日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

六呂瀬山古墳群|福井県坂井市 ~比高差140mの山上にある墳丘長140mを誇る北陸最大級の前方後円墳~【北陸古代史探訪 4日目⑧】

2021-08-09 10:19:57 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月23日(金)



この日の探訪箇所
吉光の一里塚 → 和田山古墳群および和田山城跡 → 能美ふるさとミュージアム → 寺井山古墳群 → 末寺山古墳群 → 秋常山古墳群 → 高向神社(高向宮跡) → 六呂瀬山古墳群 → 足羽神社 → 山頂古墳(継体天皇像)

 午前中の能美の古墳が見どころが多すぎて、越前探訪に使える時間はわずかになってしまいました。

 でも、せっかく遠くまで来ていますから、せめて越前の古墳も一つは見たいです。

 どこへ行こうか迷いましたが、位置的に見ても六呂瀬山古墳群がベストでしょう。

 ナヴィに脳内を支配されながら古墳へ向かいます。

 「上久米田」交差点を過ぎると、なんか普通の山越えの道になってきましたよ。

 随分登りますね。

 まだ、古墳は出てきません。

 確か古墳はトンネルの上にあったはず・・・

 ようやくそのトンネルが現れました。

 短いトンネルを抜けると右手に駐車場が見え、説明板もあります。

 着きました!

 しかし、私は列島各地の古墳をめぐっていますが、これだけ比高差のある古墳は珍しいのではないでしょうか。

 ※帰宅後に調べたところ、麓の上久米田交差点の標高は約44mで、1号墳の場所は約190mですから、比高差は約146mあり、もし麓から歩いて登山するとしたら道が整備されていたとしても30~40分かかると思います(ちなみに、長野県千曲市の森将軍塚古墳の比高差は約130mです)。

 さきほどくぐったトンネル。



 全く分かりませんが、トンネルの真上は3号墳です。

 そして反対方向はこんな感じ。



 道路の向こうには麓が見えますが、おおむね西の方角です。



 では、説明板を読んでみましょう。



 写真を見るとずいぶん立派な葺石が葺かれていたようですが、川原石の場合はここまで持ってくるのが大変です。

 縄文人のストーンサークルづくりにも負けていませんよ。

 この墳丘図だとちょっと分かりづらいですね。



 私はいまこれらの古墳の北側(図の上側)にいます。

 お、リーフレット入ってるかな?



 残念!



 もうひとつ説明板があります。



 前期の終わりから中期にかけて、2基の前方後円墳と2基の方墳が築造されました。

 それらのうち、1号墳は墳丘長140mの前方後円墳で、越前最大の前方後円墳となります。

 説明板には北陸地方最大とありますが、先ほど見てきた能美の秋常山1号墳の基壇部分を墳丘と捉えた場合は140mとなるため、両者とも「北陸地方最大」となります。

 このイラストは分かりやすい。



 ただし、今いる場所はこの絵でいうところの向こう側になります。

 またも墳丘図。



 こちらの方が分かりやすいですね。

 では、古墳へ行ってみましょう。



 と、思ったら今度はオブジェが現れました。



 オブジェではなくモニュメントでしたね。



 タイムカプセルも埋めてあるようです。



 またもや説明板がありますが、これは歩く道を気を付けてくださいという注意喚起ですね。



 「滑りやすい」ゾーンが2か所あるようです。

 ここまでの感じだと、地元の方々の古墳への愛を非常に感じることができて、「ウェルカム度」もとても高いです。

 ただし、リーフレットの補充もままならないわけですから、もしかしたら今では人手も不足して管理するのが大変になっているのかもしれません。

 全国的に見られる傾向ですが、なかなか難しい問題ですね。

 では、遊歩道に入ります。



 ここから先が説明板にあった滑りやすい場所です。



 今日は幸いコンディションが良いので滑りづらいですが、勾配は急ですから、戻るときは要注意ですね。



 つまりはもう1号墳の後円部に登っているわけです。

 足元には葺石が落ちています。



 結構あるな。



 前方が開けました。



 ここは1号墳の後円部墳頂のはずです。

 ここからの眺望はきいていません。



 3号墳の前方部方向も見えますが、完全に藪化していますからショートカットはできません。

 後円部の東側の張り出しと、その先には方墳である2号墳があるはずですが草ぼうぼうで分かりませんね。





 1号墳の前方部の方へ行ってみましょう。



 南側の眺望が少し開けています。





 前方部先端から見る後円部。





 後円部に戻ります。

 改めて後円部墳頂。



 もう一度前方部方向を見ますが、140mあるだけあって、墳頂のストレートラインは結構長いです。



 1号墳の見学はそんなに大変ではありませんでしたが、つづいて3号墳へ行ってみます。

 先ほど登った「滑りやすいゾーン」を慎重に降ります。

 おっと、3号墳方面はデンジャラスっぽいですぞ。



 まあでもここまで来て引き返すわけにはいきません。

 繁茂ゾーンを抜けると普通に道がありました。



 進んでいきます。



 あー、ここがもう一つの「滑りやすいゾーン」ですね。



 確かにここは地面が濡れていたら私でも引き返します。

 山城跡を歩いている方はこの状況を見ていただいて想像できると思いますが、これは慣れていない方は連れてくることはできませんね。



 慣れていない方は滑落して谷底に真っ逆さまになる恐れがありますから、お客様をお連れするのはやめます。

 あ、「真っ逆さま」は大袈裟で、実際には滑り落ちたとしてもすぐに樹木でストップされるので大したケガはしないと思いますが、でもダメです。

 デンジャラスゾーンを通過したら、3号墳の前方部に到達です。



 先ほど登った1号墳の後円部を見上げます。



 3号墳の墳頂は1号墳と違って藪がひどいですが、歩けないことはないです。

 足元には何がいるかわからないため、長いものには注意した方が良いことは分かっていても、敢えて見ないことにしています。

 後円部に到達。



 後円部墳頂。



 3号墳は、85mの前方後円墳です。

 後円部から前方部を見ます。



 それでは退却!

 というかなんで私は一人で探検ごっこみたいなことをしているんでしょうか。

 駐車場まで戻ってくると一安心。

 ここまで20分くらいしか使っていませんので、実は大したことはないのですが、来るのなら今日みたいな真夏はお勧めできません。

 それと、地面が濡れていた場合は上級者であっても歩くのが危険なため、もし六呂瀬山古墳群に来るときは、天候には十分気を付けたほうがいいと思います。

 でも六呂瀬山古墳群の被葬者は継体ママの振媛の先祖の可能性がありますから、継体天皇ファンあるいは振媛ファンだったら頑張って来る価値があると思いますよ。

 おっと、初めに見た説明板の裏にも説明があった。



 これは結構気づかない人も多いんじゃないでしょうか。



 やはり地元では振媛はアイドルですね。



 オオドは天皇にスカウトされたとき、初めは断ったのですが、旧知の仲である渡来系の荒籠が使者としてやってきたらOKを出しました。

 荒籠は単なる渡来人ではなく馬の生産で重要な役割をしていた人物で、出典は忘れましたが、「現代で言えばトヨタ自動車の社長」と例えていた方がいるように、かなりの力を持った人物です。



 こういう素晴らしい説明板はもっと目立つように設置したほうが良かったのではないかと思います。

 では、次はいよいよ継体天皇に会いに行きますよ。

 (つづく)

原口古墳|福岡県筑紫野市 ~三角縁神獣鏡が3面出土した九州最古級の前方後円墳の一つ~

2021-08-08 21:50:50 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年4月2日(金)磐井ツアー下見1日目①



この日の探訪箇所
原口古墳 → 筑紫野市歴史博物館 → 津古1号墳 → 津古永前遺跡 → 横隈山古墳 → 小郡市埋蔵文化財センター → 花立山穴観音古墳 → 焼ノ峠古墳 → 久留米市埋蔵文化財センター

 お、今日の飛行機は、エアバスA350-900ですぞ!

 最新鋭の飛行機じゃないですか!

 シートに付いている目の前のモニターをいじっていると、飛行機の前方の様子をリアルタイムで監視できるようになっています。

 こういうのって大好き。

 飛行機は順調に飛び、やがて福岡空港に近づきました。

 モニターを見てみましょう。

 前脚を出したらちょっと邪魔ですが仕方がない。



 福岡空港へアプローチするときは、海の方からやってきて、滑走路の軸線上に入るために少し旋回します。

 眼下には福岡の街が近づいてきました。



 福岡空港はもろに街中にあるため22時を過ぎたら飛行機は飛ばないのです。

 何年か前にクラツーのツアーの帰りに私たちが乗るはずだった飛行機で機材トラブルが発生して、代替機が22時に間に合わず、帰れなくなったことがありました。

 板付遺跡が見れるかなと思いましたが、位置がちょっと違いますね。



 フライトシミュレーターをやっているみたいで楽しい。



 まあ、私が操縦したら地面に激突ですが。



 何度も激突して、しかるのちに上達する!

 それはゲームだけの話です。

 ちゃんとした人が操縦しているため無事に到着。

 福岡空港ではまずは朝飯ですな。

 吉牛です。



 美味い。

 いつものニッポンレンタカーへ行き車を借り、本日の探訪を開始します。

 まず最初に向かうのは原口古墳です。

 北部九州の前期古墳の中でも有名なので、以前から行ってみたいと思っていたのですが、ようやく今日念願が叶います。

 以前、太宰府に行った時に、西鉄の朝倉街道駅からJRの天拝山駅まで歩いて乗り換えたことがあったのですが、天拝山駅から原口古墳までは歩いても20分で来れる距離だったんですね。

 そのときは気づきませんでした。

 さて、近くに到着しましたが、車を停める場所がありません。

 墳丘の西側の邪魔にならない場所に路駐して行ってみましょう。

 古墳へはどこから入るんでしょうか?



