 ところが到着してみると、朝早いためか、駐車場がオープンしていません。

 何とか路駐して、急いで見てきます。

 こちらですね。



 入口横に説明板がありました。



 ここ府中町はその名の通り、律令時代に安芸国の国府があった場所です。

 往時は各国の国府の近くには総社があり、現在でも総社として残っている神社が結構あります。

 国府には国司という役人が中央から派遣されてくるのですが、国司の重要な仕事の一つがその地域の神社を統括することです。

 そのため、国司は着任早々、国内の神社(といっても、国が認めた神社のみ)へ参拝するのですが、数が多いと参拝するだけでもかなりの日数がかかります。

 例えば陸奥国なんかは100社ありますからね。

 そこで考え出されたのが、神様は分祀できるという特性を生かして、国府の近くに総社を建ててそこにまとめて勧請するというやり方です。

 それが総社と呼ばれ、安芸国の場合はこの辺りにあったわけです。

 おや、石碑もありますね。



 そういえば、東京都にも府中市がありますが、こちらは府中町です。

 自治体名は町村は郡が冠せられるため、郡外であれば重複しても大丈夫なのですが、市の名前は全国で重複してはいけません。

 なので、府中町がもし市になることがあったら「府中市」は名乗れないのです。

 それではつづいて、安芸国の国庁跡を探してみましょう。

 (つづく)


広島県の歴史 (県史)
岸田 裕之
山川出版社


 

 
コメント

【備前・備中古代史探訪 その17】10分探訪・作山古墳【岡山県総社市】

2018-10-15 16:37:23 | 歴史探訪
 15時、ようやく帰宅しました。

 途中、立川で青梅行きから高尾行きに乗り換えるときに、我慢できずに中央線ホームにある立ち食い蕎麦に入ってしまいました。

 このお店は「おでんそば」が有名なのですが、今日は少しでも安くするために、かけ蕎麦とカレーライスです。



 福岡は4日間連続快晴で場合によっては暑いくらいでしたが、東京は少し肌寒くて、温かい蕎麦がことのほか美味しかったです。

 というわけで、今日は疲れているので(特に足がだるい)、すぐに横になりたい気分ですが、無駄な頑張りで備前・備中めぐりのルポルタージュを仕上げようと思います。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 途中、いろいろな史跡に引っ掛かりながら、ようやく作山古墳の近くまでやってきました。



 さきほどの国分寺の塔と同じく、逆光になってしまった・・・

 この場所からも国分寺の塔は望見できますよ。



 時刻は17時半になろうかというところです。

 今日は吉備に来ているので、東京よりも日の入りは遅いです。

 そのため、まだギリギリ探訪できますね。

 ただ、それよりか、今日は20時までに広島駅前でレンタカーを返却しないといけないので、むしろそのためにも急いで作山古墳を見ようと思います。

 とりあえず、墳頂に登れればいいやというスタンスでいいかな。

 作山古墳もちゃんと駐車場があり、トイレもあります。

 もちろん説明板もあります。



 全国で4番目に大きい造山古墳もこちらの作山古墳も、両者とも「つくりやま」と呼ばれているので、発音で区別する場合は、こちらは「さくざんこふん」と呼びます。

 墳丘長282mの巨大古墳で、後円部の直径も前方部の幅も174mで揃えてあります。

 5世紀中葉の築造と考えられていますが、古墳時代の全時代を通じても大きさでは10位にランクインしています。



 古墳の西側の風景。



 前方部に登り口が付いていますね。



 登ってみましょう。



 前方部墳頂に上がり、後円部を見ます。





 後円部墳頂まで来ました。



 前方部を見ます。



 元来た道を戻ります。



 墳丘を詳細に見て回る心の余裕がありません。







 とりあえず、今日はこんな感じでいいでしょう。

 なお、本日の車はこちらです。



 史跡めぐりの際にはよくお世話になるトヨタのヴィッツです。

 最初は軽自動車を借りようと思ったのですが、すでに残っておらずヴィッツになりました。

 軽ではないものの小さいので史跡めぐりには適した車ですよ。

 あ、猫ちん!



 明らかに警戒されている!



 逃げられた!



 おっと、猫ちんと遊んでいる場合じゃありませんね。

 これから広島へ向かいます。

 全然土地勘がないので、ナヴィがないとどうにもなりませんね。

 倉敷ICから乗り、生まれて初めて山陽道を運転します。

 山陽道というと古代の場合は全国の道路の中で最も整備された道でした。

 というのも、外国の使者が九州方面から都を目指すときに通るのが山陽道ですから、国家の威信をかけて立派な道路にしていたわけです。

 でも今は片側2車線の普通の高速道路ですね。

 むしろ、東北道の方が立派。

 それはそれとして、私は東京のドライヴァーより、畿内のドライヴァーの方が運転が荒いと思っていますが、山陽道の場合は畿内に近いせいかトラックが結構エグイですね。

 かなり危険な割り込みを平気でしてくるトラックがあまりにも多い。

 しかもハザードを点滅させない。

 まあ、私も他人のことは言えた口ではないかもしれませんが、もし割り込んじゃったかな、と思ったときはきちんと「済まん!」という意味でハザードを点滅させますよ。

 しかし、倉敷から広島って結構ありますね。

 結局、1時間半くらい高速を走り、19時半に無事に車を返却。

 あー、お腹すいたー・・・

 ということで、ホテルに荷物を置き、たまたま見かけたラーメン屋に入ってみます。



 まずはビール。



 ひゃー、美味い・・・

 お、ラーメンも美味しそう。



 スープは豚骨も鶏ガラもバランスよく入っていてコッテリしていますが、煮干しが一番強いかな。

 私は煮干しが好きですから、とても美味いです。

 さらに、八王子ラーメンと同じで刻み玉ねぎが入っているのがまた良いですね。

 とても美味しいラーメンで一日を締めくくることができて、今日は朝から大変な目に会いましたが結果オーライでとても良い日でした。

 ⇒この続きはこちら

吉備考古論考集
葛原克人
吉備人出版

コメント

【備前・備中古代史探訪 その16】現代の国分寺と古代の備中国分寺跡【岡山県総社市】

2018-10-15 14:08:38 | 歴史探訪
 いつもは羽田空港から高尾へはリムジンバスで帰るのですが、今は平日の昼間ですから、電車に乗っても混んでいないし、道路事情を考えると電車の方が早いと判断し、電車に乗って帰宅中です。

 しばらく中央線に乗るので、その隙に備前・備中古代史探訪の続きをお伝えします。

 しかしもう14時を過ぎましたが、まだ昼を食べていないので空腹で頭が回らないです。

 文章少なくてスミマセン・・・

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 備中国分尼寺跡を見てその近くにあるこうもり塚を見学しました。

 国分尼寺があるということは、この近くには僧寺があるはずです。

 さきほどから遠くに塔が見えていますが、あれがそうでしょう。

 備中の国分寺は珍しく現在の国分寺が法灯を伝えているようで、両者は同じ場所にあるのです。

 ということで、まずはいったん車へ戻りましょう。

 こうもり塚古墳の遠景。







 かなり離れて、またまた遠景。



 そろそろ太陽が沈んでしまう方向に塔が見えます。



 では、車に乗って向かいます。

 ・・・一瞬で到着。

 説明板発見。



 現在の国分寺とこんな感じで重なっているんですね。



 セオリー通り、南門跡から行きますよ。





 お、門跡の礎石が残ってる!



