日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

川原寺跡(弘福寺)|奈良県明日香村 ~瑪瑙の礎石で有名な飛鳥四大寺の一つ~

2020-12-16 20:57:31 | 歴史探訪
 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


明日香村川原1109



 

2.諸元                             


創建時期


661年から667年の間か(『川原寺寺域北限の調査』)

 

3.探訪レポート                         


2019年3月8日(金)



この日の探訪箇所
豊浦寺跡(向原寺) → 甘樫丘 → 甘樫丘東麓遺跡 → 亀石 → 川原寺跡(弘福寺) → 橘寺 → 石舞台古墳 → 島庄遺跡 → 坂船石遺跡 → 明日香民俗資料館 → 飛鳥寺瓦窯 → 飛鳥寺 → 飛鳥寺西門跡 → 飛鳥水落遺跡 → 明日香村埋蔵文化財展示室 → 川原寺跡(弘福寺) → 藤原京左京十二条一坊


 奇妙な亀石を見て、東へ進みます。

 ほどなくして、川原寺跡に到達しました。



 回廊の跡らしきものや基壇の復元などが見えますよ。



 さて、当時の伽藍配置を手元の資料を見ながら現在の様子と照らし合わせてみようと思います。

 弘福寺の山門のラインに一つ基壇があり、その奥の左右に一つずつあります。

 山門のラインにある基壇は中門跡で、回廊によって接続されています。



 ※探訪順と前後しますが、境内の説明板の伽藍配置図を示します。



 一塔二金堂式、川原寺式とも称される配置ですね。

 普通考えたら、御本尊を安置する金堂は一つでいいと思うのですが、それが二つあるのが面白い。

 この形式のお寺は少ないそうです。

 奥の左側は西金堂跡。



 そして右側は塔跡です。



 ここの一画は何だろう。



 塔跡へ登ってみましょう。

 塔跡は一際大きな塔心礎が中心にありますから分かりやすいですね。





 塔跡から中門跡および回廊跡を見ます。



 道路の向かいには橘寺があります。





 礎石をこういう形状にするのは東国では見たことがない気がします。



 では、弘福寺に詣でましょう。







 ※先ほどお見せした由緒書はここにあります。



 由緒書にある通り、古代の川原寺はその後、真言宗豊山派の仏陀山弘福寺(ぐふくじ)となり、現代にまで法灯を継いでいます。

 中金堂跡は現在の弘福寺境内にあたり、ところどころに礎石が残っています。



 境内をウロついていると住職さんがお出でになり、寺についての詳しい説明をしてくださいました。

 楽しいお話なのでもっとお尋ねしたいことがありますが時間の都合であまり長居ができません。

 お寺ではランチもやっているということなので、こちらのランチを付けた飛鳥めぐりのツアーを造りたいなあと思いつきました。

 ※後日註:弘福寺でのランチを含めて企画したツアーは2020年5月に催行が決定されたもののコロナによって中止となり、内容を見直して2020年12月に催行となりましたが、再構成したツアーでは惜しくも弘福寺でのランチを取り入れることはできませんでした。

 住職さんから丁寧な説明を受けた後、再度境内を見学します。

 ここ中金堂跡にある礎石が有名な瑪瑙(めのう)の礎石ですね。



 なるほど、言われてみると白っぽくて他では見たことのない石です。



 でも、正確にはこれは大理石だそうですよ。

 本居宣長が礎石を見て瑪瑙と思い、そのために「めのう石」と伝承されたようですが、大理石の礎石というのも普通はありませんから、珍しいことに変わりはありません。

 滋賀県の方から運んできた可能性が高いそうですが、住職さんが子供の頃は、三韓からの貢ぎ物と教えられたそうです。



 おや、なんで28個なんでしょうか?

 不思議に思ったので再度住職さんに尋ねてみると、お弟子さんらしき方がご自身のノートを見せてくださいました。



 なるほど、こういう配置か!

 これなら28個になりますね。

 古代寺院の建物の礎石配置は今まで気にしたことがないので私が知らないだけかもしれませんが、こういう配置って普通なんでしょうか?

 ところで、日本書紀によると、天武天皇2年3月に写経生を集めて川原寺で初めて一切経の写経を始めたとあり、弘福寺では写経道場も開かれています。





 さて、この川原寺はいつ創建されたのでしょうか?

 実は創建年月に関しては史料に残っていないのです。

 日本書紀を追いかけてみます。

 斉明天皇元年(655)冬、斉明天皇の居た飛鳥板葺宮(飛鳥宮跡Ⅱ期遺構)が焼亡し、斉明は一時的に飛鳥川原宮に遷り、翌年、後飛鳥岡本宮(同Ⅲ-A期遺構)が完成して遷るまで一時的に滞在しました。

 つまり、655年の時点でこの場所に天皇の離宮か何かの施設があったわけですね。

 斉明は斉明7年(661)1月6日、新羅を討つため九州へ出張り、7月24日に筑紫の朝倉宮で崩じ、同年11月7日より飛鳥川原において殯が行われました。

 川原寺の創建は、これ以降、斉明の子・天智が近江大津宮に遷都する667年までの間に、亡き母の菩提を弔うために発願したとする福山敏男氏の説が通説となっています。

 宮跡を寺にするということは、例えば豊浦寺もそうですし、面白いのは川原寺の法号である弘福寺は、唐の貞観8年(634)に、太宗が母・穆太后の追福のために建立した長安修徳坊の弘福寺と同じ名前であることです。

 では、境内から出ましょう。







 初めに見逃した、南大門跡。



 続いて、川原寺跡の向かいにある橘寺へ詣でましょう。

 しかしそれにしても、川原寺は「かわはらでら」と読むのに、「かわらでら」とふり仮名されているのがやたら目に付くのが嫌だ。

 (つづく)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『川原寺寺域北限の調査』 奈良文化財研究所/編 2004年



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