 ここが入口っぽいな。



 でも墳丘に取りつく前に周りの様子も見てみたい。

 東側の県道のほうに出てみました。



 「ウエスト」の焼肉ヴァージョンの店がありますね。

 ウエストのうどんはめちゃ美味いですよ。

 南側から見ると山が削られているように見えますが、古墳があるようには見えません。



 では、先ほど見つけた入口っぽい場所から入ってみます。

 すぐに墳丘らしきものが見えてきました。



 注意深く警戒しながら歩きますが、形状は大きく改変されているようです。







 登ってきた道を振り返ります。



 道はまだ続く。



 木々の間から県道方面にあるドンキのペンギンが見えます。



 標柱がありました。



 ここは後円部墳丘の途中の場所のようです。



 墳頂にはお堂があるようです。





 原口観音堂の由緒が刻されています。



 後円部からの眺望はゼロ。



 後円部墳頂の様子。



 ここまでの道は決して歩きづらいわけではありませんが、きれいな墳丘を見ることはできません。

 筑紫野市博物館発行の「ちくしの散歩」によると、弥生時代の甕棺墓の上に古墳が造られており、墳丘長80mの前方後円墳で、後円部中央では粘土や朱が多量に見つかったため、埋葬主体部は粘土槨であったと推定されています。

 出土遺物で注目されるのは、三角縁神獣鏡が3面出ていることで、あとで訪ねる筑紫野市歴史博物館にはそのうちの2面のレプリカと1面の実物が展示してあります。

 築造時期に関しては、九州最古級の古墳で3世紀代にさかのぼると考える研究者もいる一方で、『古墳の黎明 津古古墳群とその周辺』(小郡市埋蔵文化財調査センター/編・2013年)に掲載されている編年によると、築造時期は4世紀初めで、焼ノ峠古墳と同じ時期としています。

 原口古墳の南には、やはり九州最古級の古墳を擁する津古古墳群があり、この地域は筑紫における古墳発祥の地の一つであることは間違いないですし、弥生時代からかなり大きな勢力がいたことも遺跡から見れば確実です。

 筑紫野市周辺が邪馬台国であったかは分かりませんが、伊都国や奴国などと並ぶ重要な国があったのは確かだと私は考えています。

 では戻りましょう。







 通常、このように土が削れている場所で多量の石が見られる場合は葺石なのですが、原口古墳はどうなんでしょうか。



 今後はこの地域の古墳についてもよく調べていきたいと思います。



 実はここも今度のクラツーの「磐井ツアー」の探訪候補地だったのですが、事前にWebで調べたところツアー向きじゃないと判断して外しました。

 実際に来てみるとその通りでした。



 古墳の森から出てきました。

 東側に見えるあの綺麗な山容は何の山でしょうか。



 原口古墳のある森。



 あの立派なお屋敷の裏山、というか一体化していますね。

 では、つづいて筑紫野市博物館へ行ってみましょう。

 (つづく)



岩清水遺跡|山梨県甲府市 ~5世紀代に築造されたこれらの墓は古墳ではないのか?~

2021-07-30 12:08:28 | 歴史探訪


発見容易
登頂可能
説明板あり
駐車場あり
トイレあり

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


山梨県甲府市下曽根町



現況


低墳丘墓群

史跡指定



出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


5世紀第2四半期~第3四半期

墳丘


形状:円墳

主体部



出土遺物



周堀


あり

 

3.探訪レポート                         


2018年11月7日(水)甲信古代史探訪 その11



この日の探訪箇所
川柳将軍塚古墳 → 姫塚古墳 → 長野県立歴史館 → 千曲市森将軍塚古墳館 → 森将軍塚古墳 → 弘法山古墳 → 松本市立考古博物館 → 山梨県立考古博物館 → かんかん塚古墳 → さかづき塚 → 丸山塚古墳 → 甲斐銚子塚古墳 → 岩清水遺跡 → 岡銚子塚古墳 → 盃塚古墳 → 花鳥山遺跡 → 釈迦堂博物館

 ⇒前回の記事はこちら

 おや、あちらにも墳丘らしきものが見えますよ。


※3号墓


※2号墓


※1号墓



 おー、円形周溝墓!



 「周溝墓」というのは弥生時代以降の墓制で、方形と円形があり、数基から数十基群集して造られることが多いです。

 一般的には群集する中では方形周溝墓の方が多く造られる傾向があり、円形は少数派です。

 ですから、円形周溝墓という表記を見てかなり興味を持ったのですが、どうも5世紀の墓ということで、ちょっと周溝墓のイメージと違います。

 そこで、『山梨県埋蔵文化財センター調査報告書 第182集 岩清水遺跡』(大塚初重/著)を読んでみると、大塚先生は岩清水遺跡の3基の円形周溝墓のことを「円形低墳墓」と呼んでいます。

 周溝墓ではないとしても、5世紀という古墳時代中期に、古墳以外の墳墓が見つかるのは、珍しいことじゃないでしょうか。

 該書をもとに各低墳墓について簡単に記すと、県立考古博物館に近い側(東側)から1号、2号、3号と呼び、1号と2号は周溝の一部が切りあっており、1号の方が早く築造されています。

 1号低墳墓は径約18mで、5世紀第2四半期の終わり頃から第3四半期の中頃の築造、周溝にはおおよそ北、西、東にブリッジが存在しています。

 2号低墳丘墓は径約23mで、1号低墳丘墓よりも後ではあるものの 5世紀第3四半世紀の範囲に収まると考えられています。

 3号低墳丘墓は、上の説明板では弥生時代の周溝墓のように書かれていますが、2001年に著された上述書では、5世紀第3四半期に築造された可能性を示唆しています。

 大きさは東西の径が9.2m、南北の径が11.2mで3基の中ではもっとも小さいです。

 これら3基の低墳丘墓と、先ほど見たかんかん塚古墳との関係ですが、上述書では、かんかん塚古墳には石室があり、類い稀な副葬品を持っていることから、かんかん塚古墳被葬者の下にこれら低墳墓群の被葬者が位置する関係であると推測しています。

 また、かんかん塚古墳以降は、この地には後続する高塚古墳が見られないのと同じく、低墳墓もこれら3基以降はこの地には築造されず、銚子塚古墳に始まった中道地域のこの墓域も終焉を迎えます。

*     *     *


 以下の4枚は2019年3月21日に撮影したものです。

 1号墓。



 1号墓の奥(西側)に2号墓が見えます。



 さらにその奥には丸山塚古墳。



 手前から1号墓、2号墓、丸山塚古墳。



 つづいて、以下の9枚は2021年5月28日に撮影したものです。

 今回は緑色ですね。



 1号墓にはブリッジが北・西・東の3か所にありますが、これは東側のブリッジ。
 




 西側から見た2号墓と奥には1号墓。





 この可愛らしいのが3号墓。



 一丁前に周溝があってブリッジまであるのがいじらしい。



 奥には丸山塚が見えます。



 1号墓側から見た2号墓。



*     *     *


 駐車場まで戻ってきました。

 駐車場の近くには古代の広場というのがあります。



 石室。





 竪穴式住居。





 お、敷石住居もある。

 でもちょっと見た目は・・・





 博物館も古墳も楽しかった。

 あ、もう15時だ。

 冬なのでそろそろ時間が無くなってきましたよ。

 急いで花鳥山遺跡へ向かいます。

 ⇒この続きはこちら

かんかん塚古墳/さかづき塚|山梨県甲府市 【甲信古代史探訪 その8】

2021-07-30 11:20:32 | 歴史探訪


 

3.探訪レポート                         


2018年11月7日(水)甲信古代史探訪 その8



この日の探訪箇所
川柳将軍塚古墳 → 姫塚古墳 → 長野県立歴史館 → 千曲市森将軍塚古墳館 → 森将軍塚古墳 → 弘法山古墳 → 松本市立考古博物館 → 山梨県立考古博物館 → かんかん塚古墳 → さかづき塚 → 丸山塚古墳 → 甲斐銚子塚古墳 → 岩清水遺跡 → 岡銚子塚古墳 → 盃塚古墳 → 花鳥山遺跡 → 釈迦堂博物館

 ⇒前回の記事はこちら

 山梨県立考古博物館は面白かったー。

 博物館内では縄文土器を堪能しましたが、今度は古墳を見ます。

 博物館に隣接して、4世紀の時点では東日本で最大規模の銚子塚古墳という大型前方後円墳があるのです。

 なお、「銚子塚」という名前の古墳は全国にいくつかあるので、こちらのものは「甲斐銚子塚」と呼ばれることがあります。

 おや、いきなり古墳のようなものがありますよ。



 右側は「かんかん塚」という5世紀後半の円墳ですが、左側は「さかづき塚」という中世の塚だそうです。



 説明板に書いてある通り、かんかん塚古墳は5世紀後半に築造された円墳で、径26mの大きさです。

 注目すべきは、県内の古墳から見つかった馬具としては最古のものが見つかっていることですね。


※2019年3月21日のCTのツアーの際に撮影

 さかづき塚も説明板に書いてある通りです。


※2019年3月21日のCTのツアーの際に撮影

 それでは当初の予定に戻り、銚子塚古墳を目指しましょう。

 ⇒この続きはこちら

*     *     *


 2021年5月28に山梨県立考古博物館を訪れましたが、企画展で県内の古墳について詳しく解説していました。

 職員の方々の展示にかける強い意気込みが感じられるとても面白い展示でした。

 かんかん塚に関する写真を以下に示します。





 この被葬者は普段から乗馬をしていたということが伺えて面白いです。

 5世紀は国内に馬が一気に普及した時代ですが、甲斐ではそれ以前から馬が飼われていたのではないでしょうか。



 この日のかんかん塚とさかづき塚は、緑のもしゃ子ちゃんでした。





 大型円墳の丸山塚古墳が築造されたのが4世紀半ばで、それをもってこの中道地域の大型墳の築造は終わりを告げます。

 その後、約100年くらい経ってかんかん塚が築造されるのですが、かんかん塚と同じ頃か少し前には、考古博物館の裏山にある大丸山古墳のさらに裏手に、東南山遺跡に属する東山南1号・2号墳(あるいは墓)という、低墳丘墓が築造されます。

 ただし、そちらは『山梨県埋蔵文化財センター調査報告 第64集 東山南(B)遺跡』(山梨県教育委員会/編・1991年)によると、石室が造られた形跡もない土着性の強い集団の築造で、畿内色の強いかんかん塚とは異なる系譜の人びとの古墳だと考えられるといいます。

 ですから、かんかん塚は規模はかなり小さくなってしまいましたが、実際の血縁関係があるかないかは別として、もしかするとこの地で古墳時代前期に繫栄した「甲斐の王」の系譜をひく人物の墓なのかもしれません。

富山市考古資料館|富山県富山市 ~縄文・弥生・古墳時代を中心に素晴らしい遺物展示と丁寧な解説が嬉しい資料館~

2021-07-27 23:54:00 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月20日(火)



この日の探訪箇所
稚児塚古墳 → 富山市考古資料館 → 王塚古墳および各願寺 → 勅使塚古墳 → 富崎墳墓群 → 富崎千里古墳群 → 勝興寺(越中国府跡) → 柳田布尾山古墳および古墳館 → 桜谷古墳群 → 越中国分寺跡


 稚児塚古墳を見に少し東へ行ってしまったので、西に戻って富山市考古資料館で、市内の遺物をチェックしてから本格的な下見活動を始めようと思います。

 ※註:本レポートは少し長いので気合を入れて読んでください。

 到着しました。

 この佇まいは期待できそうです。



 経験上、こういう雰囲気の「昔ながらの郷土資料館」みたいなところは面白い場所が多いのです。

 ちなみに「富山市民俗民芸村」といういくつかの施設が集まった中に「考古資料館」があり、私的には今日は考古資料館一本に絞って来ています。

 考古資料館のみの見学であれば、入館料は100円です。

 旧石器時代から順番に解説されるオーソドックスな展示方法のようですね。



 最近の新しい博物館などは演出に凝った施設もあってそれはそれで楽しいのですが、こういう展示が一番落ち着きます。

 富山市の地形ジオラマが壁にあります。



 こういうの大好き。

 かつての潟湖の名残である富山新港と、富山湾にそそぐ神通川、それに神通川右岸に発達した富山市街と北東方向に延びた呉羽丘陵があります。



 神通川とその東には、常願寺川と白岩川。



 先ほど訪れた稚児塚古墳は右下のほうです。

 そしてこれから行く予定の王塚・千坊山遺跡群とその北側周辺。



 つづいて各時代の地形の展示がありますが、古墳時代の海岸線はこの通りです。



 先ほどのジオラマでも出てきた富山新港の周辺には大きな潟湖がありますが、こういうのは古代人が好きな地形で、古代から栄えていたことが想像できます。

 では、旧石器時代の遺物展示を見ましょう。

 おっと、いきなり凄いものが!