 いいねえ。

 南門には築地塀が接続されていました。





 築地塀の内側には珍しく井戸跡があります。





 塔を撮影しようとすると、ちょうど逆光になってしまいます。



 今度は中門跡。



 ここにも礎石が。



 説明板がいうところの唯一残った礎石ですね。

 門跡に礎石があるって嬉しい。



 どうやら遺構はこれくらいのようです。

 あとは現代の国分寺の境内が展開しているようですね。



















 造山古墳を見た次は作山古墳へ行こうと思っていましたが、備中国分尼寺跡とこうもり塚古墳、そして備中国分寺跡を探訪してしまいました。

 いよいよ時間が少なくなってきましたが、何とか間に合うと思います。

 ⇒この続きはこちら

吉備考古論考集
葛原克人
吉備人出版



コメント

【備前・備中古代史探訪 その15】一瞬で見学・こうもり塚古墳【岡山県総社市】

2018-10-15 12:00:32 | 歴史探訪
 ここ最近、九州方面のツアーでいろいろと都合の悪い事象が発生しています。

 7月のツアーでは豪雨で大変なことになったということはすでにお伝えしていますし、2週間ほど前は宗像大社みあれ祭のツアーが台風24号の直撃で中止となり、その次の週は壱岐のツアーがこれまた台風25号の直撃で中止となりました。

 これらもすでにお伝え済みですね。

 そして今回、先週の金曜日(12日)から吉野ヶ里遺跡ほかのツアーに来ているのですが、本来であれば昨日の日曜日の夜に帰宅していました。

 ところが、今の時点でまだ飛行機の中にいるのです。

 といっても、昨日の夜からずっと飛行機が飛んでいるわけではありませんよ。

 私たちが乗っているのは戦略爆撃機ではありません。

 実は、昨日福岡空港で乗るはずだった飛行機が機材トラブルにより、非常にレアなケースですが、代替機が間に合わず、帰れなくなってしまったのです。

 福岡空港には別の歴史ツアーのチームもいて、そのチームと合流して、結局福岡のホテルに泊まってしまいました。

 ANAからは、欠航による「ご免なさい手当」として乗客全員に一人当たり1万5千円が支払われました。

 40代男性職員(千葉県出身)が急いで金庫まで行って100万円の束を4つ掴んで走って戻ってきたのです(註:あくまでもイメージです)。

 私たちはその資金をもとにして、空港近くのビジネスホテルに宿泊したわけです。

 そして今、振替の臨時便に乗って羽田へ向かっているというわけです。

 お客様も皆、お疲れになったことと思いますが、たまに発生するトラブルの際にいつも思うのは、私たちのお客様はこういうときでも怒ったり騒いだりしませんし、最も大変な仕事をしている添乗員さんに協力的です。

 皆様、本当にありがとうございます。

 私なんかは何の役にも立たずに申し訳ないです。

 ところで今日は、クラツー本社にて講座を2本やることになっていました。

 しかし、私がその時間までに会場に行けないことが確定したので、これまた滅多にないことですが、座学は中止とさせていただきました。

 楽しみにしてくださっていた皆様、申し訳ございません。

 同じ内容の講座を11月12日(月)にもやりますので、もしご都合が合えば、そちらの方に来たいただければと思います。

 それでは、吉備の古代史ツアーの続きをお届けします。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 備中国分尼寺跡を見学する際に、こうもり塚古墳を指し示す標識を見てしまいました。

 本日のタイムリミットが迫っていますが、見てしまった以上はギリギリまで努力してみる必要があります。

 ここから1㎞ちょっとあるようですが、車で行けるような場所ではなさそうなので、走って見てきます。

 田んぼの中の小径を標識が指し示す方向へ向かっていると、墳丘が姿を現しました。

 あれに違いない。



 お、説明板発見。



 墳丘長100mほどの前方後円墳で、横穴式石室が19.4mもあるんですね。

 横穴式石室の長さは岡山県最長ということですが、全国的に見てもトップクラスの長さです。



 19.4mもあるのに、玄室と羨道のみというシンプル構造なんですね。

 玄室のスペースをかなり広く確保しており、居住性抜群です。

 あ、住居じゃなかった、墓でした。

 それではその石室を見てみましょう。



 おー、石、でかいねえ。



 あ、でも石棺までは到達できない!



 大概、石棺が壊れている場合は、過去の盗掘の跡ですね。

 続いて、急いで墳丘へ登ります。

 段築が良く分かります。



 鞍部に登り、前方部を見ます。



 後円部にはシートが被せてありますね。



 墳丘からの眺め。



 かなり駆け足ですが仕方がありません。

 こんな短時間でも見たのと見なかったのではかなりの違いがありますからね。

 急いで車へ戻りましょう。

 ⇒この続きはこちら

こうもり塚と江崎古墳〔吉備考古ライブラリィ9〕 (吉備考古ライブラリィ (9))
近藤 義郎
吉備人出版




 
 


コメント

【備前・備中古代史探訪 その14】林の中にひっそりと佇む備中国分尼寺跡【岡山県総社市】

2018-10-10 13:19:52 | 歴史探訪
 まったく関係のない話ですが(いや、私は関係のない話ばかりしてますね)、「ゲスの極み乙女。」の「もう切ないとは言わせない」のPVの撮影地に、多摩大橋が含まれていますね。

 最後の方、メンバーが自転車で渡っている橋が多摩大橋です。



 八王子方面から昭島方面に向けて走っていますが、あんなに交通量の多い橋を通行止めにして撮影したのでしょうか。

 いや、これなら通行止めにしなくても早朝にうまい具合にできそうな感じもしないでもない・・・

 この橋はお掃除の仕事で毎週のように渡っているので、初めて見たときにすぐに気付きました。

 それでは、前回の続きをどうぞ。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 造山古墳の見学を終え、最後に作山古墳を見てから広島へ向います。

 あ、しまった!

 途中、国分尼寺跡があるではないか!

 頭の中は作山古墳のことで一杯で、国分尼寺の存在を忘れていましたが、道路端にある標識で思い出してしまったのです。

 思い出した以上は「国分寺er」としては寄らずにいられません。

 標識に従って国分尼寺跡へ向かいます。

 ・・・おっとー。

 ここはいくら何でも右折できないな・・・

 近くにはうまい具合に道端に停められる場所があったので、路駐して徒歩で尼寺跡へ向かいます。

 5分も歩かずに到着。



 見渡すと国分尼寺跡は林になっていて、説明板がいくつか望見できます。

 こちらには全体の説明が。





 それでは、まずはセオリー通り、南門跡から行きますよ。





 南門には築地塀が接続されています。





 西側には池が見え、このあたりの地表は少し湿っています。



 南門をくぐると中門が現れます。



 そして中門の中はコアゾーンとなっており、仏様が安置されていた金堂跡があります。





 礎石が残っていますね。



 東側には「建物跡」と書かれ場所があります。





 なるほど、位置的には塔跡でいいようにも思えますが、規模が小さいとなるとなんでしょうか。

 塔心礎が見つかれば規模の小さい塔と考えることもできますが・・・

 国分寺跡はたまに塔跡が見つからないことがあるので、全部が全部、塔があったと考えなくてもいいかもしれませんが、寺院は本来的には塔がもっとも重要な建物なので、国分寺に関してもまだまだ謎は多いです。

 金堂の後ろに講堂があるという、これまた基本的な伽藍配置です。





 礎石です。



 尼寺跡は南北に細長い丘陵上にあって、東側は地形が落ちているのが木々の間から見えます。



 また建物跡。





 講堂の背後には、通常僧侶が生活する場である僧房がありますが・・・

 どうやらここが境内の最北端のようです。

 もと来た道を戻りましょう。

 西側も地形が落ちているのが見えますが、西側は湿地帯でしょうか。



 お堂があります。



 石柱。



 これで備中国分尼寺跡はざーっと見ましたので作山古墳へ行こうかと思いますが、さきほど「こうもり塚古墳」という標識を見てしまいました。

 標識によるとここから1㎞ちょっと西にあるようです。

 本日の最初のころに牟佐古墳を見学したときに、説明板に「三大巨石墳墓」としてこうもり塚古墳も挙げられていましたので、これは無視していくわけには行けませんね。

 残り時間からするとやや遠い場所と言えるかもしれませんが、走ってみてくることにします。

 ⇒この続きはこちら


国分寺を歩く (日本六十余州 全国分寺を完全収録)
かみゆ歴史編集部(稲用章ほか)
イカロス出版


 








コメント

【備前・備中古代史探訪 その13】5世紀前半の時点でキビの王の権力がヤマトの王と伯仲していたことを示す造山古墳【岡山県倉敷市】

2018-10-08 10:24:43 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 楯築墳丘墓では少しテンションが下がってしまいましたが、すでに破壊されてしまったのはどうすることもできません。

 気分を切り替えて、本日の史跡めぐりで一番楽しみにしている造山古墳を目指します。

 造山古墳は、「つくりやま」と呼ばれるのですが、すぐ近くにある作山古墳も「つくりやま」なので、造山古墳は「ぞうさん」、作山古墳は「さくざん」と発音する習わしになっています。

 造山古墳に向かう途中、遠景を撮影したいのでスポットを探していると、前の方に警察車両が何台か止まっており、警察官が交通誘導をしています。

 ここでいいや。

 おー、でかいねえ。



 国内で4番目にでかい350mの超巨大古墳の雄姿!

 ちょうど真横から見え、左側が前方部で右側が後円部です。

 それではもっと近接してみましょう。

 あー、なるほど事故か。

 軽自動車が側溝に落ちて大破しています。

 ただ落ちただけにしては壊れ方が異常です。

 気の毒ですが、事故現場の横をすり抜けて古墳へ向かいます。

 駐車場に到着。

 さすが人気古墳だけあって駐車場も広いです。

 お、資料も置いてある!



 ジオラマもある!



 図化するとこんな感じ。



 前方部の周囲には陪塚のような古墳がいくつかありますね。

 あれがその一基かな。



 位置的には5号墳の千足古墳だな。

 石碑とオブジェのようなものもあります。



 この像、カッコいいなあ。



 吉備の大王ですぞ!



 地元の方々の「古墳愛」というか、かつての吉備王国への想いをとても感じることができます。

 ここに来る前に、造山古墳の一部は土砂崩れの影響で登れなくなっていると聞いていましたが、その通りでした。



 後円部には行けないのか・・・

 残念だけど仕方がない。

 ところで、さきほどの吉備の大王の説明に「いつでもだれでもただで登れる日本最大の巨大古墳」と書かれていましたが、実際にその通りで、それがこの古墳の魅力の一つにもなっています。

 ちなみに、前方後円墳の場合は墳丘長が100mを越えると「大型古墳」と呼ばれ、200mを越えると「超大型古墳」と呼ばれます。

 日本で一番大きい古墳は堺市の大山陵(いわゆる仁徳天皇陵)で、最近の調査で500m以上の大きさが確認されており、その次は羽曳野市の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)で425m、そして3番目は堺市の上石津ミサンザイ古墳で365mとなっています。