 杉谷G遺跡出土のチョッパーですが、チッパーと呼ばれる石器は非常に古くて、私たちホモサピエンスではなく、違うホモ属(ホモハイデルベルゲンシスなど)の系統の石器と考えられないことはないでしょうか?

 これは帰宅してから調べないと。

 局部磨製石斧も古い石器です。



 詳しい知識はありませんが、石の雰囲気が今まで関東などで散々見てきたものと違います。

 続いて縄文時代に行きますよ。

 土偶ちゃん大集合!



 この中から未来の土偶界を担うスターを探してみましょう。

 古沢遺跡からは多くの土偶ちゃんに来ていただいています。



 それ以外の遺跡からも各遺跡から選抜されてきた精鋭が揃っていますよ。



 お、古沢遺跡から来たあなたいいですね。



 寄り目がちなところがとてもチャーミングで、かつ文身の模様がドラえもんのひげのようになっていて素敵ですね。

 鏡坂Ⅰ遺跡のキミも可愛いね。



 古沢遺跡のキミはちょっと狂暴そうだ。



 こちらも古沢遺跡から来てくれましたが、クマちゃんみたいな顔でいいよ。



 というか、むしろコアラさん?

 耳には穴が開いているのかな?

 あなたは亀ヶ岡文化の影響をもろに受けちゃっていますね。



 流行に敏感なのはいいですが、迎合するよりオリジナルで行こうよ。

 なお、水橋館町地内出土ということですがレプリカです。

 土偶ちゃんは以上ですが、富山の土偶ちゃんたちも充分に全国で活躍できるポテンシャルを持っていると感じました。

 おや、こういうのは秋田でも見ましたよ。



 「三角とう形土製品」といって、杉谷遺跡出土です。

 日本海側ではこういったものを使う文化圏が形成されていたのでしょうか。

 こちらは笛状土製品ということで、穴が開いているのが確認できますが実際に音が鳴るんでしょうか?



 古沢遺跡は土偶の出土も多そうですが、こういった物も出ているということは、古沢遺跡ではマジカルな「祭祀ワールド」が展開していたのかもしれません。



 そしてお待ちかねの土器です。

 開ヶ丘狐谷Ⅲ遺跡出土の中期の深鉢。



 下半分が見つかっていないのでしょうか?



 蜆ヶ森(しじみがもり)貝塚の土器群。



 小さくても縄文が丁寧に施されています。



 小竹貝塚。



 こちらも小さいですが、植物で編んで造った容器をイメージしているのでしょうか。



 お、またもや古沢遺跡ですね。



 大きく広がったシャープな感じの口縁部がカッコいい。



 小竹貝塚の遺物としては、レプリカですが人骨ちゃんもあります。



 なんでも「ちゃん」を付ければ可愛くなるとでも思っているのか。

 というか、頭蓋骨ちゃんだな。

 展示してあるのは1号人骨ですが、28号人骨を復顔するとこの通り。



 なかなか素敵な男性ですが、こんな感じの友達が昔いたような気がする。

 縄文人の復顔を見るとなんとなくどの顔も似ているような気がしますがどうでしょうか。

 小竹貝塚は、日本海側最大の貝塚と言われ、木製の盾が出土したことでも有名です。

 つづいて弥生時代に入りました。

 千石町遺跡出土の弥生時代の甕。



 おー、方形周溝墓をこういうふうに見せている場所は初めてかもしれません。



 杉谷A遺跡の方形周溝墓ですが、この方形周溝墓の場合は、土壙は地下にあるタイプですね。

 周溝に収められた土器も再現されています。

 底部穿孔土器です。



 刷毛目がタテ、ヨコ、そして斜めにも入っておりいいですねえ。

 墓に供える土器はわざを底に穴をあけることがあって、古墳にも初めの頃は埴輪ではなく底部穿孔土器が並べられたケースもあります。



 素環頭鉄刀。



 素環頭鉄刀について熱く語っているところが良い!





 富山市考古資料館のいいところは、各遺跡ごとにこのような詳しい解説があるところです。



 説明文は変にビギナー向けにへりくだっておらず、マニアが喜びそうな内容になっています。

 ビギナーであっても是非ともこれくらいの内容は理解できるようになっていただければ、遺物鑑賞や遺跡めぐりはさらに楽しくなりますよ。

 素晴らしい朱塗りの長頸壺。



 江代割(えいだいわり)遺跡出土の器台。





 器台や高坏は正直、私は外見的な面白味を感じないのですが、この地域のものは装飾が凝っていて美しい。

 丸い穴を多く開けるのもポイントですね。





 これも朱塗り。



 色が褪せている感じの部分が本物のパーツですよ。



 あと、この地方は丸いボタンみたいのを付けるのも好きみたいです。



 押すと何かの機能が発動するかもしれませんよ。



 杉谷4号墓(四隅突出型墳丘墓)の模型。



 突出部が「しゃもじ形」とか「イチジク形」と呼ばれる形になっているのが特徴で、出雲のものよりふわっとした感じに仕上がっています。

 越中のよすみは「ふんわり仕上げ」ですよ。

 今回のツアーに関連する遺跡の説明が出てきました。



 千坊山遺跡でもよい遺物が出ていますね。



 畿内をはじめとする西日本の弥生時代の土器には面白味を感じることは少ないのですがが、富山は立派な「東日本世界」ということもあり、弥生土器も素晴らしい。



 六治古塚墳墓も今回のツアーに関係する王塚・千坊山遺跡群を構成する遺跡の一つです。





 鏡坂墳墓群出土の土器。



 富崎墳墓群も、王塚・千坊山遺跡群に入っています。





 これは、パップラドンカルメではありません。



 これまた王塚・千坊山遺跡群の勅使塚古墳へはこのあと行きますよ。



 古沢塚山古墳の説明ですが、こうやって見学者の好奇心を刺激するような説明の仕方も上手ですね。



 太平洋側の前方後円墳の北限ということで、岩手県奥州市の角塚古墳と角塚と同時代の豪族居館跡が見つかった中半入(なかはんにゅう)遺跡が紹介されているのが嬉しい。




※角塚古墳(2019年4月28日撮影)


※中半入遺跡(2018年4月14日撮影)

 おっと、ここでもう一つの展示ブースを見つけましたよ。

 中に入ってみると、地元の研究家の方々が集めた考古遺物を展示してあります。

 このような感じで郷土の考古学の発展に寄与した方々のプロフィールとコレクションが展示してあります。





 ここでも出てきました。



 そしてキノコ形土製品もあります。



 いよいよもって北東北日本海側とのつながりが濃厚になってきましたね。

 そしてこの栗山邦二さんのコレクションは圧巻の内容です。



 まだ私は訪れたことのない飛騨の土偶。



 似た系統の土偶ですが、いいですねえ。



 これと飛騨のを比べると、飛騨のは身体の下の方をもいでいるようですが、もいだ断面も赤っぽくなっているため、もいだあとにも朱を塗るということもあったのでしょうか。

 両手の造形はもともとこうなのでしょう。

 顔らしい顔があったのかどうかなど、こちらの土偶は今まで調べたことが無いので今度調べてみます。

 これはいい御物石器です。



 なお、御物石器に関しては、別の場所にこのような役に立つ説明がありました。



 三角石斧・・・



 なんかこれいいなあ。

 私にとっては新鮮だ。

 これはなんと申して良いのやら。



 いい具合ですが、それよりも「おいねずみ」って何ですか?

 しかし良いものが揃っていますねえ。



 石刀の模様や磨き具合も素晴らしい。

 鏡坂Ⅰ遺跡出土の深鉢。







 そして、個人的にはとんでもないものを見つけてしまいました!



 こちらの土製品ですが、土版と呼ばれるものだと思います。



 表面に丸く小さな穴が並んでいるのですが、その数を数えてみるとこのようになります。



 これはまさかの!?

 そうです。

 秋田県鹿角市の大湯環状列石の隣にある大湯ストーンサークル館に行ったことがある方は、これを見たことがあると思います。



 地元では、「どばんくん」と呼ばれています。

 この遺物も表面に穴が開いていますが、穴の集まりを見ていくと、口みたいなのが「1」、目みたいなのが「2」というふうに、3、4、5とあり、裏側に6つの穴があるため、地元では「子供に数の数え方を教えるための知育玩具」説があるのです。

 私もそういう発想は好きなのでその説はそれでいいと思いますが、これと同じものは日本中探しても無いと思っており、大湯ストーンサークル館の方と話しても同様に考えているようでした。

 ところがいみじくも、今日は富山で類似品を見つけてしまったのです!

 類似品というと怒られそうなのでやめた方がいいですが、もしかすると三角とう形土製品やキノコ形土製品も秋田と富山は共通しますから、東日本の日本海側各地の遺物を探せばもっと出てくるかもしれません。

 これは凄い発見かもよ!

 素晴らしい遺物展示はまだまだあります。







 打出遺跡出土のこの三連壺も面白いですね。



 もともとは赤彩されていました。

 この古墳の編年表は便利だ。



 というわけで、展示の見学が終わりました。

 ザーッと見学して40分かかりましたが、丹念に見るなら1時間は欲しいですし、遺物を見て話しだしたらもっと時間が必要です。

 ところで、ここは今度催行するクラツーのツアーには入れていないんですよね。

 入れておけばよかった・・・

 だけどツアーの場合は探訪箇所はある程度絞っておかないといけませんから仕方がないです。

 もし個人的にどなたかをお連れすることがあれば、ここは絶対に案内したいです。

 さて、今回解説してくださった「バン爺」です。


※註:これは人形というか置き物なので「解説してくださった」というのは真に受けないでください。

 この方は凄い方なんですよ。



 土人形は向かいの「とやま土人形工房」で販売しているとのことです。



 富山考古資料館では、資料の販売もありますよ。

 非常に充実した見学になりました。

 つづいて、ツアーで訪れる予定の遺跡へ行きます。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板


稚児塚古墳|富山県中新川郡立山町 ~径46mを誇る富山県最大の円墳~

2021-07-27 15:48:02 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月20日(火) 北陸ツアー下見1日目<越中探訪>①



この日の探訪箇所
稚児塚古墳 → 富山市考古資料館 → 王塚古墳および各願寺 → 勅使塚古墳 → 富崎墳墓群 → 富崎千里古墳群 → 勝興寺(越中国府跡) → 柳田布尾山古墳および古墳館 → 桜谷古墳群 → 越中国分寺跡


 最近は北陸新幹線に立て続けに乗っています。

 北陸新幹線は、今までは全然なじみが無かったのですが、最近急に北陸新幹線の沿線と縁ができてきたようです。

 今日は「かがやき501号」にて富山を目指しますよ。

 遊びじゃなくて仕事です。

 「かがやき501号」が大宮を出るのは6時41分ですから、家を出る時刻は少し早いですが、それでも乗り継ぎがよくて意外と楽に来れます。

 新幹線に乗り込むと、車内はガラガラ。

 車内で今回の下見の予習をしていると、あっという間に軽井沢を通過し、長野に到着しました。

 かがやき号は大宮の次は長野に停まり、つづいて富山、そして終点の金沢です。

 長野を出てしばらくすると、右側車窓に海が見えてきました。

 私の席は山側ですが、お客さんがほとんど乗っていないので窓側の席に移動して海を眺めます。

 ときたま撮影。



 夏の日本海はすごく綺麗。

 8時半に富山に到着しました。

 かがやき号に乗れば、大宮から1時間50分ほどで富山に来れちゃうのだ。

 すごいね。

 お、路面電車!