 それらはすべて大阪府内にあり、4番目がこの造山古墳なわけで、畿内以外では最も大きな古墳です。

 これくらいの規模になると「超々巨大古墳」というか、「意味が分からないほどでかい古墳」という位置づけになると思います。

 そして、上記のコピーの通り、大山陵、誉田御廟山、上石津ミサンザイはすべて立ち入りができませんので、造山古墳が「登れる古墳」としては最大のものとなるのです。

 それでは、その「国内最大の登れる古墳」に登ってみますよ。

 墳丘裾の自動車の走行が困難な細い路地を歩き、前方部の登り口にやってきました。





 造山古墳という名前の通り、昔の人は人間の力で山を造ったと考えたわけですが、造山古墳はもともとあった丘陵を加工して造られています。

 地形図で確認すると南にある標高227mの江田山から北へ丘が伸びており、その先端部分を加工したことが分かります。

 しかし、元々の地形を利用したとはいえ、よくもまあこんな巨大な古墳を造ったものです。



 お、いい景色だ。



 赤い鳥居が見えますね。



 足守川を渡った向こうの北東約2.7㎞の地点に備中高松城があり、赤い鳥居はさらにその先、約2㎞にある最上稲荷の鳥居です。

 高校生の頃、吉川英治の太閤記を読んでいて、高松城主の清水宗治の最期に感動したのを覚えています。

 ですので、今日はできることなら宗治関係の史跡(城以外にも切腹した場所や首塚・胴塚などがある)をめぐってみたかったのですが、まったく時間が確保できませんでした。

 仕方がない、今度来た時に行きます。

 そして、ここ造山古墳は、その時高松城を囲んでいた秀吉勢に対して出張ってきた毛利勢4万が陣した場所なんですよね。

 後円部には城郭遺構が残っているようです。

 前方部の神社へ詣でます。



 社殿。



 こちらにも説明板がありました。



 いやー、後円部の直径だけでも200mで、太田天神山古墳の全長と一緒ですね。

 でか過ぎる・・・





 後円部の方を見てみましょう。



 樹木が植えられていてあんまり見えないですね。



 石棺の蓋が置いてあります。





 あ、そういえば、石棺を見てない。

 これですね。



 説明板には、この刳り抜き式の舟形石棺は阿蘇溶結凝灰岩製ということで、先ほどの蓋には直弧文が刻まれていることから、九州との関連が考えられるとありましたね。

 5世紀前半の時点での吉備と九州との関わりについてはすぐに思いつくようなものはありませんので、今後考察してみようと思います。



 ここからも先ほど気になった古墳が見えます。



 なにやら重機もいて、工事中のようですね。



 では、境内を降りて後円部の方に行ってみましょうか。



 立ち入り禁止になっているので、もちろんこれ以上は進みません。



 東側の造り出し部分には住宅が建っていますね。





 さて、一般的には造山古墳は日本で4番目に大きい古墳と言われています。

 ただ、ここまで巨大だと造山古墳の大きさはほとんど上石津ミサンザイと変わらず、個人的には「3位タイ」で上石津ミサンザイ古墳と並ぶと考えています。

 造山古墳の築造時期は5世紀前半で、ヤマトの王墓である上石津ミサンザイも同じ頃ということで、古墳の大きさが権力の大きさであると考えるのであれば、5世紀前半の時点でヤマトの王と吉備の王の力は伯仲していたことをこの古墳が物的証拠として証明しているのです。

 ところが、5世紀後半にはヤマトでは「王の中の王」である雄略天皇が登場し、ヤマトの王が他の地域の王たちから抜きんでた存在となり、相対的に吉備の王の力は弱くなります。

 ※上石津ミサンザイ古墳は堀の水位が往時よりも高くなっており、実際の墳丘の規模は400mを越えるのではないかという説もあります(『古墳からみた倭国の形成と展開』白石太一郎著)。

 いやー、念願の造山古墳に登ることができて本当に嬉しい。

 先日、奈良に行ったときに見瀬丸山古墳に登りましたが、見瀬丸山は全長310mの前方後円墳で、奈良県で最も大きく、全国でも6位の古墳であり、その時点では自分が登った最大の古墳でした。

 それを本日更新しました。

 造山古墳に登ったら並び称される作山古墳にも登りたいですよね。

 行ってみましょう。

 ⇒この続きはこちら

考えながら歩く吉備路(下)
薬師寺慎一
吉備人出版



コメント

【備前・備中古代史探訪 その12】現状の残念さに驚いても史的重要性に変わりはない楯築墳丘墓【岡山県倉敷市】

2018-10-08 08:21:51 | 歴史探訪
 一昨日と昨日は、本当なら壱岐のツアーだったのですが、すでにお伝えした通り、台風25号の影響で中止となりました。

 そのため、昨日は急遽掃除の仕事を入れてもらい出動してきましたが、現場で急に体調が悪くなり、一時動けなくなりました。

 昨日は新しく入った大学生のアルバイトが初出社で、彼を連れて現場に行き、午後の床清掃の現場を始めるための準備をしているときに急激に気持ち悪くなってしまったのです。

 私は健康診断などで血液を採取されると気分が悪くなって倒れてしまうので、いつもベッドに寝た状態でやってもらいます。

 その時の気持ち悪くなる症状について、ある看護婦さんからは「脳貧血」と言われたことがあるのですが、それと同じような状況になってしまったのです。

 掃除の仕事中になったのは初めて。

 たまたま、清掃のために移動しておいたベンチがあったので、新人さんに「ごめん、気分が悪いからちょっと待って」と伝えて横になりました。

 座っていることも困難だったからです。

 本日初対面の新人さんは「水、買ってきましょうか?」と気にしてくれて、若いのに気が利くなと思いつつ、今までの経験上、10分くらい横になれば戻るので少し寝っ転がっていました。

 新人さんに「何かやっておくことありますか?」と尋ねられ、少し回復してきたので、とりあえずできる作業を指示して、再度横になりました。

 そういえば、若い頃は血液採取時以外でもこういうふうになって気を失ったことが2度ほどあります。

 今日はちょっと重症ですが、我慢していれば回復するはずなので、さらに10分くらい横になってからやおら起き出し、作業を再開しました。

 途中、しゃがんだりしつつ作業し、手に力が入らず、ワックスもきれいに塗れずやり直したりして、ようやく終了。

 普段より時間が掛ってしまった・・・

 こういう症状が出るというのは、やはり身体に無理が掛かっているからかなと思いました。

 でも、今でさえ収支的には赤字ですから、働く量を減らすと破産へまっしぐらです。

 ただそうは言っても、身体がちゃんとしていないと生きていけませんから、生きていくうえで何が大事かきちんと考えようと思います。

 それでは、前回の続きをお届けしますよ。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 謎の惣爪塔跡を見た後は、楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)を目指します。

 古墳マニアとしては吉備に来たら楯築墳丘墓はぜひ見ておきたいです。

 目的地を目指して丘を登っていくと、ちょっとした駐車スペースがありました。

 多分ここに停めていいんだろうな、と思い、車から降り、今度は歩いて丘を登ります。

 お、ここが入口ですな。



 「王墓の丘史跡公園」という名前からして期待できます。

 坂道を登っていくと、説明板が林立していました。



 この場所は、「王墓の丘史跡公園」という広い公園の一部になっており、楯築墳丘墓があるばしょは「楯築地区」と呼ばれています。



 他の地区にも見てみたい場所がありますが、今日のところは時間の都合で楯築墳丘墓だけを見学します。

 あー、綺麗に拭きあげたい。







 では実際の墳丘墓を見に行きますよ。

 あれがWebで見たこのある給水塔ですな。



 おや、池か?