 普段見慣れないものを見られるのは嬉しい。





 タウンワークには私も昔よくお世話になりました。



 ちなみに、ご高齢の方のアルバイトは、男性の定番が警備員で女性の定番が清掃員ですが、男性であっても清掃の仕事をお勧めしたいです。

 清掃の仕事は1日中手を動かして作業をしていますから、時間が経つのが早くて、それなりの充実感を得られますよ。



 あ、路面電車を見てはしゃいでいる場合じゃないですね。

 レンタカー屋さんに行かなければ。

 さて、本日は富山県内をめぐりますが、その一発目は稚児塚古墳です。

 主たる目的地は富山駅から西の方なんですが、稚児塚は反対の側にあります。

 でも、車ならそんなに遠くないので寄ってみましょう。

 まったく土地勘がない場所を走るのも楽しいですね。

 ダスキンの時は毎日のように車を運転していましたが、いまはこういった時しか運転できないため、運転も楽しむようにしています。

 常願寺川を渡り、しばらく車を走らせていると右手前方の住宅の向こうに古墳の杜らしきものが見えてきました。

 右折して直進すると・・・



 あれですね。



 古墳へ向けて突進していきます。

 ・・・あれ、なんだこの踏切は!

 異様に幅が狭い。

 自動車通行禁止の標識があります。

 「小特は除く」と書いてありますが、こういう標識は見たことがない。

 仕方ないですね。

 古墳側から見た踏切。



 この幅は普通の車は無理ですね。

 ナヴィはこの踏切を渡るように指示してきましたが、こういう罠がいきなり現れますから、古墳めぐりは一時も油断できません。

 でも南側から線路沿いに普通に来れますからご安心ください。



 ご安心くださいって、誰に言っているのでしょうか。

 墳丘の周りは周堀の跡がはっきり分かります。





 説明板がありました。



 これによると、稚児塚は、径46.8mのやや大型の円墳で、県内で唯一葺石が葺かれた古墳だそうです。

 先ほど見たのは周堀に間違いないようで、四角形が優勢な北陸地方においては特殊な存在、というかもろにヤマト王権の影響を受けた古墳といえるのではないでしょうか。

 墳頂には階段がついてます。



 お、こちらの説明板はすごい文章量!



 渾身というか入魂の説明です。

 ※註:おそらくこれを書いた方は多くの方に読んでいただきたいと思っているはずなので、読みやすいように分割して写真を掲載します(著作権の関係などで問題がありましたらご連絡ください)。



 付近には多くの古墳があるようで、そのなかでも稚児塚がメインとなるようなことが書かれており、また近辺では条里制の名残も見られるようです。

 では続き。



 武内宿禰の伝承がこの地にあるのも面白いですし、宿禰の子の藤津という人物が出てくるのも興味深いです。

 坪井庄(ママ)五郎先生の名前も登場しました。

 最終ブロック。



 気合一発で一気に書き上げた雰囲気を持っていますね。

 ここまで長文の説明板は珍しく、探訪する側からするととてもありがたいです。

 では、墳丘に登りましょう。

 墳頂にはフェンスで囲まれたものがありますが、こういうのって大抵石棺とかそういう・・・



 切り株だった!



 説明板に書いてあった老杉ですね。

 墳頂。





 登ってきた階段を見下ろします。



 2段築成になっているように見えますよ。





 やたらに角のとれた石が転がっていますが、葺石かな?



 では、墳丘を降ります。

 少し離れて古墳を撮影。



 古墳の前には、富山地方鉄道立山線の線路があるので、電車来ないかなあ?と期待しているのですが、なかなか来ませんねえ。

 それにしても良い天気だ。

 今日も気持ちよく遺跡めぐりができそうだぞ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             


 帰宅後に『稚児塚古墳 第1次発掘調査報告』(立山町教育委員会/編・1994年)を読みましたが、それによると、墳丘の大きさは以前から言われている通り、径46mで変わらないようです。

 段築に関しては私は現場で2段だと思ったのですが、3段の可能性が高く、全山盛り土で造られ、周堀の幅は約17mあります。

 築造時期に関しては決定材料となる遺物が見つかっていないため断定はできませんが、構造を見ると5世紀中葉から後葉としています。

 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『稚児塚古墳 第1次発掘調査報告』 立山町教育委員会/編 1994年


柳田布尾山古墳および古墳館|富山県氷見市 ~日本海側最大の前方後方墳~

2021-07-25 10:58:38 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月20日(火) 北陸ツアー下見1日目<越中探訪>⑧



【1日目の探訪箇所】
稚児塚古墳 → 富山市考古資料館 → 王塚古墳および各願寺 → 勅使塚古墳 → 富崎墳墓群 → 富崎千里古墳群 → 勝興寺(越中国府跡) → 柳田布尾山古墳および古墳館 → 桜谷古墳群 → 越中国分寺跡
【2日目の探訪箇所】
真脇遺跡縄文館 → 真脇遺跡 → 須曽蝦夷穴古墳  → のと里山里海ミュージアム → 能登国分寺展示館 → 能登国分寺跡 → 能登国総社 → 万行遺跡
【3日目の探訪箇所】
氷見市博物館 → 朝日貝塚 → 朝日長山古墳 → 雨の宮古墳群および雨の宮能登王墓の館 → 羽咋市立歴史民俗資料館 → コスモアイル羽咋 → 吉崎・次場遺跡 → 内灘町歴史民俗資料館
【4日目の探訪箇所】
吉光の一里塚 → 能美ふるさとミュージアム → 能美古墳群 → 高向神社 → 六呂瀬山古墳群 → 足羽神社および継体天皇像


 つづいて柳田布尾山古墳へ向かいますが、公園内にある古墳館は16時に閉まるので急ぎます。

 15時50分に駐車場に到着。

 駐車場には公園の全体図を示す案内板が立っています。



 まずは古墳館だな。

 階段を上ると、右手に柳田布尾山古墳があり、左手には山と海を背景に従えた古墳館の建物が佇立していました。



 入館料は無料です。





 残念ながら遺物の展示はなく、パネル展示で構成されていますが、柳田布尾山古墳をはじめとした氷見市の古墳について分かりやすく解説しています。

 このあと見学する柳田布尾山古墳のジオラマ。



 今日は本当に前方後方墳祭りですな。

 北陸の「四角い墳丘の世界」は非常に興味深いです。

 柳田布尾山古墳はこの図が示すように日本海側を代表する大型前方後方墳で、墳丘長は107.5mあり、前方後方墳としては日本海側最大規模を誇ります。



 また、日本海側ではこの古墳より東側には100m以上の古墳は存在しません。

 ところで、100mという単位は現代のもので、古代はメートルなんで単位はなかったわけですが、不思議なことに100mってひとつの基準に思えて、古代人的にも同じような感覚があったような気がします。

 なお、この図には記されていませんが、島根県松江市にある前方後方墳の山代二子塚古墳は島根県最大の古墳で、墳丘長は92mあるので、おそらく日本海側の前方後方墳としては2位になると思います。


 ※2018年10月4日撮影

 ただし、山代二子塚は6世紀に築造されているため、一般的な古墳時代前期(3世紀半ば~4世紀後半まで)に築造された前方後方墳と歴史背景を同じに考えてはいけません。

 その話はまたどこかですると思いますが、今日は柳田布尾山古墳ですね。

 古墳の立地はとても大事です。



 海に臨む古墳では、海からの眺望を気にして造られていることが多く、この古墳の場合は、さらに二上山丘陵というのがキーになっているようですね。

 主体部の説明。



 副葬品は盗掘のためほとんど残っていなかったような記述ですが、一般的には前方後方墳は前方後円墳と比べて副葬品が貧弱です。

 ただし、愛知県犬山市の東之宮古墳(墳丘長72m)のように例外もありますから、柳田布尾山古墳の規模からして立派な副葬品が収められていたかもしれませんね。


 ※2020年12月25日撮影

 氷見市は結構古墳が多いです。



 古墳館の最上階は展望ルームになっています。



 各方角ごとに眺望の説明があっていいですね。

 例えば北側の眺望の説明。



 こういうのって特に私のような外から来た人にとっては重宝するのです。



 柳田布尾山古墳も見えますよ。



 ところで、古墳館はエアコンがないため今の季節(夏)は暑いです。

 ハチが入ってくるために窓が開けられないそうで、夏はそんなに長く滞在できませんのでそのつもりで来るといいですね。

 なお、受付では氷見市博物館で刊行している各種図録などの資料類が販売されているので、氷見市博物館に行く予定がない方はここで購入するといいでしょう。

 では、古墳へ行きますよ!

 あー、外が涼しく感じる。

 墳丘に取りつく前に、説明板などを見ていきましょうか。

 まずは、ジオラマ!



 こういうのはいいですねえ。

 今はありませんが、古墳時代には布勢水海があり、その後は十二町潟と呼ばれます。

 日本海側には今でもラグーンやその形跡が多く残っていますが、弥生時代や古墳時代にはもっとたくさんあって、その時代の人たちは船での移動を多用していましたから、こういう地形は大好きだったと思います。

 古代において日本海側が太平洋側と比べて文化の移入に有利だったのは、こういう地形が多くあったことが原因の一つです。

 角度を変えてみます。



 古墳の主軸のラインで後方部の先にある少し高く表現されている山が二上(ふたがみ)丘陵で、高岡市と氷見市にまたがっており、最高峰の二上山は標高274mです。

 つづいて説明板。



 平成10年に発見されたということで、結構最近デビューした古墳なんですね。

 デビュー早々、その高いポテンシャルによって一躍日本海側を代表する前方後方墳に躍り出たというわけです。

 測量図を見ると、後方部は2段築成になっているのが分かり、後方部墳頂にはかなり大きな盗掘孔がありますね。



 でもそれ以外はかなり原型が残っているのではないでしょうか。

 あとは、後方部の東側には円墳か方墳のようなものもあります。

 墳丘の立体模型もありますよ。



 カッコいいねえ。

 地域の古墳。



 これらのうち、今日は稚児塚、王塚、勅使塚を探訪しました。

 このあとは桜谷1号墳へ行きますよ。

 ※後日註:この2日後には朝日長山古墳を探しに行き玉砕しました。

 では、いよいよ古墳ちゃんに登ります。



 季節柄、「モシャ子ちゃん」になっているので美容室に行った方がいいかもしれませんが、墳丘登頂用の階段がありますので心配はいりません。

 ※註:墳丘に下草が生えてモシャモシャになっている古墳のことを「モシャ子ちゃん」と称し、下草刈りが終わると「美容室に行った来た」と称す。

 西側。



 前方部底辺を進みます。



 砂利が敷いてある箇所は周堀の跡を示しています。





 では、前方部に登ってみましょう。



 海が見える古墳っていいですねえ。



 夏は古墳めぐりには向いていませんが、海の青さと山の緑色を古墳と同時に楽しむには一番いい季節かもしれません。



 前方部から後方部を見ます。



 樹木が遮っていますが、奥には二上丘陵が見えます。

 海側にちょっとパン。



 モシャ子ちゃんなので、くびれ部分のエッヂは確認できません。



 後方部から前方部を見ます。



 主体部の表示。



 説明板。



 粘土槨は2.5m下から見つかったということですが、通常より深いのではないでしょうか。

 今まで気にしたことがありませんが、もしかして前方後方墳は前方後円墳よりも主体部を深い場所に造るのかな?

 それとも北陸の地域性か?

 これからは気にするようにします。

 後方部からの眺望。










 お隣の古墳ちゃんが見下ろせますね。





 行ってみましょう。

 柳田布尾山古墳とかなり近接しており、これだと周堀が切りあいそうです。



 先ほど古墳館で見たジオラマを確認してみましょう。



 これだと柳田布尾山古墳の周堀は一周していませんが、もう少し詳しく知りたい。

 私の知る限りでは関東の古墳は畿内の古墳ほどしっかりとした周堀を造らず、意外と形状も深さもラフなのですが、北陸もそうなのでしょうか。



 説明板を読んでみましょう。



 方墳かと思いましたが、意外に円墳でした。

 でも主体部は調査していないということなので詳しいことは分かりませんが、柳田布尾山古墳との関係が気になりますね。

 柳田布尾山古墳の築造は、3世紀末から4世紀前半頃ということですが、円墳だったらこれよりも後になるのではないでしょうか。

 ※後日註:四角形が優勢な地域なので円墳のほうが後だと考えたのですが、この2日後に訪れた石川県中能登町の雨の宮古墳群では、大型墳としては古墳群最古の1号墳(墳丘長64mの前方後方墳)のとなりに円墳があり、円墳のほうが古いと言われているため、柳田布尾山古墳の場合も前後関係は保留しておきます(ただし、雨の宮1号墳の築造は4世紀後半なので柳田布尾山古墳の築造時期とは歴史背景が違います)。

 ということで、柳田布尾山古墳は姿も美しく、周囲の景色もこれまた美しい古墳で、こちらに来たときは絶対に訪れるべき古墳ですね。

 さて、つづいては桜谷古墳群へ行ってみましょう。

 (つづく)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板


富崎千里古墳群|富山県富山市 ~前方後方墳をはじめとして17基の古墳からなる四角形が優勢な古墳群~

2021-07-24 22:26:38 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月20日(火) 北陸ツアー下見1日目<越中探訪>⑥



この日の探訪箇所
稚児塚古墳 → 富山市考古資料館 → 王塚古墳および各願寺 → 勅使塚古墳 → 富崎墳墓群 → 富崎千里古墳群 → 勝興寺(越中国府跡) → 柳田布尾山古墳および古墳館 → 桜谷古墳群 → 越中国分寺跡


 富崎墳墓群では、「生よすみ」を見ることができますが、バスで行くことができません。

 できれば王塚古墳と勅使塚古墳以外にも、もう一か所はどこかへ案内したいので、ダメもとで富崎千里(とみさきちさと)古墳群を確認しに行きます。

 富崎千里って人の名前みたいですが、手元のガイドマップを見ると駐車場もあるようなのでバスで行けるかもしれません。

 さて、現地に着きましたが駐車場は閉鎖されています。

 今日は王塚・千坊山遺跡群をさまよっていますが、一度はかなり整備をした形跡が見られるものの、その後それを維持することが難しくなったようで、いろいろな場所で残念な光景を見ます。

 しかしこういう状況はここに限ったことではなく、全国的に見られることですから仕方がないですね。

 駐車場の隅に説明板が見えます。



 駐車場には入れないので、空き地に車を停めて行ってみます。



 説明板が葉っぱちゃんに覆われそうになっていますが、富崎千里古墳群は、北群と南群に分かれ、北群には3基の方墳があり、南群には前方後方墳が1基、円墳が1基、方墳が12基の計14基があるということです。

 やはり、四角形が優勢なんですね。



 12号墳がないですが、もしかしたら後になって古墳ではないことが分かったのでしょうか?

 なお、富山市考古資料館の展示によると、富崎千里9号墳の築造時期は、先ほど訪れた勅使塚古墳よりも古く、富山県で最古の古墳になるようです。

 しかしここは、完全に侵入不能ですね。



 季節を選べばもしかしたら行けるかもしれませんが、何とも言えません。

 この場所もツアーで来ることはできませんね。

 以上で王塚・千坊山遺跡群めぐりを終えますが、この成果をもとにツアー本番の行程を考えることにします。

 つづいて氷見市方面へ向かいますよ。

 (つづく)

 

4.補足                             


 2021年7月20日の探訪では、王塚・千坊山遺跡群の遺跡のうち、王塚古墳、勅使塚古墳、富崎墳墓群、富崎千里古墳群の4か所を訪れました。

 実は昼休憩をとったローソンの近くに弥生時代の集落跡である千坊山遺跡があったため、近辺まで歩いて行ったのですが、何も見つけられず戻りました。

 帰宅してからWebを見たところ、説明板が設置してあるようで、それを見られず残念でした。

 では、何度も使わせていただいていますが、富山市考古資料館の展示パネルで遺跡を確認してみましょう。



 「国指定史跡 王塚・千坊山遺跡群」に含まれているのは、私が訪れた王塚古墳、勅使塚古墳、富崎墳墓群、富崎千里古墳群、千坊山遺跡(説明板を見つけられなかった)、それに今回訪れなかった六治古塚墳墓(四隅突出型墳丘墓)と、向野塚墳墓(前方後方形墳丘墓)です。

 Webで確認したところ、六治古塚墳墓は墳丘が残っているようですが、向野塚墳墓の墳丘は隠滅しているようです。

 『王塚・千坊山遺跡群』(大野英子/著)によると、旧石器時代から中世に至る複合遺跡である千坊山遺跡では弥生時代終末期の集落跡(当該期では県内最大規模の集落跡)が見つかっており、六治古塚墳墓、それと向野塚墳墓がこの集落に対応した墳墓となります。

 時期的に見ると、富崎墳墓群の3基の四隅突出型墳丘墓も後期から終末期にかけて築造されていますが、その中でも私が現地で確認した3号墓が最も古い弥生時代後期後葉の築造となり、富山県内で最古の四隅突出型墳丘墓となります。

 なお、有名な島根県出雲市の西谷墳墓群が築造され始めたのも後期後葉で、伝播の経路を考慮すると、西谷墳墓群で最古の西谷3号墓につづいて福井県福井市の小羽山30号墓(北陸最古の四隅突出型墳丘墓で突出部を加えた墳丘サイズは28×33m)が築造され、そのあとに富崎3号墓が築造されたと考えてよいでしょう。

 富山市のあたりは四隅突出型墳丘墓の東限ですが、『塩川町埋蔵文化財調査報告4 舘ノ内遺跡』によると、福島県喜多方市(旧塩川町)の舘ノ内遺跡の1号及び2号方形周溝墓は、四隅突出型墳丘墓の影響を受けての造営が推測され、東北地方最古段階の周溝墓(墳墓)と考えられています。

 出雲の王墓と言われる四隅突出型墳丘墓と同様の形態の墳墓が王塚・千坊山遺跡群にあるということは、普通に考えてこの地(越=古志=コシ)の首長と出雲の王は関係がありますね。

 時期的には北部九州で伊都国や奴国が中心となって大きな政治連合が結成されていた頃、出雲は出雲で独自の動きをしており、出雲は日本海沿いに東側に調略の手を伸ばしていたようです。

 出雲から古志へ海岸沿いに向かうと、その途中には丹後半島があります。

 丹後(丹波=タニハ)には台状墓という形態の墳墓が見られるため、独自の王権が存在したと考えられ、近年では丹後半島でも四隅突出型墳丘墓の発見があったものの丹後半島には出雲の力は及びづらかったようです。

 では、古志の王が出雲の王の支配下にあったかというとそうとも言えず、古志の王は出雲の王の強力なパートナーとして存在し、ヤマト王権が畿内に発足して北陸に触手を伸ばしてきた後も、出雲と同様、そう簡単にはヤマトには屈しなかったと考えます。

 

5.参考資料                           


・『塩川町埋蔵文化財調査報告4 舘ノ内遺跡』 塩川町教育委員会/編 1998年
・『王塚・千坊山遺跡群』 大野英子/著 2007年
・『出雲弥生の森博物館 展示ガイド』 出雲弥生の森博物館/編 2010年
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」123 出雲王と四隅突出型墳丘墓』 渡辺貞幸/著 2018年


富崎墳墓群|富山県富山市 ~森の中に3基の「生よすみ」が佇む遺跡~

2021-07-24 21:38:49 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月20日(火) 北陸ツアー下見1日目<越中探訪>⑤



この日の探訪箇所
稚児塚古墳 → 富山市考古資料館 → 王塚古墳および各願寺 → 勅使塚古墳 → 富崎墳墓群 → 富崎千里古墳群 → 勝興寺(越中国府跡) → 柳田布尾山古墳および古墳館 → 桜谷古墳群 → 越中国分寺跡


 王塚・千坊山遺跡群の代表的な古墳である王塚古墳と勅使塚古墳は見ましたが、周辺にはまだたくさんの遺跡があるため、もう少し調べてみます。

 でもその前にランチ。

 時刻は13時半です。

 あ、ローソンがある。

 明日は氷見市に泊まりますし、せっかくなので氷見うどんを食べよう!



 氷見うどんは、きしめんほどではないですが、平たいうどんなんですね。

 美味しかった。

 さて、手元の資料で見学が可能そうな遺跡を探してみますが、富崎墳墓群が良いかもしれません。

 ※位置は富山市考古資料館の展示パネルをご参照ください(図中の真ん中あたりにあります)。



 ナヴィに脳内を支配されながら走っていきますが、遺跡へ至る道はバスでは来れません。

 走っていると右手に説明板を確認できました。

 駐車場がないため路駐しますが、この道は牧場へ至る道で、関係者以外の車は牧場の入り口でどん詰まりのようです。

 というか、すごく良い景色!