 それとも井戸か?



 こんな高所に・・・

 付近には古墳もポコポコあるようです。



 あらまー、これはあからさま過ぎる。



 ここは南西の突出部ですが、思っていたより派手に破壊されていますね。

 社殿もあります。



 丘からの眺望の説明。



 でも実際は樹木が繁茂していて眺望は効いていません・・・

 こちらにも説明板。



 中央の墳頂には謎の列石が並んでいます。





 なんか、不思議空間だな。



 北側には本来、北東突出部があるはずですが、現在は地形が落ちており、眼下には住宅街が広がっています。









 しかしそれにしても、往時の墳丘の形が全く分からない!



 もっと当時の雰囲気が分かるのかなと期待して来ましたが、期待外れです。

 まあでも、ずっと来てみたかった場所ですから、これで溜飲を下げて次へ行きましょう。

 次は超々巨大古墳・造山古墳に登りますよ!

 ⇒この続きはこちら



吉備の弥生大首長墓・楯築弥生墳丘墓 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
福本 明
新泉社
コメント

【備前・備中古代史探訪 その11】塔心礎しか見つかっていない謎の古代寺院跡・惣爪塔跡【岡山県岡山市北区】

2018-10-06 22:37:36 | 歴史探訪
 あれれ、気づけば今日はこの記事で8本目のアップになります。

 PC作業は結構疲れるのですが、途中、食事やジジの散歩などを挟みつつ、8時間ほどやってしまいました。

 今日はもうこれでお終いにします。

 明日はお掃除に行ってきますよ。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 吉備津神社を駆け足で参拝し、つづいて惣爪(そうづめ)塔跡なるものを探しに行きます。

 今日の午前中、岡山市中区の住宅街で幡多廃寺の塔跡を見ましたが、惣爪塔跡も同様に古代寺院の跡で、塔心礎のみ残っているようです。

 カーナヴィを頼りに、田んぼの中の道を突き進んでいき、目標地点に着きましたがそれらしいものが見当たりません。

 そのまま行きすぎ、坂道を登ると明治天皇が来たことを示す石碑があり、先へ行くと戻るのが大変そうな雰囲気の場所に来てしまいました。

 なので、ここでUターン。

 狭い場所でのUターンなので難儀ですが無事方向転換完了。

 元来た道を戻ってみます。

 すると左手に塔心礎らしきものが一瞬視界に入りました。

 バックして確認するとやっぱりそうでした!



 これは先ほどのように反対側から来ると木に隠れて発見しづらいですね。



 道が狭く、もし対向車が来たら大変なので、さっさと写真を撮ってこの場から立ち去ることにします。



 しかし、説明板はありませんね。

 塔心礎があるということは、ここに塔が建ち、周囲には伽藍が展開していたはずですが、現在のところこの塔心礎しか見つかっていないそうです。

 不思議ですね。

 では、次へ行きますよ。

 ⇒この続きはこちら

古代地方寺院の造営と景観
梶原 義実
吉川弘文館


コメント

【中国地方古代史探訪 その10】独特な比翼入母屋造りの社殿は何を意味するのか・吉備津神社【岡山県岡山市北区】

2018-10-06 22:14:37 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 吉備津彦神社から吉備の中山の麓をまわって吉備津神社へやってきました。



 こちらは先ほどの吉備津彦神社よりも参拝客が多いです。





 吉備津神社も境内が広いですね。





 この石は何でしょう。





 では石段を登りますよ。



 ここは結構急だなあ。



 もう一段あります。



 拝殿に着きました。





 扁額、でか。



 拝殿を横から見てみましょう。



 ここの社殿も特徴的な造りですね。



 説明板に書いてある通り、本殿は比翼入母屋造り(ひよくいりもやづくり。またの名を吉備津造り)という独特な造りで、応永32年(1425)に完成し、拝殿とともに国宝に指定されています。

 最初に見た境内のイラストマップによるとここからずっと奥まで境内が続いているんですよね。



 でも今日は割愛だ。

 割愛とか言うと神様に怒られるかもしれませんが、今日は無理です。

 我ながらこういった慌ただしい参拝は何だかなあと思いますが、仕方がありません。

 もっと時間に余裕をもってゆっくり参拝したいものです。

 先ほどの急な石段を登らなくても「女坂」もありました。

 石段下から伸びる参道。



 神奈備って感じがする山ですね。



 時間に追われる感じって嫌ですけど、どうしても造山古墳と作山古墳、それに楯築墳丘墓は見ておきたいので急いで次へ向かいます。

 ⇒この続きはこちら

吉備津神社 (岡山文庫 (52))
藤井 駿
日本文教出版



コメント

【中国地方古代史探訪 その9】四道将軍伝承の謎を孕む吉備津彦神社【岡山県岡山市北区】

2018-10-06 21:23:32 | 歴史探訪
 4日間の中国地方古代史探訪で撮った写真は2000枚ほどです。

 昔のフィルムカメラでは考えられない枚数ですが、私自身としてもいつもの旅よりも多い気がします。

 それだけエキサイティングな旅だったということになると思いますが、問題は帰宅してからその写真を編集する手間ですね。

 私はカメラが苦手で上手に撮れないので、単純にブログ用にサイズを縮小するだけのものもありますが、ほとんどPhotoshopを使って編集します。

 ですから、記事を書くよりも写真の編集の方が時間がかかってしまうのです。

 それでも昔は手動で数枚の風景写真を合成してパノラマ写真を作ることまでしていましたから、今はそれをしなくなっただけまだマシかもしれません。

 できることならアシスタントを雇いたいものです(笑)

 ジジが起きて、今度は「ボール遊びをしよう!」と絡んできます。

 放っておくと”くだ”を撒くので、ちょっと遊んであげようと思います。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 赤磐市の両宮山古墳の見学を終えて、今度は岡山市北区まで戻り、吉備津彦神社へ参拝します。

 高速を使った方が早そうに思えましたが、カーナヴィは下道を指示したので、大人しくそれに従います。

 岡山には吉備津彦神社と吉備津神社があり、名前が似ているので紛らわしいですが、吉備津彦神社は備前の一宮で、吉備津神社は備中の一宮です。

 ただ、位置も近く、吉備の中山という小丘陵を挟んで両側にあるのです。

 その中山が備前と備中との国境となっているわけです。

 40分ほど走り、吉備津彦神社に到着しました。





 大きな神社ですが、平日の夕刻近くということもあってか、参拝客はまばらです。





 祭神を絡めて吉備の古代史を雄弁に語りたいところですが、今現在はまったくの知識不足のため、何も話すことはできません。



 何しろ、今日は吉備の歴史めぐりのファーストタッチですからね。

 石段を登り拝殿へ向かいましょう。





 拝殿のサイドへ回ります。

 あれ、こちらにも出入り口がありますよ。



 いや、珍しい造りですね。

 拝殿の背後には祭文殿という建物があります。



 その後ろに渡殿があり・・・



 そして本殿です。





 反対側から本殿を見ます。



 流造りで檜皮葺きの屋根って一番カッコいいかもしれない。

 あまり時間がないので、境内社はすべて参拝することはできません。

 おや、桃太郎がいるぞ!





 水曜日のカンパネラもフィーチャーしていますが、桃太郎はよくこのような貧弱なメンバーで鬼退治に行きましたね。

 そして犬と猿と雉はよく、吉備団子で命を捨てるような戦いに加わったものと感心します。

 実は桃太郎のストーリーは覚えていないのですが、彼らは相当義侠心に富んだ連中ではないでしょうか。

 また、こんな弱小チームで鬼に戦いを挑んだ桃太郎についてももっと高い評価を与えていいと思います。

 ちなみに日本各地には鬼退治の伝承があり(先日訪れた壱岐にもあります)、この話がどのような史実を含んでいるのか、非常に興味があります。

 さて、ここまでで備前国の史跡めぐりは終了です。

 この後は、時間が許す限り備中国の史跡巡りをしようと思います。

 吉備津神社、造山古墳、作山古墳、楯築墳丘墓などなど、行きたいところはたくさんありますが、残り時間も少なくなってきましたぞ!

 ⇒この続きはこちら

鬼ノ城と吉備津神社—「桃太郎の舞台」を科学する (シリーズ『岡山学』)
岡山理科大学『岡山学』研究会
吉備人出版

コメント

【中国地方古代史探訪 その8】岡山県で3番目の大きさを誇る両宮山古墳および廻り山古墳【岡山県赤磐市】

2018-10-06 20:25:38 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 両宮山古墳は国分寺跡のすぐ隣ですので、車で向かうと一瞬です。

 駐車場があったので停めました。

 観光案内所の駐車場のようですが、まあいいか。



 説明板があります。



 でっかい古墳ですが、墳頂に上がれるようですね。

 でも少し迂回していかないといけないみたいです。

 歩道のない道を歩きます。

 あ、ここにはもっと立派な説明板がありますよ。





 この説明板はでかいので、車を運転している人も気づきそうです。

 路地に入り墳丘を目指します。

 周溝と直結している水路には轟々と水が流れており怖いですが、あの堤の上に行けば古墳の遠景が撮れるかもしれません。



 落ちないように気を付けて行ってみましょう。

 見えた。



 説明板によると、両宮山古墳の周溝は二重になっていて、外堀は完全に埋もれており、これは内堀なんですね。



 これだけでも広いのに、さらにこの外側に堀があったんなんて驚くばかりです。

 それと、こちらからのアングルだと手前の方が標高があるので、後円部がこちらを向いているように見えますが、逆なのです。

 両宮山古墳は5世紀後半の築造ですが、すでに前方部がかなり発達したスタイルになっており、高さも前方部の方が高いのです。

 こういった前方部が発達した前方後円墳は関東の場合ですと6世紀になってから登場しますから、こういったデザイン面での先進性も吉備地方は最先端を行っていたのでしょうか。

 では、一旦路地へ戻り、周溝の跡が完全に埋められている場所から墳丘内に入ります。



 普通に山の中を歩いているのと同じだ。

 でも右手を見ると、段築らしきものが見えますよ。



 両宮山古墳は前方部も後円部もそれぞれ3段築成となっています。

 ここにも説明板があった。





 坂道を登りきると神社がありました。



 古墳の名前のもとになっていると思われる両宮神社です。



 両宮神社は前方部の2段目を拡幅して建てています。



 赤磐市のホームページによると、両宮神社は伊勢神社とも呼ばれており、祭神は天照大神と豊受大神です。





 でもここは2段目なので見上げるともう1段あり、そこが墳頂なのです。



 冬だったら墳頂を目指してもいいですが、今の季節は登る気になりません。

 しかし、墳丘長は206mということで、東日本最大の古墳である太田天神山古墳とほぼ同じ長さなわけですが、なぜかこちらの方が巨大に感じます。

 その理由は高さですね。

 太田天神山古墳の後円部の高さは16.5mですが、こちらの前方部の高さは25mもあるのです。

 そうすると、当然ながら法面の角度がそれだけ急にもなり、そういったことがこの”肉厚感”を醸し出しているんですね。

 さきほど国分寺跡から見た時の印象も、しょっちゅう見ている太田天神山古墳よりも巨大でした。

 それと不思議なのは、葺石も埴輪も見つかっていないというところです。

 石室が未調査なので決定的なことは言えませんが、未完成の古墳だったと考える研究者もいるようです。

 では戻ります。

 説明板の図を見ると、後円部の先に小型の前方後円墳である和田茶臼山古墳が描かれていました。

 きっとあれだな。



 車に戻りますよ。

 おっと、来るときに気づかなかったけど、あれも古墳じゃないかな。



 観光案内所に戻ってきました。



 ここにもいくつか説明板があります。





 さて、今の時点で時刻はすでに14時です。

 今日は20時までに広島の駅前でレンタカーを返却しないといけません。

 何しろこちらに来たのは初めてなので、岡山と広島の距離感が分からず、高速で1時間くらいで行けるのかと思い、念のため岡山でレンタカーを借りるときに店の人に聞いてみたところ、1時間半は見ておいた方が良いと言われました。

 それを考えるとそろそろ西の方角に戻らないとまずいです。

 ということで、ここから一気に西へ向かいます。

 そう思い出発すると、すぐに古墳が目に入りました。



 説明板があるようなので行ってみます。

 廻り山古墳というらしいです。



 墳丘に登っている時間はありませんよ。

 ここから先ほどの両宮山古墳を見ると、ちょうど建物が邪魔して見えませんが、建物の向こうに古墳の山が見えます。



 では、再び出発!