 牧場方面です。



 気持ちの良い場所ですね。

 では、遺跡を見てみましょう。



 富崎墳墓群には、四隅突出型墳丘墓が3基存在するようです。



 四隅突出型墳丘墓については書いてある通りですが、省略して「よすみ」と呼ぶことも多いです。

 遺跡として有名なのは、島根県出雲市にある西谷墳墓群で、クラツーで何度かご案内したことがありますよ。


 ※西谷2号墓(2018年10月3日撮影)

 まあ、案内と言ってもここの場合はいつも現地の学芸員の坂本さんが案内してくださりますから、私はお客様と一緒に説明を聴いたりしています。

 ちなみの上の西谷2号墓は貼石まで復元した立派なものですが、説明板の裏にはこれの仲間が眠っているわけですね。

 富崎墳墓群の配置図はこのようになっています。



 なお、弥生時代に築造された墓ですので、「古墳」とは言わず、「墳丘墓」とか「墳墓」などと呼びます。

 ですから数字で呼ぶときも、「1号墳」ではなく、「1号墓」と呼ぶんですよ。

 こちらは3号墓から出土した遺物。



 では、よすみを見てみたいと思いますが、道路から見えている土盛りは墳丘ではなく、また周堤の類でもないため遺構ではないと思います。

 墳丘はその奥にありました。



 3号墓です。

 だけど、訪れた季節がよくないですね。

 完全に藪化しています。

 中に入っていくのも躊躇されますが、せっかく来ていますから、藪の薄い個所を見つけて、蜘蛛の巣を払いながら進んでみましょう。



 手元の資料によると、発掘調査を行った後埋め戻しているようですが、発掘時から道路側(南側)の突出部ははっきりしていなかったようで、現況は残っていません。



 上述の西谷墳墓群みたいにきれいに整備されている各地のよすみも、整備前はこんな感じだったんでしょうね。

 こういうのは、「生よすみ」と呼ばせてもらいますよ。

 北側に回ってみると、こちら側の突出部は形跡があります。



 図面を見ても北側の突出部は少し残っていますね。

 いいねえ。



 蚊の来襲はそれほどでもありません。



 1号墓と2号墓は少し離れたところにあるので、このまま森の中を突き進むのはやめます。



 戻りましょう。



 1号墓と2号墓がある方には農道が付いているので、そちらへ行ってみましょう。

 でもこれじゃよく分かりません。



 ※帰宅後に図面を見ていて思ったのですが、もう少し農道を進めば林の中に入れたかもしれません。

 あれ、なぜこんなところにこんな石が埋められてあるのでしょう。



 こんな丘の上に丸石があるのが不自然ですがよく分かりません。

 あ、遠くに何か説明板らしきものが見えます。



 西側の森ですが、呪力ズームを使って見てみます。

 富崎城跡!



 中世の城跡もあるんですね。

 しかし良い景色だ。



 ここは現況はこんな感じですが、一部のお客様には喜んでいただけるかもしれない。

 だけど普通車ならこれますが、既述した通りバスは無理ですねえ。

 クラツーのツアーで来るのは諦めます。

 というわけで、王塚・千坊山遺跡群ではもう一か所くらいは見ておきたいな。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             


 帰宅後、この記事を書くために写真の編集をしていました。

 私のデジイチはもう10年以上使っており、影のようなノイズが結構写るので、帰宅後はPhotoshopで一々消しており、意外と時間が掛かるため時間がもったいない気がしています。

 その作業中、上でも掲載していますが、こちらの写真の右上のほうに鳥の姿のようなものが写っているのに気づきました。



 ところが、拡大してみたところ、変なものが写っているんですよね。

 オリジナルサイズのままで問題の箇所をトリミングしたものがこちらです。



 もしかしてこれは!

 問題の箇所を300%拡大してみました。



 実はこの日の翌々日、石川県羽咋(はくい)市を探訪したのですが、羽咋市がUFOの目撃の多さで有名だということを現地に行ってから思い出しました。

 なお、写真を撮影した個所から北西に直線距離で40㎞のところに羽咋市役所があります(写真で奇妙な飛行物体が写っている方角がまさしく羽咋市方面)。

 その日は、羽咋市歴史民俗資料館に下見に行ったのですが、たまたま近くに「コスモアイル羽咋」があったため探訪しています。



 コスモアイル羽咋の探訪記事は後日書くかは分かりませんが、非常に楽しい施設で、私くらいの世代の人には特に面白く感じるかもしれません。





 名誉館長はあの矢追純一さんだ!



 ちなみに、博物館の前にあるこちらのお店のカレーは美味しいですよ。





 店内には、雑誌「ムー」の80年代のバックナンバーがあったり、UFOの写真が飾ってあったりして、UFOとか宇宙人とかに夢中になった小中学生の頃を思い出して楽しかった。

 

5.参考資料                           


・『王塚・千坊山遺跡群』 大野英子/著 2007年

勅使塚古墳|富山県富山市 ~富山県内で2番目の規模を誇る前方後方墳~

2021-07-24 16:05:58 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月20日(火) 北陸ツアー下見1日目<越中探訪>④



この日の探訪箇所
稚児塚古墳 → 富山市考古資料館 → 王塚古墳および各願寺 → 勅使塚古墳 → 富崎墳墓群 → 富崎千里古墳群 → 勝興寺(越中国府跡) → 柳田布尾山古墳および古墳館 → 桜谷古墳群 → 越中国分寺跡


 王塚古墳はなかなか好印象な古墳でしたが、問題はどこにバスを止めるかですね。

 でも周辺を調べたので作戦は思いつきました。

 つづいて、勅使塚古墳へ行ってみます。

 ここから歩くと遠いのは分かっていますので、いったん駐車場へ戻り、車で行きますよ。

 細い道を勅使塚古墳のほうへ向かっていると、東屋やトイレ、それに駐車場もある場所に出ました。

 池では釣りをしている人もいます。

 説明板らしきものが見えるので、車を止めて行ってみましょう。



 全体的な説明でしたね。

 一応、山の中に入っていく道はあります。



 でも、ここから勅使塚古墳は遠いですし、違う場所を探してみます。

 ・・・うーん、いい場所がないですね。

 結局は最初に車を停めた「富山市婦中ふるさと自然公園」の駐車場から歩いていくほかないですな。

 とりあえず自分で歩いてみて、ツアーで歩くことが可能が調べてみます。

 トボトボと歩き出すと、右手には各願寺へ向かう散策路があります。



 最初に見た「ウォーキングコース」の看板が示唆している通り、周辺には散策路が張り巡らされているのですが、最近は維持管理が追い付かないようで、歩ける箇所が少ないようです。

 ハス池だ!







 おっと・・・

 見たくないものが現れた・・・



 もう、これから山の中に入っていくのにこういう表示があると怖いじゃないの。

 では、山登りを始めますよ。



 少し歩いては上を見上げて、古墳はまだですかー、とつい口に出してしまいます。



 案内板はこうなってしまうとすでに案内の機能を喪失しているため、ただの「板」ですね。



 クマさんが出てきたら嫌なので、無駄に大声を張り上げながら登ります。

 いや、これが逆効果で、「うるせえなあ」と排除しようと思って近づいてきたらどうしよう?

 こ、古墳はまだかな・・・



 お、上のほうに説明板が見える!

 ありました!

 バーン!



 おや、これは後方部ですね。

 全体の写真を撮ろうとしてもこれ以上引けないので無理です。

 前方部側。



 5分も登っていないので大したことはないのですが、クマさんのプレッシャーがかかるので時間が長く感じる。

 説明板を読んでみます。



 説明板に書いてある通り、県内で2番目の大きさの前方後方墳で、墳丘長は先ほど訪れた王塚古墳よりも8m大きい66mです。

 ちなみに、富山県で最も大きい前方後方墳は、本日中に訪れる予定ですが、墳丘長107.5mを誇る氷見市の柳田布尾山古墳で前方後方墳としては北陸で最大となります。

 築造時期は、王塚古墳よりも古いですが、説明板に「県内最古」とあるのは、その後の調査の結果でさらに古い前方後方墳が見つかっています。

 富山市考古資料館に展示してあった編年図を再掲します。



 また、説明板の内容からすると、主体部の墓壙は掘り下げてはいるものの、「木棺が安置されていると推測される槨の痕跡がある」という歯がゆい表現になっているため、結局のところ主体部は不明ということでしょうか。

 確かなのは墓壙の大きさですね。

 墳丘図はこちら。



 こちらの図はトレンチの場所も書かれています。

 王塚古墳は段築がないようですが、勅使塚古墳の後方部は2段になっていますね。



 ただ、削られ方が不自然で、後世の改変が大きいんじゃないでしょうか。

 東側には富山平野が展開しているのですが、木々に遮られており眺望はきいていません。



 段築(?)の角度が急すぎて登れないのですが、反対側に回ると登れそうな場所がありました。



 後方部墳頂。





 後方部から前方部を見ます。









 王塚古墳と同様、葺石は確認できません。





 墳丘から降ります。



 ここも雪が降る前の冬場に来ればもっとはっきり形が分かるんだろうと思います。



 この古墳は到達するために5分程度の山登りがありますが、お客様には頑張って登ってもらおうと思います。

 つづいて、周囲にツアー向きの遺跡があるか、もう少し探索してみますよ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・『王塚・千坊山遺跡群』 大野英子/著 2007年

王塚古墳および各願寺|富山県富山市 ~よく整備されていて真夏でも歩きやすい前方後方墳~

2021-07-24 14:21:14 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月20日(火) 北陸ツアー下見1日目<越中探訪>③



この日の探訪箇所
稚児塚古墳 → 富山市考古資料館 → 王塚古墳および各願寺 → 勅使塚古墳 → 富崎墳墓群 → 富崎千里古墳群 → 勝興寺(越中国府跡) → 柳田布尾山古墳および古墳館 → 桜谷古墳群 → 越中国分寺跡


 富山市考古資料館を見学した後は、いよいよ本格的な古墳めぐりを開始しますよ。

 王塚・千坊山遺跡へ向けて車を走らせていると、前方に多摩の横山のような丘陵が見えてきました。

 呉羽山丘陵です。

 ツアーでは王塚・千坊山遺跡群を銘打っていますが、広い遺跡群の中のどこを案内するか、実地踏査をしながら考えようと思います。

 もっとも魅力的なのは、王塚古墳と勅使塚古墳という2基の前方後方墳です。

 そのため、まずはその2基を訪れることを前提に周囲を調べてみますが、大型バスが停められる場所を探さなければなりません。

 やってきたのは「富山市婦中ふるさと自然公園」の駐車場です。

 駐車場への進入路は、道幅は大丈夫であるものの樹木が枝を道のほうに張っているため高さがちょっと心配ですが、他に止められそうな場所はありません。

 ひとまず周囲の看板を見て情報収集です。



 ここから王塚古墳は歩くとしたらちょっと遠い。

 先日、久留米に行った時も話が出ましたが「曲水の宴」をやったんですね。



 ウォーキングコースの看板も時には参考になります。



 王塚古墳に行くのは古墳にもっと近い停車場所を探す必要がありますが、せっかくですから各願寺に参拝してから行ってみましょう。



 各願寺は、北叡山と号する真言宗の寺院です。



 本堂はこちらで、本尊は薬師如来です。



 文化財の説明。



 縁起はこちらに書いてありました。



 不動堂。





 ところで、先ほど訪れた富山市考古資料館の展示パネルで遺跡全体と現在の場所を確認しておきましょう。

 遺跡群全体はこんなに広いんです。



 その中でも、これから歩こうと思っている王塚古墳や勅使塚古墳の周辺はこのようになっています。



 では、王塚古墳に近接するため、もう一段高い場所にある「ふれあい広場」の駐車場へ車で移動します。

 来てみると現地は今でも駐車スペースはありますが、進入路の枝も張り放題ですし、あまり積極的には利用されていないようです。

 でもとりあえず、ここから古墳へ歩いて行ってみます。

 東側には富山平野が見えますね。





 茶色い建物は「ふるさと創生館」ですが、古代史ツアーとは関係がないので訪れません。

 というか、人気が感じられません・・・

 道路には案内図があります。



 案内図に書いてあるかんぽの宿は現在はやっていません。



 さらに先へ行くと王塚古墳の看板が見えました。



 やはり、この辺では最高所に位置します。

 標柱発見!