 ⇒この続きはこちら

日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
宇治谷 孟
講談社
コメント

【中国地方古代史探訪 その7】説明板のみがかつての存在の証・備前国分尼寺跡【岡山県赤磐市】

2018-10-06 18:37:07 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 早く両宮山古墳に行きたい気持ちを抑えて、国分尼寺跡を先に抑えておきます。

 どこの国も僧寺と尼寺は歩いてでも気軽に行き来できる距離にあります。

 でもまだ遺跡が今のように見つかる前の大正時代に書かれた本には「男の僧寺と女の尼寺が近くにあるはずがない」と書かれ、僧籍にある男女が交わることを避けるために両寺は大きく離れているはずだと考える研究者がいました。

 ということで、備前国分寺跡から尼寺までは車では一瞬で到達できます。

 ただし、尼寺の方はまったく史跡整備がされておらず、説明板が立っているだけです。





 ここに書かれている通り、発掘調査がされていないので詳細は不明ですが、推定寺域の東半分は仁王堂池と仏教的なネーミングの池になっています。



 一般的には僧寺よりも尼寺の方が早く廃絶し、国によっては僧寺の場所は分かっているけど尼寺の場所はもうどこか分からなくなっているということもあるので、推定寺域が分かっているだけでも良いかもしれませんね。

 尼寺跡から僧寺跡方面を見ると、この距離なら手を振れば見えるんじゃないかと思います。



 当時の国分寺や国分尼寺は国家のお寺で、一般人が気軽に参拝できるものではなかったらしいですが、そんな堅苦しいお寺でももしかしたら両寺の僧の間で「何か」が起きていたのではないかと勝手に想像してしまいます。

 これで尼寺の場所も確認できたので古墳へ行きますよ。

 ⇒この続きはこちら

国分寺の誕生: 古代日本の国家プロジェクト (歴史文化ライブラリー)
須田 勉
吉川弘文館




コメント

【中国地方古代史探訪 その6】田んぼの中に往時の伽藍跡が残る備前国分寺跡【岡山県赤磐市】

2018-10-06 16:50:44 | 歴史探訪
 もうすぐ17時になりそうですが、今日はずっと自宅に引きこもっているので、チョロッと外出してこようと思います。

 ひとまず、昼寝しているジジを叩き起こしてお散歩に出撃だな。



*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 岡山県赤磐市に入りました。

 私はこちらに来るのは初めてで、赤磐市という自治体名も初めて聞きました。

 来たことがない場所に来るのってとても楽しいですよね。

 敢えて、予備知識を持たずに来ると楽しさが倍増するので、初めての場所に行くときは、予習は程々にしていくことをお勧めします。

 さて、岡山市北区の牟佐大塚古墳を出てしばらく東に向かい、備前国の国分寺跡へ到着しました。

 駐車場に入るまで田んぼの中の細い道を走りますが、車も小型車ですし全然平気です。

 駐車場は塔跡の隣でした。



 石で造った七重塔が建っていますね。



 当時の塔はもちろんもっともっと高かったですよ。

 塔心礎の上に建っているようです。



 これでは「穴」が見えないじゃないか!

 見たいものが見えない・・・

 古代寺院マニアの中には軽度の変態もいますがご了承ください。



 あ、でもこの塔も鎌倉時代のものなんですね。

 凄いじゃん。



 ちゃんとパンフレットがある!



 素晴らしいねえ。





 では、入手したパンフレットを片手に、伽藍内をお散歩しましょう。

 国分寺歩きの場合は、基本的にはスタートポジションは南門跡です。





 つづいて中門跡。





 最初に読んだ説明板には、南門と中門の距離が短いのが特徴と書いてありましたが、なるほどかなり近接していますね。

 中門をくぐると、いよいよ境内中心部に入りますが、だいたいここから時計回りか反時計回りでグルっと境内を歩くのが国分寺跡の歩き方です。

 今日は時計回り。

 あちらには金堂跡らしき基壇が見えますが、あとで行きます。



 中門は回廊が接続されていたようです。





 あの神社が気になりますねえ。







 国分寺八幡宮。







 国府八幡という神社もたまにありますが、国分寺も八幡なんですね。

 ちなみに、国府八幡の場合は、国府が全盛期の奈良時代に建立された神社ではなく、その後の平安時代に建立された神社で、さらにその後は武士が登場し八幡信仰が盛んになり、武蔵国の国府八幡の場合は中世に栄えていたようです。

 あ、あの山はきっと両宮山古墳でしょう。



 あとで行くよ・・・

 北側の回廊跡まで来ました。



 そして先ほど、金堂の基壇かと思ったのは、講堂の基壇でした。





 当時の礎石がどれか分かるように図示されていますね。

 こういった説明は大変ありがたいです。



 ほとんどの国分寺跡ではこういった説明がないため、現地で本物かどうか迷うことがあるのです。





 いいねえ。

 そして講堂の背後にあるのがお坊さんたちの普段の生活の場である僧房です。





 講堂跡は基壇も整備されていますが、金堂跡を放っておいているのが面白いです。



 しかし、でかい古墳だなあ。



 早く古墳に行きたい気持ちですが、その前に国分尼寺跡も忘れずに見ていきましょう。

 ⇒この続きはこちら 



国分寺を歩く (日本六十余州 全国分寺を完全収録)
かみゆ歴史編集部(稲用章ほか)
イカロス出版
コメント

【中国地方古代史探訪 その5】岡山三大巨石墳の一基・牟佐大塚古墳【岡山県岡山市北区】

2018-10-06 16:07:17 | 歴史探訪
 自宅でPC作業をしていたり読書をしていたりすると、午後は必ず眠くなります。

 今は15時半を回りましたが、とても眠いです。

 なので、自宅にいると昼寝をしてしまうことも多いのですが、多分今の私はもう会社でのデスクワークは不可能だと思います。

 もしやったら、毎日会社で2時間は居眠りをするでしょう。

 今思えば、昔はよく朝から夜中まで椅子に座ってPCをいじる仕事ができていたなあと思います。

 今は身体を動かしている方が楽しいですが、それでもこうやってPCをいじる作業をたまに挟み込むとメリハリがあっていいですね。

 では、前回の記事の続きをお届けします。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 今日は予定よりも2時間遅れての探訪スタートとなり、すでに時刻はお昼を過ぎてしまいましたが、引き続き当初の予定どおりめぐってみようと思います。

 本日は最終的には広島へ行かないといけないのですが、岡山市街から広島とは反対方向の赤磐市を目指します。

 その途中、岡山市の牟佐大塚古墳を確認したい。

 カーナヴィを頼りに近接すると、車は入れないであろう細い道の前まで来てしまいました。

 仕方がない。

 車を降りて、徒歩で向かいます。

 歩き出すとすぐ、前方に墳丘らしきものが現れました。



 これでしょうか・・・

 いや、説明板があるからこれでしょう。



 説明板に岡山県の「三大巨石墳」と書かれている通り、墳丘は小さいですが、石室は見事なようです。

 確かに18メートルは凄いですね。



 周囲を探ってみますが、墳丘はかなりカットされていますね。



 反対側へ回ってみましょう。

 お!