 でも説明板のほうへ行ってみますよ。



 ここに書いてある通り、王塚古墳は墳丘長58mの前方後方墳で、前方後方墳としては北陸で4番目の大きさを誇ります。

 築造時期に関しては、このあと訪れる予定の勅使塚古墳よりも遅いとされており、そうなると4世紀前葉でしょうか。

 説明板には「約1700年前」とありますが、『王塚・千坊山遺跡群』(大野英子/著)でも具体的な築造年代は記されていません。

 墳丘図はご覧の通り。



 方位は図の左下のコンパスを見てください。

 説明板の場所から木の枝を避けつつ下草を踏みながら古墳へ近づくと、私が一番好きなアングルの場所に出ました。



 手前が前方部、奥が後方部ですよ。



 東側に回ってみます。



 真夏にしては歩きやすい方ですし、墳丘にも登りやすいです。

 前方部には段築は認められず、これは前方後方墳ではありがちです。



 後方部を見ると傾斜がストレートではないですが、これは段築があったあとではなく経年劣化だと思われ、墳丘図の等高線を見ても段築らしきものはありません。



 前方部の墳頂。



 後方部に登りますよ。



 中規模の古墳ですが、前方部を見下ろすと前期の古墳らしく結構な高低差があります。



 前方後方墳に登ったら絶対にチェックするべき箇所が、後方部のエッヂ部分ですよ!



 おー、角が決まってますね!

 王塚古墳は歩きやすくていい古墳です。



 周堀は全体にはめぐっておらず、西側には浅く堀状になっているためそれが周堀跡かもしれません。



 墳丘図を見ると後方部西側には造出様なちょっとした張り出しがあるでんすよね。



 王塚古墳の史的意味付けなどについては、王塚・千坊山遺跡群を全体的に訪れてから語ろうと思います。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・『王塚・千坊山遺跡群』 大野英子/著 2007年


小泉大塚古墳|奈良県大和郡山市 ~地域最古の大型前方後円墳~

2021-07-18 00:31:51 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年6月21日(月)



この日の探訪箇所
六道山古墳 → 小泉大塚古墳 → 法起寺 → 中宮寺跡 → 法輪寺 → 仏塚古墳 → 藤ノ木古墳 → 斑鳩文化財センター → 法隆寺


 六道山古墳の周辺を無駄に徘徊したような感じですが、つづいて小泉大塚古墳を目指します。

 県道9号線を西へ、登り坂を登っていきます。

 振り返ると六道山古墳の森が見えますね。



 ここから上の方へ階段を上っていくと小泉大塚古墳が現れるはずですよ。



 南側の眺望。



 ありました!



 周堀の跡でしょうか。



 さて、この小泉大塚古墳もさきほどの六道山古墳と同様、今のところは「前方後円墳データベース」しか情報源がありません。

 それによると、墳丘長は88mで、後円部は2段築成、主体部も調査しているようで、石槨と割竹形木棺です。

 出土品は、中国産の内行花文鏡が1枚以上、画文帯神獣鏡が1枚、獣首鏡が1枚、国産の内行花文鏡、獣形鏡、長宜子孫内行花文鏡などが出ており、三角縁神獣鏡はありませんが、鏡が多いです。

 前方後円墳集成編年は2期(前期)ということで、この地域では最古の古墳になるでしょう。

 古墳の隣には人が住んでいない集合住宅が建っており、後円部しか残っていないように見えます。



 ※後日註:帰宅後に大和郡山市のHPを見たところ、小泉大塚古墳は昭和37年(1962)と平成8年(1996)に調査が行われており、前方部は古くから削られており、埴輪や葺石はなく、主体部は後円部の中央に墳丘の主軸と直交して設けられ、大きさは全長5.5m×幅1mです。

 小泉大塚古墳が造られた場所は、この辺では最高所と思われ、地域最古の古墳の立地として相応しいです。

 北側の眺望。



 では、先ほど歩いてきたのとは反対側へ行ってみましょう。

 ※後日註:帰宅後にWebを見ていたら説明板があったことが分かりましたが、現地では見た記憶がないんですよね・・・(葉っぱに埋もれていたのかも)。

 県道まで戻ってきて振り返ります。





 ここからさらに西へ向かいますが、下り坂になっており、既述した通りこの場所が最高所になっていて「峠」のようになっているのが確認できます。



 では、次は法起寺へ詣でます。

 (つづく)

六道山古墳|奈良県大和郡山市 ~皮肉にも破壊によって新たな知見が持たらされた大型前方後円墳~

2021-07-17 22:53:59 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年6月21日(月)



この日の探訪箇所
六道山古墳 → 小泉大塚古墳 → 法起寺 → 中宮寺跡 → 法輪寺 → 仏塚古墳 → 藤ノ木古墳 → 斑鳩文化財センター → 法隆寺


 今日は聖徳太子に会いに行きます。

 こんなアヅマエビスのおっさんがアポなしでいきなり行って果たして会ってくれるのでしょうか?

 というか、そもそもご存命なのでしょうか?

 そういう難しいことは考えず、ひとまず奈良へ向かいます。

 ちなみに私の頭の中では聖徳太子はこのイメージです。



 青いジャージを着用されている方が聖徳太子です。

 さて、今日に関しては仕事ではないため、ゆっくり無理のないように行こうと思い、新幹線で京都まで行き、奈良線に乗り換えて奈良に着いたときはもう10時を過ぎていました。

 宿泊は近鉄奈良駅近くの東横インですから、探訪が終わったあとまたここに戻ってくるので、コインロッカーに荷物を預けます。

 少し前まではコインロッカー代を捻出することが困難だったため、重い荷物を背負って一日歩いていましたが、いまは皆様のお陰で「コインロッカーを借りられる男」にスペックが上がりました。

 冗談抜きで皆様には本当に感謝しております。

 奈良からは関西本線に乗り換えです。

 ホームに行くと電車がいたので撮影。



 奈良から2つ目の大和小泉駅で下車しました。

 駅舎から歩く方向を見ます。



 今日の最大の目的は法隆寺ですが、法隆寺に向かう途中に出現する遺跡を見て行こうと思います。

 最初は、六道山古墳へ行ってみますよ。

 大和小泉駅。



 富雄川まで来ました。

 川を渡らずに北上しようかと思ったのですが・・・

 歩道が荒れている!



 こういうのは、奈良っぽいといえば奈良っぽい。

 まあいいや、渡河しましょう。

 富雄川の下流方向。



 そういえば、富雄川と言えば日本最大の円墳である富雄丸山古墳を想起させられると思いますが、ここから北のほうに直線距離で約4㎞のところにありますよ。

 住宅街の中をテクテク歩きます。

 お、「片桐城址」の石碑!



 片桐というのは地名なのか、はたまたあの片桐且元に関係があるのでしょうか。



 奈良って歩いていると結構城跡に出くわしますね。

 時間があればこういうのも丹念に見ていきたいですが、さすがに城跡に寄っている時間はないですな。

 ※後日註:帰宅後に調べてみたら且元の弟の貞隆が近世初頭に陣屋にしていた歴史があったんですね。

 大和小泉駅から歩きだして10分ちょっとで六道山古墳らしき森が見えてきました。



 さて、どうやって近接すればいいかな?

 ひとまず北側の県道9号線のほうに回ってみます。

 うーん、ありましたがフェンスで囲われており墳丘には入れないようですね。



 説明板らしきものもないようです。



 古墳の東側は富雄川のほうへ向けて地形が落ちています。



 でもこの場所は最高所ではなく、西の方はさらに地形が高くなっていますよ。



 このまま終わらせるのも癪なので、周辺を一周してみます。

 墳丘の周りは住宅街になっており、どこからも取り付けないですね。



 だめだこりゃ。

 関東の古墳めぐりをしているときは墳丘に登れないとガッカリしますが、奈良の場合は墳丘に立ち入れない古墳がむしろ当たり前なので諦めもつきます。

 なお、六道山古墳についての詳しいことは分かりませんが、奈良女子大学謹製のWebサイト「前方後円墳データベース」によると、元々は墳丘長100mの前方部の短い前方後円墳でしたが、現在は前方部は削平されているとのことです。

 では、続いて近くにある小泉大塚古墳へ行ってみますよ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             


 帰宅してから『大和郡山市文化財調査概要23 六道山古墳Ⅰ 第2次緊急発掘調査報告書』(大和郡山市教育委員会/編・1992年)を読んだため、その記述をもとに述べます。

 まず最初に驚いたのは、該書の例言に、「調査は、宗教法人慈光院(中略)による墳丘裾部の無断・無届けによる破壊工事を受け、緊急に実施したものである」とあることで、これはただ事ではないと思って読み進めると、六道山古墳が破壊されているとの通報を受けた大和郡山市教育委員会の担当者が現場に急行し、工事をストップさせ、その後緊急発掘調査をしたとのことです。

 該書からは無届けによる文化財破壊への強い憤りを感じることができ、おそらくこの事実を知った多くの方が同じような気持ちになるでしょう。

 ただし、1974年刊行の『奈良県の主要古墳Ⅰ』にはすでに前方部が破壊されていると記されているため、上述の無届の破壊行為は後円部側の裾部分でのできごとです。

 なお、破壊されている前方部の位置は北側の県道側のほうで、写真を再掲しますが、この砂利の駐車場にもともと前方部がありました。



 さて、調査の結果ですが、葺石と埴輪は確認されず、後円部は2段築成の可能性がありますが、注目すべき記述として、後円部南東部に福岡県八女市の岩戸山古墳の「別区」のような張出部分が見られ、「こうした典型的別区と同様の施設であるかどうかは今後の詳しい検討を経なければ判明しないが、とりあえず注意を喚起しておきたい」とあります。

 該書は発掘調査報告書ですが、かなり攻めた記述でいいですね。

 ただし、岩戸山の別区は墳丘からの張り出しではなく、周堤に付属しています。

 古墳の位置には弥生時代の集落があったということで、複合遺跡となりますね。

 六道山古墳は、この調査が行われる前までは、前期末から中期前葉の築造と言われていましたが、ダイナミックに破壊された盛土の中からTK-47型式に属する須恵器が出たため、古墳築造の上限は5世紀末~6世紀初頭と考えられ、近辺の古墳を含めた編年は下記の通りに修正が迫られました。

 小泉大塚古墳 → 瓦塚1・2号墳 → (未知の古墳) → 六道山古墳 → 小泉東狐塚古墳 → 小泉狐塚古墳 → 笹尾古墳

 該書をお読みになりたい方は、下記リンクからどうぞ。

 

5.参考資料                           


・前方後円墳データベース
・『大和郡山市文化財調査概要23 六道山古墳Ⅰ 第2次緊急発掘調査報告書』(大和郡山市教育委員会/編) 1992年


室宮山古墳|奈良県御所市 ~ソツヒコの墓か?~

2021-06-29 22:58:27 | 歴史探訪
 一言主神社では、図らずも一言主と対話をしている雄略天皇の様子を伺うことができてとても嬉しくなりましたが、本日の探訪の最後は当地域最大の前方後円墳である、室宮山古墳へ向かいます。

 古墳は墳丘麓の八幡神社から登って行けるそうですが、神社には駐車場はないということで、少し離れた場所に車を止め、歩いて古墳へ向かいます。

 古墳の森を見上げながら歩いていると、広場のようなものがあり、少し離れた場所に説明板が立っているのが見えました。

 念のため確認しに行きます。

 なんだ、公園の看板か。



 あちらが室宮山古墳の後円部ですね。



 こちらが前方部。



 大きすぎて写真に収まらないです。

 池がありますが、これがさきほどの看板に書いてあった桜田池ですね。



 八幡神社に着きました。



 墳頂への案内図もありますね。

 説明板もあります。



 孝安天皇の宮跡!