 石室が開口している!



 全長18メートルの石室・・・

 期待できます。

 しかも入口部分の石からしてでかいね!



 なになに・・・



 ヒカリモ・・・

 あらま・・・

 水浸しだ。



 昨日は台風24号(宗像ツアーを中止せしめた台風)が通過して行ったので、こんなになってしまったのでしょうか。

 これでは石室内に入れませんね。

 仕方がない。

 しかし、この古墳の名前が気になります。

 「牟佐」というのは、先日奈良に行ったときに訪れた孝元天皇の宮殿跡の伝承がある神社も牟佐坐(むさにます)神社でした(大和国高市郡に身狭<牟佐>という地名があります)。

 千葉県にも武社(武射)という地名があり(国造もいた)、昔勤めていた千葉県内の職場に武者さんという方がいました。

 「むさ」っていったい何なんでしょうね。

 石室には入れませんでしたが、気を取り直して赤磐市方面へ向かいます。

 (つづく)


吉備の古墳(上)備前・美作編〔吉備考古ライブラリィ4〕
乗岡 実.行田 裕美,近藤 義郎
吉備人出版







コメント

【中国地方古代史探訪 その4】岡山県内最古級の寺院・賞田廃寺跡および中世山陽道【岡山県岡山市中区】

2018-10-06 15:30:56 | 歴史探訪
 このブログではすでに中国地方の古代史探訪の記事をいくつかアップしているので既知のことかと思いますが、10月1日(月)から4日(木)まで当該地方へ行ってきました。

 実は、探訪の途中に母から伯父(母の実兄)が亡くなったとの連絡が入り、葬儀を5日(昨日)にやるとのことだったので、一昨日は深夜に帰宅し、ほとんど睡眠をとらず、昨日は早朝から母を雷電號に載せて、千葉県松戸市内の斎場まで出張ってきたのです。

 最盛期は毎日ビールを大瓶で5~6本飲んでいたというビール大好きな伯父と最期のお別れをし、できればそのあと、久しぶりに会った従兄弟たちとゆっくり飲みながら話をしたかったのですが(註:私は親戚の中では飲めない方)、母は午後になると体調が悪くなるため、食事会には出席せずにまっすぐ帰ってきました。

 本当は今日と明日は壱岐のツアーだったのですが、先週の宗像ツアーに引き続き、今回も台風の直撃を受けてしまい、ツアーは中止となり、今日は休養を取りつつ、来年のツアーや講座の企画を考えています。

 というわけで、相変わらずバタバタしている日々ですが、ジジが寝ている間に吉備の探訪記事の続きをアップしたいと思います。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 備前の国庁跡を探訪した後は、古代寺院跡へ行きますよ。

 車を走らせてほどなく、山をバックにした寺院跡へ到着しました。



 賞田(しょうだ)廃寺跡です。



 駐車場にはやけにたくさんの車が停まっているなと思ったら、下草刈りのために大勢の方々が参集し、今はちょうど昼休みを取っているようでした。

 では、説明板を見てみましょう。



 説明に上道臣というのが出てきます。

 現在のところ、私は吉備地方の歴史に関してほとんど知らないので考察はこれからになりますが、下の地図をご覧ください。



 ※「Yahoo!地図」より加工転載

 律令時代(7世紀後半以降)の各国の国府の場所をプロットしていますが、6世紀半ばから7世紀半ばまで存在した国造(くにのみやつこ)の配置を推測を交えながらプロットしてあります。

 これを見てすぐに気づくのは、安芸・石見・出雲のように国造の本拠地に国府が置かれ、国造と令制国が一対一に対応している場所があるかと思えば、吉備地方(備前・備中・備後・美作)のように大勢の国造がひしめき合っている場所もあります。

 そのひしめき合っているなかに上道国造がいますね。

 おそらく、この上道国造が賞田廃寺の建立者ではないかと思いますが、これ以上のことは今のところ分かりません。

 3世紀半ばに発足したヤマト王権にて、吉備の豪族たちは王権内の主要な地位に就いたのではないかと思っており、造山古墳(墳丘長350mで当時はヤマトの上石津ミサンザイ古墳と並んで1位タイの大きさ)が築造された5世紀前半が権力の絶頂期だと思いますが、それから小規模国造に分解されて賞田廃寺が建立されるまでの歴史に関してはこれから勉強します。 

 ところで、関東地方にも古代寺院跡はありますが、こちらの方が遺跡の数は多いような気がします。

 なるほど、金堂跡と2つの塔跡が見られそうですね。



 最初に現れたのは塀跡を示す柱列です。



 説明板が破損している!



 門跡のことは何も書かれていませんが、ここから伽藍が立ち並ぶお寺の中心部になります。

 史跡はかなり広いので、まだ奥の方は刈っていないようです。



 整備された基壇が見えますが、位置的に見ると金堂でしょう。

 こちらも説明板があります。





 金堂の基壇へ上がってみましょう。

 お、古い礎石と新しい礎石が並んでいますね。



 説明板によると、見るからに古い礎石は当時のもののようです。



 金堂跡からの眺め。



 左に目を転じると、東塔跡が見えます。



 奥には社が。



 それでは、草ぼうぼう地帯へ足を踏み入れますぞ。

 賞田廃寺は中世まで存続しており、中世の頃の本堂の礎石も見つかっています。





 中世の本堂は古代の金堂跡を踏襲しなかったのですね。

 つづいて、西塔跡へ行きます。

 あー、ここは礎石は全滅だ。





 西塔跡を南側の少し低い位置から見ます。



 西塔跡から金堂跡を見ます。



 そして最後は東塔跡。





 多分、これからの作業でこちらの方面の下草も刈っていただけるのでしょう。

 あまり気に留めない方も多いかもしれませんが、こういった史跡は、城跡や古墳などを含め、ほとんどがボランティアかそれ同等の方々の力で保守されているのです。

 下草刈りは大変な作業です。

 本当にありがたいですね。



 賞田廃寺跡の次は、赤磐市まで移動しますよ。

 車を走らせるとすぐ、道端に説明板を発見!



 中世の山陽道について書かれています。



 この辺りは古代の山陽道の国庁へ行くための支路とも重なっているようですね。

 さきほど訪れた国長宮の前の道がこの道と繋がっているわけです。

 今はこんな感じ。





 では、次は赤磐市の牟佐大塚古墳を目指しますよ。

 ⇒この続きはこちら

古代寺院の成立と展開 (日本史リブレット)
岡本 東三
山川出版社










 
コメント