 標柱もある!



 いいねえ、欠史八代。

 ちなみに私は欠史八代は実在したと考えており、クラツーの日本書紀講座では、欠史八代について90分かけて講義させていただいたこともあります。

 こちらが拝殿。



 まずは神様にご挨拶ですね。

 本殿。



 神武天皇遙拝所でもあります!



 欠史八代は実在で間違いないですが、実は神武天皇に関しては人造されたのではないかと考えております。

 ただし、この考えは昨年から考え始めたため、以前の日本書紀講座では欠史八代と同様、実在の人物と仮定して話しました。

 もっともそのときは、ニニギノミコトから3代も実在と「仮定」して話したのですが・・・

 この鳥居をくぐって墳頂へ登るようです。



 この古墳は、ウェルカム度が高いですよ。



 登り始めると段築になっているのが分かります。



 本殿。



 墳頂に登りました。

 おお!

 ありましたよ!

 竪穴式石室が開いています!



 天井石が1枚分だけ外されており、長持形石棺が見えています。

 いいねえ。



 短辺側にも縄掛突起が2つあり、さらに突起がもう2つあるのが確認できます。



 説明板を読んでみましょう。



 そうですよねえ、石室に入ったままの本物の長持形石棺が見られる場所なんてほかにはありませんよね。

 素晴らしすぎる。

 そして、その横にはレプリカの靭形埴輪が佇立しています。





 外されている天井石かなと思いましたが、説明板を読むと北側の主体部の天井石でしょうか。





 そういえば、今年の4月には、福岡県久留米市の浦山古墳にて横口式家形石棺に入りました。







 石棺の中に入ったのは浦山古墳を含めてまだ2基しかありませんが、この室宮山古墳は横口式ではないため、石棺に入ることはできません。

 ただし、浦山古墳は家形石棺で、こちらはさらにランクが上の長持形石棺ですよ。

 石棺の中には入れませんが、石室の中には降りることができます。

 本物の竪穴式石室に入れるだけでも興奮してきます。

 石棺の壁面には穴が開いており、盗掘口でしょうか?







 私が石棺の撮影をしているところは客観的にみると不審者だ。



 後円部は古墳好きにはたまらないワンダーランドになっていますが、この墳頂以外は完全に藪化しています。



 前方部のほうまで綺麗になっていたらもっと素敵ですが、現状のままでも充分に素晴らしいと思います。

 後円部墳頂全景。



 皆様もご満悦のようで良かったです。

 ※後日、お客様に撮っていただいた写真を見たら奇妙なものが写っていました。

 これはまあ普通でしょう。



 ※一緒に写っているMさんからはブログ掲載の許可をいただいていないため、モザイクをかけさせていただきました。

 問題はこちらです。

 この土気色した変な人形のようなおっさんはいったい誰でしょうか?



 普段から埴輪になりたくて努力しているので、その成果が出たのかもしれません。

 このまま墳丘に樹立されたい。

 ところで、橿原考古学研究所附属博物館は長らく休館中ですが、順調にいけば今年の11月ごろには再開するそうです。

 この長期の休館になる前に室宮山古墳の展示の写真を撮っていました。

 後円部墳頂の大型埴輪が大集合!



 南側主体部の様子はジオラマで再現されていました。









 橿原考古学研究所附属博物館の再開が待ち遠しいです。

 では、ひとしきり遊んだので、名残惜しいですが帰りましょう。

 おや、古墳の説明板がありましたよ。





 せっかくなので、先ほどとは反対側を歩いて墳丘を眺めながら車に戻りますよ。

 後円部側。



 前方部側。



 少し歩いて振り返ります。



 いやあ、素晴らしい古墳でしたね。

 では奈良に帰るとしましょう。

 JR奈良駅前のホテル日航まで戻り、ディナーはホテル内にある「よしの」です。



















 ラーメンとかなら感想を述べることもできますが、このような豪勢な食事だと、「美味しい」の一言しか言えないです。

 今日は一言主神社に詣でたことですし、「本当に皆さまありがとうございます」の一言につきます。

 では、明日も葛城探訪をしますよ。

 ※こうして改めてお料理の写真を見ると、とても美しいです。

 料理の写真を撮るのはマナー的に良くないのかもしれませんが、写真を撮っておけば食べた後も職人さんの技を目で見て楽しむこともできるため、撮っておくことはよいことかもしれません。

 (つづく)


恵解山古墳/乙訓古墳群|京都府長岡京市 ~古墳の学習に最適な綺麗に整備された大型前方後円墳~

2021-06-13 20:06:06 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年4月8日(木)



この日の探訪箇所
勝竜寺城跡 → 恵解山古墳 → 長岡京跡 → 北山遺跡 → 元稲荷古墳 → 向日市文化資料館 → 物集女車塚古墳

 勝龍寺城跡では昔夢中になったゲーム「天下統一」を思い出しましたが、ここからが本日の本題である古代史探訪となります。

 当初の目的通り、恵解山古墳へ向かいます。

 恵解山通りを西へ向かってテクテク歩いていくと左手に古墳らしきものがありました。



 ここですね。



 なるほど、有名な古墳ですが駐車場もトイレも無いんですね。

 どうやら後円部側に来たようですが、墳丘に登ろうとすると前面には普通の墓地が展開しています。



 普通の墓地なので見学するような場所ではないですね。

 左側に向かう道があるので、そっちへ行ってみましょう。

 後円部のテラス部分です。



 造出の形状が分かりるように芝が張ってあります。



 振り返ると、墳丘に説明板が埋め込まれていました。



 こういうエンベデッドな説明板はときに見過ごすことがありますので注意です。



 埴輪列についての説明ですが、恵解山古墳は中期の築造なので円筒埴輪は墳丘の縁の部分に隙間なくビシーッと立て並べます。

 墳丘長は128mもあり、しかも3段築成ということで1800本はあったと推定されていますが、規模の割には少ないと感じます。

 ここが東側造出。



 説明板を読んでみましょう。



 不整形というのが面白いですね。

 水鳥形埴輪が見つかっていることから、いわゆる「水辺の祭祀」を行っていたのでしょう。

 水を張った周堀の際で祭祀を行ったらしい形跡は、前期末から中期初頭に急に盛行するような印象があります。

 例えば、奈良県藤井寺市の津堂城山古墳や、同じく奈良県広陵町の巣山古墳などです。

 こちらが石列の表現。



 では、再び墳丘へ登ります。

 まずは3段築成の1段目のテラス。



 つづいて2段目のテラス。



 円筒埴輪が並んでいる様子は壮観です。

 前方部墳頂に上がりました。

 ここも埴輪列が並んでいますが、ここにはテラス上とは違って蓋形埴輪があります。



 何か主体部のようなものがありますよ。







 ここは遺体を収める場所ではなく、武器専用の埋納スペースだったんですね。



 貴重品である鉄製品を700点も納めていたというのは凄いですね。



 恵解山古墳の被葬者は「鉄の王」だな。



 お、山崎合戦の説明があった。



 思い返せば、小学校高学年の時に戦国時代に興味を持って、あの頃は明智光秀は信長を殺した「嫌な奴」という印象でしたが、あれから三十数年経ち、私も大人になりましたので、事態はそう単純なものではないということは察しています。



 こうして天王山を見るのは感慨深い。



 しかも古墳の上からですからね。

 中学生の時の修学旅行で京都に来ましたが、あのときバスが高速道路を走っているときに、トンネルの中でバスガイドさんが「ここが天王山で」と説明したのを覚えています。

 古墳も良いですが、元々戦国マニアである私からすると、天下分け目の合戦があった現場近くに大人になってから初めて来ているということも感慨無量です。

 さて、今度は主軸方向。



 前方部はおおむね南東方向を向いています。

 ※帰宅後に地図を見たところ、単なる偶然だと思いますが、恵解山古墳の前方部は椿井大塚山古墳にぶち当たります。

 葺石についての説明。



 ここでも大きめの石を並べて一定の区画のようなものを作ったということが書いてあり、一説にはそれが一人の作業者の作業範囲であるとされますが、こういうやり方は列島各地で認められます。

 こういうことからもヤマト王権の力が列島各地に及んでいたことが分かると思います。





 前方部側から墳丘全体を写真に収めたいな。

 公園の敷地の関係で引けるのはここまで。



 ガチでキャッチボールしていますから、遊びというより練習でしょう。

 お、乙訓古墳群のジオラマ!





 こういう編年図は便利ですね。



 この周辺は古墳が多いですね。



 今日はこのあと、どの古墳を見に行こうかしら。





 凡例。



 今度は恵解山古墳の模型。





 さきほど、埴輪の数が少ないと思ったのは、周堀が一重で、外堤も無いからですね。

 もし堤があり、そこにも埴輪を隙間なく並べたら1800本では足りないでしょう。



 東側の造出は不整形でしたが、西側はきっちりとしています。

 やっぱり前方後円墳はこのアングルで見るのが一番だな。



 西側はピヨピヨ軍団に占拠されています。



 造出を見に行きたい。



 ピヨピヨ軍団に「ごめんねー、ちょっと写真撮らせてー」と交渉すると、説明板に張り付いていた子たちが退去しました。



 一人の女の子が「こういうのを掘る仕事してるの?」と聴いてきました。

 「掘る仕事じゃなくて説明する仕事をしてるんだよ」と答えましたが、この年齢で発掘の仕事に興味があるのは、親御さんの影響かもしれませんね。

 もしかしたらこの子は大人になったら考古学の仕事をするかもしれません。

 以前、某埋蔵文化財調査センターに行ったときに知ったのですが、そこで発掘をしている職員の方々、確か6~7名でしたが、全員、小学生の頃から歴史が好きだった方々でした。

 でもこの子は小学生以前だから凄いな。

 後円部へ行きます。





 これで恵解山古墳の全体を見ることができました。

 乙訓古墳群を訪れるのは初めてですし、恵解山古墳についての考察はこれからしようと思いますが、恵解山古墳は説明板が豊富に設置してあって、古墳の勉強をするには最適ですね。

 それでは、阪急の西山天王山駅へ向かいましょう。

 おっと、歩道橋チャンス!

 ちょっと高いところから恵解山古墳を見ます。



 何と歩道橋にも説明板があった!





 恵解山古墳、良かった。



 よし、では駅へ向かう!

 (つづく)

 

4.補足                             


 久しぶりにシンセサイザーを使った多重録音で曲を作ってみました。



 歌詞も一部できましたが、歌は入れておらず、シンセで仮メロを弾いています。

 こういうのっていつまた作業を再開するか分からないので、キリのいいところまで作っておきました。

 で、何で恵解山古墳の歌を作りたくなったのかはよく分かりませんし、50歳を目前にいまだにこういう80年代のような曲を作ってしまう理由も良く分かりません。

 映像はシンセベースを弾いているところです。

 

5.参考資料                           


・現地説明板